——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
放課後の中央最適化委員会室。
窓の外は冬の夕刻特有の、血を流したような薄暗い朱色に染まっている。室内は数十台のデスクトップPCが吐き出す廃熱で、季節外れの熱を帯びていた。
八幡は椅子に深く腰掛け、バイザーの奥に冷徹な光を宿しながら、目の前に並ぶ「残党」たちを見渡した。
(……思ったよりも、残ったな)
雪ノ下雪乃が「正しさ」を掲げて出馬を表明したあの日。八幡は委員会の解散を宣言し、希望者を彼女の陣営へ送った。彼女の理想を実現するための「手足」として。だが、それでも目の前には、かつて文化祭というカオスを沈黙させた精鋭たちが、変わらぬ「キマった」瞳で控えている。
「ちょ、ちょっと、先輩……。なんなんですか、この空気。みんなの目が怖すぎるんですけど」
八幡の隣で、一色いろはがその異様な熱気に肩をすくめ、八幡の袖を小刻みに引っ張った。
「一色、静かにしてろ。……諸君。まずはこの場に残った選択を尊重する。だが、これから我々が行うのは、もはや学校行事の延長ではない」
八幡の低く、重厚な声が室内の空気密度を一段と高める。
「我々の任務は、一色いろはの広報活動、偽装工作、そして心理操作のすべてを並列実行することだ。目的は一つ。……全校生徒における『一色いろは』という情報の再定義だ」
「再定義って……私、辞書に載るような偉人になる予定なんてないですよ? もっとこう、女子からも『一色さんって実はいい子だよねー』って言われるような、ふわっとした可愛い感じの戦略じゃないんですか?」
一色が不安げに、しかししっかりと自分の要望を差し挟む。八幡は彼女を一瞥することなく、モニターに一色のこれまでの評判を可視化したデータを映し出した。
「具体的には、お前のマイナスイメージを払拭することはしない。それは論理的に不可能であり、かつ逆効果だ」
「ええっ!? 完全に匙を投げられてるじゃないですか! ひどい、先輩サイテーです、訴えますよ!」
「黙れ。払拭しない代わりに、『錯覚』を植え付ける。一色の持つ既存のマイナスイメージをそのままに、その裏側に『実はこういう善性も最初から備わっていた』という偽りの文脈を、さも事実であったかのように接合する」
委員会メンバーたちが、迷いなくキーボードを叩き始めた。彼らにとって、八幡の指示は絶対的なアルゴリズムだ。
「人間の脳は、一度定着した悪感情をそう簡単にはデリートできないからな。だが、『書き換える』ことは可能だ」
「……つまり、私が今までやってきたことは全部、実は深い理由があった的な、かっこいい感じに書き換えてくれるってことですか? それって……一種の詐欺ですよね?」
「ハッキングと言え。……これまでの『あざとさ』は『目的のための不器用な努力』へ、これまでの『裏表の激しさ』は『重責への苦悩』へと、情報をすり替える。……選挙公示までの全プロセスを通じて、民衆の脳内に『新しい一色いろは』を、既存の記憶と矛盾しない形で刻みつけろ」
「……うわぁ。先輩、マジで悪魔の所業ですね。でも、それなら……なんか勝てそうな気がしてきました。責任は全部先輩が取ってくださいね?」
「まかせろ。民衆に『そういえば、こいつこんな良いところもあったな』と錯覚させれば、それで俺たちの勝ちの目は上がる」
一色は毒づきながらも、八幡が見せる圧倒的な「最適化」の予感に、どこか期待を込めた笑みを浮かべた。
八幡のバイザーが、オーバーロード寸前の電子音を微かに鳴らした。鋼鉄の書記長の号令により、一人の少女を「聖女」へと鋳造する、総武高校史上最も不道徳なオペレーションが動き出した。
そのための第一の矢として、八幡は材木座を呼び寄せた。材木座のコネクションを使い、遊戯部(ゲーム部)の高性能な編集機材と技術を確保する。
「エサは、お前の公約にねじ込んだ『部活動予算支給基準の緩和』だ。慢性的な予算不足に喘ぐ彼らにとって、一色会長の誕生は死活問題になる」
「うわ……。あざとさのレベルが私と違いすぎるんですけど。……で、その人たちに何をさせるんですか?」
「プロモーションビデオ(PV)の作成だ。……それも、お前一人じゃない。川崎、お前にも協力してもらう。一色とのダブルヒロインだ」
壁際で腕を組んでいた川崎沙希が、鋭い視線を八幡に突き刺した。
「はぁ? なんであたしがそんな面倒なことに。一色の引き立て役なんて御免よ。あたしは帰らせてもらうわ」
「待て、川崎。……お前の弟、大志の模試の結果はどうだった」
川崎の足が止まる。八幡はバイザー越しに、冷徹なまでの「取引」を持ちかけた。
「あいつの志望校の判定、芳しくないんだろ。協力してくれるなら、受験が終わるまで俺が大志の家庭教師を引き受ける。俺の論理回路をフル稼働させて、最短ルートで合格圏内まで叩き込んでやる。……どうだ。お前のプライドと、弟の将来。どちらが重い?」
川崎は数秒間、殺気すら感じる沈黙を保った。やがて、彼女は深いため息とともに肩の力を抜いた。
「……あんた、本当に最低。……わかったわよ。やればいいんでしょ、やれば。その代わり、大志が落ちたらあんたの首、物理的にハックしてやるから」
八幡の口角が、わずかに、しかし不気味に釣り上がった。
「成立だな。……一色、喜べ。最強の毒消し(パートナー)が手に入ったぞ」
「一色の『あざとさ』と、川崎の『不器用さ』。この二人が並ぶことで、観衆の脳内では『計算高い一色』という定義が、『不器用な川崎を引っ張る健気な後輩』という新たな文脈に上書きされる。……属性の対比こそが、最強の認識洗脳だ」
「うわぁ……洗脳とか言っちゃったよこの人」
一色は、目の前で繰り広げられた「教育的取引」のあまりのダーティさに戦慄しながらも、八幡が振るう「鋼鉄の力」にどこか心強さを感じていた。
「よし、遊戯部、材木座、川崎。撮影準備に入れ。……一色。お前はただ、『弱くて健気な挑戦者』を演じていればいい」
こうして、偽りの「聖女」を鋳造するための舞台装置が、一つ、また一つと組み上げられていった。
──
放課後の薄暗い廊下。遊戯部から借り受けた最新のデジタル一眼レフを構える材木座の横で、戸塚彩加がマイクを手に、少し緊張した面持ちで立っていた。
「……あ、八幡。これでいいのかな? なんだか、一色さんのドキュメンタリーを撮るなんて、少し照れちゃうね」
戸塚の放つ、一点の曇りもない清廉な空気。八幡はその姿をバイザー越しに捉え、論理回路の中で「勝利の確率」が数パーセント上昇するのを検知した。
「ああ、それでいい。戸塚、お前はただ『一色が頑張っている姿』を見て、お前が感じたままの言葉をかけてくれればいい。お前の善性は、どんな精巧な偽装よりも雄弁な真実になる」
「……? よくわからないけど、一色さんの力になれるなら、僕、一生懸命やるよ」
戸塚が微笑む。その瞬間、レンズの向こう側で「疲れ果てて机に突っ伏している生徒会長候補」を演じていた一色いろはが、微かに肩を震わせた。
「……先輩、今の戸塚君の笑顔、眩しすぎて直視できないんですけど。私の心が汚れすぎてて、浄化(デリート)されそう」
「気にするな。その『毒』が抜けない程度に中和するのが戸塚の役割だ」
撮影が再開される。カメラが捉えるのは、資料の山に囲まれ、一人静かに目を腫らしている一色の姿。そして、そこへ戸塚が歩み寄り、優しく声をかける。
「一色さん、あまり無理しちゃダメだよ。……雪ノ下先輩は確かにすごいけど、一色さんだって、こんなに頑張ってるんだから」
「……戸塚、先輩……。私、やっぱり、無理なのかな……」
一色が、潤んだ瞳で戸塚を見上げる。それは計算され尽くした演技だが、戸塚の「本物の心配」というフィルターを通した瞬間、映像の中では「巨大な壁に挑み、挫けそうになりながらも踏みとどまる少女の悲痛な叫び」へと変換された。
「判官贔屓(ほうがんびいき)……。日本人が最も脆弱で、かつ抗えない心理バイアスだ」
八幡はモニターを凝視しながら、低く呟いた。
「圧倒的な強者であり、完璧の体現者である雪ノ下に対し、健気に、そして不器用に抗う弱者としての一色。戸塚という『聖域』に認められることで、一色の持つ『あざとさ』というノイズは、『不器用な自己犠牲』という美しい旋律に上書きされる」
「……うわぁ。お兄ちゃん、解説が怖すぎるよ。小町、一色さんが本当に可哀想に見えてきちゃったもん」
「それでいい。同情(共感)こそが、論理(正論)を打ち破る唯一のウイルスだ」
表向きの広報活動――「偽りの聖女計画」の第一段階は完了した。戸塚の純粋さという免罪符を得たことで、一色いろはという虚像は、民衆の心に深く根を張り始めた。
「……表の仕込みは終わった。これより、本格的な『実行』に移る」
八幡のバイザーが青白く発光し、彼の意識は物理的な現実から、光速で流転する電脳世界へとダイブしていく。
「諸君、配置に付け。……これより、総武高校の意識(ログ)を書き換える」
サイゼリヤで始まった陰謀は、今や一校の精神を支配せんとする、鋼鉄の侵食へと姿を変えていた。
──
中央最適化委員会室の空気は、数十台の端末が放つ熱量によって、外の冬の寒さを完全に拒絶していた。
室内のレイアウトは、八幡の指示によって円環状に作り替えられていた。円の縁に沿って並ぶデスクとPC。そしてその中心に、ただ一点、比企谷八幡という『演算中枢』が鎮座している。
「――全ノード、接続(コネクト)。これよりフェーズ2、意識の定着(フォーマッティング)を開始する」
八幡の声は、もはや人間の感情を介していない。バイザーの奥で明滅する青白い光が、円環に並ぶ十数人の「手足」たちを青く照らし出す。
以前の文化祭の時とは、決定的な違いがあった。
かつて、八幡の隣には常に、その鋭い審美眼で論理を研ぎ澄ませる『指揮者』――雪ノ下雪乃がいた。彼女の冷徹な正しさが、八幡の泥臭い最適化を芸術の域まで高めていた。
だが、今はいない。指揮者の不在は、この場所を純粋な「効率の暴力」へと変質させていた。
「データ、来ます。SNSのハッシュタグ拡散状況、300%のオーバーシュートを確認」
「掲示板のスレッド維持、完了。材木座氏の『偽装人格』群が、女子生徒の疑念を肯定に反転させています」
「プロモーションビデオの断片、YouTubeおよびTikTokの広告枠へ挿入完了。サブリミナル閾値を維持」
手足(メンバー)たちから次々と送り込まれる膨大なデータ群。八幡はそれを瞬時に選択し、結合し、最適解として再びネットワークの海へと叩き込んでいく。
「実行」
八幡の指がキーボードを叩くたび、総武高校という一つの閉鎖系コミュニティの認識が、一ナノメートルずつ歪んでいく。
それは人間の心理の隙間に滑り込み、脳髄を犯し、精神の深層を支配する『電子ドラッグ』の如き侵食。
Twitterのタイムラインに流れるふとした瞬間の笑顔。友人との会話に混じる、誰かが言い出した「あの子、実はいい子だよね」という無根拠な噂。それらが積み重なり、巨大な文脈となって、生徒たちの記憶を書き換えていく。
昨日まで一色いろはを嫌っていたはずの女生徒が、今朝、スマートフォンを閉じる時には「一色って、実はいろいろ大変なんだな」という『偽りの理解』を抱いている。
それは、あまりに自然で、あまりに自発的な認識の変容。
「違和感は残すな。初めからそうであったかのように、彼らの脳内に『聖女・一色いろは』のログを捏造しろ。……これは救済ではない。最適化だ」
八幡の演算領域が加速する。
物理的な選挙公示まで、あと二週間。だが、電脳世界においては、既に勝敗を決する土砂降りの雨が降り始めていた。
雪ノ下雪乃が「正しさ」という光で校内を照らそうとするならば、八幡はその光の屈折率を書き換え、見える景色そのものを偽造する。
窓に映る八幡の姿は、もはや一人の男子高校生には見えなかった。
情報の奔流を統べ、民衆の意識を裏側からハックする、冷徹な『鋼鉄の書記長』の再臨。
水面下で行われる、目に見えない『変化』が、不気味な静寂を伴って総武高校のすべてを覆い尽くそうとしていた。
──
中央最適化委員会室に響くのは、もはやタイピング音ですらなかった。
それは、超高回転で駆動する精密機械が発する、一定周期の不気味な「鳴動」に近い。
円環の中心に座る比企谷八幡の指先は、残像すら置き去りにし、物理キーボードの限界を超えた速度で情報を処理し続けている。
「……な、に……これ」
隅で待機していた一色いろはが、乾いた声で呟いた。
彼女は「あざとい」という技術で人を操ってきた自負がある。だが、今目の前で繰り広げられているのは、技術や心理戦といった生ぬるい次元ではない。
一人の人間が、数百、数千のタイムラインと接続し、それらすべてを「一色いろは」という嘘に最適化していく――神をも冒涜するような、情報の大量虐殺(ジェノサイド)。
「……比企谷、あんた。本当に……人間なの?」
壁に背を預けていた川崎沙希が、震える指先で自分の腕を抱え込んだ。
彼女は荒事にも、夜の闇にも耐性がある。だが、目の前の男から発せられる「非人間的」な気配には、本能的な拒絶反応が止まらない。
八幡のバイザーから漏れ出す青白い光が、彼の横顔を無機質なチタンのように照らし出す。その瞳には、誰一人として映っていない。ただ、情報の奔流だけが、光彩を焼き尽くさんばかりに流転している。
「ぬ……ぬぅ……。これが、我が友が辿り着いた『深淵』だというのか……」
材木座義輝ですら、いつもの厨二病的な軽口を叩くことができなかった。
彼は物語を作る者として理解してしまった。目の前の男は、現実という物語を、その根底にあるコードから書き換えようとしている。それは、創作の域を超えた「真実の改竄」だ。
一方で、かつての文化祭を共に戦った委員会の精鋭たちは、戦慄の中に狂信的なまでの「歓喜」を浮かべていた。
「速すぎる……。以前の1.5倍、いや、2倍以上のスループットだ」
「指示が来る前に、我々の思考が先読みされている。……まるで、我々自身が彼の演算回路の一部になったみたいだ」
彼らは、八幡が繰り出す情報の濁流に飲み込まれながらも、その圧倒的な「正しさ(効率)」に陶酔していた。
この男についていけば、不可能など存在しない。
この男が指し示す先には、どんなに醜悪な嘘であっても、誰もが信じる「完璧な真実」が待っている。
「……実行完了」
八幡が最後の一打を放つ。
その瞬間、室内の温度が数度下がったかのような錯覚が一同を襲った。
八幡は、ゆっくりと指を離した。
バイザーの光が収束し、彼は力なく椅子にもたれかかる。その姿は、あまりにも脆く、今にも崩れ落ちそうな一人の男子高校生に戻っていた。
しかし、一色いろはは知ってしまった。
この「冴えない先輩」の内側には、世界そのものをハックし、冷徹に最適化してみせる『怪物』が棲んでいることを。
「……先輩、やっぱり……サイテー、ですね」
一色は、引きつった笑みを浮かべながらそう言った。
それは恐怖を隠すための精一杯の虚勢であり、同時に、これほどの怪物を自分の味方にしたという、恐ろしいまでの全能感の表れでもあった。
鋼鉄の演算は終わり、静寂が戻る。
だが、その静寂の中で、総武高校という巨大なシステムは、既に比企谷八幡の手によって致命的な「変容」を遂げていた。
──
中央最適化委員会室に満ちていた、あの心臓を削るような打鍵音が止んだ。
室内に残るのは、サーバーと化したPC群の冷却ファンが発する低い唸りと、精魂尽き果てたメンバーたちの重い呼吸だけだ。
八幡の超並列演算によって、一色いろはの「偽りの聖女像」はひとまずの完成を見た。
ネットの海に放たれた無数の「情報の断片」は、今この瞬間も生徒たちのスマートフォンを経由し、彼らの無意識下で一色いろはという存在を「再定義」し続けている。
「……はぁ、死ぬかと思った。先輩、これ差し入れです。……糖分、足りてます?」
一色が、少し遠慮がちにマックスコーヒーの缶を差し出してきた。
八幡は無言でそれを受け取り、プルタブを引く。脳を灼くような暴力的な甘さが、過熱しきった論理回路を強制的に冷却していく。
「……ふぅ。これでようやく、最低限だ」
「え? ようやくだけですか? あんなに凄いことしたのに」
一色が意外そうに声を上げた。周囲のメンバーも、今の「奇跡」のような処理を目の当たりにし、勝利を確信しているような安堵の表情を浮かべている。だが、八幡の視線は依然として、バイザーの端に表示された冷徹な「推測統計データ」を捉えていた。
(……甘いな。これだけやって、ようやく『下地』が整ったに過ぎない)
誰よりも、あいつの近くにいたからこそわかる。
雪ノ下雪乃という女は、こんな小細工など労せずとも、ただそこに立ち、言葉を発するだけで世界を「正論」の色に染め上げる力がある。彼女のカリスマ性は、偽造不可能な「天然の真実」なのだ。
八幡は、バイザーの奥で最終的な選挙結果のシミュレーションを実行する。
校内のカースト、過去の投票行動、現在の情報の浸透率。膨大な変数をぶつけ合い、数万回の試行を繰り返した末に出力された結果。
『一色いろは:48.2% / 雪ノ下雪乃:51.8%』
「……僅かに、こちらが悪い」
八幡の呟きに、室内の温度が再び氷点下まで下がった。
これほどの欺瞞を積み重ね、全校生徒の認識を歪めてなお、届かない。残酷なまでの「現実」が、数値となって八幡の傲慢を嘲笑っていた。
「先輩……? その顔、全然安心させてくれないんですけど」
一色の不安げな問いかけに、八幡は答えなかった。
ただ、マックスコーヒーを喉に流し込み、次なる「絶望」への対策を練り始める。
雪ノ下雪乃という最強のシステム。
それを打ち破るには、まだ決定的な「何か」が足りない。
八幡の思考は、既に次の、そして最も過酷なフェーズへとダイブしていた。
「……諸君、休んでいる暇はない。システムの維持(メンテナンス)を継続しろ。ノードの一切を落とすな」
八幡の乾いた声が、静まり返った委員会室に響く。
敗北を予感させる数値「48.2%」を叩き出したモニターを見つめたまま、八幡は椅子を回転させ、疲弊したメンバー、そして川崎や材木座へと鋭い視線を向けた。
「川崎、戸塚、材木座。お前たちは引き続き一色のサポートに回れ。物理的な接触、登校時の挨拶、昼休みのアピール……」
「俺がウェブに構築した『虚像』と、お前たちが現場で作る『実像』に、一ナノメートルの乖離も生じさせるな。……違和感は毒だ。少しでも綻べば、そこから全てが崩壊する」
「……わかったわよ。でも、あんたのその顔……まだ何かあるんでしょ」
川崎が鋭く問い返す。八幡は答えず、ただバイザーの奥で電子の火花を激しく散らせた。
(……届かない。これだけのハッキングを仕掛けてなお、雪ノ下という『真実』には届かない。それどころか、あいつの手元には、まだこの戦いを根底から覆す『核』が残っている)
八幡の思考は、雪ノ下陣営の思考をなぞり、その最速・最短の勝利方程式を導き出す。
もし、自分が雪ノ下雪乃の軍師であったなら。
理詰めだけの「正論」に、全校生徒の熱狂を付与し、一色の「男子票」という生命線を一瞬で断ち切るために何をするか。
「……応援演説だ」
八幡の呟きに、一色が肩を跳ねさせた。
「応援、演説……? 雪ノ下先輩のなら、由比ヶ浜先輩が出るんじゃ……」
「いや、違う。由比ヶ浜ではない。……由比ヶ浜の親しみやすさでは、一色のあざとさを完全には相殺できない。……雪ノ下が勝利を『確定』させるために選ぶのは、ただ一人だ」
八幡の電子頭脳が、その名を冷徹に弾き出す。
それは、一色いろはにとっての「憧れ」であり、総武高校における「黄金の象徴」であり、雪ノ下雪乃の隣に立ってもその輝きが霞まない唯一の男。
「……葉山隼人だ」
その名が室内に落ちた瞬間、空気が重く、絶望的な色に染まった。
一色の顔から血の気が引いていく。
「葉山隼人……。あいつが雪ノ下の横に立ち、彼女の正しさを保証する言葉を一言でも発してみろ。その瞬間に、俺たちが作り上げた『聖女』なんていう砂の城は、黄金の光に焼かれて消滅する。……一色。お前の男子票も、川崎が集めた女子の信頼も、すべて葉山のカリスマに飲み込まれる」
「そ、そんな……。葉山先輩が、あっちに……?」
一色の声が震える。かつて自分が想いを寄せ、そして八幡の手によってその「関係」を整理された相手。彼が敵陣営の旗頭として現れることは、論理的にも感情的にも、この選挙の終焉を意味していた。
「……来るか。あるいは、既に来ているか」
八幡のバイザーが、オーバーロード寸前の青い閃光を放つ。
雪ノ下雪乃の「正義」に、葉山隼人の「人気」というブースターが装着される。
それは、どんな電脳工作も通用しない、物理的な圧倒的暴力。
中央最適化委員会室に、重苦しい沈黙が降り積もる。
「葉山隼人」という名が投じられた波紋は、一色いろはの心を深く、暗い深淵へと引きずり込んでいた。
一色は、サッカー部マネージャーという特等席から、誰よりも近くで「葉山隼人」という太陽を見てきた。
彼の持つ黄金の輝き、その影響力は凄まじい。総武高校という閉鎖空間において、彼は文字通りの「無敵」だ。その威光は千葉県全域にまで及び、他校の生徒でさえ彼の名を聞けば、一様に羨望の眼差しを向ける。
そんな存在が、今、自分たちの敵として立ちはだかろうとしている。
「……無理ですよ。勝てるわけないじゃないですか」
一色の顔が、悲痛な色に沈む。
「遊戯部のみんなも、材木座さんも、戸塚君も川崎さんも……。みんな、私のためにこんなに頑張って、泥を被ってくれているのに。……葉山先輩が相手じゃ、全部無駄になっちゃう」
彼女の瞳に溜まった涙が、モニターの青白い光を反射して震える。
自分一人のために、この場にいる「非正規の軍勢」が積み上げてきた『嘘の城』が、葉山隼人という『本物の光』に照らされた瞬間、一塵となって消えてしまう。その光景が、彼女の計算機(ロジック)には鮮明に映っていた。
だが。
そんな一色の弱気を、静かに、しかし圧倒的な熱量で焼き払う存在がいた。
「……一色。勝手に演算を終了するな」
八幡の声は、冷徹だった。
椅子に深くもたれかかり、バイザーの奥に青白い電子の火花を宿したまま、彼はまだ「諦めて」などいなかった。
(――葉山は確かに黄金だ。だがな、一色。光が強ければ強いほど、その裏側に落ちる影もまた深く、濃くなる)
八幡はゆっくりと立ち上がった。
その動作に伴い、関節部のサーボモーターが重厚な駆動音を奏でる。その無機質な音をトリガーに、八幡の脳裏には、人知れず繰り広げてきた「死闘のログ」がフラッシュバックした。
――ドクトル・デーモンとの初の邂逅で、破壊寸前まで追い詰められた、あの激闘。
――プロフェッサー・ユレーの悪意によって窮地に陥り、文字通り泥を啜りながら、それでも立ち上がろうとしたあの執念。
――超人サイバーによって精神を汚染され、人格データがデリート寸前まで追い込まれたあの戦慄。
(……俺が、これまで何度死ぬような目に遭ってきたと思っている)
失われた肉体の代わりに与えられた、冷たい鋼鉄の四肢。魂をデジタルに焼き切られ、存在そのものを否定されそうになるたびに、彼は泥臭くシステムを再構築し、鋼鉄の意志という名のパッチを当て続けてきたのだ。
(その度に、俺はシステムを再定義し、乗り越えてきた。……黄金の輝き程度で、俺の演算が止まるとでも思うか?)
現実に戻った八幡のバイザーが、オーバーロード寸前の極光を放つ。
絶望に震えていた一色は、その青い炎に照らされ、思わず息を呑んだ。
八幡の視線が、モニターに表示された葉山隼人のデータへと固定される。彼の電子頭脳(超人脳)は、既に「黄金の偶像」の脆い接合部(ウィークポイント)をクローリングし、逆転のためのコードを生成し終えていた。
「……葉山が雪ノ下の盾になるというなら、俺はその盾ごと、あいつの『正しさ』を塗り替えてやる」
比企谷八幡――「電脳の支配者」が、不敵な笑みを浮かべ、最後の作戦を実行する。
黄金の結界が、鋼鉄の刃によって今、静かに切り裂かれようとしていた。
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