——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第四十八話:集う者たち

 

 十一月末の、刺すような冷気。

 

 比企谷家の朝は、窓ガラスに白くこびりついた結露と、リビングを徘徊する電子音で始まった。

 

「おはようございます、八幡。マックスコーヒーの適温供給、完了したにゃーん。今日も糖分過多で回路を回すにゃん」

 

 配膳ロボットをベースにした愛嬌のあるフォルムに、デーモン博士が余計な重武装を施した戦闘支援ロボット――ベラが、車輪を滑らせて八幡に近づく。八幡は寝ぼけ眼のまま、トレイに載せられた熱い缶コーヒーを受け取った。

 

「……おう、サンキュな、ベラ」

 

 プシュッという小気味よい開放音。流れ込む過剰な糖分が、休止モードだった超電子頭脳を強引に起動させていく。足元では、本物の猫であるカマクラが八幡の足首に体を擦り付けていた。八幡はその柔らかな毛並みを無言で撫で、鋼鉄の指先に伝わる生き物の温かさを噛みしめる。

 

「……おはよー。お兄ちゃん、今日も早いね」

 

 リビングに現れたのは、眠そうに目をこする小町だった。受験勉強が佳境に入っている彼女は、昨夜も遅くまで机に向かっていたらしい。感心なことだ、と八幡の内部演算回路が家族への高評価(ポイント)を計上する。

 

「小町、コーヒー飲むか? 脳を回すにはカフェインと適度な刺激が必要だろ」

「あ、もらう。……お兄ちゃんが淹れてくれるコーヒー、小町的にポイント高いかも」

 

 八幡は湯を沸かし、丁寧にドリップを開始する。立ち上る香ばしい香りが、冬の朝の冷え切った空気をわずかに和らげた。

カップを差し出し、二人で並んでコーヒーを啜る。その静寂を破ったのは、小町の鋭い観察眼だった。

 

「……ねぇ、お兄ちゃん。また、なんかあったでしょ」

 

 八幡はカップを持ったまま、少しの間、宙を見つめた。

 バイザーの奥、青白い電子の火花が昨日の夕刻――あの部室での「挑戦」の記憶を再生(リプレイ)する。

 

「……喧嘩を売った」

「はえ……っ?」

 

 小町の喉から、素っ頓狂な声が漏れた。

 

「しかも、雪ノ下と由比ヶ浜にだ」

 

 今度こそ、小町は完全に唖然として固まった。

 最近の兄が、雪乃や結衣とどれほど深い信頼関係を築いていたか。小町はそれを誰よりも近くで、微笑ましく見守ってきたつもりだった。それだけに、その「絆」を兄自らが断ち切るような真似をしたことが信じられなかったのだ。

 

「え、えええええ!? お兄ちゃん正気!? ……あんなに、あんなに仲良かったのに。あのお姉さんたちと、喧嘩したの……?」

 

 小町の瞳に、戸惑いと悲しみが混ざり合う。彼女にとって、奉仕部の三人は「本物の居場所」の完成形に見えていたからだ。

 

「……心配するような状況じゃない。ただ、今の関係を『本物』にするために、少しだけ本気で向き合うことに決めただけだ」

 

 八幡は冷め始めたコーヒーを一気に流し込んだ。

 まもなく、生徒会選挙の公示が始まる。

それまでの準備期間こそが、雪ノ下雪乃という巨大な論理(ロジック)を正面からハックするための、勝負の要。

 比企谷八幡の瞳に、日常の仮面を脱ぎ捨てた「宿敵(ライバル)」の光が宿った。

ドリップコーヒーの最後の一滴がカップに落ち、静寂がリビングに戻る。

コーヒーを飲み干した八幡が、学校へ行くために制服のブレザーを羽織ろうとした、その時だった。

 

「……お兄ちゃん」

 

 背後からかけられた声に、八幡は手を止めた。

 振り返ると、小町がカップを両手で包み込んだまま、どこか切なげな瞳でこちらを見つめていた。先ほどの「喧嘩を売った」という冗談めいた、それでいて重い宣言。その真意を、彼女なりに咀嚼し終えたようだった。

 

「喧嘩するなんて言ってるけど……。それ、またお兄ちゃんが一人で全部背負い込んで、無茶しようとしてるんでしょ?」

「……無茶なんてしてない。効率的な演算の結果だ」

 

 八幡は視線を逸らし、機械的な語調で返した。だが、小町には通用しない。彼女は兄の「死んだ魚の目」の裏側で、超電子頭脳がどれほどの高負荷で回り続けているかを、誰よりも敏感に察知していた。

 

「嘘ばっかり。お兄ちゃんの『効率的』は、いつだってお兄ちゃん自身を削ることで成り立ってるんだから。……そんなの、小町的にはマイナス一万ポイントだよ」

 

 小町は歩み寄り、八幡のブレザーの襟元を少しだけ整えた。その小さな手の温もりが、ハイマンガン・スチールの外装越しではなく、八幡の内に残る「心」に直接伝わる。

 

「あのね、お兄ちゃん。雪乃さんたちと向き合うのはいいけど……。あんまり、無理しないでね。お兄ちゃんがボロボロになるの、小町は一番見たくないんだから」

 

 真っ直ぐな、一点の曇りもない妹の気遣い。

その瞬間、八幡の内部リアクターに溜まっていた刺すような緊張が、ふっと霧散していくのを感じた。

 超電子頭脳は、この非合理的な「優しさ」をどう処理すべきか一瞬迷い、やがて『休息プロトコル』というラベルを貼って受け入れた。

 

「……ああ、わかってるよ。小町に心配かけるような真似はしねぇよ」

 

 八幡の口元が、わずかに緩んだ。

 鋼鉄の救世主でも、冷徹な宿敵でもない。ただ一人の、妹を大切に思う「兄」としての柔らかな表情。バイザーの奥の電子の火も、この時ばかりは穏やかな光を湛えていた。

 

「よしっ、その顔なら大丈夫かな。……あ、今の返答は小町的にポイント高いかも! 期待してるからね、お兄ちゃん!」

 

 いつもの明るさを取り戻した小町に送り出され、八幡は玄関のドアを開けた。

 外気は相変わらず冷たかったが、胸の奥に残る温かな余韻は、これから始まる「鋼鉄の戦い」を支える確かな動力源となっていた。

 

 

──

 

 

 放課後の総武高校。冬の長い影が廊下を侵食し、人気のない旧校舎の廊下には八幡の重厚な足音と、それに続く一色いろはの軽い足音だけが響いていた。

 

 八幡の足取りは、鉛でも引きずっているかのように重い。

 超電子頭脳は、今から開く扉の向こうにあるものが、どれほど「平穏」という名の日常を破壊する劇薬であるかを警告し続けていた。できれば、この『武器』だけには頼りたくなかった。だが、雪ノ下雪乃という最強の論理(ロジック)を叩き潰すと決めた以上、利用できるリソースは塵一つ残さず使い切る。それが対等な敵としての礼儀だ。

 

「……あの、先輩。ここって、文化祭の時に実行委員会が使ってた部屋ですよね? 何の用ですか?」

 

 一色が不安げに八幡のコートの裾を指先でつまむ。

 八幡は答えず、埃を被ったスライドドアの前に立ち止まった。

 

「一色。……ここがお前の『城』だ」

「へ?」

 

 八幡が扉を力強く開け放つ。

 そこは、かつて「中央最適化委員会」という名の危険分子たちが、効率化という名の闘争に明け暮れた呪われた聖域――文化祭実行委員会の部室だった。乱雑に置かれたスチール机、壁に貼られたままの褪せた工程表、そして部屋の隅に積み上げられた膨大な事務処理資料の残骸。

 

 八幡はため息を一つ吐くと、かつて「書記長」として座っていた中央のパイプ椅子に、深く腰を下ろした。

 

「ここから先は、既存の生徒会のルールは通用しない。……俺たちは俺たちのやり方で、お前を玉座へと押し上げる」

「えっと……やる気なのは嬉しいですけど、私たち二人だけで何ができるんですか? 手足になってくれる人なんて、今から集めても時間が足りないんじゃ……」

 

 一色の至極真っ当な疑問。

 だが、八幡のバイザーの奥で、青白い電子の火花がパチリと弾けた。

 

「手足なら、いくらでもいる」

 

 八幡は、迷いなく指を鳴らした。

 

 ――パチン。

 

 乾いた音が静寂に響いた、その瞬間だった。

 部室の奥の暗がり、あるいは積み上がった段ボールの陰、そして点検口から、音もなく複数の人影が降り立った。

 

「ッ!?」

 

 一色が短い悲鳴を上げ、八幡の椅子の後ろに隠れる。

 現れたのは、整った身なりでピシッと直立不動の姿勢をとる、数人の生徒たちだった。

 その瞳には、かつて八幡が植え付けた、狂気にも似た効率化への渇望――『キマった』光が宿っている。

 彼らは八幡を一心に見つめ、一糸乱れぬ動作で深く頭を下げた。

 

「……中央最適化委員会、中枢実行部。書記長の下命(オーダー)を待ちわびておりました」

「同志諸君。……よく集まってくれた」

 

 八幡の声が、低く、威圧的な響きを帯びる。

 そこにはもはや、卑屈なぼっちの面影はない。かつて文化祭というカオスを、鋼鉄の規律で統制した「怪物」の顔があった。

 

「せ、先輩……。なんですか、この人たち……。宗教? それとも本物の過激派……?」

 

 ドン引きという言葉では足りないほどの戦慄を覚えている一色。八幡は彼女を一瞥することなく、眼前の「手足」たちに視線を固定したまま、静かに口を開いた。

 

「これより、中央最適化委員会の活動を再開する」

 

 幽霊たちは、その言葉を待っていたと言わんばかりに、再び『キマった』瞳を輝かせた。比企谷八幡の「鋼鉄の軍勢」が、かつての激闘の地で、ついに冬の眠りから覚醒した瞬間だった。

 

「――書記長! 比企谷書記長が帰還されたぞ!」

「オレたちの演算能力を、再びあの鋼鉄の意志に捧げる時が来たんだ!」

 

 部室内に沸き起こる、狂熱を帯びた喧騒。かつて八幡の指揮下で「効率化」という名の革命を成し遂げた同志たちが、その『キマった』瞳を輝かせて詰め寄る。

 その熱量を、八幡は右手をスッと高く挙げることで制した。

 

 ――ピタッ。

 

 不気味なほどの静寂が、一瞬で部屋を支配する。一糸乱れぬ統制。その背後で、一色いろはが「ヒッ……」と短い悲鳴を漏らし、完全にドン引きした表情で壁際まで後ずさっていた。

 

「諸君、もう知っていると思うが、俺はこの『同志一色いろは君』を次期生徒会長にするべく、全リソースを投入することを決定した」

「うおおおおお!」

 

 再び湧き上がろうとする歓声を、八幡は再び右手を挙げて制する。

 

(……なんだこれ。意外とクセになりそうだな、この動き)

 

 超電子頭脳が権力の魔力による微かなエンドルフィン分泌を検知するが、八幡はそれを冷徹にシャットダウンした。

 

「協力が必要だ。だが、今回の敵はこれまでの有象無象とはわけが違う。……相手は、あの『女神』雪ノ下雪乃。そして『超越者』由比ヶ浜結衣だ」

 

 その名が出た瞬間、同志たちの間に困惑と戦慄のノイズが走った。無理もない。彼女たちは彼らにとっても、アンタッチャブルな聖域の象徴だったからだ。

 一人の同志が、震える声で質問を投げかける。

 

「……書記長。あなたは、あの女神たちと袂を分かったのですか? 奉仕部の絆は、演算ミスだったと?」

 

 その問いに、八幡はバイザーの奥の瞳を細め、静かに答えた。

 

「彼女らと志は一つだ。だが、共に同じ道を歩むことだけが同志ではない。時に対峙し、全力でその論理(ロジック)を否定する姿勢……それこそが、今の俺たちに必要な革命なのだ」

 

 八幡は一同を見渡し、厳かに告げた。

 

「他の者たちにも伝えろ。『雪ノ下雪乃の側に着くのも、良しとする』。……各自の判断に、その身を任せよ」

 

 部室が再びざわつく。それは、八幡が雪乃に送る、最後にして最大の『塩』だった。

 優秀な「手足」をあえて敵陣営にも送り込み、条件を可能な限り公平にする。そうすることで、体力の無い彼女の負担を減らし、彼女が万全の状態で自分の前に立ちはだかるための、歪な支援。

 

「これより『一色いろは会長就任オペレーション』を開始する。……同志諸君の働きを期待する」

「「「ハッ!!」」」

 

 鋼鉄の号令を受け、同志たちは即座にそれぞれの端末や連絡網へと散っていった。

 嵐のような去り際。再び訪れた静寂の中で、八幡は肺に溜まった空気をすべて吐き出すように、めちゃくちゃ深いため息を吐いた。

 

「……先輩。……先輩って、マジで何者なんですか?」

 

 一色が、まるで未知の生物を見るような目で八幡を見上げていた。

 

「……ご想像にお任せする」

「……絶対、普通の人じゃないですよね。今のとか、どこの独裁国家の演説ですか。ちょっとカッコいいかもって思った自分を殴りたいです……」

 

 一色がぶつぶつと毒を吐きながらも、その頬が微かに赤いことを八幡は見逃さなかった。

 

 だが、今の彼にそれを弄る余裕はない。

 雪ノ下雪乃を正面から叩き潰すための、最悪で最高な選挙準備期間が、ついにその幕を上げた。

 

 

──

 

 

 中央最適化委員会の招集から一時間後。

 放課後の喧騒が少しだけ落ち着いた駅近くのサイゼリヤで、比企谷八幡はドリンクバーの「マックスコーヒー(再現版)」を啜りながら、眼前のメニューを無機質な視線で眺めていた。

 

「……はぁ。まさか先輩と一緒にごはん食べるなんて、人生の演算結果には一ミリも入ってなかったですよ」

 

 向かい側の席で、一色いろはがミラノ風ドリアを突きながら、心底意外そうに呟く。

 先ほどまでの、狂信的な同志たちに囲まれた「鋼鉄の書記長」としての八幡を知っているだけに、今の彼が纏う「冴えないぼっち」の空気が、彼女にはひどく奇妙に映っていた。

 

「俺だって想定外だ。……だが、脳を回すには燃料がいる。特にこれからの選挙戦、脳の負荷は通常の三倍を超えるからな」

 

 八幡はそう言うと、届いたばかりの熱いフォッカチオを手に取った。

そして、一色の目の前で、信じられない挙動(アクション)を開始した。

 ポーションタイプのガムシロップを数個開封し、フォッカチオの表面にこれでもかと塗りたくる。さらにその上から、持参した……あるいはドリンクバーで独自調合した極甘のマックスコーヒーを、タレのようにドバドバと注ぎ始めたのだ。

 

「……え、ちょっと。先輩……何してるんですか?」

「燃料補給(チャージ)だ。高出力稼働には高濃度の糖分と、熱交換のための冷却材が不可欠なんだよ」

 

 八幡は、ベチャベチャになったフォッカチオを迷いなく口に放り込み、咀嚼する。

 一般人なら即座に味覚中枢が悲鳴を上げるであろう「甘さの暴力」。だが、八幡の内部リアクターにとっては、これが思考の潤滑油となる。

 

「……うっわ。先輩、マジで味覚死んでます? 完全にサイコパスの食べ方なんですけど。引くわー、ドン引きですわー」

 

 一色がフォークを止め、本気で戦慄したような顔で八幡を見る。

だが、その毒舌の裏側に、彼女は先ほどから消えない「重石」を隠していた。

 

「……ねぇ、先輩」

 

 一色が、少しだけトーンを落として切り出す。

 

「ごめんなさい」

「……あ?」

 

 不意の謝罪に、八幡はフォッカチオを飲み込み、視線を上げた。

 

「……私が、あんな依頼を持ってきたせいで。……奉仕部、バラバラになっちゃいましたよね。雪ノ下先輩も、由比ヶ浜先輩も……あんなに仲良かったのに、私のせいで……」

 

 一色の瞳に、本物の罪悪感が滲む。

 彼女は「あざとい」が、馬鹿ではない。自分の持ち込んだ火種が、奉仕部という聖域を焼き尽くし、八幡と雪乃を決定的な対立へと追い込んでしまったことを、誰よりも理解していた。

 

 八幡は無言で、残りのフォッカチオを飲み干した。

 超電子頭脳が彼女の「後悔」という変数を検知し、最適な返答プロトコルを検索する。

 

「……もう気にしてねーよ。あの時のお前の判断は、お前なりの生存戦略だったんだろ。……まあ、正直に言えば、あの時はちょっとお前を殺……はたきたくなったけどな」

「え!? 今、確実に『殺す』って言おうとしましたよね!? 先輩、目がマジでしたよ! ロボットの冷徹な抹殺指令みたいな色してましたよ!」

「聞き間違いだ。音声解析のバグだろ」

 

 八幡は冷淡に受け流したが、そのやり取りに、一色の肩の力がわずかに抜ける。

 八幡が自分を恨んでいないこと。それどころか、この状況さえも「向き合うための必然」として、鋼鉄の意志で受け入れていること。

 

「……サイテーですね、先輩。でも、そのサイテーな先輩に頼るしかないのも、私の運命(ロジック)なんですね」

 

 一色はそう言って、少しだけ吹っ切れたような笑みを浮かべた。

 

「明日から、本格的に動く。……一色、お前はただの飾りじゃない。俺が雪ノ下を叩き潰すための、最高の『変数』になってもらうぞ」

「……はーい。……期待してますよ、書記長サマ」

 

 騒がしいサイゼリヤの店内に、二人の奇妙な共犯関係が刻まれる。

 糖分の暴力で思考を研ぎ澄ませた八幡と、覚悟を決めた一色。

 彼らの「本気の選挙戦」が、翌朝の登校から、ついに火蓋を切ることとなる。

 

──

 

 

 入店チャイムの電子音とともに、その少女は現れた。受験勉強の疲れなど微塵も感じさせない、弾けるような生命力を纏った声が、騒がしい店内の喧騒を貫く。

 

「お待たせー! お兄ちゃん、小町が精鋭たちを無事確保してきたよ!」

 

 比企谷八幡が死んだ魚のような、しかしその奥に鋭い演算の光を宿した瞳を上げると、小町の後ろから、およそ統一感の欠片もない、しかし彼にとっては馴染み深い「特異点」たちが次々と姿を現した。

 

「ぬふふ……。書記長、この材木座義輝、深淵よりの招集(コール)に応え、忘却の彼方より馳せ参じた次第! 友の野望にこの身を捧げる準備は既に完了しておるぞ!」

 

 大柄な体を揺らし、冬だというのに薄いコートの下から滲む妙な熱量を放つ材木座。その隣には、店の照明さえも味方につけるような、清廉な光を放つ少年が立っていた。

 

「あ、八幡。……急に呼ばれたからびっくりしたけど、また君の力になれるなら、僕、すごく嬉しいな」

 

 戸塚彩加の微笑みが、八幡の超電子頭脳に致命的なエラー(癒やし)を誘発する。一瞬、内部プロセッサが処理落ちを起こしかけるが、八幡は奥歯の加速装置を噛み締めるようにして正気を保った。そして最後の一人。

 

「……ちょっと、比企谷。あんた、あたしに何の用? 弟の受験の相談じゃないんでしょ。……こんな夜に呼び出すなんて、いい度胸ね」

 

 鋭い眼光を向け、不機嫌そうに髪を掻き上げる川崎沙希。だが、その足取りに躊躇はなく、彼女は当然のように八幡の座るテーブルの端に腰を下ろした。

 

「……悪いな、わざわざ集まってもらって。ドリンクバーは俺の奢りだ。好きなだけ『冷却材』を補給してくれ」

 

 八幡の声は低く、重厚な響きを帯びていた。その不自然なまでの冷静さに、隣でミラノ風ドリアを突きながら固まっていた一色いろはが、ようやく声を絞り出す。

 

「……え、ちょっと、先輩。……何なんですか、この人たちは。コスプレイヤーに、本物の天使に、なんか凄みのあるヤンキー系のお姉さんまで……。これ、本当に出馬陣営の顔ぶれなんですか?」

「そうだ。それに、これぐらい濃いメンツでもなきゃ、半端な策では、雪ノ下雪乃という鉄壁の論理を崩すことはできない」

 

 八幡は一色に視線を向けず、手元のメモ帳に無機質な記号を書き込みながら言い放った。

 

「今の雪ノ下は『女神』と畏怖される神域のカリスマだ。その圧倒的な正論と美貌は、聴衆の思考を停止させ、無意識に支配を受け入れさせる。一色、お前が相手にするのは、そんな『完全無欠』という名の化け物なんだよ」

 

「……女神。……それ、人間が勝てる相手なんですか?」

 

 一色の声が微かに震える。あざとさで男子を翻弄してきた彼女の計算機が、雪ノ下雪乃という巨大すぎる数値を前にしてオーバーロードを起こしていた。

 八幡のバイザーの奥、青白い電子の火花がパチリと弾けた。

 

「普通なら無理だな。……だが、俺たちは普通じゃない。雪ノ下が『完璧な世界』を構築しようとするなら、俺たちはその論理の隙間に、ドロドロとした『情』と『縁』という名のウイルスを流し込む。神域を侵食し、人間界へと引きずり下ろすんだ」

 

 八幡は、小町が連れてきた仲間たちを一人一人見渡した。

彼らは皆、かつて八幡が自らを削り、その鋼鉄の腕で強引に「解決」へと導いた者たちだ。彼らがここにいること自体が、比企谷八幡という男がこれまでに積み上げてきた、歪で、しかし強固な絆の集大成であった。

 

 八幡は、手元に置かれた冷めきったマックスコーヒー(再現版)のカップを見つめた。超電子頭脳は、今この瞬間の最適解を検索し続けている。だが、出力される答えはどれも非合理的で、彼がこれまで貫いてきた「独り」という美学とは相反するものばかりだった。

 意を決し、八幡は重厚な金属音を伴って、椅子を引いて立ち上がった。

 

「――頼む。お前たちの力を貸してくれ」

 

 八幡は、テーブルに向かって深く、真っ直ぐに頭(こうべ)を下げた。

その動作は、ハイマンガン・スチールの外装が軋むような、重々しい決意に満ちていた。

 

「ッ!?」

 

 隣に座る一色いろはが、息を呑む音が聞こえた。

 鋼鉄の男としての自負を持ち、誰に対しても不遜に、あるいは冷徹に振る舞うことが多かった比企谷八幡。彼がこれほどまでに謙虚に、そして切実に他者の助力を求めたことは、かつて一度もなかったからだ。

 

「正直に言う。俺は一色を利用している。奉仕部という場所を守るため、そして、雪ノ下雪乃という最強の宿敵と真っ向から戦うために。これは俺の、身勝手なエゴだ」

 

 八幡は頭を上げ、仲間たち一人一人の瞳を射抜くように見つめた。

 バイザーの奥で揺らめく電子の火は、もはや欺瞞や擬態を脱ぎ捨て、剥き出しの「真心」となって燃えていた。

 

「俺一人の演算能力じゃ、あいつの完璧な論理をハックしきれない。……お前たちの、人としての意志が、どうしても必要なんだ」

 

 数秒の沈黙。それは八幡にとって、内部リアクターがメルトダウンを起こしそうなほどに長く、痛々しい時間だった。

 その静寂を破ったのは、材木座義輝の、いつになく低く、真剣な笑い声だった。

 

「……ぬふふ。何を今さら。書記長の野望は、我ら同志の野望。友がその魂を懸けて戦場に立つというのに、この材木座義輝、一兵卒として朽ち果てるを厭うと思うか?」

 

 材木座が、いつもの厨二病的な虚飾を脱ぎ捨て、一人の「友人」として力強く拳を握りしめた。

 

「八幡……。僕ね、八幡が誰かを頼ってくれるのを、ずっと待っていた気がするんだ」

 

 戸塚彩加が、聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。八幡の超電子頭脳が、その無垢な献身を検知して一瞬処理落ち(バグ)を起こすが、彼はそれを必死に抑え込んだ。

 

「君が一人でボロボロになるのは、もう見ていられないから。僕にできることなら、何でも言って」

「……あんたには、あの小難しい顔した部長のいる部活が似合ってるわよ」

 

 川崎沙希が、そっぽを向きながらも、その言葉に確かな居場所の肯定を滲ませた。

 

「あたしも、あの子(雪乃)に負けるあんたは見たくないしね。協力してあげるわよ」

「……恩に切る。おまえら、感謝するよ」

 

 八幡は再び椅子に座り、肺に溜まっていた熱い空気を吐き出した。

ここからは「比企谷八幡」としての情熱ではなく、「鋼鉄の書記長」としての冷徹な戦術の時間だ。

 彼は卓上の紙ナプキンを一枚引き寄せると、手近なペンで、超電子頭脳が導き出した今回の選挙における「最大の問題点」を殴り書きした。

 

「いいか。一色いろはを勝利させる上で、避けては通れない壁がある。これを突破できなければ、どんな戦略も意味をなさない」

 

 八幡の言葉に、一色、材木座、戸塚、そして川崎の視線がナプキン一点に集中する。

そこに記された言葉。

 

『女子生徒からの投票率(シンパシー)の壊滅的欠如』だった

 

 

 

 




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