——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第四十七話:鋼鉄の誓い

 

 

 放課後の総武高校。冬の夕陽が長く伸び、奉仕部部室の古い扉を赤黒く染めていた。

 室内には、かつての賑やかさが嘘のような、刺すような沈黙が澱(よど)んでいた。雪ノ下雪乃は窓際で一人、閉ざされた未来を綴るかのように書類に目を落とし、由比ヶ浜結衣はただ、崩れゆく砂城を眺める子供のように、力なくその光景を見守っている。

 

 その停滞した時間を、暴虐なまでの質量を持った音が切り裂いた。

 

――ガッ!

 

 勢いよく開け放たれたスライドドアが、壁に当たって乾いた悲鳴を上げる。

 

「……っ!」

 

 驚愕に肩を揺らした二人の視線の先に立っていたのは、昨日までの「迷い」をすべて削ぎ落とし、冷徹なまでの光を宿した比企谷八幡だった。

 

「……何の真似かしら。もうここへは来なくていいと、そう言ったはずだけれど」

 

 雪乃が、凍てつくような冷気を纏った声で告げる。その瞳には明確な拒絶の色があった。だが、八幡の超電子頭脳は、彼女の指先がわずかに震え、その瞳の奥に一瞬だけ揺らいだ「期待」をミリ秒単位で検知していた。

 

「ああ、来ないさ。奉仕部には戻らない。その約束は守ってやる」

 

 八幡は部室の中央へと歩み寄り、雪乃の正面に立った。

 その距離、わずか一メートル。互いの呼吸さえ届く距離で、八幡の内部リアクターが重厚な駆動音を奏でる。

 

「だがな、雪ノ下。奉仕部という場所が、お前の独りよがりな自己犠牲で、無様に自然消滅するのを黙って見ているつもりもない。……そんなのは、俺の演算回路が許さないんだよ」

「何を……」

 

 八幡は、自らの内に残る最後の一欠片の『人間的な躊躇(ためら)い』を、冷徹なシステムコマンドで強制終了(キル)した。

 

 それは救済ではなく、対峙。守護ではなく、粉砕。

 

 彼女を傷つけまいと顔を背け、独り善がりの優しさで濁っていた「比企谷八幡」というプログラムは、今この瞬間、完全に上書きされた。

 

 

「俺はお前に――雪ノ下雪乃に、挑戦することにした」

 

 

 その言葉が放たれた瞬間、部室内の時間は完全に凍りついた。

 雪乃は雷に打たれたかのように目を見開き、呼吸することさえ忘れたかのようにその場に凝固する。その透き通った瞳が、深い驚愕の色に塗り潰されていく。

 隣に立つ結衣は、悲鳴に近い声を喉の奥で呑み込み、絶句して八幡を見上げていた。かつてないほど鋭利で、そして重厚な覚悟を宿した彼の声に、二人の少女の魂は物理的な衝撃を伴って激しく揺さぶられていた。

 

 八幡はそこで一度、言葉を切った。

 

 肺腑に溜まった熱い空気を吐き出し、代わりに覚悟という名の冷徹な論理を吸い込む。

 バイザーの奥、死んだ魚のようだった彼の瞳の中で、青白い電子の炎がかつてないほど激しく揺らめいた。

 その身に宿る全演算能力が、たった一人の少女を『撃ち抜く』ために収束していく。

 

 

「だから俺は――」

 

 

「一色いろはを、俺が全力で生徒会長にする。お前の目論見を、その根底からハックし、真正面から叩き潰す。……お前が選んだその『正解』が、どれほど脆弱で独善的なものか、力をもって証明してやる」

 

 それは、比企谷八幡という男の、意地と誇りのすべてを懸けた『告白』だった。

 お前を救いたいのではない。お前という存在を、俺と並び立つ唯一の相手だと認めたからこそ、真正面からそのエゴを粉砕しに来た。

 

 ──鋼鉄の告白だった。

 

 部室に満ちた、爆発的なまでの沈黙。

 その中心で、雪ノ下雪乃の思考回路は、比企谷八幡が投げつけた言葉を幾度も、幾度も反芻していた。

 

『一色いろはを、俺が全力で生徒会長にする』

 

 それは論理的な自殺行為であり、彼女への真っ向からの否定だ。しかし、雪乃の魂は、その言葉の裏側にある、鋼鉄よりも硬く、それでいて泣きたくなるほど熱い「肯定」を読み取っていた。

 

(……ああ、そう。あなたは、私を救おうとなんてしていないのね)

 

 雪乃は、自分の内にあった「独りよがりの覚悟」が、八幡の放つ青白い電子の炎によって焼き尽くされていくのを感じた。

 

 彼は、彼女を憐れんでいない。

 彼は、彼女の自己犠牲を「弱い者のすることだ」と断じたのだ。

 

 自分と対等に立ち、自分を打ち負かす価値のある「強者」として、彼は今、ここに立っている。

 

「……ふふ」

 

 不意に、雪乃の薄い唇から、微かな、しかし凛とした笑みが漏れた。

それは拒絶の氷を溶かす春の陽光ではなく、戦場に響く鋭い剣鳴のような笑みだった。

 

「正気かしら? 私という『頭脳』が出した最適解を、補助回路(サブライン)に過ぎないあなたが上書きしようなんて」

 

 雪乃は一歩、八幡へと踏み出した。

 その瞳には、もはや迷いも、悲壮な決意もなかった。あるのは、自分を認めた者だけが見せる、至高の挑戦的な輝き。

 

「……お前こそ、俺という『手足』を切り離して、その理想がどこまで歩けるか試してみろ」

「いいわ。証明してあげましょう、比企谷くん。司令塔を欠いたあなたが、どれほど無様に機能不全を起こすかを」

 

 二人の視線がぶつかり合い、部室の空気が物理的な熱を帯びて膨張する。

それは「同じ方向を向いて歩む」という温かな妥協ではない。

互いの魂を認め合った者だけが許される、魂の殺し合い。

 

 

「ひねり潰してあげるわ、比企谷くん。一兵卒としての分を分からせてあげる」

「首を洗って待ってろ、雪ノ下。……お前のシステムを、完全に破壊してやる」

 

 

 関ヶ原の幕が、再び上がる。

 

 

──

 

 

 

 八幡は一度も振り返ることなく、重厚な金属音を響かせて部室を後にした。

その足音が廊下の彼方に消えた瞬間。

 

「……はぁぁ……っ」

 

 由比ヶ浜結衣が、堰を切ったように大きな溜息を吐き出した。

 

「……び、びっくりした……。息が詰まって、死ぬかと思ったよ……」

 

 結衣は膝を折り、椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。だが、その顔には、先ほどまでの絶望は微塵もなかった。

 

「でも……よかった。ヒッキー、帰ってきてくれたね。あんなに怒ってるヒッキー、初めて見たけど……あんなにカッコいいヒッキーも、初めて見たかも」

 

 雪乃は答えなかった。

 ただ、静かに窓際の椅子に身を沈め、自分の胸に手を当てた。

早鐘を打つ心臓。リアクターが限界を超えて励起したかのような、熱い昂揚感。

 

「由比ヶ浜さん……。あなた、彼を追ってあげて。……彼は今、最高に機嫌が悪くて、最高に『全力』のはずだから」

「うん!……ゆきのんは?」

「私は……少し、自分の演算回路を再構築する必要があるわ。彼を迎え撃つために、ね」

 

 結衣が弾かれたように部室を飛び出していく。

 再び訪れた、静寂。

 しかし、それはもはや墓標のような冷たさではなかった。

 雪乃は一人、夕闇が迫る部室で、椅子の背にもたれて天を仰いだ。

 そして、堪えきれなくなったように、一筋の熱い雫が彼女の頬を伝い、床に落ちた。

 

「……私は、どうかしているわね……」

 

 それは、悲しみの涙ではなかった。

 拒絶されても、突き放しても、彼は自分を見捨てなかった。

 それどころか、自分の全存在を懸けて、真っ向から自分を奪い返しに来てくれた。

 そのあまりにも不器用で、暴力的なまでの愛が、彼女の閉ざされていた回路を光で満たしていく。

 

「私と、本当に向き合ってくれたこと……。……ありがとう、比企谷くん」

 

 喜びに震える指先で、彼女は自分の瞳を覆った。

 同じ方向を向いて歩むのではなく、鏡合わせの自分を見るのでもなく。

 ただ、自分を「強者」と認め、その存在を懸けて対峙してくれる。

 

「……徹底的に、ひねり潰してあげるわ」

 

 涙を拭った雪乃の瞳には、かつてないほど美しく、力強い「生命」の火が灯っていた。

 鋼鉄の救世主と、氷の頭脳。

 二人の「本物の戦い」が、今、ここから始まる。

 

 

──

 

 

「――っ、はぁ……」

 

 奉仕部部室の重いスライドドアを背後で閉めた瞬間、比企谷八幡は肺に溜まっていた熱い空気を一気に吐き出した。

 内部リアクターの駆動音は、まだ高周波の余韻を残している。視界の端で点滅していた「対峙モード」の論理コードが、ゆっくりと通常の学校生活用プロトコルへと書き換えられていく。

 

「ヒッキー! 待って、ヒッキー!」

 

 背後から飛び出してきた由比ヶ浜結衣が、震える手で八幡の制服の袖を掴んだ。

 だが、八幡の足はそこで止まった。

 正確には、前方に立ち塞がる「壁」を検知して、緊急停止(エマージェンシー・ストップ)を余儀なくされたのだ。

 

「……あ」

 

 八幡の光学センサーが捉えたのは、腕を組み、廊下の壁に背を預けていた一人の女性。

 平塚静。

 そしてその隣で、信じられないものを見るような目でこちらを凝視している、一色いろはの姿だった。

 廊下に、刺すような沈黙が流れる。

 冬の夕暮れ、誰もいない廊下の反響効率は無駄に良く、先ほどまでの「宣戦布告」がドア越しに筒抜けだったであろうことは、二人の表情を見れば一目瞭然だった。

 

「…………え、あ、いや……これは、その」

 

 次の瞬間、八幡の顔面が、マックスコーヒーの缶よりも鮮やかな赤に染まった。

 内部冷却システムが、急激な血圧上昇と精神的負荷(メンタル・ダメージ)によってパニックを起こす。

 

『――警告:自意識過剰による強制シャットダウンの危険性。冷却材(糖分)の補給を推奨します』

 

(……うるせぇよ、電子頭脳。今すぐ記憶消去(デリート)しろ!)

「……ふむ。比企谷、あんな熱にあてられたら、声を出すのも野暮というものだな。思わず私も、震えてしまったよ」

 

 平塚が、どこか誇らしげに、それでいて感極まったような笑みを浮かべて歩み寄ってくる。

 彼女の経験豊富な瞳は、八幡が単に「キレた」のではなく、自らの全存在を懸けて雪ノ下雪乃という迷宮に踏み込んだことを見抜いていた。

 

「……全部、聞いてたんですか」

「ああ、概ね。特に『首を洗って待ってろ』のあたりは、実に君らしくてゾクゾクしたぞ」

「死にたい……。今すぐ自爆プログラムを起動して、この校舎ごと塵になりたい……」

 

 八幡は顔を覆い、その場にうずくまりたくなった。鋼鉄のサイボーグとしてのプライドが、思春期の男子高校生という脆弱なOSによって完膚なきまでに破壊されていく。

 

「……あの、先輩? さっきの、マジですか?」

 

 一色が、一歩引いた位置から、引きつった笑みを浮かべて声をかけてきた。

 

「なんというか……今の、完全にロジハラDVサイテー男のそれでしたよ? 『俺という手足抜きで動けるか』とか、どんだけ傲慢なんですか。引きますわー、超引きますわー……」

「……わかってるよ。俺が一番よくわかってるから、それ以上言うな……」

「でも」

 

 一色はそこで言葉を止め、八幡の赤い顔を、今までにないほど真剣な眼差しでじっと見つめた。

 

「……ちょっとだけ、ほんの少しだけですけど。……見直しました。先輩が、あそこまで本気で、誰かを『否定』するの、初めて見たから」

 

 一色の頬にも、夕陽のせいだけではない微かな赤みが差していた。

 葉山隼人のような「全方位への優しさ」とは対極にある、たった一人を射抜くための、暴力的なまでの執着。

 それは一色いろはという少女がこれまで触れてきた、どの輝きよりも鋭く、そして危険な熱を帯びていた。

 

 

──

 

 

 奉仕部部室の重厚な扉の前。夕闇が迫る廊下の静寂は、八幡の赤面とともに少しずつ体温を取り戻していた。

 平塚が満足げに頷き、少し離れた位置で見守る中、由比ヶ浜結衣が八幡の袖を、すがるような力強さで握り直した。

 

「……ねぇ、ヒッキー」

 

 結衣の潤んだ瞳が、八幡の無機質なバイザーの奥を覗き込むように彷徨う。

 

「本当に……いいの? ゆきのんと戦うなんて。さっきの、本気……なんだよね?」

 

 八幡は深い溜息をつき、視線を廊下の窓の外、遠くに見える千葉の街並みへと投げた。超電子頭脳は、結衣の不安を「論理的揺らぎ」として検知するが、今の八幡にはそれを切り捨てるつもりはなかった。

 

「ああ。……むしろ、今の関係の方がしっくりくる」

「しっくりくる……って……」

「半端な関係にはしたくないんだ」

 

 八幡の声は、冷徹なまでに安定していた。

 

「仲直りして、元通りになって、また三人でお茶を飲んで……そんな『ぬるまゆ』みたいな妥協じゃ、あいつ(雪ノ下)は納得しない。俺もだ。あいつが俺を『敵』として、あるいは『超えるべき壁』として認識した以上、俺もまた全出力を以てそれに応えるのが、唯一の誠実さだろ」

 

 雪乃が八幡を拒絶したのは、彼の存在を無視できない「正しさ」として認めたからだ。ならば、その「正しさ」を、自分を全否定しに来る「宿敵」としてぶつけること。それこそが、彼らなりの『本物』へのアプローチであると、八幡のリアクターは確信を持って熱を帯びていた。

 

「対等な敵として向き合う。……それが、今の俺たちにとって一番すっきりする演算結果なんだよ」

 

 その迷いのない言葉に、結衣はそれ以上何も言えなかった。ただ、八幡の横顔に宿る、かつてないほど強固な「芯」を、眩しそうに見つめることしかできなかった。

 

「……あの、先輩」

 

 それまで少し離れてやり取りを眺めていた一色いろはが、あざとさを完全に消した無防備な顔で、八幡へと歩み寄ってきた。

 

「さっきの宣戦布告、かっこよかったですけど……一つ聞いていいですか? もし、私が『生徒会長になんてなりたくない』って、最後まで首を縦に振らなかったら……どうするつもりだったんですか?」

 

 一色の言葉は、一種のテストだった。

 自分がただの「駒」として、彼らの崇高な戦いに利用されているだけなのか。それとも、別の意味があるのか。

 八幡はゆっくりと一色に向き直った。その瞳の奥、青白い電子の火が再び小さく、しかし鋭く灯る。

 

「その時は、俺自ら会長に立候補するしかねぇだろ」

「……え?」

「一人でも、雪ノ下を叩き潰す。おまえという変数を使えないなら、俺自身が定数になって、あいつの計算を狂わせるまでだ。目的は、雪ノ下雪乃との対峙であって、手段は二の次だ」

 

 一色は、息を呑んだ。

 誰かのために泥を被る「奉仕」でも、誰かに強制される「義務」でもない。自分の誇りと、一人の少女を「撃ち抜く」という傲慢なまでの自負。

 すべてを賭して戦場に立とうとするその姿。

 

(……あ、やばい)

 

 一色の胸の奥で、小さな、しかし決定的な火花が散った。

「あざとい」自分さえも計算に含め、冷徹に、しかし誰よりも情熱的に目的を遂遂行しようとする、目の前の鋼鉄の男。

 

「……なんですかそれ。どんだけ私を当てにしてないんですか。超サイテー……」

 

 そう毒を吐きながらも、一色は顔が火照るのを隠すように、首元のマフラーをきつく締め直した。不覚にも、本気で「ちょっとカッコいい」と思ってしまった自分を、必死に否定するように。

 

「……まぁ、詳しい作戦は明日だ。今日はもう解散。……いいな、一色」

「……わかってますよ。先輩にそこまで言われて逃げたら、私の方がサイテーみたいじゃないですか」

 

 夕闇に包まれ始めた廊下。

 三人の間に流れる空気は、もはや絶望や悲哀ではなく、次なる「戦い」への高密度の予感に満ちていた。

 

 

──

 

 

 比企谷八幡と由比ヶ浜結衣の足音が階段の向こうへ消え、廊下には再び冬の夕暮れ特有の、重苦しい静寂が戻ってきた。

 一色いろはは、先ほどまで八幡が立っていた場所を、憑き物が落ちたような、あるいは何かに憑かれたような空虚な眼差しで見つめ続けていた。

 

「ふふ……。行ってしまったな。相変わらず、後味の悪さと強烈な余熱だけを残していく男だ」

 

 壁に背を預けていた平塚静が、満足げな溜息を吐きながら一歩前へ出た。彼女の指先は、まるで素晴らしい舞台を観終えた後の観客のように、微かに震えているようにも見えた。

 

「……平塚先生。あの人、本当に何なんですか」

 

 一色が、絞り出すような声で問う。

 

「さっきの先輩……いつもの死んだ魚の目じゃなくて、もっと別の、何かヤバいものが燃えてるみたいでした。あんな風に言われたら、私、逃げられないじゃないですか」

「だろうな。あれが比企谷八幡という男の真骨頂さ」

 

 平塚は窓の外、沈みゆく太陽が作り出す赤い残光を見つめながら、どこか誇らしげに、独白するように言葉を続けた。

 

「普段は無気力で、効率ばかりを求める冷徹な鋼鉄。だが、ああなった時のあいつは、誰よりも刺激的で、そして危険だ。……あいつのこういう一面を、私だけが、あるいはあの子たちだけが知っているというのは、教師としていささか独占欲を刺激されるな」

 

 平塚の言葉は、まるで恋仲にある少女が語る「特別な彼」への執着のようにさえ聞こえた。

 一色は、その言葉を反芻しながら、自分の胸の奥で今も鳴り止まない鼓動の意味を探していた。

 これまで、一色いろはにとっての理想は、葉山隼人という存在だった。

 誰にでも等しく価値を認められ、眩しく、正しく、周囲を照らし続ける「黄金」の輝き。それは美しく、安全で、誰もが憧れる偶像(アイドル)の極致だ。

 

 だが。

 

 今、目の前で火花を散らした比企谷八幡という存在は、それとは決定的に異なっていた。

 それは、黄金のような普遍的な価値は持たないかもしれない。

 

 だが、極限まで叩き上げられ、研ぎ澄まされた「鋼鉄の刃」

 

 不用意に触れれば指先を切り裂き、その鋭利な美しさで、見る者の魂を根底から斬り刻んでしまうかのような、危険な光。

 

(……私、どうかしちゃったのかな)

 

 黄金の偶像が放つ、あたたかな平穏。

 それよりも、鋼鉄の刃が放つ、触れれば壊れてしまいそうな危うい熱に、目を奪われてしまった。

 

「……先生。先輩、ああなると手がつけられないって言ってましたよね」

「ああ、そうだ。雪ノ下でさえ、今のあいつを止めるのは容易ではないだろうな」

「ですよねー」

 

 一色は、自分自身の頬が火照っているのを自覚し、小さく舌を出した。

 

「だったら、私も覚悟を決めなきゃですね。……あの鋼鉄に振り回されるのも、そんなに悪くないかもしれないし」

 

 一色いろはという観測者が、葉山隼人という「黄金の夢」から醒め、比企谷八幡という「鋼鉄の現実」に足を踏み入れた瞬間。

 冬の廊下に差し込む最後の光が、彼女の瞳の中に、青白い火花のような輝きを写し出していた。

 

 

──

 

 

 放課後の冷気が、制服の隙間から容赦なく体温を奪っていく。

八幡の後ろを歩く由比ヶ浜結衣は、自分の指先が、膝が、いまだに細かく震え続けているのを自覚していた。

 

(……すごかった。あんなの、見たことない……)

 

 脳裏に焼き付いて離れないのは、部室の扉を蹴破らんばかりに現れた八幡の姿だ。

 瞳の奥で揺らめいていた、あの冷たくも激しい青白い炎。

 そして、それを受けた雪乃の顔。

 

 文化祭、八幡がその超電子頭脳をフル回転させ、雪乃を補佐して『完璧な世界』を作り上げたあの時。アクアリウムのように美しく、完璧に調和されたあの光景こそが二人の到達点だと思っていた。だが、今日見たものは、それを遥かに上回る『何か』だった。

 

 それは救済なんて生易しいものではなく、お互いの急所を正確に狙い澄まし、魂の根源から肯定し合うための暴力的なまでの儀式。

 

(勝てない……)

 

 結衣の胸の奥で、乾いた音がした。

 何に対しての勝敗なのか、自分でも判然としない。けれど、直感が告げていた。

 修学旅行の後、自分なりに「優しさ」や「気遣い」で彼との距離を詰めようとしてきた。クッキーを作ったり、隣に座ったり、彼が傷つかないように、そっと寄り添おうとしてきた。

 

 けれど、自分には、雪乃のように彼の『敵』になることはできない。

 

 彼を全否定し、彼の論理を真っ向から叩き潰し、その上で「お前抜きで動けるのか」と嘲笑してみせる。

 そんな、狂気にも似た信頼の形。

 寄り添いたい。隣にいたい。笑い合いたい。

 そんな結衣が抱く「普通の女の子」としての願いは、あの二人が火花を散らす高密度の空間では、一瞬で蒸発してしまうほどに脆いものに思えた。

 

(ゆきのんは、ヒッキーの正面に立ってる……)

 

 自分はいつも、彼の背中を見ている。あるいは、少し隣で、彼の横顔を伺っている。

 けれど雪乃は、彼と視線をぶつけ合い、魂を削り合い、お互いの存在そのものを賭けて対峙していた。

 

「……待って、ヒッキー」

 

 震える声が、冬の夜気に溶ける。

 前を歩く八幡の足音が、重厚な音を伴って響く。彼は今、雪乃という「最強の敵」を倒すために、その全身全霊を最適化させている。その余熱だけで、結衣の心は火傷しそうなほどに熱かった。

 一度灯ったその火は、結衣の内で消えるどころか、大きなうねりとなって彼女を突き動かし始めていた。

 

「勝てない」と思った。

 自分は雪乃にはなれない。あんな風に、彼と地獄まで道連れにするような戦いはできない。

 

(でも……嫌だよ。後ろにいるだけなんて、もう嫌……)

 

 寄り添いたい。

 正面に立ちたい。

 本当の意味で、彼に向き合いたい。

 自分の中のドロドロとしたエゴが、雪乃への羨望と八幡への思慕が混ざり合い、制御不能なエネルギーへと変質していく。

 

「ヒッキー!」

 

 結衣は駆け出した。

 夕闇に消えてしまいそうな彼の背中に、自分の存在を刻みつけるように。

 その瞳には、絶望の涙を押し流すほどの、激しく、切実な熱が宿っていた。

 

 

──

 

 

 夕闇の冷気を切り裂くような叫び声に、八幡の重厚な足音が止まった。

 ゆっくりと振り返る彼の瞳の奥で、青白い電子の光が結衣の姿を正確に捉える。肩を上下させ、荒い息を吐きながら立ち尽くす彼女の瞳には、先ほどまでの迷いや涙の残滓(ざんし)はもうなかった。

 

「……まだ、何かあるのか。一色との打ち合わせなら明日だぞ」

 

 八幡の声は冷徹だった。だが、結衣はその声の奥に潜む、彼なりの「気遣い」という名のノイズを、今の研ぎ澄まされた感性で感じ取っていた。

 

「ううん、違うの」

 

 結衣は、震える一歩を踏み出した。

 

「……あたしも、ヒッキーと向き合いたい」

 

 地面を踏みしめるその感触を確かめながら、彼女は自分の内に渦巻く熱を、言葉という形に変えていく。

 

「ゆきのんの背中を追いかけるだけじゃなくて、ゆきのんの隣に立って……ヒッキーを正面から見たいの。ヒッキーがゆきのんを倒そうとするなら、あたしはゆきのんを支えて、ヒッキーと戦う」

 

 それは、少女の純粋な宣言だった。

 八幡に対する、言葉にできないほど大きな想い。

 雪乃に対する、深い親愛と尊敬と、決して譲りたくないという張り合う気持ち。

 そして、誰よりも奉仕部という場所を愛し、その「聖域」を守りたかった彼女なりの、精一杯の真心。

 

「……あたしも、混ぜて。ヒッキーが本気で向き合うっていうなら、あたしだって、本気で向き合いたい」

 

 八幡は、黙って結衣を見つめた。

 超電子頭脳が、彼女の生体情報をミリ秒単位で解析する。

 瞳孔の開き、心拍の急上昇、指先の微かな震え。それらすべてが、彼女の言葉が演算上のハッタリではなく、魂の深淵から絞り出されたものであることを証明していた。

 

(……ああ。そうか。こいつも、同じだったんだな)

 

 八幡の中で、結衣に対する「観測」のプロトコルが劇的に書き換えられていった。

「守るべき隣人」でも、「隣で笑う少女」でもない。

 雪ノ下雪乃という最強の敵の隣に並び立ち、自分という壁を正面から見据える――新たな『宿敵(プレイヤー)』の出現。

 八幡は、一度目を閉じ、自らの覚悟をさらに深く鋼鉄へと沈めた。

 一人を相手にするのも、二人を相手にするのも、今の彼にとっては同じことだ。むしろ、彼女たちが揃って自分を「敵」として指名したことは、この戦いが真の意味で『本物』になったことを意味していた。

 

 八幡は再び目を開けると、真っ向から結衣を『観た』。

 

「……いいだろう。なら、好きにしろ」

 

 八幡は不器用に向き直り、去り際に一言だけ、重厚な声を投げかけた。

 

「雪ノ下の足を引っ張るんじゃねーぞ。……中途半端な覚悟なら、まとめて粉砕してやるからな」

 

 それは、彼なりの最大級の応援だった。

 

「お前もまた、俺が全力で叩き潰すべき対象だ」という承認。

 対等な戦士として彼女を認めた、比企谷八幡なりの敬意。

 

「――っ、うん! 負けないよ、ヒッキー!」

 

 結衣は、溢れそうになる涙を堪え、力強く笑ってみせた。

 八幡の背中が、今度は夕闇の中に力強く、揺るぎない確信を持って溶けていく。

 奉仕部という箱庭は、今日、確かに壊れたのかもしれない。

 だが、そこから芽吹いたのは、互いの魂を認め合い、正面からぶつかり合うという、残酷なまでに美しい『本物』の火花だった。

 比企谷八幡、雪ノ下雪乃、そして由比ヶ浜結衣。

 三人の想いが、一つの戦場へと収束していく。

 冬の夜空に、鋼鉄と氷、そして真心の火花が、静かに、しかし激しく散り始めた。

 

 




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