——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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これで第五章は終わりです

次からいよいよずっと書きたかった『超人類編』になります。


第五十五話:戦士の安息

 

 中央最適化委員会の仮設作戦本部。そこには一色いろはを会長に押し上げるべく、八幡が張り巡らせた策の数々が実行に移されるのを待っていた。

 

「──応援演説は、葉山隼人で確定だ」

 

 八幡の言葉に、周囲にいた一色陣営の面々が沸き立った。校内のカースト頂点に君臨する葉山の登壇。それは単なる演説以上の意味を持つ。圧倒的な女子票の獲得と、雪ノ下陣営への決定的な「格の差」を見せつけるための、八幡が用意した最大最強の切り札だった。

 

 そこに、偵察に出ていた一人の生徒が情報を持ち帰る。

 

「雪ノ下陣営の応援演説……由比ヶ浜結衣が出るってよ!」

 

 その瞬間、室内に安堵の混じったため息が漏れた。

 

「由比ヶ浜結衣? 彼女か……しかし、いくら彼女でも葉山相手ではな」「まあ、あっちには他に誰もいないし、妥当な線といったところか」

 

 そんな周囲の考えを、八幡の鋭い一喝が遮った。

 

「……浮かれるな。まだ何も決まってねぇよ」

 

 八幡の目は、ひどく冷めていた。

 脳裏をよぎるのは、今朝、校門前で出会った時の由比ヶ浜結衣の姿だ。それまでの彼女が抱えていた「迷い」や「揺らぎ」が、霧散したかのようなあの瑞々しい気配。

 今の彼女から発せられる『オーラ』は、それまでの日常の延長線上にあったものよりも遥かに生き生きとし、強大な熱量を帯びていた。

 

(……あの感じ、ただの応援演説で終わるはずがねぇ)

 

 結衣が何を変数にしたのかは分からない。だが、八幡の直感は告げていた。今の由比ヶ浜結衣は、一色いろはにとっても、そして八幡の描くシナリオにとっても、最大の障壁になり得ると。

 

「万全を期すぞ。一色。……もう一度、葉山と最終調整だ。あいつは、今のままじゃ葉山でも止められねぇかもしれない」

「は、はい!!」

 

 八幡は、ひび割れた体から絞り出すように指示を飛ばす。

 昨夜、天帝を沈めたばかりの戦術眼が、今度は親愛なる友人の変貌に警鐘を鳴らしていた。

 

 ──そして、時は残酷なほど速く流れ、体育館の巨大な幕が静かに上がり始める。

 

 スポットライトが演壇を照らし、応援演説の幕が上がった。

 

 

──

 

 

「皆さん、こんにちは。葉山隼人です」

 

 その第一声だけで、会場にいた女子生徒たちの間にさざ波のような高揚が広がる。葉山の声は、朝の光のように爽やかで、かつ芯の通った確信に満ちていた。

 彼は巧みに言葉を選び、一色いろはという少女が持つ「危うさ」を「守るべき可能性」へと、その「あざとさ」を「期待に応えようとする献身」へと、鮮やかに塗り替えていく。

 

「一色さんは、誰よりも周囲の期待を敏感に感じ取り、それに応えようと努力できる人です。彼女が会長になれば、この学校はもっと楽しく、もっと輝く場所になる。僕はそう信じています」

 

 そのハキハキとした音声は、聞く者の幸福度を絶妙に刺激し、一色いろはという存在の魅力を最大限まで引き出していく。まるで体育館全体が、彼の放つ黄金の輝きに包まれているかのようだった。

 

「……さすがだな。改めて、とんでもねぇ野郎だよ」

 

 舞台袖の暗がりでそれを見つめる八幡は、冷めた、しかし確かな敬意を持って評価していた。

 自分の描いた「一色いろは当選シナリオ」という冷徹な計算式に、葉山隼人という最強の熱量が加わる。これ以上ないほどの完璧な効果だ。

 演説の終了と同時に、割れんばかりの拍手が体育館を揺らした。一色陣営の面々は勝利を確信し、互いに顔を見合わせて頷き合う。

 黄金の残響を背負い、満足げにステージを降りてくる葉山。

 

 だが、八幡の視線は、それと入れ替わるように一歩を踏み出した、一人の少女に釘付けになっていた。

 

 続いて、雪ノ下陣営の番。

 由比ヶ浜結衣が、一世一代の大舞台へと向かう。

 

 

──

 

 

 舞台袖の暗がりに、熱狂の余韻が冷めやらぬ拍手が流れ込んでくる。

 その喧騒とは対照的に、由比ヶ浜結衣は、自身の心臓の音がうるさいほどに鳴り響くのを感じていた。

 

(……どうしよう。あたし、あんな風に、上手く喋れるかな……)

 

 結衣の指先は氷のように冷たくなり、膝は情けないほどに小刻みに震えていた。

 先ほどの葉山隼人の演説は、まさに完璧だった。その後にステージに立ち、雪ノ下雪乃という存在の価値を全校生徒に認めさせる。その責任の重さが、彼女の小さな肩にのしかかる。

 何度も雪乃と練習した。夜遅くまで台本を練り、言葉を削り、想いを詰め込んできた。けれど、いざその時が来ると、蓄えてきたはずの自信は霧散し、足元の床が消えてしまったかのような感覚に陥る。

 

「…………っ」

 

 結衣が思わず視線を落とした、その時だった。

 スッ、と温かな感触が結衣の右手を包み込んだ。

 驚いて隣を向くと、そこには雪ノ下雪乃が静かに立っていた。

 

「大丈夫よ、由比ヶ浜さん」

 

 雪乃は結衣の手を、逃がさないように、けれど優しく握りしめていた。

 その瞳には、不安も、気負いもなかった。あるのは、親友である結衣に対する全幅の信頼。そして、自分たちの歩んできた時間が、言葉となって届くことを確信した『勝利を確信した顔』だった。

 

「由比ヶ浜さんが感じたことを、そのまま伝えればいいわ。……私は、あなたに託したのだから」

 

 雪乃の穏やかな微笑みが、結衣の冷え切った指先に熱を灯していく。

 結衣は深く、長く息を吐き出した。

 雪乃の体温が伝わった瞬間、手のひらからこびりついていた迷いが、嘘のように霧散していく。

 

「……うん。大丈夫だよ、ゆきのん」

 

 結衣は握り返した手に力を込め、一度だけ力強く頷いた。

震えは止まっていた。胸に溢れるのは、雪乃への、そして昨夜知ったあの人の孤独への、熱い想いだけ。

 

「行ってくるね!」

 

 光の射すステージへ向かって、結衣は迷いなく一歩を踏み出した。

 

 

──

 

 

 ステージの照明が、結衣の鮮やかな髪色を一段と明るく照らし出した。

 マイクの前に立った彼女が小さく息を吸い込むと、その気配だけで、体育館を支配していた葉山隼人の「黄金の余韻」が、ふっと別の色に塗り替えられ始めた。

 

「……雪ノ下さんは、たぶん、みんなが思ってるよりずっと、不器用な人です」

 

 第一声は、宣言でも主張でもなく、ただの独り言のような柔らかい本音だった。

 全校生徒が息を呑む。

 結衣の演説は、論理的な正論でも、理想の提示でもなかった。それは、雪ノ下雪乃という一人の少女と共に過ごし、彼女の隣で笑い、泣き、そしてその背中を追い続けてきた結衣にしか紡げない、圧倒的な肯定感を伴った「魂の告白」だった。

 

「正しいことばっかり言うし、冷たく見えるかもしれないけど。でも、誰よりも一生懸命で……誰よりも、誰かのために傷ついちゃう人なんです」

 

 結衣の声が響くたび、体育館の空気が弾む。

 彼女の声には、重苦しい演説特有の圧迫感がない。代わりに、聴衆の一人ひとりの心に直接触れるような、温かな熱量が宿っていた。

 雪乃の「正しさ」を、孤高の象徴ではなく「守りたい美徳」へと変えていく。彼女の「厳格さ」を、拒絶ではなく「誠実さ」へと変換していく。

 舞台袖でそれを見つめる八幡は、自分の全身が小刻みに震えていることに気づいた。

 それは、昨夜ドクトル・デーモンを前にした時に感じた、あの『武者震い』と同じものだ。

 

(……空気が、彩られていく……)

 

 八幡の戦術眼が、戦況の劇的な変化を捉えていた。

 葉山が作り上げた「一色のための空気」が、結衣という太陽のようなエネルギーによって分解され、雪ノ下雪乃という一人の人間を受け入れるための土壌へと再構築されていく。

 

「ゆい先輩、すごい……」

 

 隣に立つ一色いろはが、呆然と、けれどどこか心打たれたように呟いた。

 八幡は、引きつったような、けれど誇らしげな笑みを浮かべた。

 

(計算外だ。……全くな)

 

 あの日、絶望的な出力不足を補うために、自らの回路を焼き切って力を貸したベラ。そして今、雪乃のために、そして孤独に戦う八幡のために、全霊を懸けて言葉を紡ぐ結衣。

 

「(……これは、もしかしたら負けたかもしれねーな)」

 

 心の中で、八幡は自身の敗北を予感した。

 それは皮肉でも自虐でもない。自分の描いた冷徹な勝利のシナリオが、自分を誰よりも知る少女という『最強の変数』によって打ち破られようとしていることへの、奇妙な清々しさだった。

 

 

──

 

 

 由比ヶ浜結衣の演説が終わった瞬間、体育館内を揺らした拍手は、先ほどの葉山隼人の時と勝るとも劣らない、地鳴りのような熱量を帯びていた。

 

「……凄いな、結衣は。正直、冷や汗をかいたよ」

 

 舞台袖に引き上げてきた葉山が、額の汗を拭いながら本心からの賞賛を口にした。

 葉山自身が体現する、完成された「黄金の爽やかさ」。それに対し、今の結衣が放ったのは、剥き出しの命が燃えるような「新鮮な熱量」だった。その輝きは、聴衆の心に予想以上の反響と、拭いがたい残像を刻みつけていた。

 

「さすがは桃色の超越者(ピンク・メサイア)……」

「書記長と女神の側に居続けるだけのことはあるな。あんな魂の震える演説、初めて聞いたぞ」

 

 背後で委員会メンバーたちが手放しで結衣を賞賛する声が聞こえる。

 八幡は、何も言わずにただ虚空を見つめていた。これまでの自分なら、ここで即座に脳内シミュレーションを走らせ、得票数の予測と勝率を弾き出していただろう。だが、今の八幡にはそんな不粋な真似をする気は毛頭なかった。

 

 もはや、結果がどうなるかは誰にもわからない。

 

 エイトマンとしての演算も、ドクトル・デーモンが信奉した論理も、この瞬間の「想い」のぶつかり合いを測る尺度にはなり得ない。

 

(……あとは、神様にでも任せるか)

 

 八幡は柄にもなく、心の片隅で投票結果を神に祈った。

 極致の科学の末端を担う自分が、最後に辿り着いたのがこんな非科学的な行いであることに、八幡はどこか可笑しさと、形容しがたい充足感を感じていた。

 

 

──

 

 

 十二月の頭、総武高校生徒会役員選挙の投票は粛々と行われた。

 

 冬の冷たい空気が校舎の廊下を通り抜け、放課後の静寂をいっそう際立たせている。

 即日開票のため、選挙管理委員会が別室で票を数えている間、中央最適化委員会室の一色いろは陣営は、刺すような重苦しい沈黙に包まれていた。

 

「…………っ」

 

 総大将である一色いろはは、パイプ椅子の端を白くなるほど握りしめ、今にも泣き出しそうな顔を必死に耐えていた。時折、不安を紛らわすように八幡の方をチラリと見るが、すぐにまた視線を床に落とす。

 委員会メンバーもまた、デスクの上の「ある物」を囲んで固まっていた。

 材木座が「勝負事にはこれだ!」と息巻いて持ってきた、特大のダルマ。片目だけが白く残ったそのダルマを黒く染め上げるため、墨ペンを握る材木座の手は小刻みに震えている。

 

「……一言も喋るな。集中が乱れる」

 

 材木座が低く唸るように言ったが、誰も答える者はいない。戸塚も、川崎も、ただじっと置時計の針が刻む音に耳を澄ませていた。

 八幡は、一人離れた椅子に深く腰掛け、腕を組んで静かに目を閉じていた。

やるべきことは、全てやった。

 

 雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣。あの二人に正面から向き合うため、自分の持てる全て──比企谷八幡としての策も、エイトマンとしての魂も──その存在の全てを賭けて、この無理難題に挑戦した。

 一色いろはに天下を取らせるため、あらゆる非情な手段を講じ、あらゆる泥を被ってきた。

 人事は尽くしきった。あとは、天の采配がどちらに転がるかを見届けるだけだ。

 

 室内を支配する、痛いほどの沈黙。

 秒針の音が心臓の鼓動と重なり、一秒が永遠のように引き延ばされていく。

 

 

 ──そして、その時が来た。

 

 

 校内放送のスピーカーが、ザザッというノイズを吐き出し、審判の声を告げ始めた。

 

 

 

『生徒会役員選挙の結果を発表します。……有効投票数、一二六五票。……得票数、一色いろは、六三五票。雪ノ下雪乃、六三〇票』

 

 その数字が読み上げられた瞬間、中央最適化委員会室は、時が止まったような静寂に包まれた。

 

「…………え?」

 

 一色いろはが、呆然と声を漏らす。

 

『──以上の結果をもちまして、一色いろはさんの生徒会会長就任が決定しました』

 

 隣の材木座も、固まっている戸塚も川崎も、誰もが自分の耳を疑った。五票。あまりにも、あまりにも僅かな差。一色陣営の全員が、勝利という事実を脳が処理しきれず、実感の伴わない顔で互いを見合わせた。

 

 ──だが、ただ一人。

 

 椅子に座り、深く腕を組んでいた比企谷八幡だけが、静かに目を見開いた。

 彼は何も言わず、ただ、膝の上で右拳を「グッと」力強く握りしめた。

 その拳こそが、エイトマンとして、そして比企谷八幡として、限界まで体を、そして心を削りながら戦い抜いた果ての、静かなる勝利の証明だった。

 

 

 ──その瞬間、凍りついていた全員の意識が解き放たれた

 

 

「──ッ、やったああああああ!!」

 

 瞬間、部室全体を突き抜けるような大歓声が埋め尽くした。

 材木座がダルマを掲げて咆哮し、戸塚が川崎と手を取り合って喜び、一色いろはは、ようやく溢れ出した大粒の涙を拭うのも忘れ、その場にへたり込んだ。

 

 一色いろは、生徒会長当選。

 

 エイトマンという非日常と、奉仕部という日常。その二つの世界の境界線上で、八幡が全てを賭けて掴み取った勝利の凱歌が、冬の夕暮れの校舎に万感の想いを込めて響き渡った。

 

 

──

 

 

 いろはは泣いた。誰に憚ることもなく、子供のように声を上げて泣いた。

 その涙は、これまでの不安やプレッシャー、そして八幡と共に駆け抜けた激動の日々が、すべて報われたことへの人生最高の歓喜の涙だった。

 

「……わっ、一色さん、危ない!」

 

 腰が抜けたように椅子から滑り落ちそうになった彼女を、戸塚が慌てて両脇から支え、川崎が反対側からその肩を抱きとめた。

 

「おめでとう、一色さん。君が頑張ったからだよ」

「……ぐすっ、……ひっ、……ふぇ……」

 

 戸塚の優しい祝福に、一色はもう言葉にもならない声を漏らす。そんな彼女の背中を、川崎が呆れたような、けれどどこか誇らしげな手つきで力強くさすった。

 

「何泣いてんのよ。ほら、しっかりしな。今日からあんたが……『生徒会長』なんだから」

 

 その言葉が決定打となった。一色は耐えきれず、自分を支えていた川崎の胸に顔を埋め、さらに激しく泣きじゃくった。

 その背後では、材木座が「ぬぉぉぉぉぉ!!」と咆哮しながら、特大ダルマの左目を一気に墨で塗りつぶしていた。

 

「見たか! これこそが、我ら中央最適化委員会の歩んだ覇道の証よ! いざ、勝鬨を挙げよぉ!!」

 

「比企谷書記長万歳!!」

「一色会長万歳!!」

「中央最適化委員会、万歳ッ!!」

 

 材木座の叫びに呼応し、室内にいた野郎共が猛り狂ったように拳を突き上げる。熱狂の嵐は委員会室の壁を越え、冬の夕闇が迫る総武高校の校舎全体へと、勝利の凱歌となって響き渡っていった。

 

 

──

 

 

「負け……か」

 

 雪乃がポツリとつぶやいた言葉は、誰もいなくなった教室に、重く、静かに落ちた。

 

 雪ノ下陣営の作戦本部は、まるですべての灯火が消えたかのような静沈に包まれていた。

 結衣は、その空気をどうにかしようと、強張った頬を無理やり持ち上げて、精一杯の笑顔を作った。

 

「──ヒッキーといろはちゃん、凄かったね! ……あはは、まさか五票差なんて。でも、みんなも一生懸命がんばったんだから、そんな暗い顔しちゃ、ダメだよ」

 

 結衣の声は震えていた。

 自分を救ってくれた「エイトマンさん」の正体がヒッキーだと知って、彼がどれほどの犠牲を払ってあの勝利を掴み取ったかを知っているから。そして、隣にいる親友が、どれほどこの場所を、この勝負を大切に思っていたかを知っているから。

 

「みんな、本当にかっこよかったよ。だから……そんな、顔しちゃ……」

 

 必死に言葉を紡ごうとする結衣の視界が、急激に歪んでいく。笑顔を保とうとするほどに、表情がどんどん崩れていく。

 

「由比ヶ浜さん」

 

 穏やかな、けれど凛とした雪乃の声が、優しく結衣を包み込んだ。

 雪乃は椅子から立ち上がると、迷いのない足取りで結衣の側へと歩み寄る。

 

「──お疲れ様。よく、頑張ったわ。……ありがとう」

 

 その一言が、結衣の心の堤防を完全に決壊させた。

 

「う、……っ、あぁああ……っ」

 

 もう限界だった。結衣は雪乃の胸に飛び込み、子供のように、うめき声を上げるようにして泣き出した。

 雪乃もまた、その瞳に静かな熱を湛えながら、結衣の震える背中を優しく、ゆっくりとさすり続けた。

 自分たちの敗北。けれど、そこには決して「無意味」などではない、確かな熱量があった。

 夕闇が迫る教室で、二人の少女は寄り添い合い、それぞれの想いを涙と共に分かち合っていた。

 

 

 

──

 

 

 

 狂乱の渦の中、八幡はパイプ椅子の背にもたれ、静かに虚空を見つめていた。

 

「──勝った」

 

 独り言のように呟いた言葉に、万歳と叫びたいような高揚感はなかった。

 わずか五票。薄氷を踏むような、危うい勝利だ。論理的に相手を屈服させた完全勝利などではない。ただの偶然か、あるいは誰かの気まぐれが混じっただけの、誤差のような数字。

 

 だが、結果として刻まれたその数字は、この世界において絶対だった。

 

『──ミッション・コンプリート。全工程を終了しました』

 

 八幡の意識の奥底で、冷徹な電子頭脳が最適化された処理を終え、任務の完了を告げた。

 デーモン博士との因縁。そして、雪乃と結衣という、自分にとって最も大切な二人との真っ向からの対峙。

 

 そのすべてに、今、決着がついた。

 

 

(……お疲れ、俺の身体。……あとは、勝手にしろ)

 

 

 張り詰めていた鋼鉄の糸が、ぷつりと切れた。

 八幡のまぶたが、重力に抗うのをやめてゆっくりと閉じていく。

 

「先輩! やりましたよ、先輩!」

 

 泣き腫らした顔の一色が、真っ先に八幡のもとへ駆け寄る。続いて材木座や戸塚たちも、歓喜と祝辞の言葉を投げかけようと彼を囲んだ。

 

 ──だが、八幡からの反応はない。

 

「……? 先輩?」

 

 不審に思った一色が覗き込むと、戸塚がそっと指を口に当てて制した。

 そこには、周囲の喧騒が嘘のように、安らかな寝息を立てる八幡の姿があった。

 その顔は、エイトマンとしての重責からも、比企谷八幡としてのひねくれた自意識からも解放された、ただの少年の顔──あるいは、戦いを終えた戦士の休息の顔だった。

 熱狂に包まれていた室内が、その寝顔を見た一色たちの手で、静かな優しさに包まれていく。

 一色は八幡の肩を、起こさないようにポンポンと、慈しむように叩いた。

 

 

「──お疲れ様でした。先輩」

 

 

鋼鉄の書記長、比企谷八幡。

彼はようやく、誰にも邪魔されない、ひとときの安息の時間を手に入れた。

 

 




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