——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第四十五話:絶交

 

 

 夕闇が奉仕部の部室を濃い影で浸食し、窓から差し込む一筋の茜色が、比企谷八幡の鋼鉄の右手を鈍く照らし出していた。部屋を満たす沈黙は、かつてないほど重く、そしてどこか湿り気を帯びていた。

 

 空調の微かな稼働音さえもが、沈痛な静寂を際立たせるための不快なノイズへと変わる。先ほどまでここにいた一色いろはのあざとい残香も、平塚先生の有無を言わさぬ威圧感も、今はもうない。ただ、決定的な「断絶」という名の不具合(バグ)だけが、八幡の超電子頭脳(ブレイン)にエラーを報告し続けていた。

 

「……なんで、あんなことを言ったんだ」

 

 八幡の声は、沈痛な空気の底を這うように響いた。それは問いかけというより、目の前の少女が選んでしまった「致命的なエラー」に対する、乾いた嘆きに近かった。いつもの彼なら吐き捨てるはずの鋭い皮肉も、今はリアクターの出力不足か、形を成さずに消えていく。

 

「生徒会に行けば、奉仕部は自然消滅する。……そんなの、ただの欺瞞だろ。お前だって、そんな言葉で納得できるはずが……」

 

 八幡は、手に持った空のマックスコーヒーの缶を、所在なげに弄んだ。いつもなら論理の隙間を的確に突く彼の言葉も、今はどこか焦点が定まらない。

 

「……これが、今の私の最適解だからよ」

 

 沈黙を破ったのは、雪乃の、いつになく力ない声だった。彼女は椅子に深く腰掛けたまま、膝の上で白くなるほど拳を握りしめていた。その端正な横顔は、夕闇の中で氷細工のような硬質さを保とうとしているが、その輪郭はどこか曖昧で、言葉の端々には言い訳めいた響きが混じっていた。

 

「生徒会へ行くことは、奉仕部の解散を意味しないわ……。多分、そうだと思うの」

 

 雪乃は言葉を紡ぎ出す。

 そうであると、言い聞かせるかのように。

 

「奉仕部の活動をそのまま生徒会にスライドさせれば、私たちはより公式に、より広範なリソースを使って問題を解決できる。依頼の受付だって、組織の仕組みとして組み込んでしまえば、場所が変わっても、私たちが提供する価値に変わりはないはずよ」

 雪乃は視線を落としたまま、自分自身を説得するかのように、熱を欠いた言葉を重ねていく。

 

「たとえ部室が執務室になっても、隣にあなたと由比ヶ浜さんがいれば……そこは、奉仕部と同じようなものだわ。……変化しても変わらない関係は、そうやって守るしかないのよ。これが、一番確実な方法なの。……だから、そう、悪い話ではないはずだわ」

 

 それは、彼女らしい峻烈さを欠いた、自分自身を納得させるための演算結果に過ぎなかった。

 

「……なんだよ、それ」

 

 八幡の口から、乾いた笑いが漏れた。いつものキレのある毒舌は影を潜め、言葉の端々には疲労の色が滲んでいる。

 

「環境が変われば、役割が変わる。……責任だって変わる。お前が『会長』になったら、俺たちはもう、今みたいにはいられない。……お前が大事にしてきた正しさって、そんな、組織図(チャート)の上に書き換えられる程度のものだったのかよ」

「……それでも、これ以外に一色さんを救う方法は、私には思いつかないわ」

 

 雪乃の声は、凍てつく風のように頼りなく震えていた。

 

「一色のやらかしのために……なんでそこまでしなきゃいけないんだ。お前にとって、ここで過ごした時間は……俺や由比ヶ浜といたこの場所は、そんなにあっさりと、代わりが効くようなものだったのか?」

 

 八幡の問いかけは、叫びというにはあまりに弱々しく、しかしそれゆえに生々しい痛みを伴って部室に沈殿した。

 反論は、さらに深く、過去の傷を抉るように続いた。

 

「……相模の依頼の時もそうだった。お前はいつもそうだ。自分で決断して、一人で結論を出して、俺や由比ヶ浜を置いて勝手に進む。その姿にどれほど、俺たちが……周りが振り回されてきたか、分かってるのか」

 

 その言葉に、雪乃の瞳に一瞬、鋭い光が戻った。それは防御本能に近い、彼女なりの反撃だった。

 

 「……ならば、あなたはどうなのかしら。さっき、あなたが提案した解決方法――自分を犠牲にして、他者に原因を転嫁するやり方。それこそが、他者を無視した独りよがりの最たるものだという件については、どう弁明するつもり? 人の気持ちを考えていないのは……一体どちらなのかしら」

 

 八幡は言葉に詰まり、視線を床へと落とした。夕闇の影が、彼の顔を半分以上覆い隠す。

 

「……俺のことなんて、どうでもいいだろ……」

 

 ぽつりと漏れたその一言が、雪乃の心に火をつけた。

 

(――どうでもよくなんて、ない。どうしてあなたは、そうやって自分を切り捨てるの。もっと、自分を大切にしてほしいのに)

 

 胸の奥で渦巻く切実な願い。しかし、高ぶりすぎた感情は、彼女の口を通る際に鋭い棘へと変質してしまった。

 

「……あなたのそういう、いつまでも卑屈なところは、本当に嫌いよ」

 

 冷たく、叩きつけるような一喝。

 八幡は完全に言葉を失い、ただ固まった。

 彼を傷つけたくないという願いとは裏腹に、放たれた言葉は、修復不能な一撃となって部室の空気を凍りつかせた。

 

 八幡の超電子頭脳(ブレイン)は、雪乃から投げつけられた「嫌い」という言葉の衝撃を処理しきれず、熱暴走に近いノイズを撒き散らしている。だが、そのノイズの向こう側で、雪乃の思考回路はまた別の、より冷徹で悲痛な結論へと辿り着こうとしていた。

 

 雪乃は確信していた。

 

 比企谷八幡という少年は、自分自身を肯定することができない。彼は、誰かのために、あるいは「正しさ」という名のシステムのために、自らの部品を一つずつ切り離し、最後にはその心核(コア)さえも焼き切ることを躊躇わないだろう。

その自己犠牲のトリガーが、この奉仕部であり、そして自分自身であるというのなら。

 

(……救いたいと願うたびに、私は彼を壊していく)

 

 ならば、答えは最初から決まっていた。

 

 彼を鋼鉄の死から遠ざける唯一の方法は、彼をこの場所から、自分という呪縛から解き放つことだけだ。

 

「比企谷くん」

 

 雪乃は、一度だけ八幡の濁った瞳を真っ直ぐに見つめた。

 その瞳の奥にある、傷つき、疲れ果てた少年の魂を。

 

「もう、此処には来ないで」

 

 その声は、かつての凛とした響きを欠き、今にも砕け散りそうなほどに震えていた。

 

「……お願いよ」

 

 それは、雪ノ下雪乃がこれまでの人生で一度も口にしたことのない、そして最も残酷な『拒絶』という名の欺瞞だった。

 

 彼を遠ざけることで、彼を救う。

 その論理の飛躍が、どれほど彼を、そして自分を傷つけるかを知りながら、彼女は自らその引き金を引いた。

 

「…………」

 

 八幡は、言葉を失った。

 ナノマシンが修復すべき物理的な傷などどこにもないはずなのに、胸の奥にあるリアクターが凍りついていくような感覚に襲われる。

 

「……ゆきのん……? なんで、そんな……」

 

 由比ヶ浜結衣が、震える手で雪乃の袖を掴もうとした。だが、雪乃はその手を静かに、しかし断固として振り払った。その動作一つにさえ、彼女の痛みが滲んでいた。

 

「……そうか」

 

 八幡の口から、掠れた声が漏れる。

 彼は、何も見えなくなった光学センサーを無理やり駆動させ、重い足取りで扉へと歩き出した。

 

「それが、お前の最適解なら……お前の望み通りにする」

 

 ガタン、と重厚な扉が閉まる音。

 それは、比企谷八幡というシステムが、この箱庭から完全に切り離された瞬間だった。

 

 

 廊下に出た八幡の背中に、冷たい冬の風が吹きつける。

 彼は、自分の鋼鉄の拳を見つめた。

 世界を、そして彼女を守るために手に入れたこの力は、今、守るべき対象そのものから「拒絶」された。

 

「……最悪だ」

 

 八幡は、目の前の静寂に向かってそう呟いた。

 夕闇が支配する廊下に、八幡の重い足音が空虚に響く。

 その背後から、静寂を切り裂くような切実な叫びが届いた。

 

「ヒッキー、待って!」

 

 由比ヶ浜結衣だった。

彼女は息を切らしながら八幡に追いつき、その進路を塞ぐように立ちふさがった。

 八幡は足を止め、ゆっくりと振り返る。網膜ディスプレイが捉える彼女の表情は、今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。

だが、それ以上に結衣を戦慄させたのは、八幡の瞳だった。

 

「……あ」

 

 結衣は息を呑んだ。

 その濁りきり、光を失った八幡の目は、彼女の記憶にある「ある日」の光景と完全に重なった。

 

(ヒッキーの目、あの時と……夏祭りの日と同じ──)

 

 あの花火の下で、自らの立ち位置を見失った。拒絶と諦念が入り混じった色。

 結衣は必死に言葉を紡ぐ。このまま彼を夜の闇に帰してしまえば、二度と「三人」には戻れないという、本能的な恐怖に突き動かされていた。

 

「ヒッキー、聞いて! ゆきのん、あんなこと言ったけど……本当は違うんだよ。ゆきのんは、ただ、ヒッキーにこれ以上傷ついてほしくないだけなの。自分のせいでヒッキーが壊れちゃうのが怖くて、だから……!」

 

 雪乃の『拒絶』という名の欺瞞。

 その不器用で、痛々しいまでの献身。

 結衣はそれを代弁し、八幡の手を繋ぎ止めようとした。

 だが、八幡の原子炉(リアクター)は、すでに冷たい沈黙を選んでいた。

 今の彼にとって、その優しさは、自分を構成するロジックをかき乱すだけのノイズでしかなかった。

 

「……わかってるよ。そんなこと」

 

 八幡の声は、感情を完全に遮断した機械の音声のように、平坦で冷たかった。

 

「でも、今の俺には、その気遣いすら……重すぎるんだ」

 

 八幡は結衣と視線を合わせるのを避けるように、顔を背けた。

 その横顔には、鋼鉄の装甲では隠しきれないほどの深い疲労と、自己嫌悪の色が刻まれている。

 

「ごめん。……今は、一人にさせてくれ」

「ヒッキー……」

 

 結衣の伸ばした手は、空を切った。

 八幡は二度と振り返ることなく、夜の帳が降りた廊下の先へと、その姿を消していった。

 

──

 

 

 部室の中。

 由比ヶ浜も、比企谷もいなくなった空間で、雪ノ下雪乃は一人、椅子に腰掛けていた。

 茜色の余光すら消え去り、月明かりだけが冷たく室内を照らしている。

 雪乃は、机の上に置かれた一つのマグカップを、静かに、ただ静かに見つめていた。

 それは八幡がいつも使っていた、飾り気のない無骨なマグだ。

 つい数分前まで、そこには確かに「比企谷八幡」という存在の温もりが残っていたはずだった。

 

 だが今、彼女の目の前にあるのは、主を失い、冷え切った陶器の塊に過ぎない。

 

(……これで、よかったのよ。これで)

 

 彼女は心の中で、自分自身にそう命じた。

 彼を遠ざけ、彼を否定し、彼を独りにする。

 そうすることでしか守れないものがあると、彼女の歪な正義は囁き続ける。

 だが、マグカップを見つめる彼女の瞳からは、自らが選んだ「正解」を祝福する光など、一欠片も失われていた。

 

 




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