——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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日常パートって難しい


第三十六話:あの日、できなかったことを

 

 

 女の子は薄着より厚着のほうが、実は可愛いんじゃないか。

 最近、そんなことを考えるような季節になった。

 

 文化祭という名の巨大な嵐が過ぎ去れば、あと二ヶ月と経たずに今年も終わってしまう。カレンダーの数字が減るにつれ、気温も一気に下降し、今では涼しいというよりは「寒い」風が吹き抜けていた。海沿いに立つこの総武高校では、なおさらのことだ。

 八幡の学校での日常といえば、相も変わらず「孤立」の一点に集約されていた。

 一時は、あの「中央最適化委員会」なる狂信的な組織によって「書記長閣下」と担ぎ上げられ、学校の支配者にでもなったかのような騒ぎになったが、それも二ヶ月前の話だ。

 喉元過ぎれば熱さを忘れるのが人間という種の特徴であり、ましてや移り気な高校生ともなればなおさらだ。晩秋の冷気に晒されたあの熱狂は、今では誰しもが「そんなこともあったね」と記憶の彼方に追いやっていた。

 

(……まあ、おかげでようやく、俺の原子炉(リアクター)も平常運転に戻れたわけだが)

 

 運の悪いことに、先日の席替えの結果、八幡の座席はクラスのほぼ中央という、ぼっちにとっては「四面楚歌」にも等しい最悪の座標に設定されていた。

 休み時間の喧騒。リア充たちの笑い声。それらすべてから物理的・精神的に距離を置くため、八幡はアイマスクを装着し、机に突っ伏していた。

 だが、その中身は寝ているわけではない。

 

『――バックグラウンド・タスク:OSアップデート確認、未読メールのヘッダ解析、気象庁データのリアルタイム監視……』

 

 八幡は脳内のマルチタスク機能を全開にし、視界を塞いだまま暇を潰していた。

 エイトマンとしてのスペックを、ただの「快適な昼寝」のために浪費する。これこそが、彼なりの平和の享受だった。

 ふと、廊下の方から冷たい風が入り込む。

 アイマスク越しに感じる光の変化。

 

(修学旅行、か……)

 

 京都。歴史と伝統、そして「ぼっちの公開処刑」の場。

 鋼鉄の身体を得てもなお、その行事に対する忌避感だけはアップデートされることなく、八幡のシステム内に深く根を張っていた。

 周囲の浮かれた会話、高笑い、それらすべての音響データをフィルタリングし、彼はただの「背景」になろうと努めていた。

 ふと、八幡の光学センサーが、視界を遮る柔らかな「影」を捉えた。

 

「やっはろー」

 

 上から覗き込むようにして声をかけてきたのは、由比ヶ浜結衣だった。

 アイマスクを僅かにずらして見上げると、そこには見慣れた顔――そして、いつにも増して周囲を気にするような、それでいて親愛の情を隠さない複雑な微笑みがあった。

 

「おお……」

 

 至近距離での急襲に、八幡の姿勢制御装置(ジャイロ)が微かに乱れ、椅子から転げ落ちそうになるのを踏みとどまった。

 

「今日、部活行くでしょ?」

 

 由比ヶ浜は、周囲の視線が逸れている絶妙なタイミングを選び、極めて小さな声で囁いた。彼女は自身のカーストの高さと、隣にいる比企谷八幡という「異分子」に対する周囲の視線を、ミリ単位の精度で計算し、中和しようとしていた。

 

「……ああ」

「そっか。じゃあ、また部室でね」

 

 由比ヶ浜は秘密を共有する共犯者のように、胸の前で小さく手を振ると、流れるような動作で三浦優美子の元へと戻っていった。三浦は不審げな顔で一瞬だけ八幡に視線を向けたが、すぐに興味を失ったように携帯へと目を戻した。

 

(……ありがたいことだな。敵でも味方でもない、ただの無関係。それが俺の望む最適解だ)

 

 由比ヶ浜は、自身の立ち位置を守りつつも、八幡を透明な存在(ぼっち)にさせないための最低限の通信を絶やさない。その気遣いが、今の八幡にはどんな高出力のエネルギー供給よりも心地よかった。

 結局、他にすることもないため、八幡は再びアイマスクを下ろし、省電力モード――もとい、寝る体勢に入った。

 

 

──

 

 

 休み時間が終わろうかという頃合いになると、教室の往来は一気に慌ただしくなる。

 他クラスから戻る者の足音、トイレ帰りの談笑、自販機で買った飲み物を振る音。それらすべての音響データをマルチタスクで処理しながら、八幡は意識の深淵へと潜ろうとしていた。

 

「ねえ八幡、起きて」

 

 その声が、不意に耳元で響いた。

 相変わらず、鈴を鳴らすように綺麗で、淀んだ教室の空気を一瞬にして浄化するような、驚異的な透明度を持った周波数。

 八幡はアイマスクをずらし、光学センサーを再起動した。

 

「……おお、戸塚か」

 

 焦点を結んだ先にいたのは、総武高校が誇る「可憐なるバグ」こと戸塚彩加だった。

 窓から差し込む晩秋の柔らかな光が、彼の銀髪を琥珀色に縁取っている。その破壊的な可愛らしさに、八幡の心臓(リアクター)が微かなオーバーレブを起こした。

 

「あ、起きた。ごめんね、もうすぐチャイム鳴るから」

 

 申し訳なさそうに小首を傾げる戸塚。その仕草一つで、八幡の脳内プロセッサは「これは女子だ。いや、女子以上の何かだ。守護せねば」という、生物学的な分類を超越したエラーコードを吐き出し始める。

 

「……いや、助かる。アイマスクしてると、時間感覚が時々バグるんだ」

「ふふ、八幡らしいね。……あ、あのさ。みんな修学旅行の班決めの話で盛り上がってるけど、八幡はどうするの?」

 

 戸塚が隣の空いている椅子にちょこんと腰掛け、上目遣いで問いかけてくる。

 由比ヶ浜が「社会的な立ち位置」を計って声をかけてくれたのに対し、戸塚は純粋に、ただ一人の友人として八幡の懐に飛び込んでくる。その無垢な善意は、エイトマンとしての鋼鉄の装甲をも容易く貫通し、八幡の「人間」としての部分を激しく揺さぶる。

 

「……どうするも何も、俺の基本戦略は『余り物に福がある』という消去法的な最適解を待つだけだ。どこかの班の欠員補充として、空気のように馴染むのが俺のミッションだからな」

「もう、八幡はすぐそうやって自分を低く見積もるんだから。……僕は、もしよければ、八幡と同じ班になりたいな、なんて……ダメかな?」

 

 ――ガタッ。

 

 物理的な衝撃(動揺)によって、八幡の椅子が音を立てた。

 戸塚彩加と同じ班。それは、修学旅行という名の地獄を、一瞬にして極楽浄土へと書き換える禁断のチートコードではないか。

 

「……いいのか。俺みたいな、光学的にも社会的にもノイズにしかならない奴と組んでも」

「そんなことないよ。八幡と一緒なら、きっと楽しいと思うんだ。……ダメ、かな?」

 

 二度目の「ダメかな」。

 八幡の原子炉(リアクター)は臨界点を突破し、冷却系は完全に麻痺した。

 

「……拒否する理由が、俺の全データベースを検索しても見つからないな」

「本当!? よかった……。じゃあ、また後で詳しいこと決めようね!」

 

 戸塚は銀色の残像を残して、自分の席へと戻っていった。

 八幡は再びアイマスクを外し、熱を持った顔を隠すように窓の外を見た。

 

 

──

 

 

 いつの間にか持ち込まれていたのか、部室の片隅で湯沸かしポットがシュッと細い蒸気を上げながら音を立てていた。

 湯が沸いたことに気づいた雪ノ下雪乃は、読んでいた雑誌の端を丁寧に折った。いわゆるドッグイヤーというやつだ。

 雪乃は雑誌を机に置くと、音もなく立ち上がり、ポットの前へと移動した。その所作は相変わらず無駄がなく、八幡の光学センサーには「最適化された優雅なルーチン」として記録される。

 それまで携帯電話を片手に気怠げにしていた由比ヶ浜結衣が、期待に目を輝かせて雪ノ下に声をかけた。

 

「やった! おやつだ!」

「……あなた、私の動きだけで判断するのはやめてくれないかしら。まだお茶を淹れるとは言っていないわよ」

「えー、でも絶対お茶でしょ? 準備しちゃうもんね!」

 

 カップや茶葉を準備する雪乃と同様、由比ヶ浜も自分の鞄を熱心に漁り、どこかの有名店であろうお茶うけの焼き菓子を机に並べ始めた。

 卓上に用意されたのは、三つの異なる個性を放つ「インターフェース」だった。

 一つは、雪乃の高潔さを象徴するような、繊細な装飾が施された美しいカップとソーサー。

 二つ目は、由比ヶ浜の親しみやすさを体現したような、やる気のなさそうなだれた犬がプリントされた、どこか間の抜けたマグカップ。

 そして、最後の一つ。

 それは誰のものかは知らないが――いや、この部屋の住人であれば誰もがその「持ち主」を直感できる、黒と赤に彩られた無骨なデザインのマグカップだった。

 

(……なんだ、あの『戦闘型』みたいなマグカップは)

 

 八幡は、自分の前に置かれたその器をまじまじと見つめた。

 闇を塗りつぶしたような重厚なダークメタリックの黒。そして、アクセントとして走る鮮烈な真紅のライン。それは、比企谷八幡が変身した姿――戦闘ロボット08号、エイトマンの装甲色と完璧に一致していた。

 

「……随分と、攻撃的な色のカップだな」

「あら、そう? 耐熱性と耐久性に優れた特注品だと聞いたけれど。あなたのその腐った魚のような目にも、この程度の色彩なら識別可能だと思ったのだけれど」

 

 雪乃は平然と言い放ち、八幡のマグカップに熱い紅茶を注ぎ込んだ。

 沸騰したての液体が注がれても、八幡のセンサーはそのカップの外壁温度が異常に安定していることを検知した。真空二重構造、あるいは特殊合金のコーティング。

引き取り手がなく、ぽつんと机に残されていた黒と赤の無骨なマグ。

 そこから立ち上る湯気が、行き場を失った迷子のようにゆらゆらと揺れ動いている。比企谷八幡の光学センサーは、その湯気の揺らぎから液体の温度が摂氏八十二度であることを正確に算出していた。

 

「……紅茶、冷めるわよ」

 

 雪ノ下雪乃が、手元の文庫本に目を落としたまま、静かに、けれど促すように言った。

 

「……猫舌なんだよ、俺は」

 

 八幡は、それが自分のために用意された「インターフェース」であることを理解するまでに、コンマ数秒の遅延(タイムラグ)を要した。

 だが、わざわざ用意された善意を、物理的な冷却を理由に拒絶できるほど、彼の回路は天の邪鬼に振り切れてはいない。液温が猫舌の許容範囲である六十度まで低下したのを確認し、八幡は鋼鉄の指をその無機質な取っ手へと伸ばした。

 ずずーっ、と音を立てて啜る。

 マックスコーヒーの暴力的な甘さとは対照的な、高貴で、けれどどこか落ち着く渋み。

 両手でマグカップを包み、ふーふーと息を吹きかけて冷ましていた由比ヶ浜結衣が、湯気の向こうからパッと顔を上げた。

 

「そういや、もうすぐ修学旅行だねー」

 

 その単語が空間に放出された瞬間、雪乃の眉がぴくりと動いた。

 二学期が始まって以来、教室の喧騒を支配しているのは常にその話題だ。行き先、班決め、自由行動。平和を謳歌する高校生たちにとって、京都という舞台装置は最高の演算材料らしい。その余波は、外界から隔絶されたこの奉仕部にも、微かなノイズとして届き始めていた。

 

「どこ行くとか、もう決めた?」

「これから決めるところよ」

 

 雪乃に続いて、八幡は再び紅茶を啜り、自身の電子頭脳(ブレイン)に記録された過去の「イベントログ」を検索した。

 

「俺は班の奴らがどこ行くか次第だからな。……というより、そもそも俺の意見が反映される余地なんて、設計段階から存在しない」

 

 八幡にとっての修学旅行とは、つまるところ「強制連行」と同義だ。

 班の連中は、比企谷八幡という個体がそこに存在しないかのように振る舞い、目の前で楽しげな計画を立てる。八幡はただ、透明なバックグラウンド・プロセスとして、その背後に黙ってついていくだけだ。

 

(……不満は別にない。むしろ楽でいいんだがな)

 

 だが、それが「楽しい」という情動と同期するかと言われれば、明確にNOだ。

 異物は、異物。

 仲良しグループという強固な暗号化通信が行われているコミュニティにおいて、自分のような不純物はデバッグの対象、あるいは完全に無視されるべきノイズに過ぎない。

 異物歴が人生の大半を占めるエイトマンにとって、それは慣れ親しんだ物理法則のようなものだった。

 八幡は、対面に座る「氷の女王」へと視線を向けた。

 その卓越したスペックゆえに周囲から浮き上がり、絶対零度の静寂の中に佇む彼女。

 

 「そういや、雪ノ下。お前、修学旅行とかイベントごとのときってどうしてんだ?」

 

ふと気になって聞いてみると、雪乃はカップを片手に首をわずかに傾ける。

 

「?どうとは?」

「お前、クラスに友達いないだろ?」

 

傍から聞いたら結構ひどい質問なのだが、雪乃は特に気にするそぶりも見せない。淡々と答える。

 

「ええ。だから?」

「いや、だからグループとかどうしてるのかなって」

 

言ってようやく俺の質問の意図を正確に捉えたのか、雪ノ下はカップを置くと得心がいったように口を開いた。

 

「ああ、そういうことなら、私は誘われるがままにしているわね」

「……は、さ、誘われるの?」

 

 思わず、ティーカップを口に運ぶ動きが止まった。比企谷八幡の超電子頭脳(ブレイン)は、今、雪ノ下雪乃という個体が放った「班決めで困ったことがない」という非論理的な発言を、一生懸命にデコード(解読)しようとしていた。

 

 雪ノ下雪乃。

 この総武高校において、彼女ほど「孤立」という言葉が似合う存在はいないはずだった。峻烈な美貌と、触れれば切れる刃のような正論。その圧倒的なスペックゆえに、並の人間なら近づくことさえ躊躇する。ましてや、お気楽極楽な修学旅行の班に、そんな「歩く規律」を招き入れようとする猛者がいるなど、八幡の統計データには存在しなかった。

 

「あなたが私にどういうイメージを抱いているのか知らないけれど、私はそういう班決めのときに困ったことはないのよ。だいたいどこかしらのグループの子が話しかけてくるから」

 

 雪ノ下が、至極当然のことを語るように髪を払う。その仕草には、誇るでもなく、卑下するでもない、冷徹な事実としての響きがあった。

 

「あー、でもそれなんかわかるかも。J組の場合はほとんど女子だから、ゆきのんみたいにかっこいい雰囲気ある子って結構好かれると思うよ」

 

 由比ヶ浜結衣が、マグカップを両手で包み込みながら同意する。

 

「はあ、なるほど。……J組の場合、ね」

 

 雪ノ下雪乃が所属するJ組、国際教養科。

 八幡は、たまに通りかかるその教室の「環境データ」をログから呼び出した。

 女子が九割を占めるその空間は、八幡のいる普通科F組とは決定的に異なるアルゴリズムで動作している。そこは一種の「女子高」的な治外法権だ。

 八幡の超高感度センサーは、J組付近を通過する際、複数の香水と柔軟剤、そして「女の情念」という名の不可視のパルスが混然一体となった、バイオハザード的な大気を検知することがある。

 

 冬場にはスカートの下に平然とジャージを穿き込み、そのままスカートめくりをして遊ぶという、生物学的な羞恥心を最適化(スキップ)した独自の進化を遂げた個体たちが跳梁跋扈するAmazonの奥地。

 だが、その弱肉強食の世界において、雪ノ下雪乃は「異物」ではなく「希少種」として再定義されているようだった。

 

「同性ばかりの集団……。異性の目を気にする必要がない分、能力(スペック)の高い個体が正当に評価される、という理屈か」

「……何かしら、その軍事偵察のような言い方は。私は単に、旅行の行程を組むのが得意だと認識されているだけよ」

「いや、ゆきのん。みんな普通に『かっこいいから一緒にいたい』だけだと思うよ……」

 

 由比ヶ浜のフォローに、八幡は自嘲的な笑みを浮かべた。

 雪ノ下雪乃という「正解」は、J組においては便利なツール、あるいは自慢のアクセサリーとしての需要がある。

 一方、比企谷八幡という「バグ」は、F組という男女混合のヒエラルキーにおいて、システム全体の景観を損ねる不燃ゴミ、あるいは存在自体をなかったことにすべきノイズとして処理される。

 

(……同じ『異物』でも、価値の付き方が違うわけだ。俺の原子炉(リアクター)は、どうあがいても『希少価値』なんていうプラスの係数は叩き出さないからな)

 

 八幡は、黒と赤の無骨なマグカップに残った紅茶を飲み干した。

 異性の目が存在しないというメリット。それは、雪ノ下雪乃という一点の曇りもない刃を、より純粋に輝かせるための舞台装置(フィールド)なのだろう。

 

「……ま、お前が路頭に迷わねーんなら、余計な心配だったわ。俺は俺で、適当な班の『空きスペース』にインストールされるのを待つだけだからな」

「比企谷くん。……あなた、たまには自分からアクセスを試みるという選択肢はないのかしら?」

「拒絶(エラー)を食らって精神のキャッシュが飛ぶのがオチだ。そんな非効率な真似はしない」

 

 八幡は冷たく言い放つ。

 そんな比企谷八幡の超電子頭脳(ブレイン)は、最近の雪乃との対話に微かな「最適化」を感じていた。

 かつては氷の刃を突きつけ合うような緊迫感があったが、今では彼女も八幡の、どこか機械的で論理を優先したシステム的な語り口に慣れてきたらしい。まるで、互いのOSにパッチを当て合い、通信プロトコルが統一されたかのような、奇妙な安定感があった。

 そんな理知的な空気を、由比ヶ浜結衣の溜息混じりの一言がパージ(排除)する。

 

「はぁ~。ていうか、うちの学校も沖縄とかがよかったなー」

 

 由比ヶ浜はパイプ椅子に浅く腰掛け、部室の天井を見上げながら、実現しなかった南国への夢を語る。

 

「今の時期に行くのはどうかしらね……。あまりお勧めしないけれど」

 

 雪ノ下が、手元の文庫本を閉じることなく冷静に返す。窓の外では、晩秋の冷たい風がヒュウヒュウと寒々しい音を立てて校舎の隙間を吹き抜けている。

 八幡の気象データ予測によれば、たとえ南国沖縄といえど、この季節では「海だのシーだのマリンだの」といった浮かれたエンターテインメントは、気温と水温のデッドラインを下回る。期待できるのは強風と、せいぜい紅芋タルトの咀嚼回数の増加くらいだろう。

 

「えー? でも、京都行っても結構どうしようもなくない? あの辺にあるのって寺とか神社だよ? それなら近所にもあるし……。稲毛の浅間神社とか、いつでも行けるし……」

 

 素敵なくらいに由比ヶ浜らしい発言だった。

 一二〇〇年の歴史を持つ古都の集積回路(ネットワーク)を、千葉の地元密着型神社と同列にアーカイブしてしまうその豪快なカテゴリ分け。

 聞いてるだけで八幡の論理回路に軽微なノイズが走る。それは雪ノ下も同様なのか、彼女は白く細い指先でこめかみのあたりを軽く押さえていた。

 

「あなたは歴史の重みや文化的価値というのを、まったく考慮しないのね……。京都の神社仏閣が維持してきた情報の密度は、あなたの想像を遥かに超えているわよ」

 

 溜息混じりに呟かれる言葉に対し、由比ヶ浜は即時反論の構えを見せる。

 

「だってお寺行って何すればいいかわかんないし……。歴史の重みとか言われても、あたしの体重のほうが気になるし……」

(……いや、そこは比較する変数がおかしいだろ、ガハマさん)

 

 八幡は、心の中で静かに突っ込みを入れつつ、マグカップに残った冷めかけの紅茶を啜った。

 

 確かに、由比ヶ浜の言い分も一理ある。

 神社仏閣という名の「静止した建築物」に興味を持たない個体にとって、それは単なる岩と木の構造物に過ぎない。大半の高校生にとって、寺や神社とは冠婚葬祭と初詣という「定期メンテナンス」以外では縁のない、極めてアクセスの低いディレクトリだ。

 清水寺の舞台で「へー、高いね」と感想を言い、金閣寺を見て「わー、光ってるね」と光学センサーの反応を口にする。それが一般的(リア充)な高校生の、最大公約数的な反応なのだ。

 

「……ま、観光名所なんてのは、その場所に行くこと自体が『目的』じゃなくて、誰と行って何を話したかという『ログ』を残すための背景に過ぎないからな。由比ヶ浜にとっては、京都の金閣寺も稲毛の浅間神社も、映えるか映えないかの解像度の違いでしかないわけだ」

「あ、それそれ! ヒッキー、今の説明すごくわかりやすい!」

 

 由比ヶ浜がポン、と手を叩いて喜ぶ。

 一方、雪ノ下は「……理解を深める努力を放棄したような、非常に比企谷くんらしい合理的な暴論ね」と、呆れたように八幡を射抜いた。

 しかし、その視線はどこか温かかった。

 

「……いや、まあ、そもそも京都自体は好きなんだよ、俺は」

 

 八幡がそう答えると、雪乃は手にしていたティーカップを止め、意外なものを見るように目を丸くした。

 

「意外ね……。伝統や格式といった、既存のシステムをゴミのように扱うのがあなただと思っていたのだけれど」

「失礼だな。日本史と国語が好きな私立文系にとっちゃ、あそこはある種の聖地(メインサーバー)だからな」

 

 八幡の電子頭脳(ブレイン)は、脳内のアーカイブから京都にまつわる膨大なデータを出力する。

 歴史小説の巨星・司馬遼太郎の足跡から、近年の一般文芸、特に『四畳半神話体系』のような、腐れ大学生たちが不毛なループを繰り返す鴨川デルタの情景。そういった情報の集積回路(ネットワーク)に触れていれば、京都という街に対して純粋な演算興味……いや、憧憬に近いものが湧いてくるのは自明の理だった。

 

「あなたが私立文系志望だったことを、すっかり忘れていたわ」

 

 雪ノ下が呆れたように言うと、由比ヶ浜も「あー、あたしも!」と調子を合わせた。

 

「まあ、自分の行きたいとこに行けないのが修学旅行ってもんだろ。そのうち一人で行くさ」

「一人旅って、なんか寂しくないかな……」

 

 由比ヶ浜がぽつりと、心細そうに呟いた。

 彼女にとっての「旅行」とは、誰かと感情を同期し、その場の温度を共有することにある。

 だが、人に合わせるための余計なプロトコルを必要としない「一人旅」は、八幡や雪ノ下のような個体にとっては極めて効率的で、解像度の高い体験となるのだ。

 

「そうでもないでしょう。ああいう場所こそ、一人で行ったほうがじっくり回れるし、楽しいと思うけれど」

 

 雪ノ下がふむと頷き、八幡に同調する。

 

「そうそう。なにより雰囲気に浸れるからな。修学旅行のうるせえ高校生集団と一緒に龍安寺(りょうあんじ)の石庭とか見たら、ノイズが多すぎて発狂する。うっかり庭石を拾い上げて、そいつの頭かち割っちゃうかもしれないし」

「……さすがにそれはしないけれど。世界遺産なのだし」

 

 雪ノ下にものすごい引き方をされた。

 だが、その拒絶の理由が「殺人はいけない」というヒューマニズムではなく、「世界遺産を損壊してはいけない」というアカデミズムに寄っているのが、実に彼女らしい。

 

(この女、俺の倫理回路より先にユネスコのガイドラインを気にしてやがる)

「ヒッキー、目が怖い……。絶対一人で行かせちゃダメなやつだ、これ……」

 

 由比ヶ浜が引き攣った笑顔でお菓子の袋を握りしめる。

 

 「お前らは? どっか行きたいとことかしたいこととかあんの?」

 

 マグカップを置き、二人に問いかけた。俺の脳内プロセッサは既に京都の観光地データをインデックス化しているが、他の二人が何を求めているのかは、アルゴリズムだけでは予測しきれない変数だった。

 

「あたしはまだ全然調べてないからなぁ……。あ、でも清水寺は見てみたいかも。有名だし!」

「ミーハー丸出しだな……」

 

 由比ヶ浜らしい、清々しいほど直球な回答に思わず漏らすと、彼女はぷくっと頬を膨らませてむくれた。

 

「いいでしょ、別に。あと京都タワーとか!」

「千葉にも似たようなもんあるだろ。わざわざ京都まで行って見なくても」

「それ、絶対ポートタワーのことでしょ! 名前は似てるけど、全然違うよ!」

 

 由比ヶ浜の反論に、俺の郷土愛プログラムが微かに反応する。名前しか似ていないが、俺は嫌いじゃないぞ、千葉ポートタワー。花火大会の日からは足が遠のいているが、あの無機質なガラス張りのフォルムは、どこか俺の「中身」に通ずる親近感がある。

 そんな俺のささやかなセンチメンタリズムに、雪乃が冷静なパッチを当てる。

 

「ポートタワーというと、神戸のほうが有名だけれどね」

「いいんだよ、千葉ポートタワーのほうが高いんだから」

「……何がいいのか、まったく理解できないのだけれど」

 

 雪乃が頭痛を抑えるように、白く細い指でこめかみをそっと押さえた。物理的な高度に固執する俺のロジックが、彼女にはひどく非効率に映ったらしい。

 

「で、雪ノ下。お前は?」

 

 問いかけると、雪乃は少し間を置いて、思索に沈む。

 

「私は……、さっきあなたが言っていた龍安寺の石庭や、由比ヶ浜さんの言う清水寺もそうだけれど……。鹿苑寺(ろくおんじ)、慈照寺(じしょうじ)あたりの有名どころは押さえておきたいところね」

 

 耳慣れない正式名称の連続に、由比ヶ浜が目をぱちくりと瞬かせた。

 

「ろくおんじしょうじ……?」

「混ぜるなよ。なんかちょっとかっこいい格闘ゲームのキャラ名みたいになっちゃったじゃねえか」

 

 ろくおんじしようじ。鹿苑寺照司。

 脳内レンダリングでは、筋骨隆々のパワー系僧侶が、袈裟を脱ぎ捨てて金閣を背に戦うイメージが構築されていた。

 

「一般的には、金閣、銀閣という呼び名のほうが通りはいいかしら」

「そ、そう言ってくれればいいのに! あ、でも金閣寺は行くよ。優美子が見たがってたから」

 

 由比ヶ浜が納得したように頷く。

 ふと見ると、雪乃はぷいっと不機嫌そうに顔を逸らし、手元にあった雑誌に手を伸ばした。

 

(……待て、あの雑誌)

 

 光学センサーが、その表紙のロゴを鮮明に捉えた。

 まさに『じゃらん』。

 

 いつもなら小難しい哲学書や文庫本を広げている彼女が、修学旅行のガイドブックを熱心に読み耽っていたという事実。普段の凛とした姿からは想像もつかない、その無邪気な「予習」の痕跡。

 思わずこぼれそうになる笑いを噛み殺そうと、八幡はそっと顔を背けた。すると、ちょうど同じような表情をした由比ヶ浜と視線が合う。

 お互いに「あ、こいつ気づいてるな」という同期が完了した瞬間、可笑しさが臨界点(クリティカル)を突破し、八幡は軽く吹き出してしまった。

 

「…………何か?」

 

 雪ノ下が、ページを捲る手を止めて絶対零度の視線を突き立ててきた。

 

「な、なんでもない! なんでもないってば、ゆきのん!」

 

 由比ヶ浜が慌てた様子でぶんぶん手を振って誤魔化そうとする。だが、その程度で有耶無耶になるはずもなく、雪乃は頬を微かに朱に染めたまま、冷徹な眼差しで八幡たちを睨み続けた。

 

「あ、あははは……。あ、そうだ。ゆきのんさ、三日目、一緒に回ろうよ」

 

 雪乃に睨まれ、情けない顔で笑っていた由比ヶ浜結衣だったが、唐突に思いついた名案を口にした。その瞳は、先ほどまでの困惑を拭い去り、期待にキラキラと輝いている。

 雪乃は意外そうに小首を傾げた。

 

「一緒に……?」

「そう、一緒に!」

 

 由比ヶ浜は前のめりになり、椅子を引く音を立てて雪乃に詰め寄る。その明るい笑顔は、部室の絶対零度を少しずつ溶かしていく熱量を持っていた。しかし、雪乃は慎重だった。彼女の論理回路……もとい、思考のプロセスが、現実に即した懸念を導き出す。

 

「けれど……」

「雪ノ下はクラスが違うだろ」

 

 雪乃の言葉の先を予測したかのように、八幡が先んじて指摘した。

 エイトマンとしての八幡の演算によれば、修学旅行における「クラス別行動」の原則は、生徒の管理において最も優先されるべきプロトコルだ。越境は混乱を招く。

 だが、由比ヶ浜はそんな論理をこともなげに撥ね退けた。

 

「うん。でも、三日目は自由行動だからさ、連絡取って京都で遊ぼう!」

「……そこまで自由にしていいのかしら。規律という観点からすれば、些か危うい解釈ね」

「え? 別にいいんじゃないの? わかんないけど!」

 

 由比ヶ浜の「わかんないけど」という魔法の言葉に、雪乃は呆れたように息をつく。しかし、その表情は決して拒絶ではなかった。

 

「もちろん、予定が合えばでいいんだけどさ。……どうかな?」

 

 由比ヶ浜の問いに、雪乃はわずかに視線を泳がせた。

 孤独を矜持としてきた彼女にとって、学校行事で誰かと約束を取り付けるという行為は、極めてイレギュラーなプログラムだ。だが、彼女は静かに、けれど確かな意志を込めて答えた。

 

「……私は、構わないけれど」

「よしっ! 決まり!」

 

 雪乃がそっと顔を背けて照れ隠しをする横で、由比ヶ浜は「にっこり」という効果音が聞こえてきそうな笑顔を浮かべ、椅子を雪乃の方へと寄せた。

 仲良きことは美しきことかな――。

 八幡はマグカップに残った冷めた紅茶を啜りながら、その光景を眺めていた。クラスという枠組みを超えた絆。それは、比企谷八幡がかつて「まちがっている」と切り捨ててきたはずの、眩しすぎる青春の断片だった。

 しかし、平和な観測は長くは続かない。

 

「ヒッキーもさ、どっか一緒に回ろうね!」

「ん、あ……」

 

 由比ヶ浜の大きな瞳から放たれた視線が、一瞬のラグもなく八幡を捉えた。

 予想外の角度から飛んできた超至近距離の弾道に、八幡の思考停止……もとい、高度なフリーズ状態が発生する。

 

 視界の端で、雪乃が黙って八幡の顔を見つめていた。

 

 それは、単なる観察ではない。

 彼女の瞳の奥には、彼が次に何を言うのか、あるいは言い出すのを待っているような、言語化できない重い沈黙が横たわっている。

 鋼鉄の心臓を持つはずの八幡だったが、この時ばかりは、原子炉の出力が不規則に変動するのを感じていた。

 由比ヶ浜から投げかけられた「三日目の合流」という提案。

 比企谷八幡の超電子頭脳(ブレイン)は、その問いに対する最適解を検索する過程で、既にアーカイブ済みである「あの日の真実」を改めてロードしていた。

 

 文化祭。

 

 雪ノ下雪乃が心血を注ぎ、八幡が物理的な実行力を捧げて構築した、あのアクアリウム。

 彼女がなぜ、あそこまで「全自動による最適化」に固執したのか。その理由は、既に由比ヶ浜によって無邪気に暴かれ、部室の空気の一部として定着している。

 システムに全ての運営を任せ、自分たちが「役割」という重力から解放される時間を作り出すこと。それが、あの完璧な設計図の裏に隠された、あまりにも人間臭い動機(アルゴリズム)だった。

 

 けれど現実は、サイバーの叛逆という最悪のバグによって、そのささやかな願いを粉々に打ち砕いた。自分たちは世界を救ったが、あいつが本当に欲しかった「幸せ」を救うことには失敗したのだ。

 

(……分かっているさ。あいつが、何をやり残したのかくらいはな)

 

 八幡は、目の前で黙って自分の返答を待っている雪乃を見た。

 もし彼女が、あの文化祭で果たせなかった「純粋に楽しむ」というプログラムを、この修学旅行というフィールドで再起動(リブート)させようとしているのだとしたら。

 

「──別に、俺が断る理由もないしな」

 

 八幡は、手に持ったマグカップの縁を見つめ、わざとらしく視線を逸らしながら言葉を継いだ。

 

「三日目、予定が合うなら合流してもいい。……戸塚も一緒に回るって言ってるし、あいつが良ければ、別に……みんなで回るのも非効率じゃねーだろ」

 

 戸塚という名の「天使(バッファ)」を介入させることで、どうにかこの場に漂い始めた甘酸っぱい熱量を冷却しようとする。だが、八幡の指先から漏れる微弱な熱パルスは、彼自身が抱く「あの日のやり直し」への期待を隠しきれていなかった。

 

「……そう。そうね。戸塚くんも一緒なら、より円滑なグループ運営が期待できるわ」

 

 雪乃の声が、明らかに弾んだ。

 先ほどまでの凍てつくような絶対零度はどこへやら、彼女のバイタルデータは「安堵」を通り越し、微かな「高揚」を刻み始めていた。

 

「やったぁ! じゃあ、修学旅行のしおりに書いておかなきゃ! 三日目の午後はみんなで京都探索、って!」

 

 由比ヶ浜が嬉しそうに携帯を取り出し、予定を書き込み始める。

 

 壊されたアクアリウム。

 あの時、手に入らなかった「本物の時間」。

 

 鋼鉄の身体に宿った八幡の自意識は、今度こそ正しい「最適解」を現実に投射するために、京都という未知の座標へ向けて演算を開始した。

 

「……ま、せいぜい疲れねー程度のルート、組んどいてくれよ」

「ええ、任せてちょうだい。……あなたのその腐った目が、京都の美しさに耐えきれずに焼き切れないよう、十全に配慮したスケジュールを用意するわ」

 

 いつもの毒舌。けれど、そこには確かな温度が宿っていた。

 

 比企谷八幡の二学期、そして修学旅行。

 鋼鉄の心臓が奏でる不規則なビートは、古都へのカウントダウンと共に、静かにその回転数を上げていった。

 

 




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