——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
(……うそ、だよね……?)
茂みの影、結衣の思考は完全に停止していた。
目の前で繰り広げられた、人知を超えた決戦。その中心にいた鋼鉄の戦士、エイトマン。
自分を幾度も窮地から救い出してくれた、正体不明の鋼鉄の英雄。いつかちゃんとお礼を言いたい、どこか遠い世界の存在だと思っていた「彼」。
そして、今目の前にいる、ひどく疲れ果て、泥に汚れ、苦痛に顔を歪めた比企谷八幡の素顔。
「……ッ、はぁ……。……身体中、ガタがきてやがる……」
八幡は自分の腕を抱え、荒い息をつく。
その瞬間、結衣が憧れ、頼もしく思っていたはずのエイトマンの装甲が、デジタルな光の粒子となって消えていった。
後に残ったのは、見慣れた、ボロボロになった総武高校のワイシャツ姿。
猫背を丸め、痛みに耐えながら地面に座り込む、あまりにも華奢で、頼りなげな少年の背中だった。
結衣の脳は、目の前の光景を完全に拒絶していた。
──エイトマンさんと、恐ろしい鋼鉄の怪物がぶつかり合い、そして今、ボロボロのワイシャツを着て座り込む「ヒッキー」。
そのどれもが、彼女の知る「日常」とはかけ離れていた。
結衣の足が、がくがくと震える。
今すぐ走り寄って、「今のなに!?」と冗談めかして笑い飛ばしたかった。けれど、八幡の纏う、寄せ付けないほどの静謐な殺気と孤独が、彼女をその場に縫い止めていた。
彼女の知る「比企谷八幡」というパズルのピースが、目の前で全く別の、恐ろしい絵へと組み替えられていく。
結衣はただ、その背中を見つめ続けることしかできなかった。
(ヒッキー……。ヒッキーが、エイトマンさん、だったの……?)
結衣の中で、点と線が、あまりにも残酷な形で結ばれていく。
「……はちまん様、お疲れ様だにゃ。すぐに応急処置をするにゃ」
「……ああ、悪いな、ベラ……。お前、よく頑張ったな」
八幡が、猫型ロボット――ベラの頭を愛おしそうに撫でる。
その不器用で、けれど深い優しさを湛えた手つき。それは、結衣がずっと大好きで、ずっと大切にしたいと思っていた「ヒッキー」の仕草そのものだった。
結衣の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
今まで彼が一人で抱えてきた痛みが、孤独が、そして自分たちを守るために払ってきた犠牲の大きさが、津波のように彼女の心に押し寄せる。
「…………っ」
声を出すことすらできなかった。
今、自分が飛び出して「知ってしまった」と告げれば、今まで積み重ねてきた『全て』を、自分の手で壊してしまうことになる。
八幡は重い足取りで、夜の闇へと歩き出す。
結衣はただ、その孤独な背中を、茂みの影で泣きながら見送ることしかできなかった。
──
日がすっかり落ちきり、街灯の冷たい光がアスファルトを白く照らしている。
人気のないバス停。結衣はベンチに深く腰掛け、膝を抱えるようにして俯いていた。
視界の端に、先ほど印旛沼で目撃した光景がこびりついて離れない。
エイトマンさんの正体が、比企谷八幡だったという事実。
それをすぐに飲み込み、受け入れろというのは、彼女にとってあまりにも酷な話だった。
「……ヒッキーが、エイトマンさん……」
唇から漏れた呟きが、白く濁って夜の闇に溶けていく。
結衣は必死に、これまでの時間を思い返した。
いつも奉仕部で、死んだ魚のような腐った目をして、椅子に深くふんぞり返っている捻くれ者の少年。自分勝手な理屈を並べ立て、けれど誰よりも自分たちのことを見続けてくれた、比企谷八幡という顔。
そして、巨大な怪物に立ち向かい、摩天楼を駆け巡り、絶体絶命の窮地から自分を救い出してくれた、鈍いダークメタルの輝きを放つ鋼鉄の戦士。
二つの姿が脳裏で激しく交錯する。
いまだにその姿が完全に一致することはない。だって、エイトマンさんはあんなに頼もしくて、ヒッキーはあんなに頼りなくて……。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
ヒッキーは、どんな姿であっても、ずっと自分の側にいてくれた。
自分が誰かに助けてほしいと願ったその瞬間、そこに現れたのは、いつだって彼だったのだ。
ベンチに座り込んだまま、結衣の瞳からは大粒の涙が溢れ出していた。
止めようと思えば思うほど、これまでの想い出が、色鮮やかな光の奔流となって胸の中を駆け巡る。
それは、比企谷八幡との、不器用で愛おしい日常の記憶。
奉仕部の部室でクッキーを作り、ひどい見た目の失敗作を「悪くない」と言って食べてもらったこと。ヒッキーとゆきのんの三人で一緒に悩みに悩んで、誕生日プレゼントを選んだこと。
千葉村の調理実習で、危なっかしい手つきの自分の隣で、黙ってジャガイモを切るのを手伝ってくれたこと。
夏祭りの夜、二人きりで屋台をまわったあの時間。その後の花火の下で、陽乃さんの言葉に傷つき、自分を見失いそうになっていた彼の震える体を、必死に支えたこと。
文化祭で、彼とゆきのんが泥を被りながら作り上げた、あの残酷なまでに美しい世界。
そして修学旅行の、燃えるような紅葉の中で、三人で撮ったあの写真。
(ヒッキーは、いつもそこにいてくれた……)
そして、それと重なり合うように、エイトマンさんとの記憶が蘇る。
命の危険が迫った時、絶望の淵で自分を救い出してくれた、力強い鋼鉄の腕。
彼に抱きかかえられ、風を切って千葉の摩天楼を駆け抜けた、あの夢のような浮遊感。
千葉村の闇の中で、葉山くんたちを助け出してくれた。
あの恐ろしい超人サイバーの魔の手から、自分と沙希、そしてゆきのんを救ってくれた、あの眩いばかりの輝き。
(エイトマンさんも……ずっと、守ってくれてた……)
結衣の頬を伝う涙は、いつのまにか止まらなくなっていた。
けれど、それは悲しみによるものではなかった。
ヒッキーとエイトマンさん。二つの姿が一つに重なった時、結衣の心を満たしたのは、体の芯からじわじわと湧き上がるような、どうしようもないほどの『暖かさ』だった。
ヒーローは、ずっと隣にいた。
不器用で、捻くれていて、それでも誰よりも優しい「彼」が、自分のすぐそばで、ずっと自分たちの明日を守り続けてくれていたのだ。
結衣は溢れる涙を制服の袖で拭い、ゆっくりと夜空を見上げた。
冷たく澄んだ冬の星空が、泣き腫らした瞳に眩しく映る。
「ヒッキーは、いつだって……」
比企谷八幡として心を削り、エイトマンとして体を削り。
彼は、自分がどれほど傷つくことも厭わずに、みんなを助け続けてくれた。自分の平穏な日常を守るために、彼は血とオイルに塗れた非日常を独りで背負い込んできたのだ。
その事実が、彼のあまりにも不器用で、一方的な『優しさ』が、ただただ嬉しくて、愛おしかった。
彼がその正体を明かせない理由は、もう痛いほどにわかった。
真実を口にした瞬間に、彼が守り抜いてきた「奉仕部の比企谷八幡」としての日常が、取り返しのつかない形で変わってしまうのを恐れているのだろう。
(だったら、あたしは……)
結衣は心に誓った。
無理に問い詰めたりはしない。彼が自分から、その重い鋼鉄の仮面を脱げる日が来るまで。彼が、自分たちの前でありのままの自分をさらけ出し、心から安心できる日が来るまで。
あたしは、待ち続けよう。
結衣の心は、冬の夜空のように澄み渡り、一点の曇りもなくなっていた。
「待ち続ける」ことは、決して消極的なことじゃない。それは、誰よりも彼を信じるという、一番強い決意の形だ。
今の自分に出来ること。
それは、近く迫った生徒会選挙で、雪乃を支え、そして彼と正面から向き合うこと。彼が独りで無理をしないように、逃げ出さないように、あたしもあたしのやり方で、この日常を守るんだ。
「──帰ろっか!」
結衣は力強く立ち上がり、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
頬にはまだ涙の跡が残っていたけれど、その顔には、これまでで一番明るく、そして強い決意を秘めた笑顔が浮かんでいた。
──
翌朝、比企谷八幡はいつも以上に目を腐らせて登校していた。
昨夜の印旛沼でのデーモン博士との死闘。その後、悲鳴を上げる体を無理やり引きずって谷博士の研究所へ向かい、機体のリペアと自身の応急処置を終えた頃には、時計の針は十一時を回っていた。
当然、待っていたのは小町からの激しい落雷だ。「受験生の妹に心配かけるとか、お兄ちゃんとしてどうなの!?」という正論の雨を浴び、マックスコーヒーを燃料代わりにガブ飲みして、ようやく泥のような眠り(スリープモード)に落ちたのが深夜のこと。
デーモンとの因縁に一つの、完全な決着をつけることはできた。だが、八幡にとっての『本番』はまだ終わっていない。
「……だりー……」
目の前に迫った生徒会長選挙。それは、エイトマンとしてではなく、比企谷八幡としての戦いだ。
それに備えてひたすら眠ったはずだったが、蓄積された疲労は粘土のように重く、抜ける気配がない。
八幡の全身から発せられる負のオーラは、精製前の天然石油のごとく、どろどろと周囲に粘りついていた。登校中の生徒たちは本能的な忌避感を覚え、モーセの十戒のごとく八幡の前から道を開けていく。
そんな、歩く公害と化した八幡の背中に、弾けるような、それでいてどこか慈しむような響きの声が届いた。
「やっはろー!!」
振り返ると、そこには朝の陽光を背負い、眩しいほどの笑顔を浮かべた由比ヶ浜結衣が立っていた。
「ヒッキー、おはよ!」
結衣の明るい声が、澱んだ八幡の意識を無理やり引き戻す。
いつもの、お決まりの挨拶。けれど八幡は、どこか居心地の悪い意外性を感じていた。
普段、彼女が自分に話しかけてくるのは、大抵が奉仕部の部室か、あるいは教室の自席にいる時だ。こんな風に、登校中の校門前で正面から「捕まる」のは珍しい。
「お、おう……」
八幡は少し押され気味に挨拶を返した。
いつも以上にどろどろとした自分のオーラをぶつけても、今の結衣は一歩も引く気配がない。それどころか、彼女は八幡の思考を置き去りにするように話を続ける。
「選挙、もうすぐだね。お互いがんばろうね」
結衣の目が、じっと八幡を見つめる。
その瞳は、朝の光を反射してキラキラと輝き、あまりにも真っ直ぐだった。
嘘をつく時、あるいは何かを隠そうとする時、八幡はいつも巧みに視線を逸らしてきたが、今の彼女の瞳には、磁石のように吸い寄せられて目を逸らすことができなかった。
「ヒッキーには悪いけど、ゆきのんが勝つから。あとで泣かないでね?」
茶化すような口調。けれど、その言葉には確固たる決意が宿っていた。
結衣はそのまま、すれ違いざまに八幡の肩をポンと軽く叩き、弾むような足取りで先に行ってしまった。
残された八幡は、叩かれた肩の温もりを微かに感じながら、呆然とその後ろ姿を見送る。
「……なんか、良いことでもあったのか?」
独り言のように呟く。
彼女が昨夜、すべてを知ってしまったこと。
自分のボロボロの正体を受け入れ、その上で「見守る」と決めたこと。
その計り知れない想いを知るはずもなく、八幡はただ、いつもより少しだけ軽やかになった彼女の背中を見つめ続けていた。
「ちょーっと、先輩! 昨日どこ行ってたんですか! 準備放り出して!」
廊下の角から飛び出してきた一色いろはが、八幡の制服の袖をグイと引いた。
八幡は死んだ魚の目をさらに澱ませながら、昨夜の「鉄の死神」との激闘を必死に隠蔽するべく、適当な言い訳を脳内のゴミ箱から拾い上げる。
「……ロシアの知人がな、急に日本に来て。……その、おもてなしだ」
「はぁ? 先輩、ロシアに友達なんていたんですか? もしかしてネットの怪しい闇組織とか……。それにしては様子がおかしいっていうか、廃人一歩手前じゃないですか」
いろははジト目で八幡の顔を至近距離で覗き込む。ドロドロの石油オーラを纏い、今にも地面に溶け落ちそうな八幡の様子を、彼女の小悪魔的な直感が見逃さない。
「まあいいですけど……。あんまり無理しないでくださいね。先輩が倒れたら、私の選挙、誰が責任取ってくれるんですか」
「……ハイハイ、責任取ればいいんだろ、責任」
投げやりな八幡の返事に、いろはは「え、今プロポーズですか? ごめんなさい無理です」といつもの定型文を返しつつも、その口元はどこか嬉しそうに綻んでいた。八幡が纏う澱んだ空気の奥にある、確かな『生存報告』を確認して安心したかのように、彼女の足取りは軽やかだった。
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