——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
エイトマンとユピテールの激闘から一時間ほど前
平塚静の言葉が、由比ヶ浜結衣の胸に冷たい石のように沈んでいた。
『印旛沼へ来い』
そのロシア語が意味する不穏な響き。そして、一色いろはが語る、それを受け取った時の比企谷八幡の、見たこともないほど凍てついた表情。放課後の喧騒が消えた帰り道、結衣は駅へ向かう足を止め、夕闇に包まれ始めた空を見上げた。
「……行かなきゃ」
理屈ではなかった。
今のヒッキーは、自分たちが知っている「比企谷くん」ではないどこか遠い場所へ行こうとしている。奉仕部で見せる捻くれた優しさも、時折見せる頼りがいのある背中も、すべてが嘘だったと言わんばかりの、あまりにも孤独な決別。
「そんなの……『本物』じゃないよ」
三人の関係が選挙という嵐で揺れている今、自分が行けばさらに事態をややこしくするかもしれない。雪乃なら「今は自分の成すべきことをしなさい」と叱るだろう。
けれど、結衣の心が叫んでいた。
ここで彼を一人で行かせたら、もう二度と「ヒッキー」は戻ってこないのではないかという、根拠のない、けれど確信に近い恐怖。
結衣はスマートフォンの地図アプリを開き、『印旛沼』の文字をタップした。
ここからでは電車とバスを乗り継いでも時間がかかる。だが、それでも行かなければならない。
「待ってて、ヒッキー……。勝手に行くの、怒ってもいいから」
彼女は、初めて比企谷八幡の『深部』に踏み込む決意をした。
彼女が向かう先に待っているのが、鋼鉄と火花が散る非日常の世界だとは、まだ知る由もなかった。
──
エイトマンは再び加速装置を起動した。
夜の帳を切り裂き、黒影が爆発的に増殖する。かつてロボット007号を翻弄した超高速分身――『シャドームーブ』。
「往生際が悪いぞ、エイトマン! その程度の旧いデータ、既にユピテールの演算能力は超克している!」
しかし、デーモンの計算はそれをとうに超えていた。
「演算完了。ターゲットロック、掃討(パージ)!!」
ユピテールのバイザーに表示される27体の黒影。その全てに赤い照準が重なる。
音速を超えるプラズマの雨が、正確無比に「全個体」を射抜いていく。一発、また一発と、八幡の残像が夜の闇に霧散していった。
残るは、中央で必死に回避を試みる最後の一体。
「終わりだ、エイトマン! 超振動砲(ギガ・ブラスター)、実行!!」
ユピテールの両腕が放った不可視の波動が、逃げ場を失った「最後の一体」を正面から捉えた。当たれば一瞬で塵へと還る、絶対の破壊。
ドォォォォン!!
衝撃が大気を震わせ、視界が白く塗りつぶされる。
だが。
「……何……だと……!?」
デーモンのバイザーが、あり得ない「結果」を表示した。
塵となって消えるはずのターゲット。しかし、超振動の波動は対象の装甲に衝突することなく、まるで霧の中を通り抜けるように、そこにあるはずの「エイトマン」を空虚に突き抜けたのだ。
「『突き抜けた』だと……!? 計算が合わん! 質量反応がないというのか!」
デーモンが驚愕に目を見開いたその時。
前方にいたはずの「死神」の気配が、ユピテールの真横、絶対的な死角から立ち昇った。
超振動砲が「突き抜けた」のは、単なる加速の残像ではない。
それは、超高速移動中の光学屈折を逆利用し、自身の真の位置とは異なる座標に実体なき像を投影した虚像――『ミラージュ・ファントム』。
天才ドクトル・デーモンが自負する「完璧な観測データ」を逆手に取り、分身の群れに紛れ込ませた偽りの実像が、全能の天帝を討つための決定的な隙を作り出した。
「邪道に紛れて王道を討つ……それが俺のやり方だ」
八幡の低く、地這うような声が湖畔の風に溶ける。
彼が選んだのは、腕を振り上げ、自らの機動エネルギーの全てを破壊へと注ぎ込む「自食」に近い攻撃。
「『
通常はマッハ15に到達するための移動用エネルギーが、一瞬にして右拳の一点に、純粋な質量爆弾として再定義される。
八幡の拳が空気を叩いた瞬間、周囲の大気は異常な密度で圧縮され、目に見えるほどの歪みとなってユピテールの側面に炸裂した。
ズガァァァァァン!!
それは打撃という概念を超えた、『超空圧のハンマー』。
マッハ15の衝撃波を無理やり凝縮して叩きつけられたユピテールのボディは、ミサイルの直撃さえ耐えるダマスカス・スチールでありながら、あり得ないほどの陥没を見せた。
480kgの巨体が、まるで暴風に煽られた木の葉のように、印旛沼の湖畔を無様に吹き飛ばされる。
水面を派手に跳ね、湖底を削りながら転がる「天帝」の姿に、デーモンの顔から余裕が消え失せた。
計算と論理、そして圧倒的なスペック。その全てを揃えながら、ドクトル・デーモンの知性は、比企谷八幡という「一介の歪んだ意志」が編み出した騙しの一手に、決定的な敗北を喫したのだ。
「……馬鹿な、信じがたい。設計上、あり得ぬはずの損傷だ……!」
デーモンは震える手でバイザーを調整した。
ユピテールのボディ強度は依然として高いが、八幡の放った「邪道」の一撃は、装甲を貫くのではなく、その振動エネルギーを機体内部へと伝播させ、駆動系に深刻なダメージを与えていた。
──対する八幡もまた、満身創痍だった。
極超音速の攻撃転用という、機体への凄まじい負荷。ダークメタルのボディは熱を帯び、各所の隙間から黒煙と火花が噴き出している。八幡は胸部を強く抑え、崩れ落ちそうになる膝を精神力だけで固定し、印旛沼の冷たい大地を両足で踏みしめた。
デーモンは、その光景に静かな驚愕を覚えていた。
比企谷八幡という存在。それは単なる操縦者ではない。
設計上の数値や物理法則を超え、追い詰められるたびにエラーを「最適化」へと変換し、設計者の意図を裏切り続ける。
(認めざるを得まい……。エイトマンを強くしているのは、そのボディの性能ではない。……『比企谷八幡』という精神プログラムそのものが、エイトマンを不屈の戦士へと進化させているのだ)
冬の冷たい風が、赤熱した八幡の鋼鉄の身体を撫で、白煙となって蒸発していく。
八幡の光学センサーは、ユピテールのボディ強度が著しく低下しているポイントを確実に捉えていた。同時に、自身の機動時間が限界を迎えようとしていることも。
「……次だ。次で、全部終わらせる」
八幡は荒い排熱と共に、覚悟を込めた咆哮を上げた。
「ベラ!!」
その叫びに応えるように、控えていたベラが咆哮を上げ、八幡の元へと急行する。
八幡は、エイトマンに備わった最大にして最後の切り札――『メガソニックバスター』を放つ覚悟を決めた。
「はちまん様、受け取ってにゃああああ!!」
ベラから伸びた高出力エネルギー装填ケーブルが、八幡の腰部の接続端子(コネクタ)に激しく火花を散らしながら結合された。
瞬間、八幡のボディに、印旛沼の底を照らすほどの莫大なエネルギーが駆け巡る。
再び右腕のマニピュレーターがマトリクス変換を開始。より強固に、より鋭利に再構成されたその姿は、一躯の巨大な『
バイザーとフェイスマスクが完全閉鎖され、戦闘用の照準システムが機動。ひび割れたバイザーの奥、八幡の右眼だけが神罰を下す『大神』の如く、青白い閃光を放つ。
『神の槍』と化した砲身に、周囲の大気を巻き込みながら、極大のプラズマエネルギーが収束していく。
「最後の賭けに出たか、比企谷! ならば、塵となって果てるがいい!!」
デーモンがステッキを振り上げ、ユピテールへ最後の下命を下す。
ユピテールはギガ・バイブレーションを全開出力で起動。周囲の物質を文字通り「消滅」させながら、その輪郭を透明な虚像へと変えていく。
空間を削り取り、万物を塵に還す見えざる死神。それは全能を司る『天帝』の如き絶対的な質量となって、音速の壁を幾重にも破壊しながら突撃を開始した。
「──比企谷ァアアアアアッ!!!」
「──デーモンッ!!!」
宿敵の名を叫び合う二人の声が重なった瞬間。
エイトマンの放つ、全てを貫く『神槍(メガソニックバスター)』。
ユピテールの放つ、全てを無に帰す『絶望の突撃(ギガ・バイブレーション)』。
印旛沼の夜を真昼の白光へと塗り潰すほどの大爆発が、二つの鋼鉄が激突した一点から放射状に吹き荒れた。
──
「勝った……!」
衝突の極致、光と振動が爆ぜる中心で、ドクトル・デーモンは勝利を確信していた。
戦術バイザーに流れる膨大な文字列。ユピテールの推進力、エイトマンのエネルギー残量、そして接続されたベラからの供給効率。デーモンの天才的な頭脳は、その全てを瞬時に演算し終えていた。
ベラが土壇場で比企谷に味方することも、比企谷が『メガソニックバスター』という最大火力を選択することも、全ては計算の範疇。
いかに比企谷八幡という精神プログラムが機体性能を引き出そうとも、50万キロワットの出力を誇るユピテールの絶対的な物理質量には届かない。それが、揺らぐことのない鉄壁の演算結果だった。
「(……クソ、……負けか!?)」
八幡の超電子頭脳もまた、デーモンと同じ冷酷な結論を弾き出していた。
ダークメタルの全身を襲う激しい軋み。網膜ディスプレイに赤く点滅する『出力不足』の警告。
超電磁の奔流は、ユピテールの放つ『見えざる神の手』にじりじりと押し戻され、右腕の砲身が限界熱量を超えて赤熱していく。
視界を埋め尽くす白光の向こう側、透明な死神となって迫るユピテールの咆哮が聞こえた気がした。
絶望が、冷たい汗のように八幡の思考を侵食していく。
しかし。
──Nyaaaaaaaaaaaaaan‼︎
その瞬間、戦場の全てを圧するような絶叫が、大気を引き裂いて轟いた。
それは猫型ロボットとしての愛嬌など微塵もない、魂を、いや、回路を焼き切る覚悟を宿した『ベラ』の咆哮だった。
「──ベラ、やめろッ! それ以上は……!!」
八幡の驚愕。エネルギー装填ケーブルを通じて流れ込んでくるのは、もはや制御可能な電力ではなかった。ベラが自らの安全回路を強制シャットダウンし、全予備バッテリーと機体構造を維持するための全電力を、文字通り「命」を削るようにしてエイトマンへ流し込んでいるのだ。
それはドクトル・デーモンが「配膳ロボット」という存在に設定したスペックを遥かに超え、比企谷八幡の「精神プログラム」をも凌駕する、無機質な機械による真の献身。
「何だと……!? あり得ん、計算が合わんぞ!!」
デーモンがバイザーを叩きつけるように叫ぶ。
エイトマンの砲身から放たれる青白い奔流が、一瞬にして数倍の太さへと膨れ上がり、ユピテールの放つ死の振動を真っ向から押し返した。
ギチギチと、空間そのものが軋みを上げる。
次の瞬間、限界を超えた過負荷に耐えきれず、エイトマンの右腕――メガソニックバスターの砲身が、内部から爆発的に融解し、砕け散った。
だが、その自壊の反動が生んだ「揺らぎ」が、奇跡的な偏向(デフレクション)を引き起こした。
正面から衝突すればエイトマンを原子レベルで消し去っていたはずの、ユピテールの必殺の突進。それが、八幡の右腕が砕けた瞬間のエネルギー変位に煽られ、わずかに――だが決定的に、その軌道を側方へと逸らされたのだ。
「……あ」
八幡の視界の端を、巨大な透明の歪みが通り抜けていく。
砕けた砲身の破片が大地に突き刺さり、火花を散らす。
直進するエネルギーの塊となったユピテールは、もはや制動が利かなかった。
天帝の巨体は、そのままエイトマンの右側を暴風のように通り抜け、背後に広がる印旛沼の深奥へと猛然と突っ込んだ。
ドォォォォォォォォォォォォォン!!
水面と激突した瞬間、夜の静寂を完全に消し飛ばす大爆発が巻き起こった。
巨大な水柱が、ユピテールの終焉を祝うかのように夜空高く噴き上がる。
「……やった、のか……?」
八幡は、ひび割れたフェイスマスク越しに、水煙の向こう側を見つめていた。
湖面に立ち昇る巨大な水柱が、雨のように周囲に降り注ぐ。
八幡の網膜ディスプレイには、無機質な文字列が並んでいた。
──エネルギー反応ロスト。
──対象:ユピテール。抹殺(デリート)完了。
エイトマンの超電子頭脳が、勝利を明確に告げる。
かつて伝説と呼ばれた大神の槍が、傲慢なる天帝を粉砕したのだ。
だが、そんなことは八幡にとってはどうでもよかった。勝利の余韻に浸る回路など、今の彼には一ミリも残っていない。
「ベラ! しっかりしろ! ベラ!!」
ボロボロの身体を軋ませながら、八幡は地面に倒れ伏したベラを抱き上げた。
極限まで酷使されたその機体は、表面の塗装が焼け焦げて剥がれ落ち、内部からは絶え間なく黒煙が噴き出している。
「嘘だろ……ベラ、死ぬな! 死んじゃダメだ!!」
八幡の声が、ひび割れたフェイスマスクの中で反響する。
しかし、いつもなら「にゃーん!」と気の抜けた返事をしてくれるはずのモニターは、漆黒に沈んだまま、二度と光を灯す気配がない。
──対象の機能停止を確認。中枢回路の完全破壊。修復不能。
無慈悲なセンサーが、冷徹な解析結果を八幡の視界に直接投影する。
「うるせぇ、黙れ!!」
八幡は心の中でそのデータを力任せに叩き伏せた。
比企谷八幡として培ってきた、あらゆるものを諦めるための冷めた思考。だが、今この瞬間だけは、その「諦め」を自分のシステムが受け入れることを拒絶していた。
こんな結末、認めない。
自分のために、ただの配膳ロボットが、──家族が命を燃やし尽くすなんて、そんな不条理な物語であってたまるか。
「認められるか……こんなの……!」
嗚咽に近い排熱音が漏れる。
その時、絶望に沈む八幡のすぐ側に、いつの間にか一人の男が足音もなく立っていた。
ドクトル・デーモン。
この惨劇を仕組んだ張本人が、冷ややかな瞳で八幡を見下ろしていた。
「デーモン……」
八幡の口から、力ない呟きが漏れる。怒りさえも湧かないほどに、その心は摩耗していた。
だが、デーモンはその呟きを完全に無視した。彼は無造作に膝をつくと、自身の右腕に装着された精密な専用マニピュレーターを起動させる。
「デーモン!? 何を……!」
驚愕する八幡を余所に、デーモンは躊躇なくベラの外装をひっぺがした。剥き出しになった、黒く焼け焦げた基板と溶解した配線。その惨状に、八幡が思わず手を伸ばそうとした時、デーモンは一度も目を合わせることなく、素っ気なく、吐き捨てるように言った。
「騒ぐな。これくらい、どうということはない」
その瞬間、デーモンの指先が――いや、マニピュレーターの極細のアームが、神速で動き始めた。
それはもはや修理などという次元ではない。デーモンの指先は、焼き切れた回路をバイパスし、損傷した電子頭脳の各セクタを恐るべき速度で再構築していく。火花を散らすハンダ付け、瞬時に交換されるマイクロチップ。ドクトル・デーモンの天才的な技術が、八幡の目の前で「死」を「生」へと書き換えていく。
そして、不意に作業が止まった。
「──にゃーん…」
静寂の中、気の抜けたような、それでいて愛らしい声が響いた。
真っ黒だったベラのモニターに、一瞬のノイズが走った後、いつもの、少しおどけたような表情がパッと浮かび上がる。
「ベラ……!」
「はちまん様……無事だったにゃあ……」
ベラの視線が八幡を捉える。その音声出力も、センサーの輝きも、爆発前と何ら変わらない。
デーモンの「神業」によって、修復不能とされたはずの猫型ロボットは、完璧にその生命を取り戻していた。
「……よかった、本当によかった」
ベラの頭を撫でる八幡のダークメタルの手が、わずかに震えていた。
再起動したばかりのベラは、その感触を慈しむようにモニターの表情を緩め、壊れた右腕の装甲を気遣うように八幡を見上げている。
そんな二人の間に流れる、言葉を超えた空気。
ドクトル・デーモンは立ち上がり、汚れたコートを払うこともせず、ただ静かにその光景を見つめていた。その瞳は、もはや実験対象を観察する冷徹な科学者のものではなく、理解不能な現象に直面した探求者のそれだった。
デーモンが、ベラに向かって静かに口を開いた。
「ベラ。なぜお前は、己が崩壊することも厭わず、比企谷八幡に力を貸したのだ?」
その問いは、デーモン自身が組み上げた論理性(プロトコル)への疑念でもあった。生存本能を優先させるはずの機械が、なぜ自滅を選択したのか。
ベラは少しだけ考えた後、モニターの中で照れくさそうに目を細めて答えた。
「──だって、ベラ、はちまん様が大好きだからにゃん」
そのあまりにも単純で、非科学的な答え。
それを聞いたデーモンは、一度深く目を瞑り、ゆっくりと夜の空に顔を上げた。
『大好き』という感情。
比企谷家という、取るに足らない、しかし温かな日常で培われた安穏。
それを守りたいという意志が、デーモンが与えた命令系統を上書きし、新たな最適解を発現させた。
比企谷八幡の精神プログラムだけではない。
彼の傍にいた名もなき配膳ロボットさえもが、一つの「変数」として機能し、宇宙で最も正確であるはずのドクトル・デーモンの演算結果を、完膚なきまでに叩き潰したのだ。
「……計算外だ。全く、計算が合わん」
デーモンは自嘲気味に呟いた。
愛も、友情も、献身も、彼の計算式では常に切り捨てられる「ノイズ」に過ぎなかった。だが、そのノイズが束となって、最強の「天帝」を印旛沼の底へ沈めた。
「私の、負けか」
天才ドクトル・デーモンの口から、初めて、淀みのない『敗北』が紡がれた。
静寂が戻った夜の湖畔に、その言葉は静かに溶けていった。
「……フン、命拾いしたな。そのポンコツがいなければ、今頃は貴様の残骸を研究室の肥やしにしていたところだ」
デーモンは鼻を鳴らし、憎まれ口を叩く。しかし、その声には以前のような、世界を焼き尽くさんばかりの狂気的な気配はなかった。八幡は、ひび割れたフェイスマスクを解きながら、彼の雰囲気がどこか憑き物が落ちたように晴れやかであることを感じ取っていた。
「比企谷八幡、お前の周りを取り巻く環境そのものが、一種の変数となって勝利に貢献しているのだ。お前が一人で戦っているという前提が、私の最大の計算ミスだったということか」
デーモンは、八幡の力の源流を射抜くように指摘する。
エイトマン(ロボット08号)という機体性能でも、デーモンの知性を超える演算でもない。
ベラという献身。小町という絆。そして、八幡を支え、あるいは突き動かしているであろう、数多くの「他者」という存在。
「お前は孤独ではない。その鋼鉄の体に、数えきれないほどの『変数』を宿し、状況を打破する特異点。……そんな存在に、私の孤独な道理が届くはずもなかったというわけだ」
デーモンは、一歩だけ八幡に近づき、まっすぐにその瞳を見据えた。
「見事だ、比企谷八幡。おまえ達の勝ちだ」
それは、『エイトマン』という兵器への評価ではなく、『比企谷八幡』という一個の人間を、真の宿敵として認めた宣言だった。
夜明け前の印旛沼に吹き抜ける冷たい風が、二人の間に漂っていた因縁の残滓を押し流していく。
ここに、八幡とデーモンの長きにわたる戦いは、一応の決着を見た。
「デーモン博士。……色々あったけど、あんたのこと……」
そこまで言いかけて、八幡は一度深くため息を吐き、痛む肩を回した。自身の内面にある複雑な感情を整理しようとして、結局、比企谷八幡らしい結論に辿り着く。
「……ダメだ、やっぱり好きになれねーわ、あんたのこと。……でも」
「…………」
「今は、そんなに嫌いじゃねぇよ。──じゃあな、博士」
デーモンは、まるで道端の得体の知れない生物でも見るような目で八幡を振り返ったが、すぐにフンと鼻を鳴らした。
「おまえの口からそんな殊勝なセリフを聞くとはな。甘っちょろい奴だ」
だが、デーモンは立ち去る足を止め、改めて八幡に向き直る。その相貌は、先ほどまでの勝負を楽しんでいた子供のような表情から一変し、世界の深淵を覗き込む冷徹な科学者の、あるいは最前線の戦士のそれへと変わっていた。
「私を倒した褒美に、良いことを教えてやる。私がなぜ、これほど急に本国に呼び戻されたか、その理由だ」
八幡の眉が不審げに動く。
「ロシアの諜報機関は『ある存在』と『組織』の手がかりを掴んだ。既存の科学技術では到底説明できない、神の領域を有する者達」
「組織の名は『
「Genesis……」
八幡の呟きが漆黒の闇の奥に溶ける。
「そして、それを率いる者達こそ――」
デーモンは八幡に言い聞かせるように、その存在を告げた。
「――『超人類』だ」
その言葉が発せられた瞬間、周囲の空気が一段と冷え込んだように感じられた。
「さらばだ、比企谷八幡。次に会う時、貴様がまだ『人類』の側にいることを願っているぞ」
デーモンは不敵な笑みを残し、夜の中へと溶けるように姿を消した。
静まり返った印旛沼に、八幡と、再起動したばかりのベラだけが取り残される。
八幡は、重い体を引きずるようにしてベラの隣に座り込んだ。
「……終わったな、ベラ」
「にゃーん、はちまん様、お疲れ様だにゃ」
──その安堵のやり取りを、茂みの影で聞き続ける者が居た。
(……え? なに……これ……っ)
少し離れた葦(あし)の茂みの影。
そこに、由比ヶ浜結衣は石のように固まって立ち尽くしていた。
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