——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第三十五話:天使と、悪魔と、マッターホルン

 

 

「機械に性欲は無い。約一年と半年振り前、私は君にそう言ったな、比企谷くん?」

 

 谷博士のラボ。無機質なステンレスの椅子に腰掛けた八幡は、目の前のモニターに映し出された自分の「異常なし」という診断結果を、恨みがましい目で見つめていた。

 

「ええ、聞きましたよ。その言葉を信じて、俺はこの一年半、清廉潔白な鋼鉄の男として生きてきたんです。……それなのに博士、俺のクララが立ったんですよ! アルプスの山々もびっくりな屹立っぷりだったんです!」

 

 必死の訴え。だが、その内容は「マッターホルンがどうの」という、およそ世界を守るヒーローとは思えない最低の告白だった。今朝、小町が放ったあの絶対零度の視線。あれを二度と浴びないためなら、八幡は自分の Reactor を物理的に冷却水にぶち込む覚悟すらあった。

 しかし、谷博士は八幡の「尊厳の危機」など梅雨知らず、顎に手を当てて深遠な思考に沈んでいる。

 

「君の身体(ハードウェア)に物理的な異常は見られない。感情パラメータの揺れも、通常稼働の範囲内だ。だが、君のメインシステム――感情の大元である『比企谷八幡の精神』が、身体に対して強烈な『生命肯定信号』を送ったのは事実のようだな」

「生命肯定信号……?」

「そもそも、なぜ人は生殖を行う? 比企谷くん、答えたまえ」

 

 博士の問いに、八幡の電子頭脳は瞬時に論理的な回答を導き出した。

 

「……自分の子孫を残すため。あるいは、その過程に付随する快楽、報酬系を享受するため。……そうプログラミングされた生物としての本能、ですよね」

「その通り。人は原初の本能に基づき、パートナーを求め、自分の遺伝情報を後世に残すために理想的な個体を求める。快楽はあくまで副次的な報酬だ。……だが、機械の身体を持つ君は、そもそも生殖を必要としない」

 

 谷博士は、モニターに新たなパラメータを表示させた。

 それは、八幡の「幸福係数」と「他者への共鳴率」を示す波形だった。

 

「君の感情ログを調べたが、特定の個体――雪ノ下雪乃くんとの精神的繋がりにおいて、潜在的な充足感が上昇傾向にある。君も自覚しているな? 彼女との『一つになりたい』という欲求は、もはやデータの同期を超え、魂の融合を求めている」

「…………。それは、否定しませんが」

「これが一つの理由だ。精神的な繋がりが極限に達した時、脳はそれを生物学的な『結合の好機』と誤認する。……だが、君が『勃った』理由は、それだけではない」

 

 谷博士は、八幡の擬似神経系(ニューラルネットワーク)の深層データを拡大した。

 

「……精神的な繋がりの他に、肉体的な繋がりを欲する証である、生理的反応をした原因はおそらく……」

 

 谷博士は、手元のタブレットを置き、改まって八幡へと向き直った。その瞳には、科学者としての冷徹な観察眼と、親代わりとしての慈しみが同居している。

 

「君の身体は、自己の変革、機能の更新、あるいは自らの『進化』のために……雪ノ下くんの存在を欲しているのだよ」

 

 博士の言葉が、八幡の超電子頭脳(ブレイン)に激震を走らせた。

 

(……進化、だと?)

 

 生殖の果てに子孫を残すことではない。

 比企谷八幡という存在をさらに強固に、さらに高次元へと引き上げるための「自己アップデート」。そのための最高の「更新ソフト」として、エイトマンのシステムは雪ノ下雪乃という個体を認識しているというのだ。

 

 思えば、あの文化祭での件もそうだった。

 雪ノ下雪乃のために動く時、エイトマンのリアクターは理論上の限界値を超えた出力を叩き出し、ナノマシンの演算速度は神の領域にまで達した。

 

「エイトマンにプログラムされた『本能的な演算』が、一つの最適解を導き出した。それが、今朝の君の……その、マッターホルン現象の正体だ」

「……つまり、俺の股間は、俺を強くするために『立て』と命じられたってことですか? 理屈として最悪すぎるだろ……」

 

 八幡は頭を抱えた。

 自分の純粋な(はずの)好意が、システム的な「効率化」のロジックと噛み合っている。雪乃を想う心が、エイトマンのボディにある「最適化」の歯車を加速させている。

 それは、恋という名の情動であると同時に、より優れた個体へと至ろうとする機械の冷徹な意志でもあった。

 

「より優秀な結果を残すために、より優れたパートナーを求める。……それは人間も、機械も、求める本質は変わらないのかもしれんな」

 

 谷博士は静かにそう言い、窓の外の夜景に目を向けた。

 

「君が雪ノ下くんと共にあることで、エイトマンは完成へと近づく。……だが、忘れるな、比企谷くん。その『進化』の衝動は、時として理性を焼き切るほどの熱量を持つ。……君が人間であり続けたいのなら、その熱をどう制御(コントロール)するかは、君自身に委ねられている」

「…………」

 

 八幡は、自身の鋼鉄の掌を見つめた。

 握りしめれば、容易に鋼をも引き裂く力。

 だが、その手が今、一人の少女の温もりを、自分をアップデートしてくれる「熱」を求めて震えている。

 雪ノ下雪乃という、最高の触媒。

 そして、自分を支えてくれる由比ヶ浜結衣という、もう一つの重力。

 

(……俺は、進化したいのか。それとも、ただの人間でいたいのか)

 

 答えは出ない。

 ただ、胸の奥で唸る原子炉(リアクター)の鼓動が、これまで以上に速く、力強くなっていることだけは確かだった。

 

「――君が困惑するのもわかるが、今回のこれは極めて人間らしい反応とも言える。喜ぶべきかは君の心次第さ」

 

 谷博士の言葉に、八幡は力なく苦笑いした。

 合理性の塊、究極の兵器であるはずのこの身体が導き出した「雪ノ下雪乃を求める」という最適解。その生々しいほどの正論が、比企谷八幡という少年の自意識をじわじわと侵食していく。

 

「結構なことではないか」

 

 ラボのゲートが、不遜な油圧音を立てて開いた。

 現れたのは、白衣を翻し、狂気的な知性を瞳に宿した男――ドクトル・デーモンだ。

 

「デーモン博士……。またかよ。あんた、不法侵入の効率化でも研究してんのか?」

 

 八幡のジト目を無視し、デーモンは谷博士を押し除けるようにしてモニターの前に陣取った。

 

「デーモン君、勝手に入ってこられると困るのだが。ここは私のプライベート・ラボだ」

「フン、谷。こんな興味深い事象を放っておけるか! お前の最高傑作が、ここにきて『自己進化』の可能性を示したのだぞ。科学者として、この熱狂を共有せずにはいられないだろう?」

 

 デーモンは、八幡のバイタルチャートを指でなぞりながら、愉悦に満ちた声を上げた。

 

「機械というものは、どこまで行っても設計図の枠を出ることはできない。限界を超えようとすれば、待っているのは必ず『崩壊』だ。……だが、エイトマン。お前は違う」

 

 デーモンが八幡の肩に手を置く。その掌から、冷徹なまでの期待が伝わってくる。

 

「雪ノ下雪乃という、お前にとって最高の『プログラム』をインストールすれば、エイトマンは今までの限界を遥かに超越した存在になれる。……いや、もはや機械でも人間でもない、『新人類のプロトタイプ』へと昇華するのだ!」

「……インストールって。あんた、さっきから生身の女の子をソフト扱いしないでくださいよ」

「何を迷うことがある! 谷の言う通り、お前の股間の反応は『進化への渇望』だ! 恥じる必要などない、むしろ誇るべき生理現象なのだよ!!」

 

 デーモンの言葉は、まさに悪魔の囁きだった。

 

『何を迷うことがある! 今は悪魔が微笑む時代なんだ!』とでも言いたげな、欲望を全肯定する圧倒的な肯定感。

 どこぞの世紀末世界に鉄仮面を被って暴虐を突き進んだ男のような、傲岸不遜な台詞を吐くドクトル・デーモン。その瞳には、倫理を嘲笑い、ただ至高の「力」のみを渇望するマッドサイエンティストの狂気が宿っていた。

 だが、その悪魔の囁きに対し、谷博士はあくまで理性的に、そして教育者としての静かな威厳を以て諭すように口を開いた。

 

「ことはそう単純ではないよ、デーモン君。……いくらそれがシステム的な『最適解』だとしてもだ。機械的な演算を人間の本能に置き換えたとして、その本能のままに行動することは、あまりにも人の理(ことわり)に反する」

 

 谷博士は八幡の肩にそっと手を置き、デーモンを鋭く睨みつけた。こちらはまさに、迷える子羊を導く「天使の戒め」であった。

 

「まして、彼らはまだ学生であり、未成年だ。多感な時期にある彼らの精神を無視し、機能更新という名目でそのような繊細な領域に土足で踏み込むのは、科学者としてあまりに早計であり、無責任と言わざるを得ないな」

「フン、相変わらず甘いな、谷! 時代は常に変革を求めているのだ。……比企谷八幡! お前はいつまで『ただの高校生』という檻に閉じこもっているつもりだ? その殻を破る鍵(雪ノ下雪乃)は、すぐ目の前にあるというのに!」

「デーモン君、君の言う『進化』はただの崩壊への序曲だ。人間性の喪失を伴うアップデートに、一体何の価値があるというんだ!」

 

 八幡の頭上で、二大超天才科学者による議論が火を吹いた。

 一方は「効率と進化」を謳う悪魔の論理。

 一方は「理法と倫理」を説く天使の警鐘。

 どちらの主張も、世界の物理法則を書き換えかねない知性に基づいた、あまりにも高度で濃密な「正論」のぶつかり合いであった。

 

「…………」

 

 八幡は、二人の間で激しく飛び交う専門用語と哲学的な罵倒を、BGMのように聞き流しながら遠い目をした。

 彼の超電子頭脳(ブレイン)は、今、極めて冷徹な「事実」を抽出している。

 

(……待て。落ち着け俺。……この世紀の天才たちが、人類の未来を左右するような顔をして熱く議論しているこの状況……。……その原因、元を辿れば『今朝の俺のクララが立ったから』なんだよな……)

 

 自分の股間の生理現象が、なぜか「新人類の進化論」や「未成年の倫理観」という巨大なテーマにすり替わっている。

 もしこの場に雪ノ下や由比ヶ浜がいたら、間違いなく自分は社会的・物理的にデバッグ(抹殺)されているだろう。

 

(……死にたい。いや、むしろ消えたい。今すぐナノマシンを分解して、大気中の塵になりたい。なんで俺はこんなハイレベルな変態たちの議論の中心で、椅子に座らされてるんだ……)

 

 八幡は、網膜ディスプレイに表示されるバイタルチャートが「深い賢者タイム」を指し示しているのを確認し、そっと目を閉じた。

 頭上では依然として、天使と悪魔が「雪ノ下雪乃のインストール」という名の不敬な議論を白熱させている。

 

 秋の夜は更けていく。

 鋼鉄の身体に宿った「熱」の正体を知るための放課後は、比企谷八幡にとって、どんな強敵との戦いよりも精神を摩耗させる、壮大な現実逃避の時間となった。

 

──そんな秋も半ばとなり、紅葉が映える頃

 

 もうすぐ、修学旅行が始まる。

 なんの憂いもしがらみも存在しない、八幡にとって初めて体験するであろう『真っ白な時間』

 八幡が自分の気持ちに向き合う時が、近づきつつあった。

 

 




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