——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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冒頭部分が抜けてたので追加しました。


第四十四話:崩壊する聖域

 

 

「平塚先生、相談事というのは……」

 

 雪乃が姿勢を正し、事務的なトーンで問いかける。その瞳は、一色いろはという「不確定要素」に対し、既に防御壁(シールド)を展開しているように見えた。

 

「ああ。城廻、説明してやってくれ」

 

 平塚先生に促され、生徒会長の城廻めぐりが、どこか申し訳なさそうに口を開いた。

 

「実はね……生徒会選挙のことなんだけど。今回、この一色さんが『不本意な形』で推薦されちゃったみたいなの」

「推薦……? それは名誉なことではないかしら」

「それが……本人は全くやる気がないのに、クラスの連中が悪ノリで勝手に名前を書いちゃって」

 

「つまり、生徒会長をやりたくないってことか」

 

 比企谷八幡は、背もたれに深く体重を預け、濁りきった視線を天井へと向けた。

 ここ最近、文化祭や西葛西での激闘で見せていた「鋼鉄の救世主」としての鋭い覇気は、今や完全にスリープモードへと移行している。代わりに表層にせり出してきたのは、誰もが知る、そして誰もが近寄りたがらない「腐った魚の目をした、最高にかったるそうな比企谷八幡」だった。

 

「……おまえ、嫌われてんのか」

「――――えっ」

 

 部室の空気が、パキンと音を立てて凍りついた。

 一色いろはは、上目遣いに潤ませていた大きな瞳を丸く見開き、半開きになった口のまま固まっている。隣にいた城廻めぐり先輩も「ええっ……」と顔を引き攣らせ、由比ヶ浜結衣に至っては「ヒッキー! 言い方!」と八幡の肩を激しく揺さぶった。

 

「な、ななな、何言ってるんですかぁ!? ひどいですぅ! 私、クラスでは普通に仲良くやってますし、嫌われてるなんて心外ですーっ!」

 

 いろはが、大袈裟なアクションで頬を膨らませ、抗議のパケットを送信してくる。

 だが、八幡の光学センサーは、彼女の網膜の奥に一瞬だけ走った「計算」の火花を見逃さなかった。エイトマンの表情解析ログによれば、今のショックは八割が演技、二割が「図星を突かれたことへの不快感」に分類される。

 

「……事実だろ。ノリで誰かを推薦するってのは、要するに『お前、この面倒な役職を背負って私たちの前から消えろ』って言われてるのと同じだ。……まともな好感度があれば、誰もそんなリスクの塊を押し付けたりしねーよ」

 

 八幡の声は、冷たく、そして生々しい「ぼっちの真理」を湛えていた。

 

「…………っ」

 

 いろはの唇が、わずかに震える。今度のバイタルデータは本物だ。プライドの高い「外装特化型」の彼女にとって、自分の人間関係が「欠陥品(バグ)」であると断じられることは、何よりのダメージとなったらしい。

 

「比企谷くん。あなたの指摘は、表現こそ極めて不適切だけれど、状況の分析としては概ね妥当だわ」

 

 それまで沈黙を守っていた雪ノ下雪乃が、ページをめくる手を止めて口を開いた。

 

「雪ノ下先輩まで……。あ、あの、私……」

 

 いろはは助けを求めるように由比ヶ浜を見た。

 由比ヶ浜は、八幡と雪乃の「正論という名の物理攻撃」に晒された後輩を不憫に思ったのか、おずおずと口を開く。

 

「……でもさ、ゆきのん。いろはちゃん、本当に困ってるみたいだし。それに、なんか策があるんでしょ? ヒッキーも、そうやって不機嫌そうにしてる時って、大体なんか考えてるし!」

 

 八幡は「……考えてねーよ。マッ缶の補充のことしか考えてねえ」と心の中で悪態をついた。

 比企谷八幡の内部原子炉(リアクター)は、静かに、けれど確実に熱量を増していた。

 

 それは戦闘に向けた高揚ではない。純粋な「苛立ち」だ。

 ドクトル・デーモンという最大級の脅威がいつ牙を剥くか分からぬ中、本来なら雪ノ下雪乃との静謐な時間を一秒でも長く確保すべき時。そんな貴重なリソースを、この「あざとい」後輩の、身勝手極まりないわがままに割かねばならない。

 

(……生徒会選挙だと? そんな不毛な政治ゲームに首を突っ込む暇があるなら、俺は雪ノ下の読書している横顔をあと五分は眺めていたいんだよ。俺の青春の残存時間を返せ)

 

 だからこそ、八幡の一色いろはに対する態度は、剥き出しの刃のように鋭くなった。

 由比ヶ浜の「穏便に解決しよう」という提案も、平塚先生の「大人の事情」も、今の八幡にとっては最適化を妨げるノイズでしかない。

 八幡はかったるそうな態度はそのままに、気まずそうに視線を泳がせる一色を、その「腐った目」でじろりと見据えた。

 

 ……だが、確かに、一色に対して言い過ぎたかもしれない。深く考えずに悪ノリしたクラスメイトたちの結果、とんでもない事態に巻き込まれる……それは「若さゆえの過ち」として、この学校という不完全なシステムでは頻発するバグ(過ち)なのだろう。

 

「……まあ、こっちも言い過ぎた。本当に困ってるなら、どうにかしてやるか。……部長?」

 

 八幡が隣に座る雪乃を仰ぐと、彼女は一瞬だけ意外そうに目を見開いたが、すぐにいつもの落ち着きを取り戻した。

 

「……そうね。本人もこれだけ深刻だと受け止めていそうだし。奉仕部として無視するわけにはいかないわね」

 

 雪乃の受諾。それによって、ようやく奉仕部による「一色いろは救済オペレーション」が正式にブートされた。

 

 

 ──

 

 

「やりたくない、そして他に候補者がいないなら、落ちるしかねえな」

 

 八幡の提示した「最短解」に、いろははあからさまに頬を膨らませて抗議のパケットを送信してきた。

 

「ていうか、信任投票で落選って超カッコ悪いじゃないですかー! 信任投票って時点でもうショボいですし! ……そういうのは恥ずかしいし嫌なんですっ」

「…………」

 

 八幡は眉間に手をやりながら、努めて冷静に、そして「寛大」に思考を巡らせた。

 決してイラついているわけではない。決して。……ただ、この効率の悪いやり取りを速やかに終了させたいだけだ。

 一色いろはは、嫌がらせ同然で立候補させられた「被害者」である。一応。

 だから、非のない者が泥を被り、社会的信用(プライド)を損なうのは、論理的整合性に欠ける。一応。

 八幡は大きく息を吐き出し、最大限に譲歩した案を出力することにした。

 

「負けるだけなら、いくらでもやりようはある」

 

 八幡は、空になったコーヒーの缶を見つめながら、温度のない声で言い放った。

 部室の空気が、彼の放った冷徹な一言で一瞬にして重くなる。

 

「でも、そんなことできるの?」

 

 結衣が困惑しながら口を開いた。

 結衣の疑問も当然だ。しかし、八幡の超電子頭脳は、既にこの選挙という仕組みを解体し、最も効率的な『出口』を演算していた。

 

 ドクトル・デーモンからの挑戦を前にした今、学校の政治劇にリソースを割く余裕はない。雪ノ下雪乃との静かな時間をこれ以上削り取られるくらいなら、彼は躊躇なく泥沼へと足を踏み入れる。

 

「候補者は一色一人。その一色を支える要員は、まだ公式には決まっていない。……なら、そのスタッフの不手際によって落選するように誘導すればいい」

「……え? 不手際、ですか?」

 

 いろはが首を傾げる。八幡は淀みなく言葉を重ねた。

 

「一色が原因で落ちるのではなく、周囲に原因を転嫁する。……例えば、応援演説が最低な内容であれば、全校生徒の反感は一色ではなく、その『演説者』に向く。お前はただ、無能なスタッフに足を引っ張られた、可哀想な被害者のままでいられる」

 

 それが、比企谷八幡の導き出した、誰一人として傷つけずに(自分という部品を除いて)問題を終わらせるための最適解だった。

 しかし。

 

「……」

 

 雪ノ下雪乃は、一言も発さなかった。

 だが、その指先が膝の上で白くなるほど握りしめられ、端正な顔立ちがだんだんと強張っていくのを、八幡は見落としていた。

 

「応援演説が原因で不信任になるなら、誰も一色のことは気にしない。……敗北の原因を、拒絶の理由を、すべてすり替えてやればいい。それが現状では行える最短のやり方だ」

 

 八幡が語る「正解」は、あまりにも合理的で、あまりにも卑怯だった。

 自分が悪役(ヴィラン)を引き受ければ、全ては丸く収まる。鋼鉄の身体になった自分が、今さら周囲の冷たい視線に怯えることなどない。

 

 八幡は、目的の達成の為なら、自分を道具のように使い潰すことに、なんの抵抗も無かった。

 

「比企谷くん」

 

 だが、その沈黙を破った雪乃の声は、凍てつくような冷たさと、隠しきれない震えを孕んでいた。

 

 いつの間にか、八幡の目の前に雪ノ下雪乃が立っていた。

 夕暮れの光を背負った彼女の影が、八幡の網膜ディスプレイに長い影を落とす。八幡の超電子頭脳(ブレイン)は、想定外の近接距離に反応し、一時的な演算停止(ポーズ)を選択した。

 

 その瞬間だった。

 

 

 ――ぱしっ。

 

 

 乾いた音にさえならない、弱々しく、あまりにも遅い『平手打ち』。

 それは八幡の頬を掠めるように触れ、彼女の指先の冷たさだけを残して離れていった。

 

「……ゆきのん?」

「雪ノ下、お前……」

 

 由比ヶ浜と平塚先生が、その突然の、あるいはあまりに無力な行為に目を見開いて絶句した。

 雪乃は、その貌(かお)に刻まれた微かな『悲痛』を、鋼鉄の自制心で隠し通そうと努めていた。だが、八幡を射抜く瞳には、隠しきれない絶望の色が混ざり合っている。

 

 雪乃は哀しかった。

 

 比企谷八幡という少年が、何の迷いもなく、まるで当然のコストを支払うかのように自らの身を削るやり方を選んだことが。

 そして改めて、思い知らされていた。彼は、そうやって自分自身を精密な『道具』のように扱い、目的のために磨耗させることを「最適解」と呼べる人間なのだということを。

 

 だが、今の雪乃には、それが許容できなかった。

 あの文化祭。

 一点の曇りもない理想を追い求め、鋼鉄の理論を共有し、不器用ながらも共に一つの世界を創り上げ……そして、魂を同期させたあの日から。

 

 彼女にとって比企谷八幡は、便利な補佐役でも、優秀な演算機でもなくなっていた。

 

 雪乃は、やっとの思いで言葉を絞り出した。

 あくまで冷静に、けれどその声は凍てつく風のように震えていた。

 

「比企谷くん。……冗談でも、いいえ、たとえ本気でも。そういうことを言うのは……やめてちょうだい」

 

 

――私はもう、あなたを『道具』として扱うことができない

 

 

 それは、目まぐるしく変わる状況と人間関係の中で、雪乃がようやく辿り着いた、剥き出しの『想い』だった。

 八幡は、触れられた頬を無意識に押さえた。

 鋼鉄の装甲に、痛みなど届くはずがない。ナノマシンが損傷を検知することもない。

 けれど、原子炉(リアクター)の奥底が、焼け付くような熱を帯びていた。

 

「……雪ノ下。俺は、ただ効率を……」

「効率? ……そんな言葉で、私を納得させられると思っているのかしら」

 

 雪乃は視線を逸らさなかった。

 彼女の拒絶は、八幡の「いつものやり方」を完全に封じ込めていた。自分を勘定に入れない自己犠牲。それが、今、彼女という最強の障壁によって「不正解」と断じられたのだ。

 

「奉仕部としての答えは、別の場所にあるはずよ。……あなたの自尊心を切り売りして作る偽物なんて、私は欲しくないわ」

 

 部室に落ちる影が、より深く、より長く伸びていく。

 

 雪ノ下の放った、力なくも峻烈な拒絶。

 それに続くように、由比ヶ浜も声を震わせながら八幡を見つめていた。

 

「そ、そうだよ。ヒッキーだけイヤな目に遭うなんて……そういうの、なんか、やだ」

 

 由比ヶ浜の言葉が、八幡の原子炉(リアクター)に微かな振動を走らせる。

 今の自分には、彼女たちの抱える「痛み」が、設計図にないエラーコードとして鮮明に読み取れてしまう。効率と犠牲を天秤にかける八幡のロジックは、この部室の温度を一瞬にして奪い去っていた。

 平塚先生もまた、教師としての厳格さと、教え子の不器用さを憐れむような複雑な眼差しを八幡に向けている。

 状況に一人置いていかれた一色いろはだけが、口元に手をやり、大きな瞳をさらに見開いて固まっていた。

 

「……じゃあ、対案。……俺の案を否定するなら、それに代わる案を提示してくれ」

 

 八幡は、頬に残る雪乃の指先の冷たさを振り払うように、努めて冷静な……あるいは、感情を遮断した無機質な声を絞り出した。それは現実逃避に近い、純粋な論理への回帰だった。

 雪乃は一度深く息を吐き出すと、再び席に戻り、城廻めぐり先輩へと視線を向けた。

 

「城廻先輩。一色さんが辞退する場合、新たな候補が必要になるかと思いますが」

「うん、そうだね……。でも、今のところ誰もいなくて……」

 

 雪乃は短くため息を吐いてから、決然と口を開く。

 

「では、他の候補を擁立して、選挙で勝つしか方法はないでしょうね」

「今から候補者なんて見つかるのか」

 

 八幡が即座に反論のパケットを送信した。

 この時期、学校中の生徒が「自分たちの日常」を優先し、責任ある立場から目を逸らしている。一色いろはしか立候補していないという現状こそが、この学校の停滞を何よりも雄弁に物語っていた。

 

「第一、候補者が出たとして、この一年に勝てるのか? わかっていると思うが、高校の生徒会選挙なんてのは、実務能力を問う試験じゃない。……一種の人気投票(アイドル・コンテスト)だ」

 

 八幡の視線が、目の前の一色いろはを改めて捉えた。

 光学センサーを解析モードへと切り替え、彼女という個体の「市場価値」をディープスキャンする。

 

(……一色いろはは、ぱっと見では十分すぎるほど『美少女』の条件を満たしている。サッカー部のマネージャーという肩書きによる知名度、後輩という属性によるブースト。……これらを上回る『正解』を、今から用意できるとは思えねえ)

 

 電子頭脳が導き出した演算結果は、冷徹な真実を突きつける。

 外装、属性、知名度。そのすべてが現在の校内環境に最適化されており、一から対立候補を立てて勝つ確率は、統計学的に見ても限りなくゼロに近い。

 八幡が無言で凝視し続けていると、いろはが居心地悪そうに身をすくめた。

 

「な、なんですかヒキタニ先輩。いきなりじろじろ見て……。気持ち悪いというか、正直ちょっと寒気がしました。……今の、告白ですか? 振りますよ? むしろデリート(消去)してください」

 

 いろはが腕を組んで身をすくめる。

 だが、八幡の視線は彼女を通り越し、雪乃の瞳を真っ直ぐに射抜いていた。

 

「正攻法は、資源(リソース)が豊富な側が選ぶべき選択肢だ。……今の俺たちに、そんな余裕はないはずだろ」

 

 八幡の「正論」という名の冷たい火花が、部室の空気を再びバチバチと震わせる。

 

 

「ふむ、それなら比企谷。お前が立候補するというのはどうだ?」

 

 

 平塚先生の口から放たれたその言葉は、比企谷八幡の超電子頭脳(ブレイン)にとって、いかなる論理演算(シミュレーション)をもってしても予測不能な「致命的エラー」だった。

 

「えっ」

 

 八幡は、手に持っていたマックスコーヒーの缶を落としそうになり、慌てて握力を調整した。

 

「お前の『人望』も、それなりにあると思うぞ? なあ、『書記長閣下』?」

 

「――あ、あの、平塚先生。今、すごく真面目で、かつ人類の存亡(あるいは奉仕部の存続)に関わる深刻な話をしてるんで、そういう低次元な冗談はやめてください。あと、その呪われた呼び方はマジで、一ミクロンも、原子一個分も、口にしないでください。デリートしてください、今すぐに!!」

 

 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる平塚。八幡の原子炉(リアクター)は、羞恥心という名の過負荷によって、文化祭での決戦時と同等の熱量を帯びていた。

 

「ヒッキー? ……『書記長閣下』って、なに? すごい強そうな感じだけど……」

「聞くな由比ヶ浜、忘れろ!! 頼むから……お願いだから記憶のキャッシュを今すぐクリアしてくれ!!」

 

 高校入学以来最大、かつエイトマンとしての全戦歴を通じても最強の黒歴史。かつての狂信者たちが作り上げた『中央最適化委員会』の幻影を掘り起こされ、八幡は精神的な自爆プログラム(自己批判)を起動させたい衝動に駆られた。

 

「お前の『影の人脈』……あの狂気的な事務処理集団を動かせば、選挙など一瞬でハックできると思ったがな。まあ、そこまで嫌がるならしょうがない。……そうなると、他に候補者は……」

 

 平塚が思索するように腕を組んだ、その時だった。

 

「平塚先生」

 

 凛とした、けれどどこか熱を帯びた鈴の音が、不穏な空気を一瞬で凍りつかせた。

 雪ノ下雪乃が、椅子を引く音さえ立てずに立ち上がった。

 

「どうした雪ノ下。誰か良い候補に心当たりがあるのか?」

「私が、立候補します」

 

 雪乃は平塚の目を真っ直ぐに見据え、言い放った。

 その瞳には、一学期の頃の「正しさへの執着」とは違う、より強固で、より鋭利な光が宿っていた。

 

(――――っ!!)

 

 八幡の光学センサーが、彼女のバイタルデータを瞬時にスキャンする。

 

 ――心拍、上昇。しかし呼吸、完全安定。

 それは、迷いや一時的な情動による発言ではない。比企谷八幡が自らの身を削って「悪役」を演じることを拒絶し、ならば自分がその舞台の主役(ターゲット)になると決めた、文字通りの『鋼鉄の意志』。

 

「……雪ノ下、お前がか? ふむ、確かにお前ならば、ある意味『最適解』に一番近いかもしれないな」

 

 平塚先生の声が、遠い電子ノイズのように八幡の鼓膜を震わせた。

 超電子頭脳(ブレイン)は平時の数千倍のクロック数で駆動していたが、その演算リソースの全ては、今しがた雪ノ下雪乃が放った一言によって引き起こされた『ある事実』の解析に奪われていた。

 

(……待て。落ち着け。論理を整理しろ。……雪ノ下雪乃が生徒会選挙に立候補し、当選する。……それは、一色いろはを救うための正攻法だ。だが、そのプロセスが完遂されたとき、このシステムはどうなる?)

 

 網膜ディスプレイに、無慈悲なシミュレーション結果が羅列される。

 

 ――雪ノ下雪乃、生徒会長就任。

 ――生徒会業務の激増、および執務室への移動。

 ――奉仕部、部長不在。

 ――活動維持確率:〇・〇二パーセント。

 

(………………。……いや、違う。この演算は、エラーだ)

 

 八幡は、目の前に突きつけられた『答え』を、思考の深淵で力任せに撥ね退けた。

 普段の彼ならば、零点零数パーセントの確率さえも「事実」として冷徹に受け入れただろう。それが鋼鉄の身体を持つ者の、そして比企谷八幡という現実主義者の矜持だったはずだ。

 だが、今だけは、その論理の整合性が、腐った魚の目を焼くような毒素に感じられた。

 

(計算が間違っている。変数の入力ミスだ。……雪ノ下が生徒会長になっても、俺たちがここにいれば……。いや、だが、物理的な時間は……。リソースの配分は……)

 

 脳内で無限の例外処理が発生する。

 答えは出ている。

 彼女が「正解」を選び、自立の一歩を踏み出す時、この箱庭は物理的にも論理的にも崩壊する。それが今の比企谷八幡が、そしてエイトマンが導き出せる唯一の真理。

 

 けれど、八幡はその結論に「確定(エンター)」キーを押すことを、魂の根源が拒んでいた。

 

(……認めない。そんなログ、俺のストレージには必要ねえ。……これが、お前の出した『答え』だなんて……誰が認めるかよ)

 

 八幡は、その衝撃に言語化する余裕すら失い、ただ自身の REACTOR が発する不快な共鳴音を、必死に抑え込んでいた。

 雪乃がゆっくりと、八幡の方を向いた。

 彼女の瞳の奥で明滅する青白い火花。それをエイトマンの光学センサーは、かつてのどの敵よりも鮮明に、そして残酷なほどの熱量をもって捉えていた。

 

「私が会長になり、この学校のシステムそのものを私が正しく管理する。そうすれば、一色さんの問題も、今後起こり得る不条理も、すべて私が『正解』へと導ける」

 

 それは、比企谷八幡の「鋼鉄の肉体」に呼応するかのような、精神の「鋼鉄化(ハードニング)」。

 自らを犠牲にして世界を最適化しようとする八幡に対し、彼女は自らを神の如き管理者に変えることで応えようとしていた。彼女はもう、八幡を一人で戦わせることを、そして彼を「部品」として失うことを、魂の根源から拒絶している。

 

「……そうか。そこまでの覚悟なら、お前に任せるのも考えるべきだろうな」

 

 平塚先生は、雪乃の双眸に宿る揺るぎない覚悟を汲み取るように、その細い肩にそっと手を置いた。

 

「この話は後日、もっと計画を練るべき案件だろう。……今日はひとまず『解散』とするか」

「わかりました。私も準備があるので、また後ほど改めて話しましょう」

 

 雪乃の声は、凛としていながらも、どこか遠くへ行ってしまうような危うい透明感を湛えていた。

 平塚先生が城廻めぐり先輩を促し、状況についていけず唖然としていた一色いろはを連れて部室を後にする。

 

 ガタン、と重厚な扉が閉まる音。

 後に残されたのは、沈黙する三人だった。

 夕闇が差し込む部室。

 由比ヶ浜結衣は、雪乃の決断の重さに息を呑んだまま、震える指先でスカートを握りしめている。

 雪乃は再び席に戻り、閉じたままの本の表紙を見つめていた。

 

 そして八幡は、自分の鋼鉄の手を見つめた。

 

 目の前に突きつけられた「終わりのデータ」を、ただひたすら無視し続けながら。

 世界を救う力があっても、この壊れゆく「日常」を繋ぎ止めるためのコードが、自分の中のどこにも見当たらないという、論理の外側にある絶望に耐え続けながら。

 




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