——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第四十三話:劇薬投入

 

 修学旅行という、非日常の極致のような三日間が終わった。

 休日を挟んだ月曜日の朝。カーテンの隙間から差し込む光は妙に澄み切っており、窓の外からは冬の訪れを告げる鋭い風の音が聞こえてくる。

 

(……空気が変わったな)

 

 八幡は、冷え切った廊下を通り洗面所へと向かった。ハイマンガン・スチールの骨格は気温の変化に左右されないが、表皮のセンサーが捉える「寒気」は、確かに十一月が終焉に向かっていることを告げていた。

 

「おはようございますにゃーん、八幡様」

「……おう。相変わらずだな、お前も」

 

 リビングを通り過ぎる際、いつも通りエプロン姿のベラと挨拶を交わす。ドクトル・デーモンが送り込んだロボットであり、今は比企谷家の居候。彼女の存在そのものが、あの男との繋がりを断てない現実を象徴していた。

 

 洗面所で蛇口を捻り、冷水を顔に叩きつける。

 肌を刺す冷たさが、強制的に意識を覚醒(ブート)させた。

 鏡の中の自分を見つめる。

 死んだ魚のような目は健在だが、その奥底に宿る光は、京都へ行く前よりも明らかに鋭さを増していた。集中力を高めれば、網膜の奥で青白いパルスが火花を散らすのが分かる。

 

(……今年も、あと一ヶ月と少し。その僅かな間に、奴は来る)

 

 ドクトル・デーモン。

 この世界で唯一、自分を「エイトマン」という超人として正当に評価し、そして完全な破壊を誓った天才。そこにはもはや、かつてのような卑俗な嘲笑は存在しない。あるのは、互いの知能と意地、そしてプライドのすべてを懸けた「証明」のための激突だ。

 

 そして、八幡にとっては別の意味があった。

 

 雪ノ下を救い、自分を救世主へと仕立て上げたあの男への、不本意ながらも深く刻まれた「恩義」。それを清算し、一人の男として、そして鉄の救世主として真っ向から迎え撃つ。

 

(勝てるか……? 相手は俺を知り尽くした、あのデーモンだ)

 

 ふと、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。

 センサーの不具合ではない。内部の原子炉(リアクター)が過熱しているわけでもない。

 これは、武者震いというやつか。

 

(……笑えねーな。俺にも、こんな熱さがあったなんて)

 

 鋼鉄の心臓が刻む、かつてないほど力強い鼓動。

 八幡は小さくため息を吐き出し、鏡の前を離れた。

 

 

──

 

 

 リビングに戻ると、小町がキッチンに立って湯沸かしポットで茶を淹れていた。

 カチッ、という加熱終了の音が、静まり返った朝の空気にやけに大きく響く。

 

「あ、お兄ちゃん。おはよ」

「おお、おはよう」

 

 朝の定型プロトコル(挨拶)を返す。

 八幡は椅子を引き、テーブルに着いた。小町は急須から湯呑みにお茶を注ぎながら、少し不思議そうな顔をして八幡の顔を覗き込んだ。

 

「お兄ちゃん、なんかシリアスな顔になってるけどだいじょうぶ? また変な量子力学の夢でも見た?」

「……マッ缶飲んだから目が覚めたんだよ。思考回路がフルスロットルなだけだ」

「ふーん……」

 

 小町は納得したのかしていないのか分からない生返事をし、八幡の前に朝食の皿を並べた。

 「いただきます」。二人で唱和し、食事が始まる。

 味噌汁を啜りながら、八幡の超電子頭脳(ブレイン)は今後のタイムラインを高速で演算していた。

 京都、北野天満宮でのデーモンの宣告。

 

 『私の挑戦状が届く時、それが雌雄を決する合図だと知れ』。

 

(奴は遊びを辞めた。……次は、比企谷八幡ではなく、エイトマンというシステムそのものを完全にデバッグしに来る)

 

 ふと、向かいに座る小町と目が合った。

 彼女はそっとお椀を置くと、おもむろに口を開いた。その瞳には、お調子者の妹ではない、兄の異変を正確にスキャンするような鋭さが宿っていた。

 

「ねぇ」

「ん?」

「なんか、あった?」

 

 八幡は箸を止め、一瞬だけ沈黙した。

 ナノマシンの制御により、表情に「動揺」が出ることはない。だが、小町という観測者に対して、論理的な誤魔化しが通用しないことを彼は経験則から知っていた。

 

「……喧嘩を売られた」

 

 小町は一瞬、何を言われたのか理解できなかったのか、目をぱちくりとさせた。

 

「ケンカ? ……お兄ちゃんが、ケンカ?」

「ああ」

 

 目玉焼きを口に運び、無機質に咀嚼しながら答える。

 

「だって事実だからしょうがないだろ。……向こうも本気みたいだしな」

「えぇ……。誰によ。まさか学校の怖い人? それとも、またあの……葉山さんとか?」

「いや、違う。もっと……なんて言うか、腐れ縁の相手だ」

 

 八幡は視線を落とした。

 エイトマンとして戦う宿命。ドクトル・デーモンという名の「腐れ縁の宿敵」。

 小町には決して言えない真実。けれど、今の八幡を突き動かしているのは、恐怖でも義務感でもない。

 

「……そいつには、いろいろと借りがあるんだ。……不本意だが、命の恩人でもある」

「命の……?」

「ああ。だから、そいつが本気で来るって言うんなら、俺も全力で応えるしかねーんだよ。それが、俺なりの……『本物』のケジメの付け方だ」

 

 八幡の音声ユニットから漏れた言葉は、かつての卑屈な冷笑を脱ぎ捨て、鋼鉄の重みを帯びていた。

 原子炉(リアクター)の出力が、静かに安定していく。

 小町はしばらくの間、八幡の顔をじっと見つめていたが、やがて「はー……」と大きなため息をついた。

 

「よく分かんないけど、お兄ちゃんがそこまで言うなら、相当な大喧嘩になりそうだね。……無理しないでよ? 大怪我したら小町ポイント、マイナス無限大にするから」

「……分かってるよ。小町の資産をこれ以上減らすわけにはいかねーからな」

 

 八幡は最後のお茶を飲み干し、席を立った。

 喧嘩、か。

 人類の命運を懸けた激突であっても、今の八幡にとっては、この日常を守り抜くための、たった一つの「必要な対話」に過ぎなかった。

 

「そんなことより、雪乃さんと結衣さんとはどうだったの?」

 

 朝食の味噌汁を飲み干した小町が、茶碗を置く音と共に、逃げ場のない直球を投げてきた。

 

「……またその話かよ。別になんもねーよ。ただの修学旅行だろ。寺を見て、タクシーに乗って、飯を食った。それ以上のログは存在しない」

 

「ウソでしょ! あーんないい笑顔で写真撮ってたじゃん!」

 

 小町が「ずびしっ」と指を差す。その指先が向いているのは八幡の部屋。

 そして昨夜八幡が自室のデスクにそっと飾った、あの一枚の写真に対してだった。

 東福寺、通天橋。

 燃えるような紅葉を背景に、少し照れくさそうに笑う八幡。その隣で太陽のように弾ける笑顔の由比ヶ浜。そして、凛とした、けれど柔らかな微笑みを浮かべる雪乃。

 エイトマンの光学センサーではなく、小町から託されたデジカメが切り取った、あの瞬間の光。

 それは比企谷八幡というシステムにとって、いかなる高度な暗号化(エンクリプション)よりも強固なパスワードがかかった、不可侵の領域だった。

 

(……あの時の思い出は、俺だけのストレージにある。妹といえど、無断閲覧は禁止だ)

「……もう、意地悪! じゃあ、もう聞かない」

 

 小町は頬を膨らませて不貞腐れたような顔をしたが、その瞳の奥には兄の無事な帰還と、かつてないほど「充実した」表情に対する安堵が滲んでいた。伊達に十五年近く一緒に住んでいない。彼女には、八幡がどれほどこの旅を大切に思っているかが、手に取るように分かっていた。

 

「……そうしてくれ」

 

 八幡が短く返すと、小町は「はいはい」と席を立ち、リビングから玄関へと向かった。

「じゃあ先行くねー。鍵かけといてね!」

「おう。車に気をつけろよ」

「はーい!」

 

 バタン、と元気な音を立てて扉が閉まる。

 いつも通りの、ありふれた家族のパケット交換。

 

 エイトマンとしての鋼鉄の使命も、デーモンからの不穏な挑戦状も、今のこの静寂の中では遠いノイズのように感じられた。

 比企谷家は、今日も平和だった。

 

──

 

 

  八幡は柄にもなく、授業が一つ終わるたびに身体が軽くなる感覚を覚えた。

 自然と放課後までの残り時間を数えてしまう。

 そして、帰りのホームルームが終わると同時にそのカウントダウンも終わった。

 大して入ってない鞄を手に取り、廊下に出る

  最短ルートを検索し、時に手すりや階段を飛び越えそうになるのを抑えて歩く

 

 早過ぎても、遅過ぎてもダメなのだ。

 そして、部室の目の前に立つ

 中に人がいるかどうか、スキャンなど絶対にしない

 呼吸を整えて扉を静かに開ける

 

――開かれた扉の先。

 西日に照らされた部室の中、彼女はいつもの場所に座り、静かに本をめくっていた。

 雪ノ下雪乃。

 京都でのあの凛烈な美しさはそのままに、けれどどこか、校舎の喧騒から切り離されたこの空間に馴染む「穏やかさ」を纏っている。

 八幡は、自身の鋭すぎる感覚を意識的に和らげた。熱を測ることも、表情の細かな動きを解析することもしない。ただ、ありのままの視界を通じて、目の前の少女の姿を一人の少年として受け止めた。

 

「……あら。随分と早くきたわね。廊下から凄まじい風を感じたのだけれど」

 

 雪乃は顔を上げず、ページをめくる指も止めずに告げた。その声の響きは、八幡の耳に心地よく、安らかな調べとして届く。

 

「……気のせいだ。ただ、少し急いだだけだ」

 

 八幡はいつもの定位置に鞄を置き、椅子を引いた。

 ガタ、というありふれた椅子の鳴動。それが、京都という特別な場所から、この部室という日常の場所へ、自分の心を完全に引き戻すための最後の手続きだった。

 雪乃は一度きりの良いところで本を閉じると、ようやく顔を上げた。

 二人の視線が重なる。かつての自分なら、数秒も経たずに視線を逸らしていただろう。だが今は、彼女の瞳の奥にある「何か」を、言葉ではなく温もりとして受け止めることができる。

 

「修学旅行のあとの月曜日は、もっと抜け殻のようになっているかと思ったわ。……少しだけ、顔色が良くなったかしら」

「甘い飲み物で一息ついたおかげだ。……お前こそ、疲れは取れたのか。京都では最後、随分と辛そうだったが」

「……ええ。十分に休息をとったわ。おかげで、今はとても穏やかな心持ちよ」

 

 京都、北野天満宮。

 宿敵から突きつけられた、避けられぬ戦いの約束。

 八幡の思考の隅には、常にその重い宿命が居座っている。けれど、この部室に漂うお茶の香りと、彼女の何気ない言葉に触れている間だけは、鋼鉄の救世主としての重圧を、一時の忘却として棚上げすることができた。

 やがて、廊下からパタパタという、軽快な、けれどどこか迷いのある足音が近づいてくる。

 由比ヶ浜結衣。

 彼女がこの部屋に入ってきた時、この静かな水槽のような空間は、ようやく完全な「奉仕部」として再び動き出すのだ。

 

「……さて」

 

 八幡は、机に置いた自分の「黒と赤の器」を見つめた。

 迫りくる嵐の予感。学校で始まろうとしている新たな出来事。そして、避けられぬ決戦。

 守りたい日常の形が、今、目の前にある。

 

「比企谷くん」

「ん?」

 

 雪乃が、ふと悪戯っぽく口角を上げた。

 

「……その器、少しだけ傷が増えたのではないかしら。……京都で、何かと向き合ってきたのかしら?」

「……ただの使い込みだ。気にするな」

 

 八幡は目を逸らし、甘いコーヒーを一口含んだ。

 見透かされているのかもしれない。あるいは、ただの勘かもしれない。

 けれど、その「完全には分かり合えない」からこそ響き合う重なりが、今の八幡にはたまらなく愛おしかった。

 

「やっはろー!」

 

 その声は、重厚な扉を突き破る物理的な衝撃波のように部室へ響き渡った。

 由比ヶ浜結衣。奉仕部というアクアリウムに、最も純粋で、最も不可欠な「熱量」を運び込む少女が、休日明けの沈黙を一瞬で塗り替えた。

 八幡は、手にしていた文庫本から視線を上げ、網膜ディスプレイの感度を通常モードに固定した。彼女から放射されるバイオ信号は、かつてないほど「高揚」と「自信」に満ちた周波数(パルス)を描いている。

 

「ねえねえ、見て! 休みを使って、今日のおやつ作ってきたんだ!」

 

 彼女が誇らしげに差し出したのは、数個の小さな袋。

 八幡の光学センサーが、袋の中身を瞬時に走査(スキャン)する。

 

(……組成解析開始。炭素化反応、なし。表面の焦げ付き、基準値内。……狐色、か)

 

 一学期の頃、依頼を受けて作ったあの「黒い炭の塊」とは、もはや別の設計思想(コンセプト)に基づく物体だった。封を切ると、砂糖と小麦粉が適切に加熱された際に放つ、芳醇で幸福な香りが部室の空気を満たしていく。

 

「……あら。随分と、食べ物らしい外見になったのね」

 

 雪乃が、少しだけ驚いたように目を細めた。彼女はクッキーを一つ手に取り、その焼き加減を確認するように眺めてから、小さく口に運んだ。

 

「……ええ。及第点よ。香ばしさも、甘さの加減も、あなたの努力が正しく形になっているわ」

「やったぁ! ゆきのんに褒められた!」

 

 由比ヶ浜はパッと顔を輝かせると、そのままの勢いで八幡の元へと歩み寄った。

 物理的な距離が、急速に縮まる。八幡の近接センサーが警告を発するよりも早く、彼女は可愛らしく包装された小さな包みを八幡の手に直接押し付けた。

 

「はい、ヒッキー。これ」

「……あ? 俺の分なら、さっき食っただろ」

「違うよ! それは小町ちゃんへのお土産! お兄ちゃんばっかり美味しいもの食べてズルいって言われないようにね」

「…………」

 

 八幡は、手のひらに残る包みの軽さと、それとは対照的な「気遣い」の重みを感じていた。

 小町への配慮。それは、比企谷家のシステムを間接的にハックし、八幡という個体の防壁を内側から崩そうとする、極めて高度で、かつ純粋な「親愛」のプロトコルだ。

 

(……今日の由比ヶ浜、なんだ。……積極性のパラメータが、明らかにバグレベルで跳ね上がってやがるな)

 

 これまでの彼女は、場の空気を読み、自分を抑えることでバランスを保つ「受動的な最適化」を得意としていた。だが今の彼女は、自らが発信源(ソース)となり、この空間の温度を自らの意志で引き上げようとしている。

 

「小町ちゃんにも、よろしく言っておいてね。……あたし、もっと上手になったら、また持っていくから!」

 

 満面の笑み。

 夕日に照らされた彼女の瞳は、どんな高出力のレーザーよりも鮮明に八幡を射抜いていた。

 

「……ああ。伝えておく。あいつ、喜びすぎて小町ポイントをインフレさせそうだがな」

 

 八幡は顔を背け、不器用にクッキーの袋を鞄にしまった。

 

 ──以前より、部室の明度と彩度が上昇したような感覚を覚えた。

 奉仕部全体の空気が弾んでいる。そして、柔らかい静寂に包まれている。

この空間は今、三人にとって理想的な最適化を完了していた。

 

 その空間に、コンコンというノックの音が響いた。

 

「どうぞ」

 

 雪乃が答えた。そして、がらっと勢いよく扉が開かれる

 

「邪魔するぞ」

 

 そう言って入ってきたのは平塚先生だった。艶のある黒髪を揺らしながらつかつかと入ってくる

 

「少し頼みたいことがあるんだが…」

 

 平塚先生自ら依頼を持ってくるとは珍しいことだった。

八幡はなにか嫌な予感がしたが、とにかく話を聞かないことでは始まらない

 

「何かあったんですか?」

 

八幡が言うと、平塚は背後に控えていた者に入室を促した。

 一人は知っている。文化祭実行委員会でも世話になった、生徒会長のめぐり先輩だ。

 

 だが、めぐり先輩の背後から現れたその少女を見た瞬間、比企谷八幡の全センサーが最大級の警戒(レッドアラート)を発信した。

 

(……なんだ、この個体は。バイオ信号が……不自然なまでに『最適化』されてやがる)

 

 亜麻色のセミロングに、潤んだ瞳。一見すれば、守ってあげたくなるような「ふわふわ」とした印象を放つ少女。だが、エイトマンの表情解析ログは、彼女の口角の角度や瞬きのタイミングが、周囲の好感度を最大化するためにミリ秒単位で計算された「戦術的なあざとさ」であることを瞬時に見抜いていた。

 

「あ、いろはちゃん!」

「結衣先輩、こんにちは〜。修学旅行、お疲れ様でしたぁ」

 

 由比ヶ浜と交わされる挨拶。八幡は脳内のメインフレームを回し、記憶データベースから該当する個体情報をサルベージする。

 一色いろは。一年生。サッカー部マネージャー。校内カーストにおいて「葉山隼人グループ」の周辺を漂う、計算高い立ち回りで有名な新入生。

 

(……間違いねえ。こいつは、雪ノ下陽乃とはまた質の違う『外装特化型』の猛獣だ)

 

 八幡の「ぼっち信号」は、彼女が自分のような異物に対しても、瞬時に「自分を良く見せるための道具」としてカテゴリー分けするであろう冷徹な本性を捉えていた。

 

 一色いろはという劇薬を投入したことにより、奉仕部は新たな局面を迎えようとしていた。

 

 

 




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