——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第四十二話:挑戦

 

 

「あ゛~~~~……」

 

 ホテルの内風呂の湯船に肩まで浸かり、八幡は肺の中の空気をすべて吐き出すような深いため息をついた。

 龍安寺の石庭で見せた、雪ノ下雪乃の息を呑むような静謐な美しさ。

 金閣寺の黄金の下で交わした、葉山隼人との剥き出しの本音のぶつかり合い。

 

(……なんだこれ。青春漫画の1ページかよ。九十年代の少年マガジンの主人公でも、ここまで一日にイベント詰め込まねーだろ)

 

 これまでの人生、イベント皆無の空白のログを積み重ねてきた八幡にとって、この修学旅行二日目は、あの文化祭実行委員会の日々を除けば、最高密度に充実した一日だったと言える。鋼鉄の身体に宿った自意識が、未体験の熱量で微かに火照っていた。

 

 だが、やはりホテルの内風呂では、エイトマンの巨体を癒やすにはいささか容量不足だ。

 機械の身体になったところで、広々とした空間で四肢を伸ばしたいという生物学的な欲求が消えるわけではない。風呂から上がると、京都の夜の冷気が、火照った肌をチクチクと刺した。

 

(……マッサージチェアでマックスコーヒーをキメたいところだが、それより先に燃料不足だ)

 

 腹の虫が鳴る。せっかくだから、エイトマンの隠密能力(ステルス)をフル活用し、教師の目を盗んでホテルの外へと抜け出した。向かうは近くのコンビニだ。

 深夜のコンビニ。独特の蛍光灯の明かりが、八幡の光学センサーを心地よく刺激する。

 雑誌コーナーを通りがかり、ふと『週刊プレイボーイ』の表紙に目が止まった。「キン肉マン」の最新話をチェックしたいという誘惑に駆られたが、もし万が一、知り合いにプレボを立ち読みしている姿を目撃されたら、社会的に「不潔なエロ野郎」としてデリートされる。それは避けるべきリスクだ。

 

 代わりに、愛読する『サンデーGX』を探して棚を物色していると、頭上から鋭く、高圧的な音波が降りかかってきた。

 

「ヒキオじゃん」

 

 八幡のデータベースにおいて「最上位クラスに不快な呼称」として登録されているその声。

 顔を上げずとも分かる。三浦優美子だ。

 彼女は自分の手元にあるファッション誌に目を向けたまま、八幡の方を一切見ようともせずにそこに立っていた。

 

(……なんで声をかけた、こいつ。無視して通り過ぎるのが最適解だろ)

 

 八幡の心拍数が、戦闘時とは異なる種類の警戒心で僅かに上昇する。

 

「あんさー、ちょっと聞きたいんだけど」

 

 そんな三浦から、八幡に話しかけて来た。

 

 八幡は三浦のこの高圧的な言動が苦手だった。葉山なんかは毎日この相手をしているのだ。そこは尊敬に値するだろう

 

 それにしてもなんの用だろうか

 まさかプレボを探してたのがバレたとかか…?

 

 三浦は一方的に話を続ける

 

「あんた、雪ノ下さんと付き合ってんの?」

「えっ」

 

 八幡の予想は大きく逸れた

 

 比企谷八幡の超電子頭脳(ブレイン)は、一時的なシステムフリーズを選択した。

 先ほどまでの八幡の脳内シミュレーションでは、三浦の呼びかけに対する予測解として『立ち読みの注意』、あるいは『存在そのものへの不快感の表明』といったログが上位を占めていた。

 だが、出力されたのは、そのどれとも異なる、あまりに生々しく、かつ回避困難な「恋愛的パケット」だった。

 

「…………な、何を根拠にそんな非論理的な推論を。……してねーよ。付き合ってねーし、そんな空気も微塵もねーだろ」

 

 八幡は、手にしていた『サンデーGX』を棚に戻し、努めて平坦な声を出した。

 エイトマンの表情制御回路は完璧に機能しているはずだったが、内部の原子炉(リアクター)は、羞恥心と困惑によって設計限界に近い排熱を要求し始めている。

 

「ふーん。……あーし的には、あそこで二人並んで座ってんの、マジで『出来上がってる』感すごかったんだけど」

 

 三浦はようやく雑誌から視線を外し、八幡を正面から射抜いた。

 彼女にとって、比企谷八幡という存在は「雨が降れば傘を差す」のと同じレベルの、単なる自然現象の一つに過ぎない。興味もなければ憎しみもない。ただ、視界に入ればその事象を事実として認識する。その徹底した「他者への無関心」ゆえの客観性が、八幡の防壁(アーマー)を容易く透過してきた。

 

「隼人と喋ってたときもそうだけどさ。あんた、雪ノ下さんのこと見るときだけ、目がキモくないっつーか。……まぁ、あーしには関係ないけど」

 

 三浦優美子は、手にしていたファッション誌をパサリと棚に戻した。

 その動作には迷いがなく、彼女は新たに雑誌を手に取り、巻いていた輪ゴムを一本外し、読み出した。八幡の方を一切見ようともせず、彼女は独り言のように言葉を継いだ。

 

「……あんたが誰と付き合おうが、あーし的にはマジどーでもいいんだけどさ」

 

 その声のトーンが、一段と低く、鋭くなる。

 

「――結衣を泣かせたら、コロすから」

 

「…………。……は?」

 

 八幡の電子頭脳(ブレイン)に、深刻な「処理遅延(ラグ)」が発生した。

 なぜ、ここで由比ヶ浜結衣の名が出てくるのか。

 雪ノ下との関係を詰問されていたはずの文脈において、突如として放り込まれた『結衣を泣かせるな』という警告。八幡の論理回路は、そのミッシングリンクを即座に埋めることができなかった。

 

「……なんで、そこで由比ヶ浜が出てくるんだよ」

「きも。あんた、マジで鈍いわけ? ……あーしが夏休みん時に、わざわざクラスの女子の中でのあんたの株上げてやったの、なんでかわかる?」

 

 八幡の記憶ログが、急速に夏休みのフォルダを検索し始める。

 千葉村でのキャンプ。あの「自分を犠牲にした」問題解決。その後、クラスの女子たちの間に回った一通のメール。三浦優美子が、比企谷八幡という存在を(彼女なりの表現ではあるが)肯定し、その行動を評価したという噂。

 

(……あの時、こいつがわざわざ俺をフォローした理由は……)

 

「結衣があんたと一緒に居ても、大丈夫なようにしたわけよ」

 

 三浦は吐き捨てるように言うと、ようやく八幡を正面から見た。その瞳には、葉山に対するような執着ではなく、自分のテリトリーにいる大切な友人を守ろうとする、猛々しくも純粋な「意志」が宿っていた。

 

「あーしのグループにいる結衣が、あんたみたいな『キモいボッチ』と一緒に居て、周りから変な目で見られたり、ハブられたりすんの……あーし、絶対許さないから」

 

 八幡は、衝撃という名の電気信号が背筋を駆け抜けるのを感じた。

 三浦優美子という「女王」は、カーストの頂点に君臨しながら、その絶対的な権力(カリスマ)を、友人の「居場所」を守るために行使していたのだ。

 

 比企谷八幡が社会的に抹殺されないように。

 由比ヶ浜結衣が、彼と一緒に居ることを誇れるように。

 

(……こいつ、そこまで考えて……。……いや、考えてるんじゃなくて、本能で動いてるのか)

 

 それは、エイトマンの精密な演算よりも遥かに強力で、非効率で、けれど決定的な「守護」のプロトコル。

 葉山隼人が「調律」によって守ろうとした場所を、三浦優美子は「暴力的なまでの肯定」によって守り抜いていた。

 

「……あ、そう。……俺はあいつに、そこまで迷惑かけるつもりはねーよ」

「だったらいいし。……じゃあね、ヒキオ」

 

 三浦は最後の一瞥をくれると、レジで会計を済ませ、夜の闇へと消えていった。

 

 一人残されたコンビニの店内で、八幡は立ち尽くしていた。

 

 雪乃との共鳴、葉山との対峙、そして三浦の気持ち。

 この修学旅行という大規模なイベント(ミッション)の中で、自分が守ろうとしていた「日常」は、自分一人の力で成立していたわけではない。

 

(みんな、色々考えてるんだよな。……当然か)

 

八幡の濃すぎる二日目は、そこで終わった。

 

 

──

 

 

 

 網膜ディスプレイに表示された時刻は、既にホテルの朝食時間を過ぎていた。

 ハイマンガン・スチールの骨格は疲労を知らないが、精神的な負荷(ストレス・ログ)は別だ。昨日の龍安寺、金閣寺、そして深夜のコンビニでの遭遇。あまりに情報密度が高すぎたせいで、八幡のメインフレームは強制的な再起動(熟睡)を必要としたらしい。

 慌てて食堂へ向かったが、八幡の分の朝食は既に片付けられていた。

 

(……嫌がらせか? それとも俺の存在そのものがバグとしてデリートされたのか?)

 

 最悪の推論を立てかけた八幡に、由比ヶ浜結衣が「あ、ヒッキー、おはよ!」と能天気なパルスを飛ばしてきた。どうやら彼女が八幡の分をキャンセルしたらしい。

 

「なんでだよ由比ヶ浜……。俺の貴重な燃料摂取の権利が……」

「いいからいいから! ほら、行くよ!」

 

 そのままズルズルと街中へ連れ出され、到着したのは、京都の伝統的な町屋を改装したような、モダンで和風なコーヒーショップだった。

 テラス席へと案内されると、そこには既に「彼女」が居た。

 

「あら、遅かったのね」

 

 雪ノ下雪乃。

 朝の柔らかな光を背負い、優雅にカップを傾けるその姿は、まるで一流の広告(クリエイティブ)から抜け出してきたかのような完成度だった。

 

(マジか。これは、その、目に毒だろ)

 八幡の光学センサーが、彼女の美しさをかつてない高解像度でキャプチャする。

 彼女なりに京都を楽しむべく、事前にリサーチを重ねた「最適化された旅コース」なのだろう。そう考えると、八幡の内部冷却系にわずかな「綻び(頬の緩み)」が生じるのを止められなかった。

 

 モーニングセットを注文し、三人で食卓を囲む。

 焼きたてのトーストの香りと、深煎りコーヒーの苦味。

 雪乃と、朝食を共に摂る。

 

 そのシンプルな事実は、エイトマンの原子炉(リアクター)を、戦闘とは全く異なる周波数で浮き立たせた。

 

(……雪ノ下と、朝飯……。ログに刻む価値は十二分にあるが、これはバイタルが安定しねーな)

 

 しかし、浮き足立つ心に冷や水を浴びせるように、昨夜の三浦の言葉がリフレインした。

 

『結衣を泣かせたら、コロすから』

 

 八幡は、隣で幸せそうに厚切りトーストに舌鼓を打っている由比ヶ浜を盗み見た。

 彼女は三浦の気遣いや、その背後にある複雑なカーストの力学など微塵も感じさせていない。ただ、自分と、雪乃と、八幡。この三人の時間を心から享受しているように見える。

 

(三浦のあの言葉の意味は……。俺が由比ヶ浜に対して、何らかの欠陥(エラー)を引き起こすと、あいつは断定しているのか?)

 

 考え始めると、演算回路は無限ループに陥りそうになる。

 八幡は一度思考をシャットダウンし、目の前のスクランブルエッグに集中することにした。 

 

 

──

 

 

和風コーヒーショップの洗練された空間で、雪乃が手帳を広げ、本日の戦略的移動経路(ルート)を提示する。

 

「まずは、伏見稲荷大社。……千本鳥居で有名な場所ね。そこから東福寺へ向かうわ」

「東福寺……。そこは何が有名なの?」

 

 由比ヶ浜が首を傾げながら尋ねる。八幡は即座に網膜ディスプレイの検索エンジンを回そうとしたが、雪乃の「それは行ってみればすぐわかるわ」という言葉に指を止めた。

 情報をあらかじめデータ化し、予測値を出すのがエイトマンの常道だ。だが、たまには未知の変数をそのまま楽しむのも、この「修学旅行」という非効率なイベントにおける正解なのかもしれない。

 

「最後は、北野天満宮よ。比企谷くんのリクエストだったわね」

「……ああ。小町の学業成就を願っておかないと、あとでログが荒れるからな」

 

 受験を控えた妹のために、学問の神様に賄賂(お賽銭)を贈っておく。それが兄としての、そして家族という名のネットワークを守る者の責務だ。

 ついでにお土産の八ツ橋も調達しておこう。ニッキの香りは、八幡の嗅覚センサーにおいて「京都」を象徴するインデックスとして登録されている。

 朝食を終えた一行は、京阪電車に揺られ、伏見へと向かった。

 駅から出ると、そこには既に巨大な朱塗りの楼門が、圧倒的な「赤」をもって八幡たちの視界を占拠していた。

 

 伏見稲荷大社。

 全国の稲荷神社の総本山。

 

 だが、その入り口に立った八幡の演算回路は、一つの警告(アラート)を静かに点滅させていた。

 

(……大丈夫だろうか。あそこって確か……)

 

 エイトマンの内部マップが、伏見稲荷の全容を展開する。

 それは単なる「鳥居がたくさんある神社」ではない。稲荷山という山そのものが神域であり、頂上へ至る道は果てしない階段と、視界を遮る朱塗りの回廊によって構成されている。

 普通の人間なら、山頂まで往復すれば深刻な運動エネルギーの欠乏と筋肉の損傷(筋肉痛)を免れない。ましてや、女子二人の体力リソースを考えれば、これはかなりの高負荷ミッションだ。

 

「……綺麗。……すごいわね、本当に赤一色の世界だわ」

 

 雪乃が、感嘆の吐息を漏らしながら鳥居の入り口を見上げる。

 

「わー! 行こ行こ、ヒッキー、ゆきのん!」

 

 はしゃぐ由比ヶ浜に手を引かれ、八幡は「紅の迷宮」へと一歩を踏み出した。

 

 

──

 

 

 案の定と言うべきか。

 伏見稲荷の山腹、「四ツ辻」に辿り着いた時点で、雪ノ下雪乃のバイタルサインは、深刻なエネルギー欠乏(スタミナ切れ)を示していた。

 エイトマンの光学センサーが、彼女の白磁の肌がさらに蒼白になり、呼吸のピッチが通常の二倍以上に跳ね上がっているのを検知する。

 

「わあ……! すごーい! 京都の街が全部見えるよ!」

 

 一方、由比ヶ浜結衣は眼下に広がる箱庭のような絶景に感嘆の吐息を漏らしていた。彼女の体力リソースはまだ余裕があるようだが、雪乃はもはや「絶景を楽しむ」ためのメモリすら残っていない様子で、手近な縁台へと吸い込まれるように座り込んだ。

 

「ちょっと休憩だな」

「……そうね。……異論はないわ」

 

 八幡はマックスコーヒーのプルタブを、迷わず引き抜いた。

 プシュッ、という快音と共に、暴力的な糖分とカフェインの香りが鼻腔を突く。

 

「あなたは……いつもそれね。本当に、それが好きなのね」

「これ無しじゃ生きてけねーよ。俺の原子炉(リアクター)の安定剤(クーラント)みたいなもんだ」

 

 八幡はニヤリと笑い、漆黒の聖水を一気に喉へと流し込んだ。

 カラッと晴れ上がった晩秋の伏見山。突き抜けるような青空と、視界を焼き切るような鳥居の朱。そこにマックスコーヒーの甘ったるい刺激が加わることで、八幡のシステムはようやく「最適化」された。

 

(……だが、失敗したな)

 

 八幡は、肩で息をする雪乃の横顔を盗み見た。

 文化祭の時もそうだった。彼女は一度目標を定めると、自身の物理的な限界を度外視して突き進んでしまう。鋼鉄の身体を持つ自分とは違う。彼女の動力源は、その細い身体に宿る強靭すぎる「意志」だけなのだ。

 

 そのフォローこそが、彼女の隣を歩く自分の役目であったはずなのに。

 

「……残念だが、その様子だと、ここから上の『お山巡り』は無理そうだな」

「……そうね。……一息入れたら、降りましょうか」

 

 雪乃はお茶を口にし、乱れた呼吸を整える。

 意地を張って「まだ登れる」と言わないのは、彼女がこのメンバーとの時間をこれ以上「ロス」させたくないという、彼女なりの合理的な判断なのだろう。

 休憩している間にも、後続の観光客たちが次々と四ツ辻に押し寄せてくる。

 ざわめきが増し、静寂という名のバッファが削られていく。雪乃が少しだけ眉をひそめ、人混みに「うんざり」とした信号を発したのを、八幡のセンサーは見逃さなかった。

 

「……よし、降りるか。次は東福寺だ。あっちの方が、今の時間はまだマシだろ」

 

 八幡は立ち上がり、空き缶をゴミ箱へと放り込んだ。

 山頂へ至る「不完全な達成」よりも、今の彼女の安らぎという「確実な正解」を選ぶ。

 

 

──

 

 

 朱色の回廊を逆送し、一行は次なる静寂――紅葉の海が待つ東福寺へと、足取りを移し始めた。

 

伏見稲荷の喧騒を離れ、一行が辿り着いたのは東福寺。

 京都の中央部から絶妙に距離を置いたこの場所は、真に趣を解する者だけを招き入れるような、凛とした空気に満ちていた。

 

「……通天橋(つうてんきょう)。ここから見る景色が、一番美しいはずよ」

 

 雪乃が指し示したその先には、寺院の建築と一体化した重厚な木造の橋が、眼下に広がる紅葉の渓谷を跨いでいた。

 燃えるような赤、鮮やかな橙、そして僅かに残る常盤の緑。それらが織りなす極彩色のグラデーションが、古びた木の質感と溶け合い、一枚の完成された絵画のような雅やかさを生み出している。

 

(……なるほどな。こういうのを通好みって言うんだろうな)

 

 エイトマンの光学センサーが、色彩の彩度と明度を完璧にサンプリングしていく。だが、雪乃のこの「選択」そのものが、八幡の内部回路に深い満足感を与えていた。

 

 ふと見ると、雪乃と結衣が紅葉をバックに互いを撮影し合っている。その微笑ましい光景を眺めているうちに、八幡はカバンの中に眠っていた「特定のハードウェア」の存在を思い出した。

 

(……そういえば、小町のやつにカメラを渡されていたんだったな)

 

 「お兄ちゃんの死んだ魚の目じゃなくて、ちゃんとレンズ越しに青春を記録してきてよね!」という妹の声を思い出しながら、八幡はデジカメを取り出した。

 ズシリとした物理的な質量。電子的なログデータをフィルム(あるいはイメージセンサー)に焼き付けるための機械。

 

「あ、ヒッキーもカメラ持ってるじゃん! 一緒に撮ろ、ほら!」

 

 由比ヶ浜が弾んだ声で駆け寄り、八幡の腕を強引に引っ張った。

 雪乃も少しだけ照れたように、けれど拒むことなく、八幡の隣へと歩み寄る。

 八幡は設定をオートにし、手近な欄干にカメラを固定してセルフタイマーを起動した。

 

 レンズの向こう側。

 真っ赤な紅葉を背景に、中央に結衣、右に八幡、左に雪乃。

 

「ヒッキー、もっと笑って!」

「……これでも最大限の笑顔のつもりだ」

「あら、それなら私の毒舌のログでも流してあげましょうか?」

 

 ピピッ、ピピッ、とタイマーの音が加速する。

 

 カシャリ。

 

 その瞬間、世界が静止した。

 

 鋼鉄の身体に宿った自意識。一度は失われ、機械として再構築された比企谷八幡の人生。

 

 

 ──けれど、この小さなレンズが切り取ったのは、偽りのない三人の笑顔だった。

 

 

──

 

 

 北野天満宮。菅原道真公を祀るその境内は、受験シーズンを控えた学生たちの切実な祈りと、秋の終わりの柔らかな陽光に包まれていた。

 

「悪い、先にお守りとか見てくるわ」

 

 八幡は適当な理由をつけ、雪乃と結衣から一時的に別れた。

 エイトマンとしての鋼鉄の自意識も、妹のために「第一志望合格」と大書した絵馬を熱心に奉納する姿を、年頃の女子に見られる気恥ずかしさには勝てなかった。

 

(……よし。これで小町のログも安泰だ)

 

 無事に絵馬を吊るし終えた八幡は、次なるミッション――土産の調達へと向かう。この近辺なら、聖護院総本店がすぐそこにあるはずだ。

 八幡は周囲の視線が途切れた一瞬、エイトマンの加速装置を極低出力で駆動させた。慣性制御回路が周囲の風景を流動させ、瞬時にして八ツ橋の老舗の前へと移動する。

 

 色とりどりの生八ツ橋を数種類買い込み、自分でも味見するために小包を一つ余分にもらった。

 神社の喧騒を少し離れた、静かな路地裏の腰掛け。八幡は袋を開け、ニッキの香りが漂う一切れを口に運ぼうとした。

 

「――で、なんでおまえがここにいるんだ?」

 

 八幡は、手に持った八ツ橋を口に運ぶ動作を止めることなく、隣に座る「それ」に声をかけた。

 隣には、いつもの威圧的なマント姿ではない、上品な紺色の和装に身を包んだ男が座っていた。

 

 ドクトル・デーモン。

 

 人類の敵であり、八幡を一度倒した男。彼は茶碗を手に、至極平然とした様子で生八ツ橋を「しばいて」いた。

 

「私はどこにでも居る。おまえの在るところにはな、エイトマン」

「なんの用だ」

 

 八幡は事務的に返した。

 驚愕して戦闘態勢に入るフェーズはとうに過ぎている。この男は、現れるべき時に現れるシステムの一部のようなものだ。ただし、八幡の右腕の反応炉(リアクター)は、いつでも装甲を展開し、この平穏をぶち壊そうとする魔人を排除できる準備を整えていた。

 

「そんなに殺気立つな。この古都にはふさわしくない」

 

 デーモンは、眼鏡の奥の鋭い瞳で、色付き始めた古都の街並みを眺めた。

 

「美しい都市だ。東京など足元にも及ばん。先人たちの知恵と技術、そして信仰という名の演算が千年以上も積み重ねられ、結晶化した……。システム構築の美がここにはある」

 

 八幡の背筋に、嫌な冷気が走った。

 それは昨日、自分が龍安寺で抱いた感想と、あまりにも不気味に一致していたからだ。どれほど身体を鋼鉄に変え、怪物と戦おうとも、自分という個体の根本的な思考回路は、この狂った天才と地続きであるという事実。

 

「話を逸らすな。何をしに来た。修学旅行の邪魔をするなら、今ここで終わらせてやるが」

「貴様に別れを告げに来た」

 

 デーモンは茶を飲み干し、こともなげに言い放った。

 八幡の光学センサーが、男の表情をミクロ単位でスキャンする。嘘や欺瞞の兆候はない。ただ、そこにあるのは、一つの実験を終えた後のような、空虚で冷徹な確信だった。

 

「別れ……だと?」

 

 北野天満宮の境内に漂う線香の香りが、秋の冷気と混ざり合う。

 ドクトル・デーモンが口にした「別れ」の真意。それは敗北による逃走ではない。

 

「本国から招集がかかった。私の頭脳が必要な、より大きな、より根源的な案件らしい。……もうすぐ私は、この国を去る」

 

 デーモンは、まるで明日もまた会うかのような軽さでそう告げた。

 

「……そうかよ。清々するぜ。あんたがいなくなれば、この国の治安維持コストも大幅に削減できる」

 

 

「――だから、私は、近いうちにおまえに『挑戦』することにした」

 

 

 八幡の音声ユニットが、言葉を紡ぐのを止めた。

 全身のサーボモーターが、無意識のうちに限界まで緊張し、装甲の隙間からかすかな排熱音が漏れる。

 

「……挑戦だと? どういうことだ。これ以上の破壊活動を予告しに来たのか」

「言葉のままだ。私は近い将来、私の科学の全身全霊、全存在を懸けて、おまえに――『エイトマンに挑戦する』」

 

 その声には、八幡を一度殺し、弄んできたこれまでの「嘲り」は微塵もなかった。

 そこにあるのは、自分と同じ地平に立つ「人生最高の宿敵」に対する、狂おしいほどの敬意と誇りが込められた、真摯な宣戦布告だった。

 

「……あんた、バカか。そんなもん、俺が受けるわけねーだろ。俺は平和な日常を守るために戦ってるんであって、あんたの個人的な自己満足に付き合う義理はねえ」

「受けるさ。おまえは、比企谷八幡」

 

 デーモンは、眼鏡の奥の冷徹な、けれどどこか確信に満ちた瞳で八幡を射抜いた。

 

「なぜなら、おまえは私に対して『恩義』を感じているからだ。……論理的に、それを否定することはできないはずだぞ?」

「…………っ」

 

 八幡のメインプロセッサが、過去のログを高速で走馬灯のように駆け巡る。

 鋼鉄の論理回路は、無情にもデーモンの言葉の正当性を証明(エビデンス)として出力した。

 

 サイボーグ・ケンとの死闘。窮地に陥った川崎沙希を、影から救ったのはデーモンの介入だった。

 

 プロフェッサー・ユレーとの戦い。機能停止寸前の自分を救うため、自らの尖兵であるベラを派遣し、窮地を脱する隙を与えたのもこの男だ。

 

 そして――何よりも。

 

 超人サイバーの手によって、一度は物理的な生命を失った雪ノ下雪乃。

 彼女をこの世に呼び戻し、その細胞の一切を欠損なく再構築して蘇生させたのは、ドクトル・デーモンという「怪物」の、神をも恐れぬ禁忌の科学だった。

 

(……クソッ!)

 

 返す言葉が見つからない。

 雪ノ下雪乃が今、笑顔で京都の街を歩いている。その奇跡の半分は、比企谷八幡の必死の戦いによるものだが、残りの半分は、紛れもなくこの男の「気まぐれな慈悲」によるものなのだ。

 

「私の挑戦を、受けてくれるな?」

 

 デーモンは静かに、最後の一切れの八ツ橋を口に運んだ。

 それは契約の印のようでもあり、終わりの始まりのようでもあった。

ドクトル・デーモンは、ゆっくりとその場から立ち上がった。

 

 和装の裾を整え、眼鏡の奥の怜悧な知性を光らせて、彼は比企谷八幡――エイトマンへと最後のアドバイスを投じる。

 

「安心しろ。この美しい京都を、我々の無骨なエネルギーの衝突で戦場に変えるつもりはない。……今はせいぜい、その束の間の、あまりに儚い青春とやらを味わうがいい」

 

 その言葉は、ある種の慈悲のようでもあり、あるいはこれから奪い去るものへの冷酷なカウントダウンのようでもあった。

 

「だが、千葉に戻った時は……覚悟するがいい。私の挑戦状が届く時。それが、私と貴様、どちらの演算がこの世界の真理に近いかを決める、雌雄を決する合図だと知れ!!」

 

 デーモンは高らかに言い放ち、一度も振り返ることなく、夕闇の彼方へと消えていった。

 

「…………っ」

 

 八幡の右手に力がこもる。ハイマンガン・スチールの指先が、持っていた八ツ橋の包みを無残にひしゃげさせた。

 

 奴は、本気だ。

 

 今までの、猫が鼠を弄ぶような遊び(ゲーム)ではない。ドクトル・デーモンという男が、その全知能、全科学力、そして全人生を懸けて、比企谷八幡という個体を完全に粉砕しに来る。

 それは、エイトマンとして再生して以来、最大の、そして最凶の嵐の予感だった。

 

 八幡は、手に残った最後の一片の生八ツ橋を、力任せに口へと放り込んだ。

 続けて、冷めかかった茶を一気に喉へと流し込む。

 

(……味が、しねえ)

 

 超高精度の味覚センサーが、シナモンの香りや小豆の甘みを数値化して報告してくる。だが、八幡の自意識はそのデータを拒絶していた。今はただ、胃の奥に落ちていく物質の質量だけが、自分がまだここに存在しているという唯一の証明だった。

 

 けれど。

 八幡は、その「無味」の中に、確かな決意を刻み込んだ。

 

 雪ノ下を救ってもらった恩義。

 

 川崎や皆を間接的に守られた借り。

 

 それらすべてを、拳に込めて叩き返す。

 それが、一人の男として、そしてエイトマンという救世主として選ぶべき、唯一の「誠実さ」なのだから。

 

「……待ってろ。全部、精算してやるよ」

 

 夕暮れの北野天満宮。

 修学旅行の終わりを告げる風が、八幡の頬を冷たく撫でていく。

 遠くから、自分を呼ぶ雪乃と結衣の声が聞こえた。

 

 八幡は深く息を吐き出し、原子炉(リアクター)の回転数を「日常モード」へと強制的に引き下げた。

 仮面を被り、死んだ魚の目を呼び戻す。

 けれど、その奥底に灯った戦士の火は、もはや消えることはなかった。

 

 

 




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