——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第三十七話:静寂の地、京都へ

 

 奉仕部での騒がしくも温かな時間を終え、帰宅した八幡は、明日から始まる京都修学旅行の準備に取り掛かっていた。

 といっても、持っていくものなど着替えくらいしかない。

 

「え、修学旅行って他に必要なものあったっけ……?」

 

 脳内のデータベースを検索してみても、過去の「遠足」や「林間学校」のログには、ろくな思い出が残っていない。考えても思いつかないので、とりあえずタンスの前をウロウロして、適当な衣類を引っ張り出した。パンツと靴下は多めに準備しておけば、不測の事態……例えば、ナノマシンの異常増殖や局所的な冷却漏れが起きた際にも、多い日も安心だ。

 あとは洗面用具をひっつかむ。こういうアメニティは宿にあるのか不明だが、一応持って行くことにした。

 以上で終了。俺の荷造りは、カバン一つで事足りる。

 

(……ふ、まるで旅慣れているみたいでかっこいいじゃないか、俺)

 

 かつて『銀河鉄道999』のメーテルも言っていた。

『旅のプロは鞄一つで済ますものよ』

 

 ぼっちにとって、身軽さこそが生存戦略における完璧な采配だと言わざるを得ない。

 あとは明日の朝が早いので、早めに寝ておくだけだ。集合場所は東京駅。そこから新幹線で一気に京都まで向かう。

 遅れようものなら、クラスの連中からは置いていかれてしまうだろう。まあ、新幹線くらいは一人でも乗れるし、携帯で連絡を取ることもできる。追加の特急券代は家計(と小町への言い訳)に痛いが。

 

(……それに、最悪エイトマンになってマッハ2.4で走れば、京都なんぞ一瞬で着くしな)

 

 そんな物騒な「バックアッププラン」を脳内の隅に追いやり、八幡は神……いや、京都だから仏の方がいいか、目に見えない上位存在に祈りを捧げた。

 

『旅行中の安全無事、厄介ごとのありませんように』

 

 ここ数ヶ月、何かしらのイベントがあるたびに、決まって世界を揺るがすような事件が勃発してきた。

 ドクトル・デーモンの陰謀に巻き込まれ、ハウンド部隊に噛まれ、超人サイバーと死闘を繰り広げ……時に死にかけ、腕を吹き飛ばされた。八幡の身体はもはや、平穏な学生生活よりも、戦場での損耗率の方が高い。危険な目のオンパレードだった。

 

「――せめて、この修学旅行くらいは、平穏無事に楽しませてください」

 

 プシュッ、とマックスコーヒーのタブを引き抜きながら、八幡は切実に願った。

 鋼鉄の身体に流れる冷却水(コーヒー)が、少しだけ熱を帯びた原子炉(リアクター)を鎮めていく。

 

 

 ──

 

 

 八幡が自室でカバン一つという「旅のプロ」仕様の荷造りを終えた頃、廊下から小走りの足音が響いてきた。ててててっ、という擬音が聞こえてきそうな軽快なリズム。狭い家の中で走るなと口に出そうとした瞬間に、ドアが勢いよく開く。

 

「お兄ちゃん、忘れ物!」

 

 小町が差し出したのは、ストラップのついた精密機械――デジタルカメラだった。レンズがぶらんぶらんと揺れる様を見て、八幡は顔を背ける。

 

「……カメラなんかいらん。使う機会がないしな」

 

 風景ならプロが撮った高解像度の画像がネットにいくらでも転がっている。何より、八幡の網膜には最新鋭の光学センサーが内蔵されており、瞬き一つで4K画質の静止画も動画もローカルストレージに保存可能だ。わざわざ外付けのデバイスを持ち歩く必要など、システム的には皆無だった。

 そんな兄の「高機能すぎる拒絶」を知る由もない小町は、八幡の右脇腹をぷにぷにと指で突きつつ、首を傾げた。

 

「でもさー、それだとお兄ちゃんは何を持ってくの? 一人なんだし、移動中の暇つぶしアイテムがないと大変だよ?」

 

 気遣いは嬉しいのだが、妹は少々お兄ちゃんを舐めすぎではないだろうか。

 

「最近は電子書籍もあるからな。そんなに困らん」

 

 電子書籍どころか、脳内のマルチタスクを全開にすれば、ネットサーフィンから過去の対戦ログの解析まで、暇とは無縁の時間を過ごせる。エイトマンの能力の中で、この「超高度な暇つぶし」こそが八幡の最も気に入っている機能の一つだった。

 再び無言になる八幡を見て、小町は何事か思いついたようにポンと手を打った。

 

「忘れるとこだった。はい、これ」

 

 渡されたのは、白い紙切れだった。女子特有の凝った折り方――菱形だかやっこ形だかに折られ、授業中にこっそり回されるあの形式だ。八幡の記憶回路が、その折り方に関連付けられた中学時代のトラウマを呼び起こす。「実は文中に自分の悪口が書かれていて、それを知らずに運搬させられ、教室の後ろでクスクス笑われる」という最悪のシナリオ。

 だが、さすがに実の妹がそんなデバッグ作業のような真似をするはずもなかった。

 紙を開いてみると、そこにはピンクと黄色で書かれた丸文字が、縦横無尽どころか『獣王会心撃』のごとき勢いで並んでいた。

 

小町おすすめ! おみやげリスト!

第三位! 生八つ橋(元祖でも本家でも本舗でも総本店でもなんでもいいです)

第二位! よーじやのあぶらとり紙(ママンの分もよろしくです)

第一位! 発表はCMのあとで!

 

「……第一位は何なんだよ」

「一番のお土産は、お兄ちゃんの素敵な思い出話だよ!」

 

 妹に気を使われている。それも、相当なレベルで。

 八幡の電子頭脳が「妹の優しさ」というパケットを受信し、処理落ちしそうになる。小町は「にっこにっこにー」とあざとく笑い、続けた。

 

「なんか京都ってさ、縁結びの神社とかたくさんあるらしいし。結んでくるといいよ、いろいろと!」

「お前は余計な心配しとらんと勉強しとけ」

「はーい。ではでは、雪乃さんや結衣さんによろしくねー」

「あいよ」

 

 小町が部屋を出ていった後、八幡は手渡されたリストをもう一度眺めた。

 回らねばならない場所が増えてしまった。生八つ橋とあぶらとり紙は駅の売店という「最適解」で済むだろうが。

 

(……縁結び、ね。そんな不確定な概念を神頼みする気はないが)

 

 八幡はカレンダーの「入試」の文字に視線を移した。

 エイトマンの力をもってしても、妹の成績を直接書き換えることはできない。

 ならば、自分が京都でやるべきことは決まっている。

 

「……学業の神様のところも、一応インデックスに入れておくか」

 

 北野天満宮。

 鋼鉄の身体に宿ったささやかな「兄心」が、修学旅行の予定表に一つの座標を追加した。マックスコーヒーの空き缶をゴミ箱に投げ入れ、八幡は明日へのカウントダウンを開始した。

 

 

──

 

 

 修学旅行初日の朝。比企谷八幡は、カバン一つという軽装で自宅を出た。

 空は高く、晩秋の冷気が心地よく鋼鉄の皮膚を撫でる。自宅の最寄り駅から各駅停車に揺られ、津田沼駅で総武線快速に乗り換える。これが東京駅への最短ルートであり、多くの総武高生が辿る「登校」の延長線上にある道だ。

 混み合う車内、ドア付近に陣取った八幡の視界に、ふと見覚えのある色彩が飛び込んできた。

 

 鋭く、けれどどこか澄んだ青い瞳。川崎沙希だった。

 そういえば、川崎とは家が近かったな――。

 そんな記憶の断片をロードした瞬間、視線がぶつかった。

 

「……おはよ」

「……おう」

 

 川崎がぶっきらぼうに挨拶を投げてきた。

 まさか向こうから声をかけてくるとは想定していなかったため、八幡の返答プロトコルは微かな遅延(ラグ)を起こし、ぎこちないものになった。

 川崎は一瞬、チラリとこちらを伺うように見たが、再び視線が合うと、弾かれたように顔を逸らした。それきり、会話は途絶えた。

 

 深い沈黙。

 

 ガタンゴトンと刻まれるレールの律動だけが、二人の間に流れる。

 八幡は、隣に立つ少女との「距離」を測りかねていた。

 彼女はこれまでに三度、決定的な危機を『エイトマン』に救われている。九十九里の砂浜での一件、文化祭での『Cyber』による汚染、そしてあの夜、バイトの帰りにドクトル・デーモンの配下に襲われた絶体絶命の瞬間。彼女はその鋼鉄の身体に触れ、その瞳を間近で見た、ある種「特別」な目撃者だ。

 

 川崎は八幡の正体を知らない。……確信に繋がるようなデータも、疑うべき根拠も持っていない。

 ただ、三度にわたる救済の記憶は、彼女の無意識下に消えない残像を残していた。エイトマンの力強い腕に抱かれた時に感じた、あの不器用で真っ直ぐな意志の響き。それが、目の前で「死んだ魚のような目」をしてつり革を掴んでいる少年の纏う空気と、どこか重なるような気がしているだけだ。

 

「……似てる、か」

 

 川崎は窓ガラスに映る八幡の横顔を、情報の外側からそっと盗み見た。エイトマンへの熱を帯びた信頼と、ただのクラスメイトである比企谷八幡への認識。その二つは彼女の中で明確に分離されているが、時折ふとした瞬間に訪れる「雰囲気の類似性」というノイズが、彼女の思考を僅かに惑わせる。

 

 そんな彼女の思考などつゆ知らずに、八幡は思索する。

 比企谷八幡と川崎沙希を繋ぐリソースの配分は極めて歪だ。

 八割は『エイトマン』として彼女の運命に介入した、誰にも言えない非日常の記憶。

 残りの二割は、小町と大志という妹弟を介した、世間話程度の薄い繋がり。

 

(……悪い奴じゃないのは分かってるんだがな)

 

 正体を隠し通さねばならない自分と、名前も知らないヒーローに似た「何か」を目の前の少年に感じ取っている彼女。その不均衡な関係が、この閉鎖的な車内に逃げ場のない気まずさを生んでいた。

 結局、その奇妙な沈黙は東京駅までの三十分間、一度も破られることはなかった。

 電車が地下ホームに滑り込み、ドアが開いた瞬間、川崎は「……じゃあ」とだけ残して、逃げるように人混みの中へと消えていった。

 

 

──

 

 

 東京駅。日本の中心を貫く巨大なターミナル駅のホームに降り立つと、人混みの中にちらほらと総武高校の制服を着た生徒たちが見え隠れしていた。

 やがて定刻。それまで緩やかな広がりを保っていた集団は、引率の教師たちの指示によって一気に圧縮され、ミリ単位の精度とはいかないまでも綺麗に整列させられる。

 クラス単位での点呼。入場。そして行進。

 エイトマンとしての高度な空間把握能力を、単なる「列を乱さないための歩行」に浪費しながら、八幡は周囲を索敵した。グループの最終確認が行われる中で、ようやく、その座標を特定する。

 

「八幡!」

 

 その声を聞いた瞬間、八幡の網膜ディスプレイに表示されていた各種ノイズが、一瞬にして消え去った。

 今度こそ本物。これこそが、いかなるナノマシンによる修復よりも強力な「癒やし」のパルス。

 

「おはよう、戸塚」

「うん、おはよ、八幡!」

 

 戸塚彩加と二言三言、挨拶がてらの会話を交わす。その清涼な存在感だけで、八幡の原子炉(リアクター)から排出されるストレスという名の汚染物質が、急速に中和されていくのがわかった。

 グループが揃って新幹線ホームに立つと、既に彼らが乗車予定の『のぞみ』は、その白く長い流線型の機体を滑り込ませていた。

 それぞれのクラスに割り当てられた車両へと乗り込む。

 指定された席に座りながら、八幡は柄にもなく、心の中でウキウキとした感情をシミュレートしていた。

 

 今回の修学旅行、グループ編成においては本来四人一組が原則だ。だが、この新幹線の座席割りにおいて、八幡は奇跡的な――いや、人為的な「最適化」を勝ち取っていた。

 

(……本当は四人編成のはずなのに、実質的に戸塚との二人きりだ)

 

 平塚先生に、それこそ土下座でもしかねない勢いで、グループ内の座席配置について「配慮」を頼み込んだのが正解だった。

 

『比企谷なら、まあ大丈夫か……』

 

 そう言って苦笑した静ちゃんが、かつての戦場での戦友のように頼もしく見えたものだ。思わず心の中でガッツポーズをしたのは、日頃の行いの良さ(と、エイトマンとしての多大なる貢献)ゆえだろう。

 新幹線が東京駅を滑り出し、静かに、けれど圧倒的なトルクで加速を始める。

 

「ほら、八幡! 新幹線って、やっぱり速いね!」

 

 子供のように目を輝かせ、窓の外を流れるビル群を見つめる戸塚。その横顔を照らす柔らかな光の粒子が、八幡の光学センサーを通して魂の深層にまで染み渡る。

 

「……ああ、そうだな。速いよ、すごく」

 

 エイトマンのスペックなら、この列車よりも速く走ることは可能だ。だが、時速三百キロで駆け抜ける鉄の箱の中で、隣に座る少年の体温と、その無邪気な感嘆の声を聞く時間は、いかなるマッハの領域でも得られない、至高の贅沢だった。

 

 魂が浄化されていく――。

 

 京都へ向かう銀色の風の中で、比企谷八幡は今日この瞬間のために自分がエイトマンとして戦ってきたのだと、本気で錯覚しそうになっていた。

 

 

──

 

 

 新幹線『のぞみ』は、相模湾を左手に捉えながら熱海を抜け、三島付近を猛烈な速度で通過していた。

 比企谷八幡の超電子頭脳(ブレイン)は、窓から差し込む太陽の入射角と気圧の変化から、あと数分で進行方向右手に富士山がその雄大な姿を現すであろうことをミリ秒単位で演算していた。

 

「八幡、もうすぐ富士山見えるかな」

 

 隣に座る戸塚彩加が、期待に胸を膨らませた少年の瞳で窓の外をじっと見つめている。

 

「ああ。あと三、四分ってところだろ。……今日は空気が澄んでるから、綺麗に見えるはずだ」

 

 八幡が短く答えると、戸塚は満足げに一度だけ頷き、それから視線を窓の外から八幡の横顔へと移した。

 

「……ねえ、八幡」

「ん、何だ?」

 

 八幡が聞き返すと、戸塚は少しだけ照れたように、けれど確かな慈しみを含んだ瞳で語り出した。

 

「最近、八幡……明るくなったね」

 

 その言葉は、八幡の演算回路にとって想定外の入力(インプット)だった。「明るい」という形容詞は、比企谷八幡という個体のディレクトリには存在しないはずの属性だ。

 

「僕が知ってる今までの八幡は、なんて言うか……いつもどこか思い詰めたような顔をしてた気がするんだ。誰にも悩みを打ち明けられない、一人でずっと苦しさを抱えてるような……そんな深刻な顔。それを見てるのが、少しだけ辛かったんだよ」

 

 八幡は言葉を失った。

 戸塚が指摘したのは、まさにエイトマンとしての宿命そのものだった。

 数々の死闘。そして自分の正体を隠し続け、一年前の「死」という名のバグを誰にも共有できない孤独。それらの膨大なストレスログは、無意識のうちに「比企谷八幡」という仮面の裏側に澱(おり)として溜まっていた。

 

「でもね、文化祭が終わったあたりからかな……。そういう澱みが、少しずつ薄くなった気がするんだ。前よりもずっと、雰囲気が柔らかくなったと思う」

 

 戸塚はそう言って、花が綻ぶような笑顔を見せた。

 

「それが、僕はすごく嬉しいんだ」

 

 八幡の心臓――超小型原子炉(リアクター)が、かつてないほど穏やかに、けれど力強く拍動した。

 確かに、文化祭での決戦を経て、雪ノ下や由比ヶ浜との絆を再定義したことで、彼のシステムは安定し始めていた。世界を救う義務感だけでなく、守るべき日常の温かさが、彼の鋼鉄の身体に「意味」を与え始めていた。

 けれど、戸塚は少しだけ寂しそうに眉を下げて、言葉を続けた。

 

「でも……ちょっとだけ、寂しいかな。八幡がそんなに苦しそうにしてたのに、僕は何も力になれなかったんだなって。……もし、また何かあったら、ちょっとは僕にも打ち明けてほしいな。八幡の力になりたいんだ」

 

 その純粋すぎる献身。その無垢な救済の意志。

 八幡の視覚センサーが、急激に上昇する「感情値」を検知した。

 

 涙腺という生物学的デバイスは、鋼鉄化の過程でその機能をほぼ失っている。ゆえに、頬を伝う雫がこぼれることはない。しかし、彼の電子頭脳は今、かつてないほどのオーバーフローを起こしていた。

 

(……そうか。俺は、こいつのこういう言葉に救われるために、あの地獄を生き延びたのか)

 

 感極まる、という言葉さえも生温い。

 八幡は溢れ出しそうになる言葉をどうにか喉の奥で咀嚼し、震える声で答えた。

 

「悪い。次は、ちゃんと言う。……たぶん」

「あはは、『たぶん』なんだね。でも、約束だよ?」

 

 戸塚が指を差し出す。八幡はその白い指先に、自分の無骨な、けれど今は限りなく優しい鋼鉄の指をそっと重ねた。

 

 その時、視界が急速に開けた。

 窓の外、秋の澄み切った青空を背景に、雪を冠した霊峰・富士が、圧倒的な質量感をもってその姿を現した。

 

「わあ……! 八幡、見て! 富士山だよ! すごい、本当に綺麗だね!」

 

 戸塚が歓声を上げる。その横顔を照らす白銀の輝きを見つめながら、八幡の原子炉は最高の安定(アイドリング)状態を維持していた。

 

「そうだな。最高に、綺麗だ」

 

 新幹線のモーター音が、今は祝福の旋律のように聞こえていた。

 

「あ、あたしも見たい!」

 

 その声と同時に、背後から重力加速度を無視した「重み」が八幡の背に預けられた。

 おぶさるような体勢。肩から背中にかけて、由比ヶ浜結衣の柔らかな腕の感触が添えられる。比企谷八幡の超電子頭脳(ブレイン)は、一瞬にしてその座標データを特定した。いつの間に、彼女は隣の……本来なら誰も座っていないはずの補助的なスペース、あるいは座席の隙間に身を乗り出していたのだろうか。

 

「――――っ!?」

 

 ぞわり、と鋼鉄の背筋を未知の寒気が走り抜けた。

 光学センサーが捉える情報の処理を忘れ、八幡の全システムは「不意の物理接触」という緊急事態(アラート)に占拠される。由比ヶ浜の動きに合わせて、控えめに、けれど確かな主張を持ってつけられた香水の香りが、鼻腔の化学センサーを優しく、そして暴力的に刺激した。

 

(ボディタッチ。これ、完全なルール違反だろ。審判がいたら一発退場レベルのファールだぞ……!)

 

 比企谷八幡という人間が持つ脆弱な対人プロトコルは、この至近距離での「桃色の近接信管」に対し、完全なフリーズを選択した。振り払うという選択肢は、相手が由比ヶ浜である以上、実行するための論理的根拠が見当たらない。かといって、このままの体勢を維持し続けるには、自身の原子炉(リアクター)が発生させる熱量が設計限界を超えようとしていた。

 

「………………」

 

 由比ヶ浜は、窓の外を流れる富士山の雄大な白銀の世界に見惚れているのか、しばらくの間、言葉を発しなかった。

 八幡のオーディオセンサーは、彼女の規則正しい、けれど少しだけ高揚を含んだ小さな息遣いだけを拾い上げる。首筋に触れる彼女の髪が、微かな静電気と共に、八幡の人工皮膚へ「人間」としての信号を送り続けていた。

 

(……熱い。冷却系、仕事しろ。……マックスコーヒー、誰かマックスコーヒーを俺の喉に流し込んでくれ……)

 

 天使(戸塚)の清廉な光と、少女(結衣)の甘い体温。

 

 二つの巨大なエネルギー源に挟まれた比企谷八幡の「鋼鉄の安寧」は、京都へ到着する前に、文字通りの溶融(メルトダウン)を迎えようとしていた。

 

「すごーい。ね、ヒッキー。……本当に、綺麗だね」

 

 耳元で囁かれたその言葉。

 それは、電子頭脳が解析するどんなデータよりも、比企谷八幡という少年の魂に深く、重く、そして甘やかなエラーを刻み込んでいった。

 

「あ、あたし、そろそろあっち戻るね!」

 

 ひとしきり富士山の絶景を堪能した後、由比ヶ浜結衣はパタパタと小走りで自分の車両へと戻っていった。その足取りの軽やかさとは対照的に、比企谷八幡の背中には、彼女が預けていた重みと、かすかな香水の残り香が「未解決のログ」として強烈に焼き付いていた。

 

(……あの女、本当に無自覚なのか。親しい相手に対して、あそこまで自然なボディタッチを繰り出すのは心臓に悪い。俺が鋼鉄の Reactor を持つ男でなければ、今頃一発で勘違いしてメルトダウンしているところだ。ある意味で、雪ノ下の正論よりも罪深いぞ、ガハマさんは……)

 

 そんな内面的なデバッグ作業に没頭していた八幡の耳に、か細い、けれど切実な振動が届いた。

 

「は、八幡、苦しい……」

「――――っ!?」

 

 その声に、八幡の光学センサーが急速に現実の座標を捉え直した。

 無意識のうちに、由比ヶ浜の接近に動揺した八幡の身体は、逃げ場を求めるようにして隣の戸塚彩加を窓側へと押し込む形になっていたのだ。

 至近距離。

 窓と八幡の鋼鉄の胸板に挟まれ、戸塚が顔を真っ赤にして上目遣いで彼を見上げていた。その瞳には微かな潤みがあり、開いた唇からは熱っぽい吐息が漏れている。

 

「わ、悪い……!」

 

 八幡は弾かれたように離れ、座席に深く座り直した。

 

「ごめん、八幡。……びっくりしちゃった」

 

 戸塚は乱れたシャツの襟元を整えながら、はにかむように笑った。

 八幡の電子頭脳は、その妙に扇情的な光景と、今しがた由比ヶ浜に背中を押された時に感じた「妙な温かさ」を正確にデータ化していた。

 

(……危ない。……危なすぎる。京都に着く前に、俺の精神防壁(アイギス)が原子レベルで崩壊するところだった)

 

 八幡は熱を持った首筋の排熱スリットを叩き、強制冷却を開始した。

 車内アナウンスが、まもなく名古屋に到着することを告げている。京都までは、あと一時間もかからない。

 

 窓の外、高速で流れる日本の風景。

 鋼鉄の身体に宿った、不確定で非効率な、けれど誰にも譲れないこの感情。

 比企谷八幡は、隣で再び楽しそうにしおりを眺め始めた「天使」の横顔を盗み見ながら、自分の中に蓄積された未知のエネルギーパルスを、静かにアーカイブへと保存した。

 

 京都、千年の都。

 そこは安らぎの地か、あるいは。

 新幹線が東海道を西へと切り裂くたび、鋼鉄の救世主の二学期は、かつてないほど「人間」の熱を帯びて加速していった。

 

 

 

 




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