——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第五十一話:決戦の場所へ

 

 

 放課後の奉仕部部室。

 冬の低い太陽が、窓ガラス越しに冷淡な光を投げ入れ、室内を鋭い明暗で切り分けていた。かつて三人の話し声が響いたその場所は今、書類の擦れる音だけが支配する「選挙参謀本部」へと変貌している。

 雪ノ下雪乃は、その中心で凛として座り、手元の資料を精査していた。

 

(……比企谷君。あなたは、既に動き出しているわね)

 

 彼女の研ぎ澄まされた直感、そして彼を誰よりも近くで見てきた経験が、校内の空気に混じる「微かな違和感」を捉えていた。一色いろはという存在を軸に、何かが静かに、しかし確実に書き換えられようとしている。

 だが、雪乃の唇に浮かぶのは、余裕とも、あるいは期待とも取れる薄い微笑だった。

 

(……それでも。まだ、私と互角ではないわ。あなたの演算能力を以てしても、

 

 今のままではこの『正しさ』という牙城を崩すことはできない)

 

「――ゆきのん。隼人君から、まだ返事は無いみたい」

 

 沈黙を破ったのは、隣に座る由比ヶ浜結衣だった。その声には隠しきれない不安が混じっている。雪乃は資料から目を離さず、短く応じた。

 

「……構わないわ。彼が簡単に首を縦に振らないことは、百も承知よ。彼と私の間にあるのは、そんな単純な信頼ではないもの」

 

 雪乃はペンを置き、窓の外に広がる夕闇を見つめた。

 

 彼女が選んだ戦略は『王道』。一切の欺瞞を排し、自らの能力と正論を以て民衆を導く、真正面からの制圧。

 対する八幡が選ぶのは『邪道』。泥を啜り、嘘を積み上げ、認識の隙間を縫って勝利を掠め取る、暗闇からのハッキング。

 

(あなたは今も、その牙城を崩すために、あらゆる策を振り絞って考えているのでしょうね。……いいわ、受けて立つわ。すべてをひねり潰してあげる)

 

 フッと、雪乃が短く笑った。

 それは、かつての彼女なら決して見せなかった、強敵(とも)を認める者の愉悦だった。

 

「……あはは。ゆきのん、なんだか楽しそうだね」

 

 結衣も、その雪乃の表情に気づいて、どこか寂しげで、それでいて温かい笑みを浮かべた。

 離れ離れの場所で、互いに敵として刃を向け合っている。

 けれど、今この瞬間、三人は間違いなく「戦い」という一つの円環の中で、深く、深く繋がっていた。

 

「準備を続けるわ。……彼が絶望するほどの、圧倒的な『正解』を叩きつけるために」

 

 雪ノ下雪乃の瞳に、勝利を確信する青い炎が宿った。

 

 

──

 

 

 中央最適化委員会室の熱気は、さらにその密度を増していた。八幡のバイザーには、刻一刻と変化する校内の支持率データが、無数の光の筋となって流れている。

 

「……一色。準備はいいか」

 

 八幡が椅子を回し、傍らで落ち着きなく指を弄んでいた一色いろはを見据えた。

 

「は、はい……。でも、本当に私も行くんですか? 先輩一人で、ささっと丸め込んできてくれればいいのに……」

「これはお前の選挙だろ。……それに、葉山を動かすには、お前という『動機』と、俺という『論理』の両方が必要だ」

 

 八幡は重いため息を吐いた。その瞳は、ひどく冷たく、それでいて異様な覚悟に満ちている。

 正直なところ、八幡にとって葉山隼人という男は、生理的なレベルで相容れない存在だ。互いに嫌い合い、牽制し合う関係。そんな相手に頭を下げるなど、普通の神経なら耐え難い屈辱だろう。

 だが、今の八幡にそんな「人間的な拘り」は残っていない。

 勝利という唯一の最適解を導き出すためなら、鋼鉄の書記長は己の自尊心ごと、敵の足元に投げ出す準備ができていた。

 

「……ぼやぼやしていると、本当に雪ノ下陣営についてしまう。由比ヶ浜を通じての打診は、既に始まっているはずだ。先手を打つ」

「でも……本当に上手くいきますか? 葉山先輩、ゆい先輩の頼みなら断らなそうですし……」

「ああ、普通にいけばな。だから、俺は『普通』じゃない方法を使う」

 

 八幡の思考領域(テリトリー)の中で、ある一つの可能性が演算の果てに固定される。

 それは、葉山隼人という男が、幼少期から「黄金の王子様」として積み上げてきたプライドと、その裏側にある「救えなかった」という深い罪悪感。その両方を、一気に踏みにじり、抉り出すような非道な策だ。

 

(……一発どころか、タコ殴りにされても文句は言えん策だな)

 

 もし葉山が激昂し、その拳を振るうなら、それもまた一つの計算式だ。

 あまりに残酷な提案。葉山のこれまでの人生そのものを否定しかねないハッキング。

 

「……先輩? なんだか、今までに見たことないくらい嫌な顔してますよ?」

「……だろうな。俺自身、自分が嫌になるような策だ」

 

 八幡は立ち上がり、コートを羽織った。

 

「行くぞ、一色。……あいつを待たせている。黄金の結界をぶち壊しにいくぞ」

 

 一色は、八幡の背中から立ち昇る、鋼鉄の冷気と青白い殺気にも似た熱量に、ただ頷くことしかできなかった。

 

 

──

 

 

 冬の夜のサイゼリヤ。ドリンクバーの機械が立てる無機質な音と、客たちの安っぽい笑い声。その喧騒から切り離されたかのように、四人掛けのテーブルには冷徹な静寂が横たわっていた。

 一色いろはは、隣に座る八幡の気配を頼りに、目の前の「黄金」を直視しようと努めていた。だが、改めて対峙する葉山隼人の存在感は凄まじい。自分を敵と見なした瞬間の彼が、どれほど高く、遠い壁になるか。その想像だけで、一色の指先は微かに震えていた。

 

「……一色さん。話というのは、選挙のことかな?」

 

 葉山が静かに、そしていつもの完璧な微笑みで問いかける。その淀みのない声に、一色は覚悟を決めて身を乗り出した。

 

「はい。……葉山先輩。私の、応援演説をお願いしたくて。葉山先輩の力が必要なんです。私と一緒に、戦ってくれませんか?」

 

 渾身の、そして切実な願い。だが、葉山の答えは冷酷な事実を告げるものだった。

 

「……すまない。その件については、既に雪ノ下さんからも打診されているんだ。結衣を通じてね」

「……っ」

 

 一色の顔から、一気に血の気が引いた。

 最悪の想定が現実となった。雪ノ下の正しさに、葉山の人気が加わる。それはこの選挙における終戦宣言に等しい。絶望に飲み込まれ、崩れ落ちそうになる一色の肩を、八幡の硬い手が支えた。

 

「一色。まだ終わってない。演算(計算)を止めるな」

 

 八幡の低く、無機質な声が一色の意識を繋ぎ止める。八幡はバイザーこそ外していたが、その瞳の奥では「超人脳」がフル回転し、葉山の微細な表情筋の動きをスキャンしていた。

 

(……いや、違う。葉山。お前はまだ、雪ノ下に『イエス』と答えていない)

「葉山。お前は、雪ノ下が会長になることが『みんなの為』だと言いたいんだろう? 彼女がその能力を最大限に発揮し、学校を正しく導く。それが美しい結末だと」

「……ああ。彼女なら、きっと素晴らしい生徒会を作るはずだ」

 

 葉山の言葉は綺麗だった。だが、八幡はその「綺麗さ」の裏側にある、致命的な歪みを正確に射抜く。

 

「……雪ノ下が会長になれば、物理的に、そして論理的に『奉仕部』は消滅する」

 

葉山の眉が、ぴくりと跳ねた。

 

「さらに言えば、俺はあいつの『下』に着くつもりはない」

 

八幡が『悪魔の囁き』を続ける

 

「雪ノ下雪乃が『完璧な支配者』として君臨するなら、俺はあいつの元を去る。『対等な関係』こそ、俺が求めるものだからだ」

「比企谷、君は……」

 

 八幡の言葉は、葉山の心の最も柔らかい隙間に、鋼鉄の楔となって打ち込まれた。

 かつて彼女を救えなかった男にとって、これ以上の呪詛(じゅそ)はない。

 

『何をするのが彼女にとっての一番か』を理解してしまったからだ。

 

 葉山隼人の顔が、初めて強張った。

 黄金の仮面が剥がれ落ち、その下に隠されていた剥き出しの葛藤が、テーブルの上に曝け出された。

 葉山は言葉を失い、拳を固く握りしめた。

 雪乃を会長にして、彼女に輝かしい未来を与えるのか。

 それとも、彼女を敗北させ、泥臭い「日常」の中に繋ぎ止めるのか。

 それは、葉山が幼少期から抱え続けてきた「雪ノ下雪乃を救いたい」という願いに対する、最悪の踏み絵だった。八幡は、葉山の持つ彼女への執着を逆手に取り、彼のプライドを根底からハックしようとしていた。

 

「…………少し、外で話そうか」

 

 数十秒の沈黙の後、葉山が絞り出すように言った。

 彼は一色を一瞥もせず、八幡だけを促して席を立った。

 

「あ、先輩……っ」

「一色、お前はここで待ってろ。ドリアが冷める前に戻る」

 

 八幡はそれだけ言い残し、葉山の後を追って自動ドアの向こう側へと足を踏み出した。

 冬の夜の凍てつく空気が、サイゼリヤの温い湿度を切り裂く。

 駐車場へと向かう二人の背中は、光と影の境界線で激しくぶつかり合おうとしていた。

 

 

──

 

 

 駐車場。

 街灯のオレンジ色の光が、アスファルトの上に二人の長く歪な影を落としていた。吐き出す息は白く、冬の夜風が容赦なく肌を刺す。

 葉山隼人は車止めのブロックに片足をかけ、天を仰いだ。その横顔には、学校で見せる「完璧な王子」の面影はない。

 

「……君は本当に、人の一番触れられたくない場所を正確に抉るね、比企谷」

 

 葉山の声は低く、乾いていた。

 

「俺の男としての矜持を揺さぶれば、俺が折れるとでも思ったのかい? 君が言ったことは、俺に雪ノ下を『裏切れ』と言っているのと同じだ。そこまで言われて、俺が一色さんの元に行くと思うのか」

「……葉山、それは違う」

 

 八幡はポケットに手を突っ込み、一歩も引かずに葉山を見据えた。その瞳が、暗闇の中で冷たく光る。

 

「これが『最後の機会』だと言っているんだ」

 

 葉山の肩が、微かに震えた。

 

「最後の機会……?」

「ああ。……お前が雪ノ下に『向き合う』、最後の機会だ」

 

 葉山の拳が、白くなるほどに強く握りしめられた。

 拳が震えている。それは怒りか、それとも長年押し殺してきた情動の爆発か。

 

 雪ノ下の側にいて、彼女と同じ目線に立とうとすることを『逃げ』と言われた。そうやって彼女の隣で『良い人』でいようとして、結局何も変えられなかった。

 今、彼女の敵になり、彼女の『正しさ』を正面から否定し立ちはだかること。それが、雪ノ下雪乃という人間と真正面から向き合う方法だと、この男は言いたいのだ。

 

 幼い頃、彼女を救えなかった後悔。

 今もなお、適切な言葉が見つからないもどかしさ。

 そして、自分には決してできないやり方で、彼女の隣を奪い取った比企谷八幡という男への、狂おしいほどの嫉妬。

 

「……今までの関係をすべて清算した先に、君と彼女が共にある。……それを、俺に手助けしろと言うんだな」

「俺の手助けじゃない。お前自身の決着だ」

 

 八幡は冷徹に言い放った。

 数分、あるいは永遠にも感じられる静寂が流れた。

 風が吹き抜け、看板がカタンと音を立てる。

 やがて、葉山はゆっくりと拳を解き、八幡に背を向けた。

 

「…………君の提案に乗るよ」

 

 絞り出すような、しかし明確な意思を帯びた一言。

 

「葉山……」

「……ただし、勘違いしないでくれ。俺は君を認めたわけじゃない。……ただ、君の言う『最悪の結末』よりは、まだマシな地獄を選んだだけだ」

 

 黄金の輝きを背負った少年の背中は、暗闇に溶け込みそうなほど孤独で、それでいて、今までにないほど剥き出しの「意志」を宿していた。

葉山隼人の背中が、夜の闇に溶けていく。

 

「君の提案に乗る」――その一言を残して。

 

 八幡は、アスファルトの上に立ち尽くしていた。瞳の奥の演算回路は、この結果を「極めて低い確率の事象」として処理していた。

 葉山のプライド、雪乃への罪悪感、そして八幡への拭い去れない嫉妬。それらすべてを逆手に取った最悪の提案。拒絶され、軽蔑され、あるいは激情のままに殴り飛ばされることさえ、八幡は計算に入れていた。

 

(……殴られるなら、それが一番マシな結末だったんだがな)

 

 八幡はコートのポケットの中で、一組の厚手の革グローブを握りしめていた。

 今の自分の身体は、その大半が冷たい鋼鉄で構成されている。生身の人間である葉山が本気で殴りかかれば、壊れるのは八幡ではなく、葉山の拳だ。だから、もし彼が殴りかかる予兆を見せたら、せめて怪我をしないようにと、このグローブを渡すつもりだった。

 だが、葉山隼人はそれさえも選ばなかった。

 彼は自らの欲も、感情も、積み上げてきた黄金のイメージさえも二の次にした。ただ、雪ノ下雪乃が「孤独な高み」に消えてしまうことを阻止するために、八幡の提示した「地獄の共犯」を選んだのだ。

 

 それがどれほど苦しく、惨めな答えであるか。

 自分が嫌っている男の軍門に下り、最も守りたかったはずの少女に弓を引く。その絶望を、八幡は痛いほどに理解していた。

 胸の奥が、焼けるように熱くなる。

 それは過負荷による電子の火花ではなく、もっと泥臭く、人間的な「熱」だった。

 遠ざかる葉山の背中に、八幡は耐えきれず声をかけようとした。

 

「――葉山っ!」

 

 その呼びかけに、葉山が足を止めた。

 振り向いたその瞳には、もはや迷いはない。だが、そこには燃え上がるような葛藤と、剥き出しの「男の意地」が宿っていた。

 その目は、無言でこう語っていた。

 

(――それ以上は、言うな)

 

「…………」

 

 八幡は、開こうとした口を静かに閉じた。

 ここでかけるべき言葉など、この世のどの辞書にも載っていない。感謝も、謝罪も、慰めも、今の葉山隼人にとっては侮辱でしかない。

 鋼鉄の書記長は、ただ静かに、黄金の輝きをかなぐり捨てて歩き出す少年の後ろ姿を見送った。

 

「……戻るか」

 

 サイゼリヤの中で待っている少女の元へ歩き出しながら、八幡は手に入れた「カード」の重みを噛みしめていた。

 

 最強の切り札、葉山隼人。

 それは、友の誇りを切り刻んで手に入れた、血塗られた勝利の鍵だ。

 これで、盤上の駒はすべて揃った。

 

 

 

──

 

 

 ドリンクバーの機械音と周囲の喧騒が戻った店内に、葉山隼人が戻ってきた。

 その顔には、先ほど駐車場で見せた剥き出しの葛藤や、白くなるまで握りしめられた拳の痕跡など微塵も感じさせない、非の打ち所がない「いつもの爽やかな笑顔」が貼り付いている。

 

「――お待たせ。一色さん、さっきの件だけど、俺で良ければ力にならせてほしい。応援演説、引き受けるよ」

 

 その淀みのない、春風のような声。

 一色は、信じられないものを見るかのように、八幡と葉山の顔を交互に見つめた。数分前まで、世界が凍りついたかのような絶望的な沈黙が流れていたはずだ。それがどうして、これほど呆気なく「正解」へと反転したのか。

 

(……なんて切り替えの早いやつだ。あるいは、それがこいつの生存戦略か。……少し引くわ)

 

 八幡は、葉山の徹底した仮面(ペルソナ)の強度に、半ば感心し、半ば嫌悪に近い戦慄を覚えた。感情のコンテキスト・スイッチが早すぎる。もはや、ある種の非人間的な処理能力(スループット)にすら見えた。

 

 「ほら、一色。呆けてないで、さっさと感謝を言え。お前の当選確率は、今この瞬間に数パーセントどころか、二桁の跳ね上がりを見せたぞ」

 

 八幡に促され、一色は我に返ったように勢いよく頭を下げた。

「あ、はい……! 隼人先輩、本当に、本当にありがとうございます! 私、一生懸命頑張りますから!」

「ああ、期待しているよ。……詳しい演説の内容やスケジュールについては、明日以降に詰めよう。今日はもう遅いし、俺はこれで失礼するよ」

 

 葉山はスマートに会計を済ませると、最後まで「黄金」を崩さないまま、夜の街へと消えていった。

 残されたのは、食べかけのドリアと、冷え切ったドリンクバーのコップ。

 一色は葉山が去ったドアをしばらく見つめていたが、やがて恐る恐る八幡の方へ向き直った。

 

「……先輩。……マジで、外で何したんですか? さっきまであんなに絶望的だったのに。まさか、物理的に洗脳したとか? だとしたら、先輩、ガチの悪魔ですよ」

 

 八幡は少し疲れた顔で、残りのマックスコーヒーを飲み干した。バイザー越しの演算ではない。生身の感情をぶつけ合ったことによる、精神的な摩耗。

 

「洗脳なんて大層なもんじゃない。……ただ、男は時として、女より複雑な回路で動くんだよ。論理じゃない、もっと泥臭いところでな」

「……全然意味わかんないです。でも、先輩がとんでもない『劇薬』を使ったことだけは、なんとなくわかります」

 

 一色はそう言って肩をすくめたが、その瞳にはどこか安堵の色が混じっていた。

 これで、準備は終わった。

 雪ノ下雪乃という絶対的な「王道」に対し、こちらは「虚像」と「黄金」を掛け合わせた「邪道」で挑む。

 ようやく、盤面は『互角』にまで持ち込まれた。

 

「……行くぞ、一色。ここからは、一瞬のミスも許されない」

 

 八幡の瞳に、来るべき決戦への静かな、しかし熾烈な闘志が灯っていた。

 最強の切り札を手に入れた今、鋼鉄の書記長の演算は、勝利への最短ルートを確実に捉え始めていた。

 

 

 

──

 

 

 翌日、中央最適化委員会室。

 窓から差し込む冬の光は鋭く、室内の空気を清浄に洗っているように見えた。昨夜、葉山隼人という最強の切り札を手に入れた一色いろはは、心なしか足取りも軽く、八幡の後に続いて入室した。

 

「先輩、お疲れ様です! 今日は昨日決めたスケジュール通り、校内SNSの――」

 

 一色が元気よく声をかけようとして、言葉を飲み込んだ。

 デスクに鞄を置こうとした八幡が、彫像のように硬直していたからだ。

 八幡の視線の先、整然と片付けられたキーボードの上に、場違いな「異物」が置かれていた。

それは、何の飾り気もない、無機質な一枚の紙切れだった。

 

「……? 何ですかそれ。誰かからの伝言ですか?」

 

 一色が覗き込む。委員会メンバーが残した単なる連絡事項か、あるいは材木座が仕掛けた悪ふざけの類か。八幡も最初、そう判断して手を伸ばしたに違いない。

 だが、その紙に書かれた数行の文字列に目を走らせた瞬間。

 一色は、隣に立つ八幡の「体温」が、一気に氷点下まで下がるのを感じた。

 

「……っ」

 

八幡の顔色が、紙のように白く染まる。

その瞳が、激しく、不規則に揺れていた。それは驚きでも怒りでもない。

 

「せ、先輩……? 急に、どうしたんですか。その、目が……」

 

 一色が思わず後ずさる。

 彼女が見ているのは、もはや「冴えない先輩」でも「不遜な書記長」でもなかった。

 戦場を支配し、敵を屠るためにのみ最適化された、純粋なる『兵器』の殺気。

 

 八幡は紙を握りつぶした。

 荒い呼吸を一つ吐き出し、強引に「日常」のOSへと意識を繋ぎ止める。だが、瞳に宿った青い炎だけは消えなかった。

 

「一色。……悪い、急用ができた。今日の作業予定はこれにまとめてある。メンバーに伝えてくれ」

 

 八幡は震える手でメモ帳に殴り書きをすると、それを一色の手に押し付けた。

 

「えっ、ちょっ、先輩!? どこ行くんですか!?」

「……すまん。……だが、今度ばかりは外せねぇ用事なんだ」

 

 八幡はそれだけ言い残すと、弾かれたように部屋を飛び出した。

 廊下を走っていく彼の足音は、もはや人間のそれではない。重厚な金属音を伴い、地を蹴るたびに校舎が微かに震えるほどの圧倒的な推進力。

 一色は、手に残された八幡の体温と、彼が落とした紙を見つめ、立ち尽くしていた。

 あの比企谷八幡が見せた、燃えるような闘志。

 それは、雪ノ下雪乃との選挙戦さえも霞んでしまうほど、苛烈で、致命的な『何か』が始まったことを告げていた。

 

「……先輩、あんな顔もできるんですね」

 

 一色の呟きは、サーバーの唸りにかき消された。

 

 

──

 

 

 放課後の総武高校。冬の長い影が廊下を侵食し、人気のない旧校舎には静寂が溜まっていた。一色いろはは、独り委員会室のデスクに残された「それ」を凝視していた。

 

「……なんなの、これ。全然読めない」

 

 指先に挟んだ一枚の紙切れ。そこに記されていたのは、記号とも図形ともつかない、鋭角な筆致の文字列。今の彼女の知識ベースでは、それが何語であるかさえ判別できない。

 脳裏に焼き付いているのは、これを見た瞬間の比企谷八幡の貌(かお)だ。

 いつも死んだ魚のような、あるいは冷徹な計算機のような目をしている男が、あの一瞬、確かに「戦慄」していた。いや、それは恐怖というより、回路に過負荷がかかったかのような、剥き出しの敵意に近いもの。

 

「急用って、あんな顔して……。先輩、一体何に巻き込まれてるんですか」

 

 重い溜息をつき、重力に従うように廊下を歩いていると、前方から見知った顔が近づいてきた。

 

「おや、一色。まだ残っていたのか?」

「……いろはちゃん、お疲れ様! 顔色悪いけど、大丈夫?」

 

 由比ヶ浜結衣と、その後ろを歩く顧問の平塚静だ。彼女たちもまた、雪ノ下陣営の最終調整を終えたところなのだろう。

 

「あ、ゆい先輩、平塚先生……。ちょうどよかったです。これ、見てくれませんか?」

 

 いろはは、八幡のデスクに残されていた紙切れを差し出した。

 結衣がそれを覗き込み、眉を寄せる。

 

「うわ、何これ……暗号? 英語じゃないよね?」

「比企谷先輩、これを見た瞬間に顔色変えて飛び出していっちゃったんです。あんな先輩、私、初めて見ました……」

 

 いろはの言葉に、平塚の表情が微かに強張った。彼女は現代文の教師として、そしてこの街の異変に敏感な大人として、その文字列が持つ「熱量」を瞬時に察知した。

 平塚が紙を受け取り、眼鏡の奥の瞳を鋭くする。

 

「……ロシア語だな」

「ロシア語……? なんでヒッキーのところに?」

 

 結衣の声が震える。平塚は、その紙に書かれた一文を読み上げた。

 

 

「──Приезжай на озеро Инба ……『印旛沼へ来い』だと?」

 

 

 その瞬間、校舎を揺らすような風が窓を叩いた。

 平塚の問いは鋭かった。このメモから漂う「暴力の予感」と、比企谷八幡という少年が背負い込もうとしている「何事か」の重さは、長年多くの生徒を見てきた彼女には痛いほど伝わっていた。

 いろはは、平塚の指の間で震える紙切れを見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。

 

「ヒッキー……」

 

結衣の呟きが、窓を叩く冬の風に飲み込まれる。

選挙という名の「青春の戦い」。

だが、比企谷八幡にとって、それ以上に避けては通れない、もう一つの孤独な死闘が始まろうとしていた。

 

 




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