——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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新章が開幕します。


第三十四話:再起動

 

 

 暗い、深淵のような空間を、比企谷八幡はただ一人彷徨っていた。

 光学センサーも、音響探知機も、重力制御装置も機能していない。そこにあるのは、ただ「意識」という名のノイズだけだ。

 

(……夢、か)

 

 八幡は冷静に自己診断(セルフチェック)を行う。電子頭脳の一部が有機細胞で出来ているとはいえ、全身を機械化した自分が「夢」を見るという現象には、いまだに慣れない。論理的には、それはメモリの再配置やキャッシュのクリアに過ぎないはずだった。

 その時。

 漆黒の視界の先に、淡い光が浮かび上がった。

 光の輪郭は緩やかに、けれど確かな意志を持って人の形へと収束していく。

 

「……雪ノ下?」

 

 そこにいたのは、雪ノ下雪乃だった。

 病室で見せたような、あるいは部室で見せるような、氷の奥に秘められた柔らかな笑みを浮かべて、彼女は八幡を見つめている。

 彼女は静かに歩み寄り、八幡の鋼鉄の手を取った。そして、抗いようのない力で、自らの細い身体へと引き寄せる。

 雪乃の腕が八幡の首の後ろに回され、優しく抱きしめられる。

 八幡はバランスを崩し、そのまま後ろへと倒れ込んだ。だが、背中に伝わってきたのは、硬い床の衝撃ではない。どこまでも暖かく、慈しみを感じさせる「優しさ」という名の感触だった。

 

 雪乃の指先が、八幡の頬のラインをなぞる。

 八幡の手も、導かれるように彼女の白い頬に添えられた。

 

 抱きしめ返す。

 耳元で、彼女が秘めやかに歓喜の声を漏らした気がした。

 互いの境界が曖昧になり、身体が重なり、溶け合っていく。

 それはデータの同期でも、ナノマシンの結合でもない。心が、魂そのものが一つに融け合っていく、理屈を超えたマージ(統合)だった。

 

「――――ッ!!」

 

 唐突に、意識が現実へと引き戻された。

 目を開けると、そこはいつもの自分の部屋の天井だった。

 窓から差し込む朝の光が、八幡の光学センサーを刺激する。

 ヒュイイイイイイン……。

 自身の胸の奥、超小型原子炉(リアクター)から、普段よりも高い周波数の駆動振動が聞こえる。

 身体が熱い。冷却系が全開で回っているにもかかわらず、内部温度が異常上昇を続けている。

 

(……な、なんだ。オーバーヒートか? それとも昨日のマックスコーヒーの糖分が回路で異常燃焼してんのか……?)

 

 脳内が夢の残滓で混乱している。

 とりあえず、オーバーロード気味の核熱を冷やすべく、冷蔵庫のマックスコーヒーを求めてベッドから起き上がろうとした。

 だが。

 掛け布団を跳ね除けようとした八幡の動きが、物理的な違和感によって凍りついた。

 

 ……。

 …………。

(…………は?)

 

 視線を下ろす。

 そこには、ハイマンガン・スチールの装甲も、最新のナノマシン皮膚も、物理法則も、そして比企谷八幡の理性的プライドをも完全に無視した、「信じがたい光景」があった。

 

『勃っていた』。

 

 鋼鉄の救世主。

 マッハ15で地を駆け、悪魔の量子コンピュータをもデバッグした超人エイトマン。

 その股間の「アクチュエータ」が、朝の光を浴びて、あり得ないほどの剛性と存在感を主張し、天を突くように屹立していたのである。

 

「……ま、待て。落ち着け俺。これはエラーだ。出力系統の短絡(ショート)か、あるいは重力制御の局所的暴走に違いない。……決して、さっきの夢が原因とか、そういう生々しい生物学的バグであるはずが――」

 

 八幡の絶叫(脳内)をよそに、原子炉の振動はさらに激しさを増していく。 

 約一年と六ヶ月振り。……クララが立った。

 比企谷八幡の電子頭脳は、あまりの異常事態に、かつて見た名作アニメの感動的なフレーズを脳内再生(リフレイン)させるという現実逃避を選択していた。

 

(……落ち着け。まずは深呼吸だ。いや、肺機能は今、過呼吸気味の排熱モードに移行している。……これだ。これがあるから、多感な時期の男子高校生の肉体を完全にトレースしたモデルは厄介なんだ……!)

 

 事故で命を失い、鋼鉄の身体を得てから一度も起きたことのなかった現象。

 股間の「アクチュエータ」は、重力制御装置を嘲笑うかのように、一点の迷いもなく天を指している。

 とりあえず、冷却が必要だ。

 八幡は過熱した Reactor を鎮めるべく、一缶のマックスコーヒーを求めてベッドから立ち上がろうとした。

 

 その瞬間、聖域(自室)の結界が、物理的な暴力によって破られた。

 

「お兄ちゃーん! いつまで寝てんの! 遅刻とか、小町ポイント大幅……げ……」

 

 バタン、と勢いよく扉を開けて入ってきた小町。

 そして、彼女の光学センサーが、遮蔽物(掛け布団)を失い、朝の光を堂々と浴びる「兄の不具合」を完璧に捉えた。

 

「…………っ」

「…………や、やあ」

 

 八幡の電子頭脳が、自身の社会的生命の終焉を秒速で演算した。

 一〇万キロワットの出力も、マッハ15の移動速度も、この「気まずさ」という名の精神攻撃の前ではゴミ同然だった。

 

「……………バカ兄貴ぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいッ!!!!!!」

 

 小町の絶叫が、比企谷家の屋根を突き破らんばかりに響き渡った。

 

「違うんだ小町! これは出力系統の……! 局所的な電磁パルスの……!」

「不潔! 汚い! 最低! お兄ちゃんのバカバカバカ! 勝手に入った小町も悪いけど、それにしたってそれはないでしょ!!」

 

 股間を両手で必死に隠すエイトマンの無様な姿を、小町はゴミを見るような……いや、産業廃棄物を蔑むような瞳で射抜き、そのまま扉を激しく閉めて去っていった。

 鋼鉄の守護者。比企谷八幡。

 朝から人生最低の気分での目覚めであった。

 

 

──

 

 

 十五分後。ダイニング。

 食卓には、重苦しいまでの「沈黙」が澱んでいた。

 

「………………」

 

 小町は一切、八幡と目を合わせようとしない。

 それどころか、八幡のバイオ信号が近づくたびに、あからさまに鼻を啜り、物理的な距離を三メートルほど取ろうとする。

 

「……小町。さっきのは、その、……機械的な不具合で……」

「喋りかけないで。小町の純粋な女子中学生としての記憶回路が汚染されるから」

「……本当に、申し訳ありませんでした」

 

 八幡は、エイトマンとしてのプライドを全てパージし、ひたすら謝り倒した。

 

「ふん。……まあ、お兄ちゃんも一応、男だし? 生理現象ってやつ……なんだよね? 最近、理屈っぽいロボットみたいだったから、逆に安心したというか……。今の発言で小町ポイント、マイナス一億点からマイナス九千万点に回復したから」

 

 ようやく小町が、渋々といった体で口を開いた。八幡は「落差が激しすぎるだろ」と突っ込みたくなったが、今は生存戦略を優先し、深く頭を下げた。

 だが、小町はそこからが鋭かった。

 彼女は食卓に並べられたトーストを齧りながら、じろりと八幡を観察するように見た。

 

「……で。誰のこと考えてたの?」

「…………は?」

「とぼけないでよ。お兄ちゃんのあの『決まりっぷり』は、絶対に具体的なイメージがないと起きないレベルだったよ。……ねえ、誰? 結衣さん? それとも、沙希さん? ……もしかして、雪乃さん?」

 

 ドクン、と八幡の擬似心臓が大きく脈打った。

 脳裏に蘇る、夢の中の光景。

 自分を抱き寄せ、境界が溶け合うほどに慈しんでくれた、あの雪ノ下雪乃の柔らかな感触。

 

「――――ッ!!」

 

 八幡の顔が、みるみるうちに沸騰したマックスコーヒーのような紅に染まった。

 擬似皮膚の表面温度が急上昇し、首筋の排熱スリットが「プシュッ」と情けない蒸気を噴き出す。

 

「あー! 赤くなった! 図星だ! お兄ちゃん、エロい! 理系の皮を被った変態だ!」

「ち、違う! 俺はただ、量子もつれにおけるスピンの状態をシミュレートしていただけで……!」

「嘘おっしゃい! その赤さは、雪乃さんのこと考えてた時の赤さだよ! 小町はお見通しなんだから!」

 

 小町の執拗なからかいに、八幡は本気で「一回泣かしてやろうか」という物騒なログを生成したが、それを実行する勇気はなかった。

 

「……おはようございますにゃ〜ん」

 

 そこへ、うぃぃんと音を立ててベラボット(ベラ)が近づいてきた。

 

「おかわり……。味噌汁のおかわり、持ってこい」

「『かしこまりましたにゃん♪ 本日のメニューは「現実(リアル)」だにゃん♪』」

「……ベラ、おまえも黙ってろ」

 

 ベラは淀みない動作で、トレイに乗せた味噌汁を八幡の前に差し出した。

 このロボットは元々ドクトル・デーモンが送り込んできたものだが、比企谷家に定着してからは、博士からの直接的な干渉はほとんど見られない。今の彼女(?)を動かしているのは、博士が基本設計として組み込んだ「家事支援および感情シミュレーションAI」だ。

 

(……まあ、監視のバックドアはどこかに仕込まれてるんだろうが。家の中にいる分には、こいつはただの『少し生意気な家政婦ロボ』でしかないからな……)

 

 八幡は、ベラのトレイの上で我が物顔で丸くなっているカマクラの頭を撫でた。

 デーモンの不気味な声が聞こえてこないだけでも、この家の安寧は保たれているといえる。

 

「ベラちゃん、ありがとー!」

 

 小町はベラが注いだ牛乳を受け取り、美味しそうに喉を鳴らした。比企谷家の食卓は、エイトマンの排熱による熱気が少しずつ引き、平穏な朝の空気が戻りつつある。

 だが、小町がコップをテーブルに置いた後に放った一言は、八幡の冷却系を再び狂わせるのに十分な破壊力を持っていた。

 

「でも、お兄ちゃんって本当に贅沢だよね。雪乃さんに、結衣さん……あの二人は、お兄ちゃんには勿体無いくらいだよ。本当に、奇跡のバランスで成り立ってるよね、お兄ちゃんの周りって」

「……まあ、否定はしねーよ」

 

 八幡は視線をマックスコーヒーの缶へと落とした。雪乃については、もはや自分を誤魔化すことはできなかった。あのアクアリウムの中で、そして西葛西の深淵で、彼女と魂を同期させたあの瞬間。

 

 比企谷八幡という存在は、雪ノ下雪乃に惹かれている。

 

 もっと近くにいたい。共に歩みたい。その願いは、もはや鋼鉄の装甲を貫いて、彼の本質(コア)に深く突き刺さっていた。

 だが。小町の口から出たもう一人の名前――由比ヶ浜結衣。

 彼女の名前を聞いた瞬間、八幡の思考は予期せぬノイズに包まれた。

 

(……由比ヶ浜、か)

 

 冷静に、その存在を再定義してみる。

 一学期の始まり。ギクシャクした沈黙に支配されていた奉仕部に、最初の相談相手として飛び込んできたのが彼女だった。いつの間にか部室に居着き、彼女は沈黙しがちな八幡と雪乃の間に、言葉という名の「潤滑剤」を注ぎ続けた。

 

 時に笑い、時に怒り、時にストレートな哀しみを見せる。

 捻くれ切った自分や雪乃とは違う、混じり気のない感情表現。

 気づけば、奉仕部という場所は、由比ヶ浜結衣という太陽なしでは存在し得ない空間になっていた。

 そして。

 八幡の電子頭脳は、雪乃さえも知らない、あの夏の祭りの夜の記録をロードした。

 

 自己矛盾と自己嫌悪にのたうち、自らの存在意義に絶望していた自分。そんな自分の、今にも壊れそうな鋼鉄の身体を、必死に抱きしめ、この世界へと繋ぎ止めてくれたのは彼女だった。

 

(……雪ノ下が、俺と『強さ』を認め合った仲だというなら)

 

 八幡は、自分の手のひらを見つめた。

 

(由比ヶ浜は、俺と『弱さ』を共有した仲……と言えるんだろうか)

 

 あの廊下での出来事。彼女と交わした約束。

「ゆきのんを助けて」という、彼女の心からの願い。

 その約束がいつの間にか「誓い」となり、自分がエイトマンとして生きる意味、戦う意味、そして心からの充足感に繋がっていた。

 雪ノ下雪乃に惹かれていると思う心に嘘はない。

 けれど、それと同じくらいの密度で、由比ヶ浜結衣という少女の存在が、無視できないほど巨大な質量を持って、八幡の心臓を揺さぶっていた。

 

「お兄ちゃん? 急に黙って、また変な計算でも始めた?」

「いや。なんでもねえよ」

 

 八幡は熱を持ち始めた思考を強制終了し、逃げるように味噌汁を啜った。

 ズズッ、という現実的な音が、静まり返った食卓に響く。

 

「……ねえ、お兄ちゃん」

 

 小町が、ふと顔を上げた。

 その瞳には、いつものふざけた「小町ポイント」の打算はない。そこにあるのは、兄という名の壊れやすい「人間」を誰よりも長く観察してきた、一人の妹としての真摯な眼差しだった。

 

「小町さ。お兄ちゃんが雪乃さんとも結衣さんとも仲が良いのは、正直すっごく嬉しいよ? 小町、二人とも大好きだし」

 

 小町はコップの中の牛乳を一口飲み、言葉を溜めた。

 

「でも、……中途半端はダメだよ。お兄ちゃん」

「…………」

「二人とも、お兄ちゃんを信じてるんだから。……もし二人を泣かせたりしたら、小町、本当にお兄ちゃんのこと許さないからね? 本気で怒るからね?」

 

 釘を刺す、というにはあまりに重い言葉だった。

 鋼鉄の皮膚を透過し、八幡の原子炉(リアクター)を直接握りしめるような物理的な重圧。

 

 雪ノ下を助けるという誓い。

 由比ヶ浜の隣にいるという安寧。

 その二つが、いつか決定的に矛盾し、どちらかを選ばなければならない瞬間が来る。その時、八幡のシステムはどちらを「正解」として選別するのか。

 

「分かってるよ。お前こそ、朝から説教くせーんだよ。早く食え」

 

 八幡は視線を逸らし、ぶっきらぼうに言葉をかわした。

 いつものように、はぐらかし、逃げる。それが比企谷八幡の最も得意とする回避機動(マニューバ)だ。

 けれど、心中を渦巻く「解けない疑問」は、冷え切った味噌汁の苦味と共に、彼の胸の奥に澱(おり)となって沈んでいった。

 

 




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