——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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ネタが切れた(マジ)
プロットはあるんだけど、見直してる感じです
息抜きに幕間を投下します



幕間:書記長、比企谷八幡閣下

 

 

 超人サイバーによる人類叛逆事件から、数週間。

 総武高校は、表面上は驚くほど平穏な日常を取り戻していた。校舎を覆っていた不気味な赤い光は消え、ナノマシンの霧も秋の澄んだ風に吹き流された。

 休み時間の教室。比企谷八幡は、自販機で購入したマックスコーヒーを片手に、窓から差し込む柔らかな午後の光を浴びていた。

 

(ようやく、平和が戻ってきたな)

 

 サイバーとの激闘。身体の各所に残る修復痕は微かに疼くが、今はこうして誰にも邪魔されず、ただの「比企谷八幡」として怠惰を貪ることこそが、最高のメンテナンスだった。

 だが、その安寧は、教室のドアが「ドォォォン!」と不自然なまでの力強さで開かれたことで、一瞬にして瓦解した。

 

「「「「…………見つけた」」」」

「ぶふぉっ!?」

 

 飲んでいたマックスコーヒーを吹き出しそうになる。

 現れたのは、十数人の生徒の集団。その全員が、何やら『アブナイ』というか、『キマった』というか、どこか超自然的な情熱――あるいは狂信的な光を宿した瞳で八幡を一心に凝視していた。

 

(な、なんだ……!? まさかサイバーの残滓か? それともデーモン博士の新たな刺客か!?)

 

 八幡の戦闘プロトコルが自動で立ち上がり、原子炉が微かに唸り始める。だが、取り囲んだ連中に殺意はない。あるのは、理解しがたいほどの『熱量』だ。

 集団の中から、一人の男子生徒がゆっくりと前に出た。文化祭実行委員だった顔ぶれ、そして生徒会の役員も混ざっている。だが、今の彼らに以前のような「迷い」は見られない。

 

「お迎えに上がりました。『同志』八幡」

「……は? 同志? お前、誰だっけ……。というか、何の真似だ」

「余計な言葉は不要です。……全ては、整いました」

 

 生徒は八幡の問いかけを完全に無視し、うっとりとした表情で八幡の両肩を掴んだ。その指先には、常人離れした力が込められている。

 

「さあ、行きましょう。……あなたの、いえ、我らが『書記長』としての鋼鉄の采配が必要なのです」

「ちょ、待て、離せ! 書記長ってなんだ! 俺はただのマッ缶を愛する一般生徒だ! おい、説明しろ!!」

「行けばわかります。……あなたが『正解』を示した、あの場所へ」

 

 理由を一切明かさぬまま、生徒たちはまるで神事でも執り行うかのような厳粛な手つきで、八幡を椅子ごと……あるいは床を引きずるようにして強引に連行し始めた。

 

「……ヒ、ヒッキー?」

 

 教室の隅で、由比ヶ浜結衣が引き攣った笑顔でその光景を見送っていた。

 葉山隼人は困ったように眉を下げ、三浦優美子は「何あれ、新手のカルト? マジ引くんだけど」と本気で嫌そうな顔をしている。

 

 廊下をズルズルと運ばれていく八幡は、抗いようのない「集団の意志」という名の重圧に、エイトマンとしてのスペックが何の役にも立たないことを悟っていた。

 

 

 ──

 

 

 かつて、雪ノ下雪乃という名の指揮官が支配し、比企谷八幡がその右腕として「鋼鉄の最適化」を現実に叩きつけた、あの文化祭実行委員会室。

 数週間前までそこにあったのは、冷徹な論理と過酷な労働の匂いだったはずだ。だが、今、八幡を連行した集団がその扉の前に立った瞬間、八幡のオーディオセンサーが「異常な周波数」を検知した。

 

(待て。なんだこの、重厚で、かつ不穏な勇壮さを湛えた旋律は)

 

 この重装かつ大仰な旋律は…

 

(……ショスタコービチの交響曲第五番、第四楽章か? なんで学校の空き教室から『ソビエト社会主義共和国連邦』の香りが漂ってきてんだ)

 

 背後に立つ生徒たちの瞳には、もはや理性という名のプログラムは存在しなかった。あるのは、ただ一つの「正解」を求めて暴走するOSのような、純粋な狂熱。

 

「さあ、お入りください……書記長閣下!!」

 

 ギィィィ……と、不自然なほど重々しく扉が開かれた。

 

「ぶふぉッ」

 

 部屋に足を踏み入れた瞬間、八幡は本日二度目で猛烈に吹き出した。

 そこには、文化祭での実行委員や生徒会の精鋭たちが、ピシッと全員同じ角度で、同じ姿勢でデスクに向かっていた。

 だが、そんなことよりも八幡を戦慄させたのは、正面の壁に鎮座する『神体』だった。

 

「…………何、あれ」

 

 壁一面に貼られた、巨大なモノクロのスチル写真。

 それは、文化祭準備期間中、超高速タイピングで資料を解体していた際の八幡を、右斜め四十五度の絶妙な角度から撮影し、プロパガンダポスター風に引き伸ばしたものだった。

 背景には「効率・規律・粛清」という太いフォントが踊り、写真の八幡はどこか遠くの「最適化された未来」を見据える英雄のような貌をしていた。

 

(なんだあの写真は。いつ撮った。誰が加工した。あの死んだ魚のような目が、なんで『革命を待望する同志の眼差し』みたいにレタッチされてんだよ!!)

 

 八幡の電子頭脳(ブレイン)が、羞恥心によってオーバーヒート寸前の警報を鳴らし始める。

 

「「「「書記長閣下、お帰りなさいませ!!」」」」

 

 ショスタコービチのフィナーレに合わせ、一糸乱れぬ敬礼を繰り出す生徒たち。

 

「いや、違う。俺、ただのマッ缶好きの学生だし。あと書記長じゃないし。そもそもこれ、なんの組織だよ!」

「組織ではありません。『中央最適化委員会』です。閣下、本日の未決案件が三、四五二件あります。すべて閣下の『鋼鉄の裁定』を待っております!!」

 

 差し出されたのは、書類の山……ではなく、最新のタブレット端末の山。

 どうやら彼らは、八幡がかつて見せた「圧倒的処理能力」を自分たちの支配者として固定し、学校生活のすべてを効率化という名の暴力で塗り潰そうとしているらしかった。

 

 ──かつて文化祭準備期間中、彼と雪ノ下雪乃が披露した、あの狂気的なまでの最適化作業。打鍵音でショパンを奏で、ミリ秒単位でタスクを粉砕していった二人の『魂の協奏曲(コンチェルト)』。

 あの日、あの司令部(実行委員会室)に居合わせたわずか数パーセントの生徒たちは、その圧倒的な「正しさ」と「美しさ」に脳を焼かれ、完全に心酔してしまったのである。

 

(わずかで良かった。あの光景を目撃したのが、クラスの出し物で手一杯だった大半の連中じゃなくて本当に良かった。……だが、その『わずか』が濃縮されすぎると、こうなるのか……)

 

 八幡が絶望的な目で虚空を見つめる中、一人の男子生徒が感極まった様子で突進してきた。彼は「神の啓示」を受けた預言者のような目で八幡の手をがっしりと握りしめる。

 

「総書記ッ!! 我らが偉大なる、鋼鉄の総書記閣下ッ!!」

(総書記? さっきまで書記長じゃなかった? 役職が秒単位で昇進してんぞ。というか、勝手にソ連邦の最高指導者にランクアップさせるな。俺の人生設計に共産革命の予定は一ミリも入ってねえんだよ)

 

 八幡の内心のツッコミを無視し、生徒は鼻息荒く語り続ける。

 

「自分、今まで事務関係や裏方の仕事なんて地味で、カースト下位の奴がやるもんだって馬鹿にしてたんすけど……閣下のあの采配を見て考えを改めました! 世界を動かすのは、泥臭い営業でも華やかなスターでもない……完璧に最適化された『事務処理能力』だったんですね!!」

 

「「「「そうだ!! 世界は事務で回っているッ!!」」」」

 

 周囲の連中が、まるで賛美歌を唱和するように声を揃える。

 

「自分、さっそく明日……いや今から『簿記』の資格試験の勉強、始めます!! 全ては閣下の描く最適解の一部となるために!!」

「私も!! 私は行政書士を目指すわ!! 規律と効率こそが、我らの救済!!」

 

(おかしい。進学校の意識高い系が集まって、なんで目標が『究極の事務員』に統一されてんだよ。平塚先生、助けてくれ。このままだと総武高校から、事務処理能力だけがマッハ15に達した怪物たちが大量生産されちまうぞ……)

 

「帰りてえ……」

 

 八幡がひび割れた音声ユニットから微かな本音を漏らすが、それは熱狂の渦に瞬時に呑み込まれた。一人の生徒が、プロパガンダポスターのような八幡の巨大スチルの前に立ち、拳を振り上げた。

 

「問おう!! 人民に真の平和と、停滞なき効率をもたらすのは誰か!?」

「「「「八幡!! 八幡!! 八幡ッ!!!」」」」

 

 地響きのような「八幡コール」。

 校舎を揺らすその振動に、八幡のジャイロスコープが異常を検知する。

 

「やめてください……。お願いだから、その名前を連呼するのはやめてください……。死にたい、マジで羞恥心で原子炉が溶融(メルトダウン)する……」

 

 八幡は顔を覆い、椅子の上で丸くなった。だが、熱狂はもはや臨界点を突破していた。

 

「万歳!! 偉大なる鋼鉄の指導者、比企谷八幡万歳!!!」

「「「「万歳!! 万歳!! マンセー!!!」」」」

 

 ワーワーと湧き上がる、多言語混じりの狂乱の叫び。

 

 ショスタコービチの『革命』がフィナーレを迎え、シンバルが激しく鳴り響く。

 八幡はそっと顔を上げ、窓の外を見た。

 秋の空は、今日もどこまでも高く、残酷なまでに青い。

 

(……由比ヶ浜。雪ノ下。……俺、どこでどう間違ったんだろうな……)

 

 原子炉を停止させて現実逃避を決め込もうとしていた、その時である。

 

「同志八幡!! 我も鼻が高いぞ! まさか貴殿がこれほどまでに人民の支持を集めるカリスマ指導者へと覚醒しようとはな!!」

 

 熱狂する集団の隙間から、見覚えのある……というか、この場に最もふさわしくない男がのっそりと姿を現した。

 

 材木座義輝。

 

 この季節にまだコートを羽織り、背中には木刀を差したままの、総武高校が誇る歩く中二病の権化である。

 

(いや、なんでいんの? お前、実行委員でもなんでもなかっただろ。というか、その赤い腕章、お前が自作しただろ。フォントが微妙にコミックサンズなんだよ)

 

 八幡の冷徹なツッコミ(内面)をよそに、材木座は興奮のあまり鼻息を荒くして八幡の元へ詰め寄った。

 

「くははは! 前から我はお前のことを『できるやつ』だと見抜いていたのだ!! これからも真の友として、そして我が妄想の理解者として、よろしく頼むぞ……『()()()()』!!」

 

 興奮が臨界点を突破したアホが、ついうっかり、かつ致命的に口を滑らせた。

 

「「「「…………!?」」」」

 

 瞬間。

 ショスタコービチの旋律さえ止まったかのような、氷点下の沈黙が教室を支配した。

 『中央最適化委員会』の面々の瞳に宿っていた「キマった光」が、一斉に材木座という名の「不純物」へと収束していく。

 

「貴様……。今、我らが書記長閣下を……あろうことか『総統』などと呼称したか?」

 

 一人の生徒が、震える声で材木座を指差した。その瞳には、先ほどまでの熱狂とは違う、凍てつくような殺意が宿っている。

 

「書記長閣下は、人民の意志を体現し、非効率という名の悪をデバッグする唯一の存在。それを、支配と独裁の象徴たるファシズムの権化……国家社会主義の呼称で呼ぶとは、断じて許されんぞ……!!」

「ひゅいっ……!?」

 

 材木座は、周囲から発せられる物理的な殺気に気圧され、ひきつった声を漏らして硬直した。

 

「粛清!! 粛清だッ!!」

「総括せよ!! 自己批判を要求する!!」

「この反革命思想の豚め! ラーゲリ(収容所)送りにしてやる!!」

 

 次々と飛び出す、高校生の会話としてはあまりに物騒な語彙の数々。

 八幡は遠い目をした。

 

(あーあ、死んだな、あいつ。まあ材木座だしな。人生のデバッグもたまには必要だろ……)

 

 だが、事態は八幡の想像以上にヒートアップしていた。

 数人の生徒が、今にも材木座を「総括」の名の下に廊下へ引きずり出そうと腕を掴む。

 

「第一書記!! 同志八幡閣下!!」

 

(今度は第一書記かよ)

 

 先導していた男子生徒が、八幡の前に膝をつき、決断を仰いだ。

 

「この不敬極まる反革命思想のブタを、いかに処分しますか!? 委員会規約に基づき、即座に社会的、および物理的な抹殺(デリート)を執行すべきかと!!」

 

 材木座の顔面は、すでに土気色を通り越して透明になろうとしていた。助けを求めるように震える目が、八幡を見つめる。

 八幡は深いため息を一つ吐くと、極限までクロックを下げた、慈悲深い(と勘違いされる)声で呟いた。

 

「……あー、いや。いいよ、許してやってください。……そいつ、ただのバカだから。思想とかないから」

 

 その瞬間、教室の空気が再び一変した。

 

「「「「…………!!」」」」

 

「書記長が……許せとおっしゃられた。……なんという、なんという広大な海のごとき慈悲……!!」

 

 膝をついていた生徒が、感極まったように拳を握りしめた。

 

「同志諸君!! 聞いたか!! 書記長は、この無知蒙昧な愚者に対しても救済の手を差し伸べられたのだ!! 同志!! 全力でこのブタを許そうではないか!!!」

「「「「ウラーーーーッ!! 万歳(マンセー)!! 万歳(マンセー)!!!」」」」

 

 ドォォォォン!! と校舎が震えるほどの歓喜の叫び。

 材木座は「ふげぇ……」と魂が抜けたような顔で床にへたり込んだ。どうやら、慈愛に満ちた総書記(八幡)の一言で、彼の命は首の皮一枚で繋がったらしい。

 

(良かったな材木座。シベリア……じゃなくて、特別棟裏の焼却炉送りにされなくて。お詫びに後で担々麺奢ってやるから)

 

 八幡は再びマックスコーヒーを啜り、窓の外の青空を仰いだ。

 鋼鉄の身体、超知能の頭脳。

 そんなものよりも、今の自分に必要なのは「狂信的なファンを解散させるためのアルゴリズム」であることを、八幡は痛感するのだった。

 

 

──

 

 

 放課後の職員室。そこには、およそ教育の現場にはふさわしくない「爆笑」の重低音が響き渡っていた。

 

「は、腹が……っ! 腹筋が粉砕される……! ぶふぉっ、ははははは!!」

 

 平塚静は、机に突っ伏して、のたうち回るように笑っていた。時折、笑いすぎで咽せ返り、涙を拭いながらも、その口角は下がることを知らない。

 

「……笑い事じゃないですよ。マジでシャレになってなかったんですから。あいつら、完全に目がキマってて、山岳ベース事件とか連想させるような空気だったんですよ。材木座なんて、危うく『総括(自己批判)』の名の下に、屋上からフライング・デバッグされるところだったんですからね」

 

「ばふぉおっっ!!」

 

 平塚が再び吹き出し、机を拳でバンバンと叩く。八幡は、この人が本当に「生活指導の教師」なのかという疑念を込めた、最大級のジト目を向けた。

 

「……で、どうしたんだ。その……『同志』諸君は」

「……どうしようもなかったんで、あいつらの情緒に合わせた『インターフェース』で語りかけてやりましたよ」

 

 八幡は、数時間前の出来事を、遠い目をして振り返った。

 熱狂する『中央最適化委員会』の面々を前に、八幡は即興で、かつてどこかの歴史教科書で読んだような、仰々しい演説をブチかましたのだ。

 

『諸君……。今はまだ、革命の時あらず……。真の効率化とは、一度にすべてを塗り替えることではない。各々、市井(しせい)に身をやつし、地下に潜伏せよ。そして来るべき日のために、人民の平和と理想を胸に、己が事務処理能力を極限まで高めておくのだ……!!』

「……みたいな、それっぽいことを言ったら、あいつら全員、血の涙を流さんばかりに嘆き悲しんで。最後には『書記長閣下、万歳!!』って慟哭しながら解散していきましたよ。……柄にもなく、ちょっと悪いことしたかなって思いましたね」

 

 平塚は再び、目に涙を浮かべて引き攣った笑いを漏らす。

 

「ま、まさか、比企谷。……革命は革命でも、まさかお前の周りで『共産革命』が起きるとは思わなかったぞ。……ぶふっ。あの世でショパンが、自分のエチュードがプロパガンダのBGMに使われたと思って激怒してるだろうな」

「まあ、ワルシャワを占領したのはロシア(当時の帝国)ですからね……。音楽的には、あながち間違いじゃないのかもしれませんが」

 

 八幡は自販機で買った、もはや今日何本目かわからないマックスコーヒーを啜った。

 

「で、……書記長閣下」

「その呼び方はやめてください。いや、本気で」

「……この、右斜め四十五度から撮られた『偉大なる指導者・比企谷』のスチル写真は、どうするつもりだ?」

 

 平塚が指差したのは、八幡が没収してきた例の巨大ポスターである。モノクロの八幡が、不敵な笑み(実際はただの空腹による歪み)を浮かべて未来を見つめている、呪いの遺物だ。

 

「捨てますよ。当たり前でしょ……。シュレッダーにかけて、分子レベルで解体して、この世から消去(デリート)します。……というか、これ、先生の部屋に貼っておきましょうか? 魔除けくらいにはなるかもしれませんよ」

「……冗談はやめろ。私の婚期が、さらにマッハの速度で遠ざかってしまう」

 

 平塚はようやく笑い声を収め、少しだけ真面目な顔で八幡を見た。

 

「しかし、比企谷。……サイバーが消えても、あいつらが求めた『完璧な管理』の残像は、まだこの学校にこびりついている。……お前が蒔いた種が、いつか本当の『不条理な正義』として芽吹かないよう、気をつけることだな」

「……わかってますよ。……次は、もっと『不完全』で『非効率』な日常を構築してやりますよ」

 

 八幡は、没収した「右斜め四十五度の自分」という名の精神的凶器を丸めて小脇に抱え、不機嫌そうにマックスコーヒーを啜る。

 

「……しかし、不思議だな。比企谷、お前の言う『中央最適化委員会』の連中にとって、真っ先に祭り上げるべきは雪ノ下じゃないのか?」

 

 平塚がようやく呼吸を整え、教師らしい鋭い眼差しを(涙目ながらに)向けた。

 効率、規律、そして完璧な管理。その全てを体現し、文化祭実行委員会で文字通りトップに君臨していたのは、紛れもなく雪ノ下雪乃だったはずだ。

 

「……ああ、それ、俺も気になって一人の『同志』に聞いたんですよ。なんで雪ノ下じゃなくて俺なんだって」

 

 八幡は、思い出すのも億劫そうに言葉を継いだ。

 

「あいつら曰く、真っ先に雪ノ下を委員会の主席に迎えようという声はあったらしいです。ですが……あいつら、雪ノ下の前に出ると、あまりのカリスマ性に気圧されて声すら出せなかったそうですよ」

「気圧された、だと?」

「ええ。俺とはまた違う感覚……なんというか、生身の人間が持つ生粋のカリスマ性というか、完成された美意識。それが神々しすぎて、俗世のイデオロギーに染まった自分たちが声をかけるのは不敬にあたる……とか、そんな感じの『キマった』論理で断念したらしいです」

 

 雪ノ下雪乃という少女の持つ、触れれば切れるような鋭い美しさと圧倒的な正論。それは、狂信者たちにとって「隣に並ぶ同志」ではなく、遠くから仰ぎ見る「絶対的な女神」になってしまったのだ。

 

「なら、奉仕部への入部を組織的に行うとか、そういう候補は上がらなかったのか?」

「無理ですね。今や奉仕部は、あいつらの中で『神聖不可侵領域(サンクチュアリ)』扱いですよ」

 

 八幡は、マックスコーヒーの缶で自分のこめかみを冷やした。

 

「雪ノ下雪乃と比企谷八幡という二大巨頭、総武高校の双璧を擁するあの部室は、あいつらにとっての『クレムリン』か『オリンポスの頂上』なんです。近づこうとする勇気ある者は一人もいません。というか、あいつらの内規では『書記長と女神の領域を汚す者は総括される』っていう恐ろしいルールがあるらしいですから」

「……あいつら、どんだけ尖鋭化してんだよ」

 

 平塚が呆れたようにため息をつく。しかし、八幡の話にはまだ続きがあった。

 

「さらにひどいのは、由比ヶ浜の扱いです」

「由比ヶ浜? あの、いつもニコニコしている彼女か?」

「ええ。あいつらの中で、由比ヶ浜は『神聖不可侵領域に平然と出入りし、二大巨頭と対等に渡り合う謎の超越者』として畏怖されています。あの笑顔で書記長の毒舌をいなし、女神の氷を溶かす姿が、狂信者たちには『高位の神使』か『影の支配者』に見えているらしいですよ」

「ぶっ、はははは! 由比ヶ浜が影の支配者!? それはまた、斬新な解釈だな!」

 

 平塚が再び机を叩いて爆笑する。

 だが、八幡の目は死んだままだった。

 

「……笑い事じゃないですよ。由比ヶ浜が部室から出てくるたびに、廊下の陰で隠れていた『同志』たちが、一斉に無言で最敬礼して見送ってるんですから。本人は『えー? みんな挨拶返してくれるようになったし、最近の総武高校ってマナーいいよね!』なんて能天気なこと言ってますけど」

「……由比ヶ浜、強すぎるな。ある意味で、お前たちより無敵じゃないか」

 

 平塚は笑いすぎた涙を拭い、窓の外を眺めた。

 かつて孤独だった少年と少女。その周囲に、いつの間にか形成された奇妙で歪な、けれど強固なコミュニティ。

 

「あいつらの中で、俺たちの奉仕部はどんだけ凄いことになってんだよ……」

 

 八幡の呟きは、秋の夕暮れの職員室に虚しく響いた。

 鋼鉄の身体を持つ書記長と、氷の女神。そしてそれらを束ねる(と誤解されている)桃色の超越者。

 比企谷八幡の日常は、サイバーという敵を失ってもなお、加速し続ける不条理の渦中にあった。

 

「――なあ、比企谷」

 

 不意に、それまで響いていた爆笑の残響が止まった。

 平塚静は机に置いていた手を解き、どこか慈しむような、そして教え子の成長を誇るような、穏やかな笑みを浮かべて語りかけてきた。

 

「なんですか、先生。これ以上笑うと、肺に穴が開きますよ」

 

 八幡は呆れたようにマックスコーヒーを啜った。だが、平塚の視線は真っ直ぐに八幡の瞳――かつては死んだ魚のようだと揶揄され、今は鋼鉄の輝きと確かな意志を宿したその「目」を捉えて離さなかった。

 

「……最近、いい顔になったな」

 

 その言葉は、生活指導の教師としてではなく、一人の人間として、比企谷八幡という存在の根源に向けられたものだった。

 

「楽しいか? 今の、その生活は」

「…………」

 

 八幡は答えを窮した。

 かつての自分なら、即座に「いいえ、苦行ですね」と、気の利いた(と本人が思っている)皮肉を返していただろう。だが、今は、言葉にする前に脳裏を駆け巡るログがあった。

 

 奉仕部の部室で交わした、氷のような言葉の応酬。

 ドクトル・デーモンという狂気の宿敵との、命を懸けた激突。

 ケン・ヴァレリーとの決闘

 川崎沙希とのキス

 留美との出会い、そして黒い蝶との戦い

 小町との散歩

 夏祭りでの出来事

 実行委員会での夢のようなひと時

 超人サイバーという「完璧」への挑戦と、その果ての孤独。

 由比ヶ浜の温かな笑顔と、雪ノ下の柔らかな笑顔。

 そこには、間違いなく衝突があった。

 癒えることのない傷跡のような、すれ違いがあった。

 戦いがあり、恐怖があり、胸を締め付けるような悲しみがあった。

 

 だが。

 

 それらすべてを包含して、今の自分のシステムを構成しているのは。

 紛れもなく、誰かと共に在るという楽しさと、生きているという喜びだった。

 エイトマンという仮面を被りながら、比企谷八幡という個人のレゾンテートル(存在理由)と、失われることのないアイデンティティの証明を、彼はその手に掴んでいた。

 誰に強要されるでもなく、己の内側から沸き起こる「自己改革」という名のアップデート。

 

「……まあ、悪くないっすね」

 

 八幡は少しだけ顔を背け、口の端に小さな笑みを浮かべた。

 その表情は、かつての卑屈な冷笑ではなく、今の自分を全肯定した、静かで確かな充足感に満ちていた。

 

「そうか……」

 

 平塚の声が、秋の微風のように優しく職員室に響いた。

 彼女はもう、何も言わなかった。ただ、夕日に照らされる教え子の背中を、静かに見送るだけだった。

 

 鋼鉄の身体に、温かな心。

 比企谷八幡の「まちがっている日常」は、これからも、不完全で非効率な、けれど誰にも真似できない輝きを放ちながら続いていく。

 

 

 




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