——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
千葉市内は、冬の寒さを忘れさせるような夜の賑やかさに華やいでいた。
家路を急ぐ会社員や、楽しげに談笑する学生たちが街を彩る中、中央駅付近のミスタードーナツの一角には、周囲の温度を数度下げているかのような異様な光景が広がっていた。
そこには、大量のドーナツとマックスコーヒーの缶に囲まれた、死んだ魚のような目をした少年の姿があった。
比企谷八幡。
今の彼は、誰が見ても分かるほどに「荒れて」いた。
奉仕部で雪乃から突きつけられた、あの一言。
「もう、此処には来ないで」という拒絶。
そして、泣きながら自分を呼び止めた結衣の震える声。
それらすべてのノイズを脳内ストレージから強制排除するために、彼が選択したのは、糖分による内部原子炉(リアクター)の強引なオーバーライド――すなわち、ミスドでの「やけ食い」であった。
テーブルの上に積み上がったのは、
• オールドファッション × 5
• チョコファッション × 5
• フレンチクルーラー × 5
• 担々麺 × 1
それは、なけなしの財布の中身をほぼすべて放出した、自暴自棄という名の投資の結果であった。
「……ケッ、効率だの論理だの。結局、甘いもんが一番なんだよ……」
もはや味など感じていない。
ただ、胃壁を重量感のある小麦粉で埋め尽くし、血管に濃厚な糖分を流し込むことで、胸の奥で燻り続ける「苛立ち」を麻痺させたかった。
「……あの、お客様……」
恐る恐る、といった風にアルバイトの店員が声をかけてくる。
「誠に申し訳ございませんが、お飲み物の持ち込みは当店ではお控えさせていただきたいのですが……」
その正論に対し、八幡はゆっくりと、錆びついた歯車を回すような動作で顔を上げ、声を発した。
「────あ……?」
そこにあるのは、現役高校生のものとは思えない眼差しだった。
どこぞの築地の魚河岸三代目のように、感情を一切持たない人殺しのサイコパスのような、底冷えする視線。
「ひっ……! す、すみません! ごゆっくりどうぞ!」
店員はその異様な圧に、顔を引き攣らせて絶叫に近い謝罪を口にすると、そのまま店の奥へと逃げるように引っ込んでしまった。
「……なんだよ、どいつもこいつも」
八幡は鼻を鳴らし、再びチョコファッションを口に運ぶ。
だが、そんな「荒れる鋼鉄の少年」を、ガラス越しの夜の闇からじっと見つめる、冷ややかで美しい瞳があった。
──比企谷八幡の「鋼鉄の平穏」は、その聞き慣れた声の一撃によって、一瞬にして粉砕された。
「おや、珍しい顔だ」
背後から掛けられた、鈴の音のように澄んでいながら、心臓を直接掴まれるような冷たさを孕んだ声。
八幡は、手に持っていた食べかけのフレンチクルーラーを皿に戻し、錆びついたクレーンのような動作で振り返った。
そこに立っていたのは、今、この瞬間の八幡にとって、世界で最も会いたくない部類の人間。
いや、人間という皮を被った「怪物」――雪ノ下陽乃であった。
「……陽乃さん」
八幡の超電子頭脳(ブレイン)は、瞬時に周辺の脱出経路をスキャンし始めた。
夜の街に溶け込むようなシックな装い、整いすぎた容姿に浮かぶ、底の知れない完璧な笑み。彼女がここにいるという事実は、八幡にとってドクトル・デーモンの襲撃に匹敵する、あるいはそれ以上の危機的状況(クライシス)を意味していた。
「こんなところで会うなんて奇遇だねー? お姉さんとちょっとお話……」
陽乃がその艶やかな唇を動かし、次の言葉を紡ごうとした、その刹那。
そこにはもう、少年の姿はなかった。
「……っ!」
陽乃の視界が微かに揺れる。
物理法則を無視した急激な気圧の変化。テーブルの上に並んでいた十五個のドーナツの残骸とマックスコーヒーの空き缶は、彼女が瞬きをする間に、綺麗にトレーへとまとめられていた。
「あの、向こうのテーブルの片付けお願いします。持ち帰りとかいいんで全然」
数メートル離れたレジカウンター。
そこには、店員さえも「いつの間にそこにいたのか」と目を丸くさせるほどの速度で移動を完了させた八幡が、財布から5000円札を叩きつけていた。
エイトマンとしての全リソースを「逃走」の一点に注ぎ込んだ、音速の精算。
「あーちょっと待って! 逃げないでよ、悪いようにはしないからっ」
店を飛び出そうとした八幡の背中に、陽乃の声が鋭く突き刺さる。
それと同時に、鋼鉄の装甲に包まれた彼の左袖に、細く、しかし万力のような力強さを持った指先が食い込んだ。
「――――離してください。今、俺は、最高に機嫌が悪いんです」
八幡は足を止めたまま、振り返らずに低く、唸るような声を絞り出した。
だが、陽乃はその警告を意に介した様子もなく、ぐいぐいとその袖を引っ張り、彼を夜の闇へと連れ戻そうとする。
「そんなの見てればわかるよ。ねえ、比企谷くん……お葬式みたいな顔して、一人でドーナツの山を崩すのが今の君の『最適解』なのかな?」
陽乃の言葉には、八幡が最も触れられたくない「弱点」を正確に射抜く毒が含まれていた。
雪ノ下に拒絶され、行き場を失った鋼鉄の救世主。
その惨めな姿を、陽乃は楽しむような、あるいは憐れむような残酷な瞳で見つめていた。
──
「……なんの用だよ。雪ノ下の観察なら、部室にでも行けばいいだろ。あそこには、あんたが喜ぶような『理想の妹』が座ってるはずだ」
八幡は自嘲気味に吐き捨てた。
だが、陽乃は八幡の袖を掴んだまま、ふっとその笑みを深める。
「雪乃ちゃんのところには、もう由比ヶ浜ちゃんがいるからいいの。今、私が興味があるのは……自分の居場所(ベース)を失って、野良猫みたいに街を彷徨ってる君の方だよ」
その言葉に、八幡のリアクターが不快な共鳴音を立てた。
陽乃は確信しているのだ。八幡と雪乃の間に決決定的な亀裂が入り、奉仕部というシステムが機能不全に陥っていることを。
明るすぎるほどの蛍光灯が、比企谷八幡の目の前に積み上がった糖分の山を無慈悲に照らし出していた。
オールドファッションの食べカスと、空になったマックスコーヒーの缶。それらは、彼の内部原子炉(リアクター)が過負荷によって引き起こした、強引な冷却の痕跡だった。
「……ふーん。随分と派手にお葬式してるんだね、比企谷くん」
隣の椅子を引く音とともに、夜の闇をそのまま纏ったような冷ややかな香水の香りが、八幡の鼻腔を突く。
雪ノ下陽乃。
彼女は八幡の返事も待たず、優雅な動作で彼の向かいに腰を下ろした。
「……見ての通り、今はデバッグ中なんで」
八幡の声は、死んだ魚のような瞳と同様に、生気を欠いていた。超電子頭脳は陽乃の出現による「異常事態」を警告していたが、今の彼には回避行動を選択するだけのリソースが残っていなかった。
「デバッグ? 自分の心のバグを糖分で埋め合わせるのが、君のやり方かな?」
陽乃はテーブルの惨状を一瞥し、楽しげに目を細める。
「雪乃ちゃんと、お別れしてきたんでしょ?」
その言葉が、八幡の内部ストレージに刺さったままの「拒絶のログ」を激しく揺さぶった。八幡は無言で、最後の一つとなったフレンチクルーラーを口に放り込む。甘みが喉を焼くが、胸の奥の不快な熱は一向に引かない。
「……あんたの予想通りですよ。奉仕部は機能停止。雪ノ下は勝手に自爆する道を選んだ。俺は、それを止める権利さえ奪われた」
「あはは、いいじゃない。最高に不自然で、最高に人間らしい結末じゃない」
陽乃は鈴を転がすような声で笑った。八幡はその笑いに、かすかな苛立ちを覚える。
「……何が嬉しいんだよ。あんたは、あいつが……雪ノ下がまともになるのを応援してたんじゃないのか」
「応援してるよ? だから言ってるの」
陽乃は身を乗り出し、八幡の目を覗き込んだ。その瞳の奥には、すべてを見透かす観測者としての、絶対的な冷徹さと慈愛が共存していた。
「比企谷くん。君たちはいつも、同じ方向を向こうとしすぎていたの。手を取り合って、同じ夕陽を見て、同じ理想を語る。……それって、不自然だと思わない? 鏡合わせの自分を見ているのと、何が違うの?」
「それは……」
「本当に通じ合っているならね、比企谷くん。隣に並んで歩く必要なんてないんだよ」
陽乃の指先が、テーブルの上で円を描く。
「真に認め合った者同士は、向き合うことが出来る。 背中を預けるんじゃなくて、正面から相手の目を見て、その存在を、その矛盾を、そのエゴを、全力で受け止める。……君と雪乃ちゃんに今足りないのは、その『対峙』するための覚悟なんじゃないかな」
八幡の超電子頭脳の中で、陽乃が投げ込んだ「向き合う」という言葉が、新たな変数(バリアブル)として処理され始めた。
雪乃の拒絶は、自分を守るための欺瞞だった。
自分の沈黙は、彼女を傷つけないための逃避だった。
二人とも、相手を思いやるあまり、相手の「正体」から目を逸らしていたのではないか。
「……向き合う、か」
八幡が呟く。答えの断片が、思考の海から浮上しかける。だが、陽乃はそれ以上、彼に「正解」を与えようとはしなかった。
「さて、お姉さんのレクチャーはここまで。答えは自分の演算回路で出しなよ。比企谷八幡くん」
陽乃がふっと立ち上がる。その瞬間、店内の自動ドアが開き、夜の風とともに、八幡にとってさらに頭の痛い「ノイズ」が舞い込んできた。
「――あれ? もしかして、比企谷?」
聞き覚えのある、明るく、しかしどこか虚ろな響きを孕んだ声。
八幡は、自分の超感覚スキャンが捉えたその人物の名を、忌々しげに反芻した。
(……折本、かおり)
かつての「黒歴史」という名の、消去不能なバッドセクタが、今再び目の前に現れた。
──
「――え、待って。もしかして、比企谷くん?」
自動ドアの作動音に続いて響いたのは、脳内の「バッドセクタ」に直接書き込まれたような、耳障りな笑いを含んだ声だった。
八幡の光学センサーが捉えたのは、他校の制服の上から派手なカーディガンを羽織った、いかにも「今どきの女子高生」といった風貌の二人組。その一人、折本かおりが、隣に立つ仲町という女子と顔を見合わせ、クスクスと肩を揺らしていた。
「あはは! 本物じゃん! なに、一人でドーナツこんなに食べてんの? 受けるんだけど!」
「折本、それある。超ある。っていうか、目つきヤバくない?」
中学時代の、あの「告白」という名の自爆。
クラス中に広まり、失笑の対象となった記憶が、八幡の内部ストレージから強制ロードされる。 リアクター(原子炉)が不快なノイズを上げ、排熱処理が追いつかない。
「……折本か」
八幡の声は、自分でも驚くほど冷えていた。だが、折本はそんな彼の内面など一瞥もせず、八幡の正面に座る「異常なほど美しい女性」へと視線を移した。
「……え、っていうか。隣、誰? 比企谷くんの……彼女? まさか、ねえ?」
折本の瞳に、好奇心と「ありえない」という蔑みが混じる。中学時代、自分が振った相手がこれほど端麗な女性と向かい合っているという事実が、彼女たちの理解の範疇を超えていた。
その視線に、陽乃が最高の、そして最悪の笑みで応えた。
「あら、比企谷くんのお友達? 奇遇だね、お姉さんとお話ししてたところなんだ」
「お姉さん? ……え、めちゃくちゃ綺麗……モデルさんですか?」
陽乃の完璧な美貌に、女子高生二人の態度が目に見えて萎縮し、同時に媚びるような色に変わる。陽乃はその変化を愉しむように、八幡の肩に細い手を回した。
「比企谷くんとは、ちょっと深い仲かな。ね、比企谷くん?」
「……勝手なこと言うな。中学の同級生だよ、そっちは」
八幡は、陽乃の手を振り払う気力さえ失っていた。目の前の「過去」と、隣の「怪物」。最悪の変数(バリアブル)が重なり、演算回路はオーバーロード寸前だ。
「へー、そういえば比企谷くん、総武の制服着てるけど、総武高校の話とかも知ってるの? あそこ、頭いいんだよね。葉山隼人くんとか、超有名じゃん」
折本が、その名を出した瞬間。
陽乃の瞳の奥で、観測者としての冷徹な「計算」が走ったのを八幡は見逃さなかった。
「あ, 葉山くん知ってるんだ。彼、かっこいいよね」
「知ってるも何も、千葉の女子高生ならみんな知ってますよ! でも、比企谷くんがあの人と知り合いなんてこと、ないよね?」
折本が八幡をチラリと見て、また「それあるー!」と笑う。
「……まあ、同じクラスだけどな」
八幡の言葉に、折本たちが「え、マジで?」「嘘でしょ?」と騒ぎ出した。彼女たちは八幡という人間を、葉山隼人のような「光」とは決して交わらない「影」だと定義している。だからこそ、その繋がりを確認したくてたまらないのだ。
「いいなー! 会ってみたいよね、一回くらい本物に。ねえ、比企谷くん、今から呼べたりしないの?」
「……無理に決まって……」
八幡が断ろうとした、その時。
陽乃が既にスマートフォンを耳に当て、流麗な動作で発信ボタンを押していた。
「あ、隼人? 今、中央駅のミスドにいるんだけど、ちょっと面白いことになっててね」
「……っ、おい!」
「ううん、雪乃ちゃんじゃなくて、比企谷くんの方。……そう、彼と、彼の中学時代の可愛い『お友達』も一緒だよ。……うん、待ってるね」
陽乃は通話を切ると、小悪魔的なウィンクを八幡に送った。
「十五分で来るって。楽しみだね、比企谷くん。君の『過去』と『現在』が、ここで交差するんだから」
最悪だ。
八幡の超電子頭脳は、これまでにない規模のエラーを吐き出し続けていた。
雪乃との決裂、陽乃の介入、折本の嘲笑。そして、そこに葉山隼人という、自分を最も正しく「嫌っている」男が加わる。
──だが、この混沌(カオス)こそが、八幡の止まっていた時間を動かすための、陽乃が仕組んだ強引なオーバーライドであることに、彼はまだ気づいていなかった。
──
その静止したような空間の均衡を破ったのは、小気味よい電子音を響かせて開いた自動ドアの作動音だった。夜の凍てつく空気を纏って現れたのは、誰もが認めざるを得ない完璧な「王子様」――葉山隼人だった。
「陽乃さん、お待たせしました。……比企谷くんも、こんな時間に珍しいね」
彼が足を踏み入れた瞬間、店内の空気が一変する。折本かおりと仲町の二人は、先ほどまでの八幡への揶揄を忘れ、文字通り言葉を失って立ち尽くしていた。葉山の放つ、周囲を安心させる穏やかな、それでいて絶対的な壁を感じさせるオーラが、安っぽい好奇心で満ちていた空間を浄化していく。
「え、マジ……本物……?」
「比企谷くん、本当に呼び出したの……? 超受けるんだけど……」
女子高生たちの薄っぺらな感嘆を、葉山は柔らかな笑みで受け流す。しかし、その瞳の奥には、陽乃に呼び出された理由――すなわち、比企谷八幡というシステムの異常を正確に検知した「観測」の光が宿っていた。
葉山は陽乃に短く会釈をすると、まだ糖分の過剰摂取で思考が鈍っている八幡の腕を掴んだ。そのまま、八幡を促して店の外へ。歩道のタイルを叩く冷たい夜風が、八幡のナノマシン表皮を微かに震わせた。
「……悪いな、葉山。あんなのに付き合わせて」
街灯の鈍いオレンジ色の光の下で、八幡が自嘲気味に吐き捨てる。リアクターの熱は依然として逃げ場を失い、思考回路には処理しきれない感情のノイズが火花のように散っていた。
「いや、いいんだ。……陽乃さんから聞いたよ。雪乃と、何かあったんだろ?」
葉山は八幡の正面に立ち、じっとその「死んだ魚の目」を見つめた。エイトマンの光学センサーは、葉山の微かな筋収縮や心拍の乱れを捉える。彼もまた、平穏を装いながら、その内側には雪ノ下雪乃という存在に囚われ続けている「傷」を抱えているのだ。
「……絶交だよ。あいつが勝手に決めて、俺を追い出した。それだけだ。効率的で論理的な、あいつらしい答えだよ」
八幡はマックスコーヒーの空き缶を指先で軋ませた。金属が歪む音が、夜の静寂に不快に響く。
「そうか。……羨ましいな」
「……あ?」
不意に漏らされた葉山の言葉を、八幡の超電子頭脳は最初、言語解析のミスだと判断した。この絶望的な決裂を、「羨ましい」と?
「雪乃が君を拒絶したのは、君の存在が彼女にとって無視できないほど大きくなったからだ。本気で向き合うべき相手だからこそ、人は否定し、遠ざけようとする。……僕にはそれができなかった。興味のない人間を拒絶さえしない彼女に、僕は選ばれなかったんだよ」
その瞬間、八幡の思考回路に劇的なパッチが適用された。
脳裏に過るのは、自らの宿敵、ドクトル・デーモンとの激闘だ。
奴は自分を倒そうとし、自分を壊そうとする。だが、誰よりも自分の性能を、自分の魂の輝きを認めているのは、あの狂気の天才だ。
(……向き合う、ということか。陽乃さんの言っていた変数の正解は、これか)
超電子頭脳が、陽乃の「対峙」という言葉と、葉山の「羨望」というアドバイスを高速で結合し、膨大なシミュレーションを開始する。
同じ方向を向いて歩くのが「仲間」というプログラムなら。
正面から対峙し、互いの全存在を懸けて否定し合うのは、魂を認め合った「宿敵(ライバル)」という上位のプロトコルだ。
雪乃が選んだ「自己犠牲」という名の欺瞞。それを止めるために自分を削る「並走」は、もはや最適解ではない。
彼女が自分という存在を脅威だと認め、拒絶したのなら――。自分もまた、彼女を最大限に尊重し、彼女の選んだ歪な答えを真っ向から「粉砕」すべきなのだ。
「……葉山。なんで俺なんかに、そんなアドバイスを。俺たちの仲なんて、計算するまでもなく最悪だろ」
「ああ、大嫌いだよ、君のことは。それは変わらない」
葉山はふっと表情を和らげ、八幡の冷たい肩を軽く叩いた。
「でも、君がここで立ち止まるのは、もっと嫌なんだ。……雪乃を、あの寂しい場所へ一人で行かせないでくれ。君なら、彼女を『撃ち抜ける』はずだ」
葉山が去った後、八幡は独り、冬の星座が瞬く夜空を見上げた。
バイザーの奥の瞳に、青白い電子の火が静かに灯る。
無数の変数が一つの巨大な回答に収束し、最適解が出力された。
(……わかったよ、雪ノ下。お前がその道を正解だと言い張るなら……俺は俺のやり方で、その『正解』をハックしてやる)
比企谷八幡のリアクターが、これまでにない出力で唸りを上げた。
それは、敗北からの逃走ではない。
一人の少女と魂を賭けて向き合うための、宣戦布告へのカウントダウンだった。
再び訪れる冬の夜の静寂。
八幡は一人、街灯の光が届かない闇の中に立ち、その掌(てのひら)を見つめた。
(――演算(シミュレート)を開始する)
その一言をトリガーに、八幡の超電子頭脳が爆発的な回転を始めた。
視界の端を、無数の論理コードと確率グラフが高速で流れていく。
対象:生徒会選挙。
対立候補:雪ノ下雪乃。
現在の状況:奉仕部の存続を賭け、雪ノ下は自らを犠牲にして生徒会長の座に就こうとしている。
(雪ノ下の目論見を、正面から叩き潰すための最短ルートを算出せよ)
リアクターがこれまで聴いたこともないような高周波の駆動音を奏でる。
雪乃を救うために「同じ方向」を見て、彼女の代わりに泥を被る……そんな甘い計算はすべて破棄した。
今、八幡が求めるのは、彼女と「向き合う」ための力。
『――一色いろは救済オペレーション。目的を再定義(リアレンジ)する』
電子の海の中で、一つの作戦名が真っ赤な警告色から、冷徹なまでの青白い輝きへと上書きされた。
単なる依頼の達成ではない。
一色いろはを会長に据えることで、雪ノ下の「自己犠牲」という論理(ロジック)を根底から論破し、彼女を奉仕部という檻(居場所)へと連れ戻す。
(……証明、完了)
八幡のバイザーの奥、死んだ魚のようだった瞳が、突如として鮮烈な光を放った。
それはナノマシンの限界稼働に伴う廃熱の残光。
激しく揺らめく青白い電子の炎が、彼の視線を夜の闇の中に鋭く刻み込む。
かつて谷博士は言った。
『エイトマンは、雪ノ下雪乃のために動く時、最大のパフォーマンスを発揮する』と。
皮肉にも、その言葉は正しかった。
彼が持つ全演算能力、全出力、そのすべては今、目の前の少女を「撃ち抜く」ために最適化(オプティマイズ)されていった。
誰かを守るための力ではない。
誰かと対等で、真実な関係であるために。
比企谷八幡は、自らの魂を「宿敵」へと転向させた。
(待ってろ、雪ノ下。お前の言う『正解』が、どれほど脆弱なものか……俺が教えてやる)
重厚な金属音を響かせ、八幡は一歩を踏み出す。
その背中には、もはや迷いも、湿っぽい孤独も残っていなかった。
あるのは、ただ一つの「勝利」へと至る、冷徹な鋼鉄の意志だけだった。
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