——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第五話:砂のクッキー

 

奉仕とは真心で行うものだ、と誰かが言った。

 だが、俺のような人外から言わせれば、奉仕とは「持てる者」から「持たざる者」への一方的な見下しにしか映らない。故に、俺は施しを受けない。精神的にも、そして――物理的にも。

 人気のない教室。美少女と二人きり。

 衣服を透過して見える彼女の「黄金比」に完膚なきまでに打ちのめされ、フリーズから復帰した俺に、雪ノ下雪乃は容赦のない言葉を投げかけた。

 

「……いつまで突っ立っているのかしら。そこに根を張って、鉄のオブジェにでもなるつもり?」

「……いや、座る場所を演算してただけだ。一番、背景に溶け込める位置をな」

「そう。なら、そこにある椅子にでも腰掛けたらどうかしら。貴方のその死んだ魚の目を見上げ続けるのは、首の筋肉に悪いわ」

 

 雪ノ下は視線を本に戻し、ページを捲った。その指先の動きすら、俺の超感度センサーは「無駄のない芸術」として記録してしまう。

 俺は彼女の向かい側に座り、手持ち無沙汰に周囲を観察した。そこには大量の本が並んでいる。

 

「随分と熱心に本を見ているのね。意外だわ、貴方のような男でも、活字に親しむ習慣があるなんて」

「習慣っていうか……娯楽が少ないんだよ。お前は何を読んでるんだ?」

「ドストエフスキーよ。貴方には縁のない世界でしょうけれど」

「あ、罪と罰か。個人的には『カラマーゾフの兄弟』のイワンの独白が好きだ。神がいないなら全ては許される、っていうあのへ理屈。ぼっちの疎外感に通じるものがあるだろ」

 

 雪ノ下の手が、一瞬止まった。彼女はゆっくりと顔を上げ、初めて俺を「ゴミ」以外の何かを見るような目で見据えた。

 

「……貴方、読んだの?」

「まあ、内容くらいは。あと、その下にあるのはシュレディンガーの量子力学に関する論文か? 観測されるまで状態は確定しない。俺の存在も、誰にも観測されないという意味では量子力学的と言えるかもしれないな」

「……意外ね。貴方のその腐った脳髄の中には、マックスコーヒー以外のものも詰まっているのかしら」

「失礼だな。俺の脳は最新の……いや、それなりに高性能なんだよ」

 

 不味い。つい電子頭脳の検索結果をそのまま口に出してしまった。

 一秒間に数億回の演算をこなす俺の脳にとって、紙の活字を追うという行為は、スーパーコンピュータでソリティアを遊ぶような贅沢なリソースの無駄遣いだ。だが、その「無駄」こそが、俺を人間に繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。

 

「……ねぇ、比企谷くん。知っているかしら? ここがどんな活動をしているか」

 

 雪ノ下は本を閉じ、射抜くような視線をこちらへ向けてきた。

 

「持つ者が持たざる者に慈悲の心をもってこれを与える。人はそれをボランティアと呼ぶの。困っている人には救いの手を差し伸べる。それがこの部の活動よ」

「……なら、お前は俺に何を施してくれるってんだ」

 

 知らぬうちに、言葉がこぼれていた。

 鋼鉄の体を手に入れたことで失った「何か」。それを、この目の前の少女が埋めてくれるのではないかという、プログラムにもない淡い期待。

 

「まずは居た堪れない立場のあなたに、居場所を作ってあげましょう。知ってる? 居場所があるだけで、星となって燃え尽きるような悲惨な最期を迎えずに済むのよ」

「サイボーグ009か。懐かしいな。俺も加速装置を使うときは奥歯を噛むタイプだ」

「……何のことかしら。私が引用したのは、石森(いしもり)作品ではなく宮沢作品……『よだかの星』よ。石ノ森章太郎と一緒にしないでちょうだい」

「……っ」

 

 八幡は心の中で、彼女に「ポイント高い」のフラグを立てた。

 今、雪ノ下はさらっと「石森」と言った。石ノ森章太郎になる前の、旧字体。知識の深さが窺い知れる。なかなか分かっているじゃないかと思わず褒める。

 

 その時。

 

 俺の超聴覚が、廊下を走る異質な足音を捉えた。

 

(……誰か近づいてるな。距離は……二十メートル程か)

 

 トタトタトタ、という軽い、だがどこか「騒がしい」リズム。

 

(……足取り、軽い。体重は約45キロ前後。歩幅から推測される身長は150センチ台。心拍数、やや上昇中。……この学校の生徒か。……いや、こっちに来るな。扉の向こうで止まった……)

 

厚いコンクリートの壁を透過して、微かな振動が伝わってくる。

俺の電子頭脳は、その足音のリズムを即座に解析し始めた。

歩調から歩幅を予測する。

やや短め。靴底が床を叩く硬質な音と、わずかに重心が左右に揺れる独特のテンポ。

 

データ照合――女生徒である可能性、九八パーセント。

 

それも、迷いながらこの部室を探しているような、不規則な停止を含んだ足音だ。

雪ノ下はまだ気づいていない。

彼女は優雅にカップを傾けようとしているが、俺のセンサーは、その扉の向こうにいる人物がノックの動作に入る直前の、衣擦れの音まで鮮明に描出していた。

 

「雪ノ下。客だ。」

 俺の言葉と同時に、

 

——トントン。

 

コンマ数秒の誤差もなく、予測通りのタイミングでノックが響く。

 

「失礼しまーす……」

 

扉が開いた。そこに立っていたのは、俺の網膜ディスプレイに表示される「リア充指数」が振り切れるような、眩いオーラを放つ桃色の髪の少女だった。

 

(……由比ヶ浜結衣。よりによって、あいつか)

 

俺の平和な放課後が、砂の城のように脆く崩れ去る予感がした。

 

 

扉を開けて入ってきたのは、教室の隅に生息する「ぼっち」とは対極の存在――いわゆるスクールカーストの頂点に君臨する、華やかなオーラを纏った少女だった。

 

由比ヶ浜結衣。

 

八幡の網膜ディスプレイが瞬時に彼女をスキャンする。表示される「リア充指数」は限界値を突破し、警告色であるピンク色のノイズが視界の端で踊った。

緩く巻かれた桃色の髪、短すぎるスカート、そして人懐っこそうな――それでいて計算高い――笑顔。

かつての生身の八幡であれば、その眩しさに目を細めて逃げ出していたところだが、今の彼は鋼鉄の理性を保ったまま、無感動に彼女を観測していた。

 

「……あら。珍しいわね、貴方のような子がここに来るなんて」

 

雪ノ下雪乃が、わずかに眉を寄せて言った。彼女の氷のような美貌は、由比ヶ浜の放つ陽のエネルギーを真っ向から受け流している。

 

「あ、えっと……ここって、悩み相談とか受けてくれるって聞いたんだけど……。あれ、ヒキタニくんもいる?」

(ヒキタニじゃねーよ。せめて『ガヤ』の方で間違えろ)

 

八幡は内心で毒づく。だが、電子頭脳は彼女の脈拍と発汗を鋭敏に捉えていた。その震える指先は、彼女がこの場にいることに小さくない不安を感じていることを示している。

雪ノ下は、八幡への興味を完全に切り離したかのように、由比ヶ浜へと向き直った。

 

「比企谷くんは、ただの『備品』のようなものだから気にしなくていいわ。それで、貴方の依頼は何かしら?」

「備品ってなんだよ。せめて『高性能な演算機』とか言ってくれ」

 

八幡の抗議を無視して、雪ノ下は流麗な動作で椅子を勧めた。由比ヶ浜はおずおずと腰を下ろし、指先をいじりながら切り出した。

 

「実は……その、クッキーを作りたいんだけど、どうしても上手くいかなくて」

「クッキー?」

 

八幡の思考回路に、過去の料理番組のデータが高速で流れる。小麦粉、バター、砂糖、卵。単純な組成だ。

だが、由比ヶ浜がカバンから取り出した「試作品」を見た瞬間、八幡の視覚センサーが激しいエラーを吐き出した。

 

(なんだこれは……炭化した有機物の塊か? それとも、新種の文鎮か?)

その物体は、クッキーという甘美な響きからは程遠い、地獄の業火で焼かれた「砂の塊」にしか見えなかった。

雪ノ下も絶句している。彼女の知性をもってしても、この物質がかつて小麦粉であったという事実を認めるには、数秒の時間を要したようだった。

 

「……これを、誰かに贈るつもりなの?」

雪ノ下の声が、かつてないほど慎重な響きを帯びる。

 

「うん。手作りとか、女子力高いかなーって思って。でも、私が作るとどうしても……」

「居場所、どころの騒ぎじゃないな」

 

八幡は思わず呟いていた。

 

「これ、食ったら星になって燃え尽きるどころか、ブラックホールに吸い込まれるような末路を辿るぞ。物理的に」

「ひどいっ! 一生懸命作ったんだよ!?」

 

由比ヶ浜が頬を膨らませて抗議する。その表情に嘘はない。だが、結果がすべてを否定していた。

雪ノ下は深く溜息をつき、自身のこめかみを押さえた。

 

「いいわ、由比ヶ浜さん。貴方のその……『概念的な何か』をクッキーにまで昇華させてあげる。それが奉仕部の仕事よ」

 

雪ノ下の宣言。それは、鋼鉄の少年と氷の少女、そして灰色のクッキーを作るリア充少女という、あまりにも噛み合わない三人の共同作業の始まりを告げる合図だった。

 

八幡の電子頭脳が、クッキー作成の最適解を計算し始める。

 

(加速装置……は使えないが、精密な温度管理なら俺のセンサーで可能だ。だが、問題はそこじゃない)

 

彼は、由比ヶ浜が時折見せる、無理に作ったような笑顔の裏側を観測していた。

「持つ者」であるはずの彼女が、なぜこれほどまでに「正解」に怯えているのか。

鋼鉄の心臓は、まだその理由を理解できずにいた。

 

場所を家庭科室に移し、雪ノ下の指導のもとで「クッキー再生計画」が始まった。

といっても、俺に与えられた役割は、出来上がったものの「味見」だ。

 

(……味見、か)

 

八幡は、調理台の隅でパイプ椅子に腰を下ろし、内心で自嘲気味に呟いた。

味見。それは生身の人間にとって、味覚という悦楽を享受する行為だ。だが、鋼鉄の体を持つ彼にとって、それは口腔内の化学センサーによる成分分析と、その後の原子炉への廃棄を意味する。

マックスコーヒーという冷却剤以外、彼の体が「栄養」として受け付けるものはない。

 

「あ、あのさ、ヒッキー」

 

エプロンの紐を結ぶのに四苦八苦していた由比ヶ浜が、もじもじと隣から話しかけてきた。

八幡の視覚センサーは、彼女の頬がわずかに紅潮しているのを逃さない。毛細血管の拡張、心拍数の微増。緊張か、あるいは別の感情か。

 

「……なに」

 

八幡は文庫本から目を離さずに応じた。

 

「か、家庭的な女の子って、どう思うかな?」

 

上目遣いに、探るような視線が飛んでくる。

八幡は一瞬、電子頭脳のアーカイブを検索した。「家庭的」というキーワードに関連付けられるのは、古き良き良妻賢母のイメージ、あるいは男を捕まえるための戦略的アピールといった、ひねくれた分析結果ばかりだ。

 

「……別に、嫌いじゃねぇけど」

 

好きというわけでもない。

正直に言えば、今の俺にとっては、誰がどれほど家庭的であろうと、その手料理を血肉に変えることができない以上、どうでもいいことなのだ。

 

「そっか! よーし、やるぞー!」

 

八幡の素っ気ない返答をどう解釈したのか、由比ヶ浜は妙にやる気を出し、力強く拳を握った。

彼女は意気揚々と、なぜか材料の中に置かれたマックスコーヒーや桃の缶詰を手に取り、調理を開始した。

 

(何をやるつもりだ、あいつは……)

 

その独創的すぎる材料のチョイスに、八幡は心の中で小さく溜息をついた。まあ、そのやる気だけは認めてやらんでもないが。

八幡は再び手元の文庫本に視線を落とした。

どうせ俺にできるのは、出来上がった「物質」を化学的に評価することだけだ。

 

「……ていうか、いつの間にかヒッキー呼ばわりかよ」

 

本を読み進めながら、八幡はふと漏れた自分の呼び名について思考を巡らせた。

比企谷の「ヒキ」に、何らかの愛称を付与した結果だろうが、その響きはどこか、かつての自分が最も嫌っていた「馴れ合い」の気配を含んでいる。

だが、鋼鉄の心臓は、その呼び名を拒絶するほどの激しい拍動を刻むことはなかった。

家庭科室に、オーブンが温まる特有の匂いと、雪ノ下の容赦ない指導の声が響き始める。

そして、例のブツが焼きあがった頃。

オーブンのタイマーが鳴り、由比ヶ浜が期待に胸を膨らませて天板を取り出した。

だが、そこに鎮座していたのは、可愛らしい星型やハート型のクッキーではなかった。

 

「え、あれ? なんで?」

 

由比ヶ浜が絶望的な声を上げる。

そこにあったのは、なぜか横に広がり、繋がり、全体が真っ黒に炭化した

 

「巨大なホットケーキのような何か」だった。

 

「……理解できないわ。一から十まで、私の指示通りに動くよう言ったはずよ。どうやったらこれだけミスを重ねることができるのかしら……」

 

完璧主義者の雪ノ下が、珍しく目眩を覚えたように額を押さえている。

八幡は本を閉じ、その「黒い円盤」を観測した。

視覚センサーが物体表面の温度分布と組成をスキャンする。

 

(……表面温度二〇〇度以上。有機物の炭化が進行している。さらに、なぜか一部から可燃性ガスの微かな反応。これ、クッキーじゃなくて固体燃料の類だろ)

「……これ、食うのか?」

 

八幡が恐る恐る尋ねると、由比ヶ浜は泣きそうな顔でこちらを振り返った。

 

「味見……してくれるんだよね、ヒッキー」

 

……ああ、食うよ。たとえ、これがクッキーだろうが石ころだろうが、今の俺には大差ないのだから。

 

ガリ、ボリ、ゴリゴリ、ボリゴリ。

 

調理室に、およそ人間がクッキーを食べているとは思えない、硬質の岩石を粉砕機にかけるような、不気味で乾いた音が響き渡った。

 

「ヒ、ヒッキー……?」

「比企谷君、あなた……」

 

唖然とする由比ヶ浜と、恐怖に近い表情を浮かべる雪ノ下を余所に、八幡は無言でその真っ黒な「ソレ」を咀嚼し続けた。

淡々と、機械的な動作で口に入れる。

嗅覚センサーは焦げた悪臭を検知しているが、脳への苦痛信号はフィルタリング済みだ。

粉々に砕かれたブツが喉を通り、腹部の高熱処理炉へと蓄積されていく。

味覚センサーが「炭素、糖分、その他未知の化合物」という冷徹なデータを弾き出すだけ。

最後の一片を飲み込み、八幡は首のサーボモーターを軽く鳴らしながら、調理台に視線を向けた。

 

「……食ったぞ」

 

静まり返った室内。

二人の少女は、平然と「暗黒物質」を完食した目の前の怪物……もとい、クラスメイトを、言葉を失って見つめている。

八幡は口内に残った炭素のざらつきを感じながら、一番重要な「冷却」を求めて問いかけた。

 

「マッ缶ない?」

 

今の俺には、どんな美辞麗句よりも、喉元を冷やすあのアホみたいに甘い液体が必要だった。

比企谷八幡の鋼鉄の日常に、甘ったるい、だがどこか焦げ臭いノイズが本格的に混ざり合おうとしていた。

 

その後、家庭科室での死闘は数時間に及んだ。

由比ヶ浜は何度かオーブンから新たな「未確認飛行物体」を召喚し、そのたびに雪ノ下の氷のような罵倒と、八幡の無慈悲な咀嚼音が響いた。

だが、根気強い——というよりは、もはや意地に近い雪ノ下の指導により、由比ヶ浜のクッキーは徐々に「炭」から「食べ物」へと近づいていった。最終的に、八幡が「味覚センサーが糖分を感知した」と判定を下し、大切なのは技術以上に作り手の気持ちであるという、八幡らしくない(だが最も無難な)アドバイスをもって、一応の解決となった。

部室に戻る道すがら、由比ヶ浜は申し訳なさそうに八幡の顔を覗き込んできた。

 

「あのさ、ヒッキー。今日は私の失敗作、いっぱい食べさせちゃってごめんね。今度、もっと上達したら、ちゃんと美味しいやつプレゼントするから!」

「……ああ、期待せずに待ってるわ」

 

八幡は淡々と答えたが、ふと疑問が浮かんだ。

 

「いや、お前、本命の相手はどうすんだよ? そっちに先に渡すべきだろ」

その言葉が落ちた瞬間、由比ヶ浜の顔が、今しがた焼き上がったクッキーよりも赤く染まった。

「へ!? ほ、ほ、ほ、本命!? バ、バカ! ヤダ! キモイ! そんなの、言うわけないでしょ!?」

「……そこまで言うか。結構傷ついたぞちくしょう。泣くぞ俺は」

 

八幡の電子頭脳が、由比ヶ浜の過剰な反応から「図星」である可能性を九九パーセントと弾き出したが、同時に彼女の激しい拒絶反応に、鋼鉄のメンタルがわずかにチクリと痛んだ。

 

「あなたのデリカシーの無さには、呆れ果てるばかりね。……気持ち悪いわ」

 

隣を歩く雪ノ下までが、冷ややかな視線を投げかけてくる。

 

(お前も容赦ないな! ええ、どうせ女心なんて永遠に理解できねーよ。理解できたら今頃、リア充ロードを時速三千キロで爆走してるよ!)

 

八幡は心の中で荒ぶる電子頭脳を宥めながら、マックスコーヒーの缶を握りしめた。

すると、由比ヶ浜が心配そうに八幡の腹部を見つめてきた。

 

「それよりヒッキー、さっきからかなりあたしの失敗クッキー食べてたけど……お腹、大丈夫なの?」

 

普通の人間なら、今頃はトイレの住人になっているか、病院のベッドの上だろう。

だが、八幡は首を横に振った。

 

「ん? ああ、俺なら別に平気だぞ。多分、核廃棄物とか放射性物質を食っても平気だと思うしな」

 

比喩ではない。彼の腹部にある原子炉は、文字通り核燃料をエネルギーに変える怪物だ。炭化したクッキーなど、文字通り「燃料」の足しにもならない。

 

「あたしのクッキー、放射性物質レベルなの!?」

 

由比ヶ浜がショックを受けたように叫ぶ。

 

「まるでディスポーザーね。……ゴミ谷君」

「ナチュラルに人をゴミ扱いすんのはやめろ!?」

 

雪ノ下の毒舌に、八幡は即座にツッコミを入れた。

ゴミを粉砕し、処理する機械。確かに今の俺の体は、それと大差ないのかもしれない。

八幡は、自分の腹の中に消えていった「クッキーだったもの」の残滓を感じながら、沈みゆく夕日を眺めた。

鋼鉄の体になっても、女子たちの容赦ない言葉の暴力は、電子頭脳の装甲を容易く貫通してくる。

やはり、俺の青春はどこまでも鋼鉄色で、そして少しだけ焦げ臭かった。

 

翌週。

放課後の奉仕部部室には、先週に引き続き、本来ここにはいないはずの「陽」のオーラが漂っていた。

 

「……で、なんでお前、またここにいるわけ?」

 

八幡は入り口で立ち止まり、不機嫌そうな声を漏らした。

視線の先には、まるで自分の家のようにくつろいで雪ノ下と談笑しようとしている由比ヶ浜結衣の姿があった。

 

「や、あたし最近料理にハマってるじゃない? こないだのお礼にクッキー作ったの! よければどうかなーって」

 

由比ヶ浜は屈託のない笑顔で、手に持った袋を掲げてみせた。

八幡は無言のまま、隣で本を読んでいる雪ノ下に視線を送る。

 

「ちょっと、なぜ私を見るのかしら」

 

雪ノ下が本から目を離さずに、不快げに眉を寄せた。

 

「弟子の成長は師匠が見守るもんだろ。お前が教えたんだから、責任取って食ってやれよ」

「そうそう! 食べてみてよ、ゆきのん!」

「……気のせいかしら。見た目が先週の『炭』とあまり変わっていないように見えるのだけれど。あと、その奇妙なあだ名で呼ぶのはやめて頂戴」

 

雪ノ下は溜息をつき、由比ヶ浜が差し出した物体を検分するように見つめた。

そんな二人のやり取りを余所に、由比ヶ浜は椅子を回して八幡の方を向き、宣言した。

 

「あ、それでさ! あたし、今日からこの部活のお手伝いすることにしたから! や、全然気にしないで! どうせ放課後暇だし!」

「……は?」

 

八幡の電子頭脳が、その発言の意図を測りかねて一瞬フリーズした。

スクールカーストの頂点に属する彼女が、なぜわざわざ「ゴミ谷」などと呼ばれる男と、氷の女王が支配するこの隔離病棟のような部室に居座る必要があるのか。

 

「……勝手にしろ。じゃあな、ゆきのん」

「ゆ、ゆき……!?」

 

雪ノ下が顔を真っ赤にして絶句する。その反応を背中で受け流しながら、八幡は早々に部室を後にしようと踵を返した。

鋼鉄の体を持つ自分にとって、これ以上の深入りは禁物だ。馴れ合いは計算外のノイズでしかない。

 

「あ! ヒッキー、ちょっと待って!」

背後から声が飛んだ。

直後、八幡の超聴覚が、空気の抵抗を切り裂いて飛来する「物体」の音を捉えた。

ヒョイ。

振り返るまでもない。

八幡は背後も見ずに、右手を肩越しに伸ばした。

電子頭脳が物体の軌道を瞬時に計算し、指先のサーボモーターが精密に作動する。

放り投げられたそれは、吸い込まれるように彼の掌の中に収まった。

 

「……」

 

掴んだ感触は軽い。だが、鋼鉄の指先には、可愛らしくラッピングされた袋の感触が伝わってきた。

透過装置を作動させるまでもなく、それが先ほど彼女が言っていた「クッキー」であることは分かっていた。

 

「ヒッキーにも作ったんだよ! 食べたら感想、聞かせてね!」

 

由比ヶ浜はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。

八幡は掌の中の小さな包みを見つめた。

リボンで飾られたそれは、今の彼にとってはあまりにも脆く、そして場違いなほどに温かい。

握り潰してしまわないよう、彼は慎重に力を制御して、それをポケットに滑り込ませた。

 

(……感想も何も、俺の腹に入れば全部原子レベルで分解されるだけだっつーの)

 

心の中で毒づきながら、八幡は廊下を歩き出す。

だが、ポケットの中にある「贈り物」が、原子炉の熱とは別の、妙な存在感を持って彼の脇腹を刺激し続けていた。

比企ヶ谷八幡の鋼鉄の心臓が、ほんのわずかだけ、電子的なリズムを乱したような気がした。

 

その日の夜。

比企谷家のリビングでは、いつものように小町がテレビを見ながらくつろいでいた。

八幡は帰宅するなり、ポケットから「それ」を取り出し、テーブルの上に事もなげに置いた。

 

「小町、土産だ」

「わあ、お兄ちゃんお帰り! なになに、小町にお土産? ……って、えええええ!?」

 

袋の中身を一目見た瞬間、小町の可愛い顔が引き攣った。

そこには、どう見ても「炭化した礫(つぶて)」にしか見えない、黒光りする物体が鎮座していたからだ。

 

「……お兄ちゃん、気持ちは嬉しいんだけどさ。流石にゴミを押し付けられるのは小町的にポイント低いよ?」

 

小町は指先で袋を突っつきながら、本気で嫌そうな顔をした。

無理もない。普通の人間、特に女子中学生にとって、それは食品というカテゴリーではなく、不燃ゴミのカテゴリーに分類されるべきものだった。

 

「安心しろ。ちゃんと食えるぞ、たぶん」

 

八幡は冷蔵庫からマックスコーヒーを取り出しながら、淡々と答えた。

「たぶん」という言葉には、彼の電子頭脳による厳密な成分解析結果が含まれていた。

 

(……毒素は検出されず。炭化による苦味は強いが、未精製の糖分と脂質が一定量含まれているため、エネルギー効率はゼロではない)

もっとも、そんな機械的な保証が、生身の妹に通用するはずもないのだが。

 

「たぶん!? お兄ちゃん、今さらっと恐ろしいこと言わなかった!?」

「しかも、これでも女子の手作りだ。凄いだろ」

 

八幡が少しだけ自慢げに(あるいは、この状況を面白がって)付け加えると、小町は絶望したように天を仰いだ。

 

「……お兄ちゃん、それ絶対嫌われてるよ! 嫌がらせだよ! むしろ呪いの類だよ!」

「いや、あいつはあれで本気だったんだよ。……まあ、情熱が温度設定を数百度ほど上回っちまった結果なんだろうが」

 

由比ヶ浜の、あの必死な形相を思い出す。

彼女は間違いなく「真心」を込めていた。ただ、その真心を物質化するプロセスにおいて、熱力学的な法則を無視しただけだ。

 

「女子の手作りって……誰からもらったの?」

小町の好奇心が、恐怖をわずかに上回った。

「……由比ヶ浜っていう、クラスのリア充だ。なぜか奉仕部のお手伝いをすることになった」

「へぇ……。お兄ちゃんの周りに、そんな女の子が現れるなんて。これは小町的に、お兄ちゃんの『リア充化フラグ』を警戒せざるを得ない展開……なんだけど、このクッキーを見る限り、前途は多難を通り越して地獄だね」

 

小町は意を決したように、袋から一番小さそうな黒い破片を一つ取り出した。

そして、恐る恐る口に運ぶ。

 

「……あ、意外と……苦いけど、なんか癖になる味かも? 焦げたキャラメルみたいな?」

「だろ」

 

八幡は満足げに頷き、原子炉の冷却水(マックスコーヒー)を喉に流し込んだ。

鋼鉄の体を持つ兄と、それを受け入れるお人好しな妹。

比企谷家の夜は、焦げたクッキーの匂いと共に、静かに更けていった。

 




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2026年1月21日:内容を更新
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