——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
新幹線を降り、バスの揺れにジャイロスコープを同期させながら辿り着いたのは、古都の象徴・清水寺だった。
修学旅行における最大の拷問の一つ、「集合写真」という名の静止画記録フェーズをどうにか無表情で突破した八幡は、クラス単位での移動が始まるのを待っていた。拝観入り口は、他校の生徒や多国籍な観光客のバイオ信号で溢れかえり、八幡の電子頭脳(ブレイン)は処理優先順位を「背景処理」へと極限まで引き下げていた。
「ヒッキー」
不意に、横から柔らかな声のパルスが届いた。由比ヶ浜結衣だ。
「しばらく先に進まなそうだしさ。ちょっと面白いところ、行ってみない?」
いつもの自分なら「後でな」とスリープモードを継続しただろう。だが、今の八幡の論理回路には、アップデートされた「この旅行を楽しむ」というプロトコルが稼働していた。
「……ああ、行くか」
「やった! こっちこっち!」
由比ヶ浜が嬉しそうに八幡の袖を引く。その無邪気な牽引力に逆らうことなく、二人が辿り着いたのは「随求堂(ずいぐどう)」の地下――胎内巡りと呼ばれる場所だった。
「戸部っちと海老名さんは、もう先に入ったみたい。あ、優美子と隼人くんも!」
由比ヶ浜が指差す先では、三浦が「あーしら先行くねー」と葉山の腕を取り、階段の下へと消えていくところだった。戸部と海老名がいつの間に「同期」していたのかは不明だが、八幡のセンサーは戸部のバイタルが極度の緊張でスパイクしているのを捉えていた。
「じゃ、ヒッキー、あたしたちも行こっか」
「ああ」
百円という安価な通行料を払い、二人は階段を降りる。一段ごとに光学的データが減衰し、角を曲がった瞬間、世界から「色」と「形」が完全にパージ(排除)された。
(……スキャンを開始するか?)
八幡は網膜ディスプレイに表示された暗視モードの起動プロンプトを見つめた。だが、彼はコンマ数秒の逡巡の末、その命令を「拒絶(キャンセル)」した。
せっかくの、一切の不純物から切り離された暗黒だ。これを鋼鉄の機能で塗りつぶすのは、この場所の「設計思想」に反する。
数歩進むと、視界は完全なゼロとなった。
「やばい、暗い暗い暗い! 暗いやばい!」
先行する三浦のノイズまみれの悲鳴が遠くで反響する。
だが、八幡にとってこの空間は、むしろ「心地よい」ものだった。視覚という最大のリソースを消費するセンサーが沈黙したことで、他の全てのセンサーが研ぎ澄まされていく。
静寂。
自分と、隣を歩く少女の心拍音。
そして、壁に触れる数珠の冷たい感触。
「胎内」とはよく言ったものだ、と八幡は実感した。ここは外界のノイズから隔絶された、再起動(リブート)のための揺り籠なのだ。
その時。
――ふに。
八幡の左手に、温かい、けれどひどく震える感触が重なり合った。
(……由比ヶ浜?)
暗闇への恐怖ゆえか、彼女の手が八幡の「鋼鉄の掌」を求めて彷徨い、そこに定着したのだ。
「ひゃっ、……あ、ヒッキー……?」
由比ヶ浜が軽く驚いたような声を漏らす。彼女は暗闇の中で八幡の存在を確かめるように、そのまま八幡の背中や腕のあたりを、おずおずとさするようにして確認してきた。
「…………」
由比ヶ浜の指先が、八幡の腕にある「人工皮膚の下の硬度」に触れる。
エイトマンのハイマンガン・スチールの骨格。その冷徹なまでの硬質さを、彼女の掌はどう感じているのだろうか。
だが、由比ヶ浜は怯えることなく、むしろ安堵したように、さらに深く八幡の腕にその身を寄せた。
「……よかった。……ちゃんと、いる」
暗黒の胎内。
由比ヶ浜から伝わってくる、あまりにも脆く、けれど力強い生命の振動。
由比ヶ浜の手の温もりを、比企谷八幡は左腕の人工皮膚越しに、あるいは自身の原子炉(リアクター)へと直接流し込まれる未知のパルスとして受け止めていた。それを再起動(リブート)の合図代わりに、二人は再び闇の奥へと足を進め始める。八幡のブレザーにかかる彼女の腕の重みは、進んでいっても変わることなく、むしろより深い信頼を込めて預けられているようだった。
何度か直角に折れる道を曲がる。
視覚情報が完全に欠落した黒一色の世界に、突如として異質な輝きが飛び込んできた。
ぼうっと仄白く浮かび上がる淡い灯り。
どうやら、安置された「随求石(ずいぐいし)」がスポットライトのように照らし出されているらしい。その石の前まで辿り着いて、ようやく八幡は隣を歩く由比ヶ浜の輪郭を視覚的に捕捉することができた。
「ここで、石を回しながらお願い事するんだって」
由比ヶ浜が囁く。暗闇に馴化していた八幡の光学センサーは、彼女の瞳が期待に揺れているのを高解像度で捉えた。
「ふーん……。願い事、か」
八幡は脳内のアーカイブを検索した。
無病息災、家内安全、世界平和、平穏無事。
それらはもはや形骸化した言葉ではなく、喉から手が出るほど欲しいシステム要件そのものだった。
とにかく、この修学旅行という名のタスクが、余計な戦闘ログを生成することなく無事に終了すること。
「お願い事、決まった?」
闇の中の無駄な思索を、由比ヶ浜の柔らかな声が打ち消した。
「あぁ」
短く答えたものの、論理回路はまだ微調整を求めていた。……とりあえず、小町の受験合格もインデックスに追加しておくか。
「よし、じゃあ一緒に回そう」
中華料理店の円卓よろしく、ヌルリとした手応えで回転する石を、由比ヶ浜と共に回す。由比ヶ浜は眉間に微かなしわを寄せ、祈りを捧げるというプロセスのために全リソースを割いているかのように、えらい真剣な表情をしていた。
普段のアホみたいに騒がしいバイオ信号が鳴りを潜め、純粋な意志のみが彼女を形作っている。その横顔は、鋼鉄の身体を持つ八幡にとっても、ひどく新鮮で、かつ神聖なものに映った。
回し終えると、由比ヶ浜はパンパン、と手を二回叩いた。
それは神社を参拝する際の作法だが、八幡のデータベースによればここ清水寺は仏教施設だ。……まあ、彼女の善意に満ちた祈りに、宗派のプロトコル違いを指摘するほど、八幡の演算回路は無粋ではない。
「よし、行こう!」
何故かやる気に満ちた表情の由比ヶ浜に、背中を押されるようにして再び闇の中へと戻っていく。
だが、この随求石は構成上のクライマックスに設定されているのだろう。
しばらく歩くと、カーブの先にぼんやりとした出口の光が見え始めた。
出口へと続く階段を一段ずつ上るにつれ、遮断されていた外部の光学的データが段階的に八幡の網膜ディスプレイへと復元されていった。
完全に地上へと戻り、秋の柔らかな陽光を浴びた瞬間、八幡はまず自身の内部クロックを確認した。
(……五分、か。五分にも満たない短時間だったな)
客観的な時間は極めて短かった。だが、視覚センサーという最大の演算リソースを一時的にスリープさせ、一切の不純物から切り離されたあの完全な闇の中で過ごした時間は、八幡にとって主観的には一時間にも、あるいはそれ以上の深い沈潜に感じられた。
彼は気づく。
あの闇の中で行っていたのは、単なる歩行ではない。自身の各センサー、原子炉(リアクター)の出力、ナノマシンの再構成状況……それら物理的・電子的な全システムと真っ向から対峙する行為。それは仏教的に言えば「禅」、あるいは自分という存在を再定義する「禅定(ぜんじょう)」のようなプロセスだった。
(……鋼の禅、ね。悪くない。京都のありがたいご利益を、初手で受けちまったわけだ)
八幡の電子頭脳は、自身の精神状態が以前よりもわずかに「最適化」され、凪いだ湖面のような安定を得たことを記録していた。それゆえか、死んだ魚の目の奥には、本人にしか分からない程度の微かな浮ついた気配が漂っていた。
「あ、ヒッキー! ぼーっとしてないで! 列、進んじゃってるよ!」
由比ヶ浜結衣の声が、禅の静寂を賑やかに塗り替える。彼女は先ほどまで八幡の腕を掴んでいた名残を感じさせないほど、いつもの快活な動きで前方の列を指差していた。
どうやら彼らが暗闇に潜っていた数分間に、拝観待ちの行列は大きく動き出していたらしい。
「ああ、分かってる」
八幡は由比ヶ浜に促されるまま、観光客でごった返す清水寺の団体入場口へと向かった。
視界には、朱塗りの仁王門と、その背後に控える雄大な本堂のシルエットが、高解像度のデータとして投影されている。
鋼鉄の心臓を持つ救世主にとって、ここから先は「観光」という名の新たなタスクの始まりだ。
禅定を経て研ぎ澄まされたセンサーを携え、八幡は賑やかな修学旅行の雑踏の中へと、一歩、足を踏み出した。
──
清水の舞台から見下ろす京都の街並みを光学センサーに焼き付けたあと、八幡はふらふらと人の流れに乗って「音羽の滝」付近までやってきた。
目の前に広がるのは、最後尾がどこかも判然としない長蛇の列だ。
(……なんだこれ。ネズミの国の人気アトラクション待ちかよ)
そんな非効率な行列を冷めた目で眺めていると、後頭部に「ズビシッ」と鋭い衝撃が走った。
振り返ると、そこには涙目で自分の右手を抑え、悶絶している由比ヶ浜結衣がいた。
「いたたた〜……っ」
「……気をつけろよ。俺の石頭は、そこら辺の親方のゲンコツより硬いんだからな」
自嘲気味にそう告げる。エイトマンの骨格は、最新のハイマンガン・スチール製だ。生身の女子高生が不用意に叩けば、物理法則に従ってその衝撃はすべて彼女の拳へと跳ね返る。
「ヒッキー、頭硬すぎ! ていうか、あたしを置いて勝手に先行くなし!」
ぷんすかと怒る由比ヶ浜だったが、すぐに視線を先にある三本の滝へと向けた。
「えっとね、ここ、学業・恋愛・長寿にご利益があるらしいよ」
学業、恋愛、長寿。
そのどれもが、比企谷八幡という存在とは相容れない概念のように思えた。学業は地力でどうにかなるし、恋愛はシステムに組み込まれていないバグ、長寿に至っては、鋼鉄の身体に「寿命」という定義が当てはまるのかすら不明だ。
ぼんやりとそんなことを考えていると、視界の端に異常な熱源反応を捉えた。
……平塚静。なぜか彼女は「大五郎」の巨大な空ボトルを片手に、真剣な面持ちで列に並んでいた。
(……あの人は、何をあんな業務用サイズで持ち帰ろうとしているんだ。突っ込んだら負けな気がするな)
「やっぱ、みんな恋愛目当てかなぁ……」
由比ヶ浜が、どこか気恥ずかしそうに、探るような視線を向けてくる。そんなことを聞かれても、エイトマンの推論エンジンに「乙女心」というライブラリは用意されていない。
やがて順番が回ってきた。由比ヶ浜は迷うことなく「恋愛成就」の水を柄杓に受ける。
目を瞑り、その白い喉をこくこくと鳴らして、名水を飲み干した。
「あ、すごい。美味しい……!」
感動した様子で、彼女はそのままの勢いで八幡に向き直り、自分が使ったばかりの柄杓を差し出してきた。
「はい、ヒッキーも!」
「…………」
まただ。
この由比ヶ浜結衣という個体は、計算高いのか、それとも極限まで天然なのか。
間接的な接触――いわゆる「間接キス」という事象に対し、八幡の論理回路は緊急回避行動を演算する。女子という生命体は、いつだって計算とノリの境界線上を、マッハの速度で往復している。
八幡は、カバンから例の「奉仕部で愛用している黒と赤のマグカップ」を取り出し、それを由比ヶ浜に見せた。
「……あ」
由比ヶ浜は一瞬、八幡が柄杓を受け取らずに自分のカップを使おうとしている意図を理解したのか、耳まで真っ赤にして視線を逸らした。
「……別に、気にしなくていいのに」
(……いや、気にしない方が無理だろ。俺の理性がショートするわ)
八幡は心の中で毒づきながら、柄杓からマグカップへと霊水を注いだ。
一口。冷たい水が喉を通り、過熱し始めていた原子炉(リアクター)を静かに冷却していく。
そういえば、ここは「恋愛成就」の水だったな。
マグカップの底に残った水滴を見つめながら、八幡は不意に雪ノ下雪乃の顔を思い浮かべていた。……いや、否定はできない。エイトマンとしての冷徹な演算結果を待つまでもなく、自分の意識が彼女という特異点に強く引き寄せられていることは明白だった。
(……どうせなら、もう少し願掛けをしてから飲むべきだったか)
今更ながらそんな後悔が脳内を掠めた、その時。
「あ、ゆきのんだ」
由比ヶ浜の声に、八幡の光学センサーが弾かれたように隣の列へと向けられた。
そこには、恋愛の水の隣――「学業成就」の滝の前に立つ、雪ノ下雪乃の姿があった。
彼女は周囲の喧騒を一切寄せ付けない静謐な空気を纏い、粛々と柄杓の水を口に含んでいた。
八幡の網膜ディスプレイには、彼女の所作がスローモーションのように、そして残酷なほどの高解像度で描写される。
透き通るような白磁の喉。それが水を飲み下す際に描く滑らかな曲線。
八幡は、自分が水を飲んでいたことさえ忘れ、そのあまりにも鮮烈な美しさに見惚れてしまった。
(……なぜ、彼女はいつもそうだ)
ただの給水という日常的なアクション。それが彼女というフィルターを通すだけで、なぜこれほどまでに自分の情動回路を揺さぶるのか。名水による物理的な冷却がなければ、彼の原子炉(リアクター)は再び深刻な機能不全に陥っていたに違いない。
「むー……ヒッキー、またゆきのんに見惚れてるし」
由比ヶ浜の、どこか拗ねたような、けれど全てを見透かしたようなパルスが届き、八幡は慌てて現実に再起動(リブート)した。
視線の先で、水を飲み終えた雪ノ下もこちらに気づいたようだった。彼女は少し不思議そうな、けれどどこか柔らかい眼差しを八幡に向けると――。
ほんの僅かに、悪戯っぽく微笑んだ。
(…………っ)
その一瞬のノイズが、八幡の全システムを真っ白に塗り替える。
そうだ。明日は自由行動。
この古都の空の下で、彼女と一緒に、そして由比ヶ浜や戸塚と共に、京都を見て回るのだ。
これまで「強制連行」でしかなかった修学旅行という行事が、今、比企谷八幡の記憶ストレージの中で、見たこともないような淡く鮮やかな色彩に染まり始めていた。
──
京都の夜。ホテルの自販機コーナーを確認した比企谷八幡は、予想通り「マックスコーヒー」という名の聖遺物がラインナップに含まれていないことを確認した。
だが、今の彼はかつての彼ではない。
(……フッ、比企谷八幡が同じ失敗を二度繰り返すとでも思ったか)
かつての千葉村でのキャンプ。予備のマックスコーヒーが底をつき、糖分とカフェインの欠乏によって戦闘不能状態を起こしかけたあの屈辱。八幡はその痛恨のログを教訓に、今回の修学旅行では完璧な兵站(ロジスティクス)を構築していた。
カバンの容量の実に八割。そこに詰め込まれたのは、大量の缶とボトルのマックスコーヒーだ。もはや衣類や洗面用具は「隙間に詰め込む緩衝材」程度の扱いでしかない。この過剰なまでの備蓄があれば、いかなるアクシデントによって京都が孤立したとしても、八幡の原子炉(リアクター)は数日間はフル稼働を維持できる。
ロビー横のソファに腰掛け、プルタブを引く。
ガツンと脳を揺さぶる、暴力的なまでの甘さ。これこそが、鋼鉄の身体を正常に駆動させるための最適解だ。
「……はぁ。やっぱり、これだな」
一息つきながら、ぼんやりとロビーの一角を眺める。
そこにあるお土産コーナーに、見覚えのあるバイオ信号が一つ。
(……雪ノ下?)
湯上がりなのだろう。いつもは丁寧に整えられている黒髪が、今はアップにまとめられ、うなじの白さが薄暗いロビーに仄白く浮かび上がっていた。服装も、学校では見ることのできないラフな部屋着。そのギャップが、八幡の光学センサーに「未知のデータ」として鮮烈に記録される。
雪乃は、一つの棚の前で足を止めていた。
そこにあったのは、京都限定の「ご当地パンさん」のぬいぐるみ。
彼女は口元に手をやり、数秒間の深刻なデバッグ作業を行うかのようにじーっとそれを見つめていた。意を決したように手を伸ばしかけ――。
ふと、彼女が周囲の気配を索敵するように視線を動かした。
八幡の「死んだ魚の目」と、雪乃の「戸惑いに揺れる瞳」が正面から衝突する。
雪乃の動きが、物理法則を無視したかのようにピタリと凍りついた。
彼女はほんの数秒間、彫刻のように固まっていたが、すぐに何事もなかったかのように表情を「零度」に戻し、そのまま素知らぬ顔で来た道を戻ろうとした。
「買わないのか、それ」
いつのまにか、八幡は棚のすぐ近くまで移動していた。
エイトマンの消音歩行(サイレントウォーク)は、彼女に回避の隙を与えなかった。
呼び止められた雪乃は、肩を微かに跳ねさせたあと、ゆっくりと、諦めたように八幡へと向き直った。
「……こんな夜中に、奇遇ね」
雪乃は、少しだけ顎を引いて、いつもの高潔なトーンで告げた。
だが、その台詞は先ほどパンさんに向かって熱烈な視線を送っていた後に発するには、いささか無理がある。八幡の表情解析ログは、彼女の耳の付け根が微かに赤らんでいることを逃さなかった。
「部屋に居づらくなって、逃げてきたのかしら?」
「マッ缶の補給だ。俺の生命維持装置(ライフライン)だからな」
交わす言葉は短いが、それは奉仕部という閉鎖空間で積み重ねてきた、二人だけの通信プロトコルだ。
八幡は、雪乃が先ほどまで固執していた棚へと視線を移した。そこには京都の名産品を模した、なんとも言えない絶妙な表情の「ご当地パンさん」のぬいぐるみが鎮座している。
(ご当地ものか。まあ、あいつが欲しがるのも理解できる。いや、むしろ必然か)
普段は冷静沈着な彼女をここまで惑わせる存在。こうして客観的に眺めてみると、意外とお土産としてのポテンシャルは高いのではないか。そんな考えが、八幡の思考フレームを過った。
「……買うか」
八幡の呟きに、雪乃の肩が僅かに跳ねた。彼女は両手を胸の前で軽く絡め、視線をあさっての方向へと逸らしながら、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「……あ、あなたに、買ってほしいなんて頼んだ覚えは……ないのだけれど」
困惑と、少しばかりの期待
「いや、小町のお土産にいいかなと思ってな」
「…………え?」
その瞬間、雪乃は一瞬だけ、完全に「ほけっ」とした顔をした。
隙のない美貌も、冷徹な理知も、すべてが一時的なフリーズを起こしたかのような、無防備でまぬけな表情。それは八幡の膨大なアーカイブの中でも、これまでに一度も記録されたことのない、極めてレアなデータだった。
(……なんだ、その顔)
あまりにも想定外な彼女の反応に、八幡は視線を逸らすことができなかった。
エイトマンの光学センサーが、その「空白の数秒間」を詳細に記録し続ける。
「…………そう。……そうね。小町さんへのお土産。ええ、とてもいい選択だと思うわ」
ようやく再起動(リブート)に成功した雪乃は、不自然なほどに何度も頷き、再び零度に近い無表情を仮面のように貼り付けた。
だが、その声は先ほどよりも一段低く、どこか処理しきれない感情を無理やり圧縮したような響きを帯びていた。
「…………バカ」
絞り出したのは、期待に浮き足だった自己への罵倒か。それとも──
しかし、雪乃は気づいた。
八幡が棚からぬいぐるみを『二つ』手に取り、そのままレジへと向かったことに。
「これ、お願いします。……あ、一つは袋に入れてください」
レジでのやり取りを、雪乃は遠くから見つめることしかできなかった。心臓がトクンと、これまでエイトマンのセンサーが捉えたことのないような、重く熱い脈動を刻み始める。
会計を終え、戻ってきた八幡の手には、一つはむき出しの、もう一つは丁寧に紙袋に入れられたパンさんがあった。
八幡は雪乃の正面に立つと、視線を右斜め下四十五度の床に固定したまま、紙袋の方を彼女の目の前に突き出した。
「……ほら。やるよ」
「…………え?」
「……さっき、欲しそうな顔してただろ。……別に他意はねーよ。小町の分を買うついでだ。荷物になるなら捨ててくれても構わん」
あまりにも不器用で、暴力的なまでに直球な贈り物。
雪乃は、目の前で起こった事実に思考回路が完全にロックされていた。
(比企谷くんが……私に……?)
あの比企谷八幡が。
ぶっきらぼうで、皮肉屋で、厭世的で、自分と同じように徹底して「馴れ合い」を拒んできたはずの男が。
自分の微かな「願い」を読み取り、それを形にして差し出している。
雪乃の心臓が、早鐘のように高鳴った。
その熱量は、ナノマシンの強制的なバイタル制御さえも突き破り、彼女の白い頬を鮮やかな桃色に染め上げていく。
「――――っ」
それは、八幡も同じだった。
彼の中の超小型原子炉(リアクター)が、かつてないほどのオーバーレブを起こしている。
『人間の役に立つ』というサイボーグの使命感か。それとも、目の前の少女を喜ばせたいという、剥き出しの生物学的衝動か。
二人の間に流れる、静寂という名の不協和音。
差し出した紙袋を掴む八幡の指先は、本人も自覚できるほど微かに震えていた。
エイトマンの姿勢制御装置(ジャイロ)が故障したわけではない。最新鋭のサーボモーターが精度を欠いたわけでもない。ただ、比企谷八幡という一人の少年にとって、家族以外の異性に自らの意志で「贈り物」をするという事象は、過去の膨大な人生ログのどこを検索してもヒットしない、全く未知のコマンドだった。
(……春に、三人で由比ヶ浜のエプロンを選んだことはあったが)
あの時は、あくまで「奉仕部」というシステムの運用の一環であり、雪ノ下というバックアップが隣にいた。だが、今は違う。自分の判断で選び、自分の手で渡し、自分と彼女だけの空間で完結している。
この物理的な数センチの距離が、マッハの速度で世界を駆ける時よりも遥かに遠く、そして険しく感じられた。
「…………」
雪乃もまた、自身の指先がわずかに震えているのを自覚していた。彼女は溢れ出しそうになるバイタルデータの乱れを必死に抑え込み、その紙袋を両手で大切に受け取った。
「……ありがとう。大切にするわ」
「……おう」
短く、ぎこちないやり取り。
けれど、その瞬間、八幡の電子頭脳(ブレイン)は数値化できない「確信」を捉えていた。それは、互いの孤独な領域の間に、一本の細く、けれど強固な『橋』が架かったような感覚だった。
脳裏に蘇るのは、文化祭前夜の屋上での記憶。
あの時、二人で作り上げた「完璧なアクアリウム」の中で共有した、あの静謐な空気。言葉を超えて思考が同期(シンクロ)し、お互いが欠かせない半身であると魂が理解したあの時の熱量が、今、京都の冷たい夜気の中で再び燃え上がろうとしていた。
(そうだ。俺は、この感覚を知っている)
鋼鉄の身体を手に入れ、どれほど効率化された理性を身につけても。
雪ノ下雪乃という存在が隣にいるだけで、比企谷八幡のシステムは「人間」へと回帰してしまう。彼女が発する微かな震え、紙袋を握りしめる手の力強さ。それらすべてが、エイトマンの論理回路を優しく、そして徹底的に書き換えていく。
「……明日、自由行動だったわね」
雪乃が顔を上げ、潤んだ瞳で八幡を見つめた。
「楽しみだわ。……あなたの言う『非効率なルート』を、一緒に歩けることを」
「……ああ。せいぜい、処理落ちしないように準備しとけ」
八幡は顔を背け、空になったマックスコーヒーの缶を握りしめた。
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