——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第四十一話:鋼鉄と黄金と

 

 

 龍安寺の石庭で共有した、あの一切のノイズを排した静寂。

 雪ノ下雪乃と並んで座り、ただ石の配置を、そして互いの存在を認めていた時間は、八幡にとって一つの「特異点」としてログに記録されていた。

 

「では、私は戻るわ」

「うん、じゃあまた明日」

「ええ、また明日」

 

 雪乃と結衣が明日の約束を交わす。その光景を、八幡は少し離れた場所からぼうっと眺めていた。

 網膜ディスプレイに刻まれたタイムスタンプを確認し、高解像度の動画ログを再生してみる。間違いなく、数分前までの現実はそこにあった。しかし、あまりにも清廉で、あまりにも穏やかだったその時間は、今の八幡にとって、まるで前世の記憶か、あるいは誰かがインストールした「偽りの夢」のようにさえ感じられた。

 

(……残酷なもんだな。どんなに鮮明に記録(アーカイブ)したところで、時の流れという物理法則は、その瞬間を二度と再現させてはくれない)

 

 戸塚に「八幡、行こう?」と声を掛けられるまで、八幡はその失われゆく記憶ログの残光を見つめ続けていた。

 龍安寺から金閣寺へと続く、なだらかなきぬかけの路。

 立命館大学のキャンパスを横目に坂を上り、一行は鹿苑寺金閣へと到着した。

 

 そこは、先ほどまでの龍安寺の静謐とは真逆の世界だった。北山文化の爛漫たる繁栄を象徴する、圧倒的な黄金の楼閣。鏡湖池(きょうこち)のさざなみに反射するその輝きは、八幡の光学センサーを飽和(サチュレート)させるほどの光量を放っていた。

 

「……比企谷」

 

 池を囲む観光客の喧騒の中、不意に隣から聞き慣れた声のパルスが届いた。

 葉山隼人。

 いつもの「完璧なリーダー」としての穏やかな微笑みは、今の彼にはなかった。その整った顔立ちは、逆光のせいか、あるいは内面の葛藤のせいか、ひどく複雑で深刻な影を落としている。

 

「……なんかあったのか」

 

 八幡は、自分らしくもない直球を投げた。

 エイトマンのセンサーが、葉山の心拍数の乱れと、体温の微かな上昇を検知していた。それは戦闘準備の予兆ではなく、もっと泥臭く、もっと人間的な、逃げ場を失った者のバイタルデータだった。

 

「……前からずっと、話をしたいとは思っていたんだ。機会を伺っていた、と言い換えてもいい」

 

 葉山は少しの間、金閣寺の屋根に鎮座する鳳凰を見つめ、それから思い切ったように八幡へと向き直った。

 

「君は、彼女……雪乃のことが好きなのかい?」

 

 その問いは、金閣の輝きよりも鋭く、八幡の鋼鉄の胸を貫いた。

 原子炉(リアクター)の出力が、無意識のうちに跳ね上がる。

 それは、比企谷八幡が最も答えを出すことを拒み、論理回路の最深部に隠蔽し続けてきた問い。

 そして、かつて雪ノ下雪乃を「救えなかった」過去を持つ葉山隼人だけが、その資格を持って口にできる刃だった。

 

 周囲の観光客の嬌声が、急に遠ざかる。

 

 黄金の輝きを湛えた池の前で、比企谷八幡の「鋼鉄の自意識」は、人生で最も不合理で、けれど最も純粋な答えを、自身のログからサルベージすることを余儀なくされていた。

 

 葉山隼人から突きつけられた『雪乃に対する想い』。八幡の超電子頭脳(ブレイン)は、本来なら数ミリ秒で「ひねくれた否定」の回答を演算できるはずだった。だが、今の彼の論理回路はその機能を停止し、沈黙という名の重いログを生成し続けていた。

 

 かつて雪乃が「幼馴染」と呼び、彼女の過去に深く関わっていた葉山。彼に対して抱く、名状しがたい劣等感。あるいは、自分のような「機械仕掛けの人間」が、彼女の隣に立つ資格があるのかという根源的な問い。

 

 けれど、ここで「好きではない」と嘘をつくことは、文化祭での事、そして昨夜のパンさんの紙袋を渡した瞬間の、あの熱い同期(シンクロ)を裏切ることに他ならなかった。

 

「……否定しないということは、やはりそうなんだな」

 

 葉山の声は、驚くほど静かに、そして確信を持って響いた。

 

「文化祭の実行委員会の様子を見た時から、君たちの間に、誰も踏み入れないものを感じていたが……。認めざるを得ないようだ」

「……あれは、俺が勝手に、必死でやっていただけだ。……理屈に合わない非効率なやり方でな」

「比企谷、今まで彼女のためにあそこまでやった人はいないんだよ」

 

 葉山が言葉を遮るように、きっぱりと言い切る。その瞳には、金閣の輝きさえも飲み込むような、深い悔恨の色が宿っていた。

 

「俺にも、できなかった。……いや、あえて選ばなかったのかもしれない。周囲との調和を優先して、彼女の隣に立とうとしなかった」

 

 完璧なリーダー、誰もが憧れる太陽。その内側から漏れ出したのは、過去に対する痛切な呪詛だった。雪乃を救えなかった自分への、拭い去れない後悔。

 

「だから……俺ははっきり言って、君が嫌いだった」

 

 八幡は、思わず目を見開いた。

 あの、誰に対しても優しく、陽の化身のような振る舞いを崩さない葉山隼人が、比企谷八幡という存在を「嫌い」だとはっきり口にした。エイトマンのセンサーが、葉山の声に宿る本物の「憎悪」と、それ以上に深い「羨望」のパルスを記録する。

 

「だが、君が完全に嫌な人間なら、わざわざこんなことは言わない」

 

 葉山は一歩、八幡に歩み寄り、その鋭い視線で八幡の「死んだ魚の目」の奥を覗き込んできた。

 

「普段の厭世的な君と、千葉村で見せたあの身を削るような自己犠牲。そして文化祭で見せた、まるで人間を辞めているかのような、鬼気迫る献身……。比企谷、君は、一体何者なんだ?」

 

 心拍が跳ね上がる。

 原子炉(リアクター)の出力が、無意識にアイドリング状態から戦闘レベルへと移行しようとするのを、八幡は必死に抑制した。

 

「何者、だと?」

「君は時折、俺たちの理解が及ばない『力』を見せる。理屈を超えた判断、そして、あの時折見せる……人間ではないような冷徹なまでの正確さ。君は、本当に俺たちと同じ、ただの高校生なのかい?」

 

 黄金の楼閣の前で、比企谷八幡の「仮面」に、葉山隼人という男の鋭い観察眼が亀裂を入れようとしていた。

 

(……見抜かれた、のか?)

 

 脳内のメインフレームが激しく明滅する。

 葉山隼人という男は、周囲を誰よりも俯瞰し、その場の空気をミリ単位で調整する稀代の「調律師」だ。その人間観察眼は、皮肉にも八幡自身のそれと同等か、あるいは「他者への共感」という回路を持つ分だけ、より高度な次元に達していた。

 葉山の瞳は今、八幡という「個」の中に潜む、いくつもの矛盾した人格を捉えていた。

 

 卑怯で、勇敢。

 理性的で、狂気的。

 そして、そのすべてを貫く、冷徹なまでの「正解」への執着。

 それは彼が知る最も複雑な人間、雪ノ下陽乃という怪物よりも測り難く、理解の範疇を超えた「異物」の正体。

 

 八幡は、背筋を凍りつかせた。

 エイトマンとなって以来、彼は徹底して「比企谷八幡」という人間を演じてきた。死んだ魚の目をし、ひねくれた理屈を吐き、孤独を愛する――そんなステレオタイプな「ぼっち」の仮面。

 それは雪乃にも、結衣にも、そして最愛の妹である小町にさえも見破らせなかった、鋼鉄の防壁(シェルター)だった。

 

(陽乃さんには、もしかしたらバレているかもしれない。だが、こいつは……)

 

 葉山隼人は、八幡の「仮面」ではなく、その裏側にある「回路」そのものに触れようとしていた。

 ここまで自分の本質に、その「不自然なまでの純粋さ」と「人間離れした合理性」に踏み込まれたのは、初めてだった。

 

「……何者、か。そんな大層なもんじゃない。見ての通り、ただのひねくれた高校生だよ」

 

 八幡は、掠れた声でどうにか答えた。

 だが、その言葉はあまりにも脆弱で、葉山の鋭い視線に霧散していく。

 

「嘘だ。……君は、自分を削って何かを守る時、痛みを感じていないように見える。まるで、最初からスペアがあるかのように。あるいは、心というデバイスを意図的にオフにしているかのように……」

 

 葉山の言葉は、エイトマンのシステム構造を正確に言い当てていた。

 数多くの戦闘ロボットたちとの戦いでボロボロになっても、ナノマシンが修復し、感情は論理回路によって抑制される。その「人間性の欠如」こそが、葉山には『鬼気迫る狂気』として映っていたのだ。

 

「比企谷。君を見ていると、時々……自分が立っている地面が揺らぐような錯覚に陥るんだ。君は本当に、俺たちと同じ『此岸(しがん)』の住人なのかい?」

 

 問いかけは、もはや尋問に近い重圧を伴っていた。

 八幡は無意識に、右手の拳を強く握りしめた。

 その拳が、肉と骨でできているのか、それともハイマンガン・スチールでできているのか。

 葉山隼人の「君は何者だ」という問いは、比企谷八幡の装甲を貫通し、メインメモリの最深部で警告灯(アラート)を点滅させていた。

 だが、葉山の瞳に宿っていたのは、暴き立てようとする攻撃性ではない。それは、自分の立ち位置を見失った迷子の、必死の模索だった。

 

「……君が命を張って、俺たちを助けてくれたこと。学校の雰囲気を変え、結果として俺たちのグループがバラバラにならなかったことについては、深く感謝している。それは本当だ」

 

 葉山は一度視線を落とし、金閣の輝きを遮るように影となった足元を見つめた。

 

「ただ、どうしても……君を知りたかった。……君のその、人間味を削ぎ落としたような強さの正体が。このまま、ただ嫉妬のままに君を嫌いになり続けることは、俺自身も納得できないからな」

 

 比企谷八幡の表情解析ログが、一つの結論を出力する。

 ――葉山隼人は、真面目すぎる人間なのだ。

 人を好きになるのにも、嫌いになるのにも、論理的で納得のいく「理由」を必要とする。その過剰なまでの誠実さが、彼を「完璧なリーダー」という名の檻に閉じ込め、同時に八幡という異分子への羨望を加速させていた。

 

「…………。俺は」

 

 八幡は、手に持っていた空のマックスコーヒーの缶を、指先で小さく弾いた。

 

「お前と無理に分かり合う必要なんて、ないと思っている。嫌いなら嫌いのままでいい」

「…………」

「無理に分かり合おうとして、自分に嘘をついて、不快なノイズを『友情』なんてプロトコルで誤魔化す必要なんてねーよ。……そんなの、あいつが一番嫌う『欺瞞』だろ」

 

 八幡は顔を上げ、葉山の真っ直ぐな視線を、その「死んだ魚の目」で正面から受け止めた。

 

「俺も、お前のことが嫌いだよ。……雪ノ下に一番近かったお前に、これ以上ないくらい嫉妬してる」

 

 初めて口にする、剥き出しのパケット。

 エイトマンとしてのスペックではない、比企谷八幡という一人の少年の、醜くも熱い「人間」としての信号。

 

「……でも、それでいいと思う。嫌いなら嫌い同士、やりようはいくらでもある。わざわざ同じ周波数に合わせなくても、互いの存在を認め合う方法はあるはずだ」

 

 八幡はわずかに視線を逸らし、金閣の鳳凰を見上げた。

 

「……俺のことは、あまり深くは言えない。誰にも、……な。だが、お前が俺を理解しようと、そんな風に苦しみながら、バカ正直にここまで聞きに来たことは……」

 

 八幡の音声ユニットが、一瞬だけ設計外の掠れた響きを漏らした。

 

「……少しだけ、嬉しいと思う」

 

 金閣の静寂に、少年の本音が溶けていく。

 正体は明かせない。鋼鉄の身体のことも、一度死んだ事実も。

 けれど、この「分かり合えなさ」を前提とした共犯関係は、今の八幡にとって、どんな完璧な同期(シンクロ)よりも信頼に足る「本物」の予感を孕んでいた。

 

「……。……ふっ」

 

 葉山の口元に、いつもの作り物ではない、どこか自嘲気味で穏やかな笑みが浮かんだ。

 

「……そうか。……嫌いだよ、比企谷。やっぱり君は、最高に嫌な奴だ」

「ああ。光栄だ、葉山」

 

 二人の間に流れるのは、拒絶と承認が混ざり合った、歪な共鳴。

 黄金の残光が消えゆく中で、鋼鉄の救世主と、太陽の少年。

 二つの異なる座標が、京都の空の下、確かに一つの「境界線」を共有していた。

 

 金閣の放つ黄金の光が、二人の少年のシルエットを長く、鋭く地面に焼き付けている。

 比企谷八幡と葉山隼人。互いに「嫌い」であることを認め合い、分かり合えないことを前提とした共犯関係を結んだその瞬間。

 

 その光景を、少し離れた松の木の陰から、異様な熱量で見守る視線があった。

 

「ね、ねー海老名さん? やっぱりこういうのは良くないって。あの二人、マジで真面目な話してるっしょ? ヤべーよあの空気。俺ら入る隙ねーし!」

 

 小声で必死に訴えかけているのは、戸部翔だ。彼のバイタルサインは、あからさまな「板挟みによる困惑」を示している。

 対する海老名姫菜は、手にした観光パンフレットで口元を隠しつつも、眼鏡の奥の瞳を怪しく、かつ鮮烈に発光させていた。

 

「何言ってるの戸部くん!? これこそが真理、これこそが福音! 普段は脳内シミュレーションでしか見られない『はやはち』の生データだよ!? しかも見てよあの距離、あの視線の絡み合い……。あぁ、すごーく複雑で、濃厚なパトスを感じる……。はっ、鼻血が……っ!」

「海老名さん、ティッシュ! ほら、ティッシュ使って!」

 

 海老名のボルテージは、あの『超人サイバー』の一件以来、明らかに上限突破(リミッター解除)していた。

 偽りの自分を演じ、居場所を守るために心を殺していた彼女は、一度絶望の底を見て、そして八幡たちの「鋼鉄の不器用さ」に救われたことで、以前よりもさらにオープン――というか、清々しいほどに自重しなくなっていた。

 

 戸部は、そんな彼女に本気で惚れてしまった手前、もはやツッコミという名の制動をかけることができない。惚れた弱みという名のデバフが、彼の社会的立ち回りを著しく制限していた。

 

「あの『俺だけが君を知っている』感がたまらないわー!! 一見、隼人くんがグイグイ攻めて主導権を握ってるようで、実はその実、ヒキタニくんの底知れない闇に飲み込まれていく黄金比……! まさに金閣寺だけにね!!」

「えっと、そこ笑うとこなん……? 海老名さん、マジで最近キレッキレすぎて怖いんだけど」

 

 戸部がよくわからない風に苦笑いする。彼にとって、二人の間に流れる「男同士の因縁」は理解できても、それがなぜ「黄金のカップリング」に変換されるのかは、一生解けない暗号のようなものだった。

 

「ねー、あーしさっさと隼人と合流したいんだけど」

 

 背後から、不機嫌を絵に描いたようなパルスが届く。

 三浦優美子だった。彼女にとって「ヒキオ」という個体は、視界に入れる価値もない背景グラフィックに過ぎない。彼女の全リソースは、この黄金の楼閣の前で、最高に輝いているはずの自分の騎士(葉山)と合流し、その光を共有することだけに割かれていた。

 

「隼人、あんなのと喋ってて楽しいわけ? マジ時間もったいないし。……ちょっと、戸部! さっさと呼びに行きなさいよ!」

「えぇ!? 俺が行くの!? あの空気の中に!? 無理無理無理、絶対殺されるって!!」

 

 八幡と葉山。

 自分たちが初めて仮面を剥ぎ、不格好な本音を晒している「本物の瞬間」が、影の観測者たちによってBL的なマテリアルや、単なる待ち時間のロスとして処理されているなど。

 観光客のざわめきと、沈みゆく夕日の残光に包まれた二人が知る由もなかった。

 

 

 




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