——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第三十九話:夏の帰路のように

 

 修学旅行二日目、京都の空気は昨日よりも一段と澄んでいた。

 一行が向かったのは洛西エリア、太秦。目的地は「東映太秦映画村」だ。

 移動手段である市バスの混雑ぶりは、八幡の予想を遥かに超えていた。通勤ラッシュを思わせるボディの圧迫戦において、八幡が最も神経を尖らせたのは、自分の「重量」と「硬度」だった。

 ハイマンガン・スチールの骨格を持つエイトマンの身体は、揺れに合わせて周囲にぶつかれば、一般生徒にとっては交通事故に等しい衝撃を与えかねない。

 

(……やれやれ、これじゃあ俺が凶器みたいなもんだな)

 

 八幡は自身のジャイロスコープをフル稼働させ、鋼鉄の身体を微塵も揺らさない「絶対不動」の構えをとった。それは主に、隣で小さくなっている戸塚彩加を周囲の圧力から保護するための物理的な防壁(シェルター)としての行動だったが、戸塚が「八幡、全然揺れないね。すごい!」と目を輝かせてくれたことで、八幡の内部冷却系は瞬時にオーバーヒート寸前まで跳ね上がった。

 ようやく太秦に到着し、バスという名の圧縮機から開放される。

 

「よっしゃー! チケット買ってくるわ!」

 

 バスを降りるや否や、戸部が猛烈なダッシュで券売機へと飛んでいった。あの単細胞ゆえの爆発的な行動力だけは、エイトマンのブースターにも匹敵するのではないかと、八幡はぼんやりと感心した。

 

 江戸時代の街並みが再現された村内は、どこか浮世離れした空気が漂っていた。忍者屋敷や時代劇のセット。鋼鉄の身体を持つ救世主にとって、こうした「古き良き日本」の風景は、自身の非人間的な属性を一時的に忘れさせてくれる不思議な中和剤となった。

 だが、そんな穏やかな散策も、由比ヶ浜結衣の一言で終わりを告げる。

 

「ね、ヒッキー。そろそろアレ、行こっか!」

 

 由比ヶ浜が指差したのは、『史上最怖』の呼び声高いお化け屋敷だった。

 

「はやとぉ、こわーい! あーし、無理なんだけどぉ!」

 

 隣では三浦優美子が、待ってましたと言わんばかりのテンションで葉山にしなだれかかっていた。八幡の客観的な分析によれば、彼女はこうした場面では「おかん属性」を発揮して周囲を引っ張る方が魅力値が最大化される気がしたが、それを口に出せば、太秦の地に八幡の残骸が埋まることになるのは明白だった。何より、今は彼女と関わるためのリソースを割きたくない。

 

 順番を待つ列は着実に短くなっていく。

 前を行く戸部と海老名のペアが、絶叫と共に闇の中へと吸い込まれていった。海老名がお化けの造形を腐った視点で考察しているのか、戸部がただヘタレているだけなのかは不明だが。

 続いて、葉山の腕をガッチリとホールドした三浦が「じゃ、あーしら先行くねー」と、戦場へ向かう兵士のような(あるいはただの甘えた)足取りで消えていった。

 

「じゃ、ヒッキー。あたしたちも……行こっか。あ、あの、……離れないでね?」

 

 由比ヶ浜が八幡の袖をぎゅっと握りしめる。

 前の列から生徒が一人、二人と消え、ついに八幡と由比ヶ浜の番が回ってきた。

 清水寺の「胎内巡り」とは違う。

 あちらが「禅」なら、こちらは「絶叫」。

 暗闇の向こう側から漂ってくる、演出された死の気配と、少女の震える体温。

 ……実を言うと、比企谷八幡という男は、お化けの類がからきしダメなタイプである。

 

「本当に怖いのは人間」だとか、「合理的に考えれば質量のないエネルギー体が物理干渉してくるはずがない」といった、ぼっち特有の理屈はいくらでも捏ねられる。しかし、エイトマンになるという、およそ荒唐無稽なSF設定をその身で経験してしまった今、八幡の推論エンジンは一つの恐ろしい仮説を導き出していた。

 

(……現代科学で説明のつかない『俺』が存在するなら、超常的な『何か』が実在してもおかしくはないだろ……)

 

 海外のスラッシュホラーなら、最新鋭のセンサーで熱源を捉え、マッハの反応速度でカウンターを叩き込めばいい。だが、日本人の感性に訴えかける「祟り」や「怨念」といったサイコホラーは、物理防御(アーマー)を貫通して直接自意識(メンタル)を侵食してくる。エイトマンのハイマンガン・スチール製骨格といえど、呪いを跳ね返す機能までは実装されていないのだ。

 

 ゆえに、今の八幡には、周囲を気遣う余裕など一ミクロンも存在しなかった。

 

「……ちょ、待って……。先、行かないでよ……」

 

 背後から震える手でブレザーの裾をぎゅっと掴んでいるのは、川崎沙希だ。いつの間にかグループの合流順序がバグったのか、彼女は「別に怖くないし」と言わんばかりの鋭い目つきを維持したまま、指先だけは必死に八幡という「鋼鉄の避雷針」に縋り付いていた。

 

「ヒッキー! やだ、なんか聞こえる! 肩貸して、ちょっとだけ肩貸して!」

 

 さらに前から、へっぴり腰で八幡の肩に手を置き、盾にするように密着してくる由比ヶ浜。彼女の体温と香水の香りが普段ならシステムに過負荷(オーバーロード)をかけるはずだが、今の八幡はそれどころではない。

 

(……いや、なんでお前ら二人とも俺を頼りにしてるんだよ)

 

 右肩に由比ヶ浜の重みを感じ、背中の裾を川崎に引かれ、八幡の歩行ジャイロは極めて不安定な状態にあった。最新鋭の音響センサーは、演出用スピーカーから流れる「ヒタ、ヒタ……」という湿った足音を、無駄に高解像度で拾い上げている。

 

「おい、川崎、引っ張りすぎだ。由比ヶ浜、お前は少し離れろ。……前が見えん」

「無理! 無理だって! 今、そこ曲がったところに何かいたもん!」

「……あんたが、しっかりしなさいよ……。男でしょ……」

 

 女子二人に挟まれた、この世で最も贅沢で、そして最も過酷なサンドイッチ状態。八幡の網膜ディスプレイには、恐怖によるアドレナリンの上昇を示す警告サインが点滅し続けていた。

 不意に、暗闇の奥から「キャハハハ……」という、子供の笑い声に似たSEが響く。

 

「――――ひぎっ!?」

 

 八幡の喉から、エイトマンにあるまじき情けないノイズが漏れた。

 

 阿鼻叫喚の暗闇の中、このグループで唯一、聖域(サンクチュアリ)を形成している存在がいた。

 

「八幡、大丈夫? そんなに震えなくても平気だよ」

 

 戸塚彩加だ。八幡が「……お前、全然平気そうだな」と歯の根も合わない声で問うと、彼は「えへへ、結構こういうの好きなんだ」と、暗闇を浄化するような「にぱっ」とした笑顔を返した。その笑顔から放たれる清廉なエネルギーパルスは、おそらく映画村に潜むいかなる悪霊や怨念をも一瞬で成仏させるだろう。戸塚こそが、この暗黒における唯一の救いだった。

 

 だが、その救済を打ち破るバグが発生する。

 

「……ウ……ウウゥ……」

 

 通路の陰から、血まみれの落ち武者(役の人)がうめき声を上げて飛び出してきた。

 

「――――ひゃ、あぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 その瞬間、八幡の背後の裾を掴んでいた川崎沙希のバイタルが限界値を突破した。彼女は「びくーん」と鋼鉄の板のように背筋を伸ばすと、そのまま超人的な瞬発力で前方にダッシュ。その凄まじい慣性エネルギーに耐えきれず、彼女が掴んでいた八幡のブレザーが肩から滑り落ち、そのまま川崎と共に闇の彼方へと連れ去られてしまった。

 

「あ、川崎さん! 待って、危ないよ!」

 

 慌てて戸塚がその後を追いかける。

 残されたのは、装備(上着)を失った八幡と、彼の肩を掴んだままガタガタと震える由比ヶ浜結衣だけだった。

 

「ひ、ヒッキー……! 怖い、今の怖すぎ……っ!」

「お、おう……っ。……うわ、またなんか来たぞ!」

 

 さらに奥から響く不気味なSEに反応し、二人は同時に身を竦ませた。その拍子に、互いの重心が中心へと収束――。

 

 ――ゴンッ!!

 

 鈍く、重い衝撃音が閉鎖空間に響き渡った。

 

「…………っ、ふ、ふごおおおおお……っ!!」

 

 由比ヶ浜がその場に崩れ落ち、額を抑えて呻き声を上げた。

 すまない、由比ヶ浜。八幡は心の中でマッハの土下座を敢行した。エイトマンの骨格はハイマンガン・スチール。対して彼女の額は、柔らかな生身の皮膚だ。この衝突は、彼女にとってはコンクリート壁に全力で激突したに等しいダメージだったはずだ。

 

「……すまん、由比ヶ浜。……大丈夫か? 後で、美味いコーヒー奢ってやるから、な?」

「ヒッキーのバカぁ……! 超痛いし……っ! 目から火が出たよ、今の……っ!」

「ああ、本当に悪かった。……ちょっと見せてみろ」

 

 八幡は本気で焦っていた。自分の「硬度」が原因で彼女に消えない傷でも残ったら、小町に顔向けできないどころか、エイトマンとしての存在意義に関わる。

 彼は由比ヶ浜の額を確認するため、至近距離まで顔を近づけた。網膜ディスプレイの光学センサーを最高解像度に切り替え、暗視モードによる非破壊検査を開始する。

 

(……出血はなし。骨に異常は……スキャン結果、問題なし。だが、局所的な炎症反応が出ているな。少し赤くなっている)

 八幡はわりと真剣な面持ちで、医療用ドロイドのごとき精密さで外傷の確認を行っていた。裂傷や陥没がないことに安堵し、そのまま炎症の広がりを凝視し続ける。

 

 だが。

 

 あまりにも真剣に「診察」に集中しすぎたせいで、八幡はある重要なデータを見落としていた。

 鼻先が触れそうなほどの距離。

 自分の視線が、一点の曇りもなく彼女の瞳のすぐ上を射抜いていること。

 そして、由比ヶ浜の顔が、打撲による赤みとは明らかに異なる熱量で、急速に朱色に染まっていくプロセスを。

 

「……ヒ、ヒッキー……? あの、近い、近いから……」

 

 彼女の吐息が八幡の頬に触れる。

 至近距離で由比ヶ浜のバイタルデータを凝視し続けていた己の振る舞いに、遅まきながら強烈な羞恥心がシステムを駆け巡った。八幡は一つ、不自然なほど大きな咳払いをして立ち上がる。

 

「……先行こうぜ。置いてかれちまう」

 

 八幡は右手を差し伸べ、地面に座り込んでいた由比ヶ浜を立たせた。エイトマンの精密演算によれば、先ほどの衝突で脳震盪(のうしんとう)を起こしている確率は0.02%以下だが、念には念を入れて歩行速度を落とすべきだと論理回路が告げている。

 

「……ありがと」

 

 由比ヶ浜が再び、八幡の肩にそっと手を添える。その指先から伝わる微かな震えは、お化けへの恐怖だけではない、何か別の熱を帯びているようだった。

 

「じゃ、ゴールまで行こっか!」

 

 二人は、遠くに見える微かな誘導灯を頼りに出口へと歩き出した。

 演出用の湿った風が吹き抜け、不気味な笑い声が反響する通路の中で、由比ヶ浜がぽつりと口を開いた。

 

「なんかさ……お祭りの時を思い出すね」

 

 懐かしそうに、けれどどこか愛おしそうに紡がれたその言葉。

 八幡の電子頭脳(ブレイン)は、即座に三ヶ月前のログ――夏祭りの夜の記録をロードした。

 

 あの日。

 

 自分が人間ではなく、ハイマンガン・スチールの骨格と原子炉(リアクター)で動く「機械」であることを突きつけられ、比企谷八幡という自己が砂のように指の間から零れ落ちていく感覚に、彼は震えていた。

 

 あの祭りの帰路も、こんな風に互いを支え合って歩いた。

 八幡は己の喪失に怯え、由比ヶ浜はそんな彼をこの世界に繋ぎ止めるアンカー(錨)であるかのように、必死に彼の腕に縋り付いていた。

 

(……ああ。そうだったな)

 

 あの日から三ヶ月。

 今、二人は「自己の崩壊」に怯えながらではなく、修学旅行という、ありふれた高校生の「楽しみ」のために暗闇を歩いている。

 

「あの日からヒッキー、元気になってくれて……本当によかった」

 

 由比ヶ浜の言葉に、八幡は無言で頷いた。

 言葉には出さないが、彼は理解していた。あの時の自分は、エイトマンとしてのスペックがいかに高くとも、精神的には限界まで追い詰められていた。

 もし、隣に由比ヶ浜結衣がいなかったら。

 彼女が、鋼鉄の身体を持つ自分を「ヒッキー」と呼び続け、その温もりを分け与えてくれなかったら。

 比企谷八幡の自意識は、あのまま機械の論理に呑み込まれ、自己崩壊を起こしていたかもしれない。

 

(……俺一人じゃ、ここまで辿り着けなかっただろうな)

 

 肩に感じる、決して重すぎない、けれど確かな生命の重み。

 彼女の存在が、どれほど自分にとっての救済であったか。暗闇の中で研ぎ澄まされた全センサーが、その事実をかつてない鮮明さで八幡の魂に刻み込んでいた。

 

「……ま、お化け屋敷よりは、マシな思い出だな」

「あ、それひどい! あたしは今もすっごい怖いんだからね!」

 

 軽口を叩けるほどには、八幡のシステムは安定していた。

 前方に、現実の世界へと繋がる出口の光が見えてくる。

 

 お化け屋敷の暖簾をくぐり、出口の階段を降りると、そこには既に脱出を終えたメンバーたちがベンチに固まっていた。

 

「あ、ヒッキー! サキサキ、あそこにいるよ!」

 

 由比ヶ浜が指差した先――広場の隅にあるベンチの端で、川崎沙希が小さくなって座っていた。その膝の上には、先ほど剥ぎ取るようにして持ち去られた八幡のブレザーが、まるで命綱のように抱えられている。彼女の青い瞳はまだ微かに潤んでおり、鋭い目つきを維持しようと必死に虚空を睨みつけていたが、その肩はまだ小刻みに震えていた。

 

(……いや、怒ってないから。早く返して欲しいだけなんだが)

 

 八幡は、ワイシャツ一枚という心許ない姿で川崎に歩み寄った。エイトマンの排熱効率は高いが、十一月の京都の風は、生身の腕にはいささか冷たすぎる。

 

「……川崎」

「――――ひぎっ!?」

 

 声をかけた瞬間、川崎が跳ね上がるようにして八幡を見た。そこにいたのが「お化け」ではなく「比企谷八幡」だと認識すると、彼女の顔は一気に沸騰したかのように赤く染まり、無造作にブレザーを突き出してきた。

 

「……これ、……返す。……別に、わざとじゃないから」

「分かってる。……助かったよ。防波堤として役に立ったなら本望だ」

 

 八幡がブレザーを受け取ると、川崎は「……ばか」とだけ呟いて、ぷいと横を向いた。彼女なりの感謝(あるいは謝罪)であることを、八幡の感情解析エンジンは静かにログに刻んだ。

 

「八幡、おかえり! 楽しかったね!」

 

 そこに、聖なる光を纏った天使が駆け寄ってきた。戸塚彩加だ。

 彼は川崎を追いかけ、この場所まで彼女をエスコートしてきたのだろう。その清涼な笑顔には、一片の濁りもなかった。

 

「……ああ。そうだな。……楽しかったよ」

 

 八幡の口から漏れたのは、自分でも驚くほど素直な肯定だった。

 柄にもなく、口元が微かに緩んでいるのを自覚する。

 お化けに怯え、由比ヶ浜と頭をぶつけ、川崎に服を奪われる。効率性も、合理性も、救世主としての使命感もどこにもない、無意味で非生産的な時間。

 けれど、それこそが比企谷八幡が、そして鋼鉄の身体に宿った自意識が、最も欲していた「本物の修学旅行」の形だった。

 

「ひゃー、ヒキタニくん! あの落ち武者のとこで『ひぎっ』とか言ってなかったか!? 超ウケるんですけど!」

 

 空気を読まない戸部のパルスが届くが、今の八幡にはそれさえも心地よいノイズに聞こえた。

 

「……うるせーよ。演出だ、演出」

 

 八幡はブレザーを羽織り、ボタンを留めた。

 

 原子炉(リアクター)の出力は安定。

 精神的な疲労値は高いが、充足感という名のエネルギーが全身の回路を満たしていた。

 

 




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