——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第六話:(エンジェル)

 

友人の定義とは、一体どこからどこまでを指すのだろうか。

以前、雪ノ下が言いかけた台詞を、八幡は時折、電子頭脳のバックグラウンドで反芻することがある。

俺なりの意見を言うならば、心情を包み隠さずにさらけ出せる仲こそが、友人と言えるのではないだろうか。

互いに信頼し、背中を預けられるからこそ、建前を捨ててぶっちゃけられる。損得勘定抜きで、己の「核」を共有できる存在。

……もっとも、その定義を適用するならば、比企谷八幡には永遠に友人ができないという結論に至るのだが。

今の俺の「核」は、鉛の装甲に守られた超小型原子炉だ。この正体をさらけ出した瞬間に待っているのは、友情の芽生えではなく、国家権力による拘束か、あるいは未知のテクノロジーを狙う組織との全面戦争である。

秘密を抱えたまま、誰かと友人になることは可能なのだろうか。

思考の海に沈む八幡だが、一つだけ確信を持って言えることがあった。

——少なくとも、中二病患者だけは友人にしたくない。

放課後の部室。

扉が乱暴に開け放たれるのと同時に、廊下から異様な熱気……というよりは、隠しきれない「痛さ」が流れ込んできた。

 

「はーっはっはっは! 我が呼び声に応え、この地に集いし者たちよ!」

 

そこに立っていたのは、季節外れのコートを羽織り、指のないグローブを装着した、肥満体型の男子生徒だった。

八幡の網膜ディスプレイが、即座に彼のステータスを弾き出す。

 

(……材木座義輝。同じクラスの、自称・作家志望。体脂肪率、やや高め。発汗量、異常。そして——)

 

八幡は視覚センサーの倍率を上げ、材木座が腰に下げている木刀と、その不自然な立ち振る舞いをスキャンした。

超聴覚が、材木座の激しい鼓動と、自分の世界に浸りきった荒い鼻息を拾い上げる。

 

「我こそは剣豪将軍、材木座義輝! 此度は汝らに、ある大いなる託宣を授けに参ったのだ!」

 

朗々と、芝居がかった声で叫ぶ材木座。

部室内に沈黙が満ちる。雪ノ下はまるで汚物……いや、バグの塊でも見るかのような冷徹な眼差しを向け、由比ヶ浜は引き攣った笑顔のまま固まっている。

八幡はマックスコーヒーを一口啜り、電子頭脳の論理回路をフル回転させて、この状況の「正解」を探した。

 

(……解析不能。この男の行動理念は、既存の社会学的データに基づかない。純粋なる妄想と自意識の暴走——通称、中二病)

「……おい材木座。お前、その格好で廊下歩いてきたのか? 先生に見つかったら即、没収だぞ、その木刀」

「ふん、凡夫には見えぬであろうな! この木刀に宿りし、古の英霊の輝きが!」

「いや、物理的に見えてるから。光ってもいないから」

 

八幡は、かつて自分が仮面ライダーに憧れた純粋な心を思い出し、少しだけ目頭が熱くなるのを感じた。

だが、今の自分は「本物の」改造人間なのだ。

目の前で「闇の力」だの「宿命」だのと騒いでいる男の滑稽さが、今の八幡にはあまりにも、あまりにも堪えた。

 

「比企谷君。……知り合い?」

 

雪ノ下が、凍りつくような声で八幡に問いかける。

 

「……いや、知り合いっていうか、クラスメイトだ。……多分」

「そうか、なら、ゴミはゴミ箱へ。……この『将軍』を、今すぐここから排除して頂戴。この部屋の空気清浄機のフィルターが、彼の発する有害な自意識に耐えきれそうにないわ」

 

雪ノ下の毒舌が炸裂する。

だが、材木座は怯むどころか、さらにポーズを決め、コートを翻した。

 

「くっ……。この地の守護神(ガーディアン)か。面白い、我が『エンジェル』としての力が、汝を屈服させる日も近いであろう!」

(エンジェル……? お前、その体型で天使を名乗るのか。翼、折れるぞ)

 

八幡は電子頭脳の処理速度をあえて下げ、現実逃避を試みた。

鋼鉄の体を手に入れ、数々の危機を乗り越えてきた比企谷八幡だが、今、かつてないほどの「精神的ダメージ」を受けていた。

比企谷八幡の鋼鉄の日常に、物理攻撃では決して倒せない、厄介すぎるノイズが乱入してきた。

 

──

 

「……は、八幡……?」

 

 材木座が当惑した声を漏らすのも無理はなかった。目の前の男が、常軌を逸した挙動を始めたからだ。

 パパパパパパパパパ……ッ!

 

部室に響くのは、紙が猛烈な勢いで捲られる乾いた音。八幡はどことなく気だるげな、それでいて機械的なまでの真剣さを宿した眼差しで、原稿をめくっていた。

 八幡の網膜ディスプレイには、原稿用紙の一文字一文字が画像データとして取り込まれ、電子頭脳によって即座にデバッグされていた。

 

(……プロット構成:典型的異世界転生。語彙:難読漢字の過剰積載。伏線:未回収率八二パーセント。……まずいな。これに真面目に付き合うのは、演算ユニットの無駄遣いな気がするが……)

「ヒッキー、ちゃんと読んでるの……? 扇風機みたいだよ?」

「何とも言えないわね。比企谷君、あなたのその壊れた目には、文字が記号としてしか映っていないのではないかしら?」

 

 わずか三十秒で一〇〇枚を超える原稿が「データ」へと変換された。八幡は熱を持った後頭部を軽くさすり、死んだ魚の目を材木座に向けた。その瞳には、かつてないほどの「申し訳なさ」と「容赦のなさ」が同居していた。

 

「……さて、材木座。まず最初に謝っておく。悪かった」

「お、おう? いきなり謝罪とはどういう風の吹き回しだ、八幡。我が傑作に圧倒されて言葉も出ないか?」

「いや、違う。……俺の頭が勝手に、お前の『妄想』を論理的に解体しちまったんだ。……だから、これから言うことは、俺個人の意見というより、客観的な診断結果だと思って聞いてくれ。……本当に、すまん」

 

 八幡は一度深くマックスコーヒーを煽り、淡々と、しかし逃げ場を一切与えないトーンで口を開いた。

 

「まず、冒頭の三ページ目だ。主人公が手にする『神をも屠る絶望の刃(デスペア・エッジ)』。……これ、五ページ目では『錆びた鉄くず』って描写になってる。覚醒前の演出にしても、質量保存の法則を無視しすぎだ。このサイズでこの重さだと、振り回した瞬間に肩の関節が物理的に砕けるぞ。……というか、俺の計算だと、この剣を持っただけで地面に沈むんだが」

「ぐっ……! そ、それはファンタジー的補正が……!」

「……悪い、まだある。このヒロインの暗殺者。語尾に『~にゃん』をつけさせておいて、性格はクールで冷徹。属性のパッチワークが雑すぎて、キャラの整合性がノイズになってる。読者の認知リソースを無駄に削るな。……材木座、お前はキャラを書きたいのか、それとも自分が好きな記号を並べたいだけなのか。どっちだ」

「む、むぐっ……! ど、どちらも我の愛した萌え要素であろうがぁ!」

「……すまんな、本当に。さらに言えば、この五〇ページ。主人公が放つ必殺技『虚空(ヴォイド)・ディザスター』。……これ、三ページ前に説明した魔法の理論と真っ向から矛盾してる。……書いてる途中で設定忘れただろ? 俺の頭は、こういう『矛盾』をエラーとしてしか認識できねえ。……悪いな、お前の熱意をこんな風に数字で殴るような真似をして」

 

 八幡の指摘は、あたかも精巧な診断書を読み上げるように、あるいは判決文を言い渡すように淡々と、しかし確実に材木座の急所を撃ち抜いていく。

 

「……以上だ。……すまん、材木座。俺がもっと気の利いた人間なら、もう少し優しくオブラートに包めたんだろうが……。嘘をついてもしょうがねーから、正直に素直な感想を言った」

「……あ、ああ……我が福音……我が妄想が……っ!」

 

 そこには、自らの魂とも言える妄想を論理の刃でズタズタにされ、椅子に深く沈み込んで真っ白に燃え尽きた「灰木座」の姿が残されていた。

 

「……ふぅ、人生の中でも有数の無駄な時間だったぜ……」

 

 八幡は熱を持った後頭部の排熱スリットから蒸気を逃がしながら、机の上に突っ伏した。

 

「……五分も経ってないのだけれど」

「……五分か。体感的には、一世紀分くらいの不燃ゴミを分別させられた気分だがな。……マッ缶……誰かマッ缶を買ってきてくれ。脳がオーバーヒートする……」

「ヒッキーって、実は結構ハイスペックだよね……。あと、めちゃくちゃ辛辣。材木座くん、本当にかわいそう……」

 

 灰となって去った材木座の背中を見送りながら、由比ヶ浜がポツリと漏らした。

 

「本を愛するものとして、素直な感想を言ったまでだ。……もっとも、あいつの書いたものが『本』と呼べる段階に達していればの話だがな。……悪かったとは思ってるさ。……あー、いや、本当に」

 

 八幡はもう一本のマックスコーヒーを開け、その暴力的な糖分で、過熱した自責の念と演算ユニットを強制冷却した。

 鋼鉄の体を手に入れても、彼を悩ませる「友情という名の非論理的なエラー」だけは、どんな高精度のセンサーでも排除できないようだった。

だが、そんな他愛のないやり取りの途中で、由比ヶ浜がふと俯いた。

その微かな変化を、八幡の視覚センサーは見逃さない。彼女の表情から「陽」のオーラが引き、代わりに重苦しい影が落ちた。

 

「由比ヶ浜さん、どうかしたの?」

 

雪ノ下が、本のページをめくる手を止めて尋ねる。

 

「や、はは。……ヒッキーも、ゆきのんも、強いなぁって思って」

 

由比ヶ浜は自嘲気味に笑い、自分の膝の上で指を絡めた。

 

「さっきみたいに、言いたいことも言えないで、……『ごめん』しか喋れないあたしとは、全然違うなぁって」

 

八幡は、昼休みの光景を電子頭脳のログから引き出した。

三浦優美子——クラスの女王として君臨する彼女と、雪ノ下の衝突。

いや、衝突と呼ぶにはあまりに一方的だった。語彙の貧弱な三浦を、雪ノ下が冷徹な論理で徹底的に蹴散らした、文字通りの蹂躙。

あの場にいた全員が、雪ノ下の放つ絶対零度のプレッシャーに息を呑んだ。

超感覚を持つ八幡でさえ、一瞬だけ冷却系が誤作動し、冷や汗をかいたと錯覚するほどに焦ったシーンだ。

あの時、由比ヶ浜は二人の間で、ただおろおろと頭を下げ続けていた。

 

「空気を読む」という過酷な労働に従事し、自分の感情を押し殺して。

 

(……強さ、か)

 

八幡は自分の右拳を見つめた。

望めば、コンクリートの壁すら粉砕できる力。音速を越えて走る脚。

だが、そんな物理的な強さは、この教室という名の小さな戦場では何の役にも立たない。

雪ノ下の「強さ」は、他人に媚びず、己の正しさを貫き通す孤高の精神だ。

そして由比ヶ浜が八幡に見た「強さ」は、おそらく他人の目線を最初から放棄し、一人でいることを厭わない隔絶の覚悟だろう。

 

「……別に、強いわけじゃねーよ。ただ、周りに合わせてる方が疲れるってだけだ」

 

八幡はあえて視線を外して言った。

嘘ではない。今の彼にとって、人間関係という不確定要素の強いシステムに介入することは、電子頭脳に多大な負荷をかける不要なタスクでしかない。

しかし、由比ヶ浜の潤んだ瞳には、その八幡の「逃げ」の姿勢さえも、眩しい何かとして映っているようだった。

鋼鉄の体を持つ自分と、氷の壁を築く雪ノ下。

そして、そのどちらにもなれずに揺れ動く由比ヶ浜。

放課後の夕闇に包まれた部室で、三人の「距離」が、微かに、だが確実に変化し始めていた。

 

「社会に出れば、もっと発言は限定されるわよ? 学生時代にさえ自己主張ができないなんて、時間を無駄にしているとしか思えないのだけれど」

 

雪ノ下の言葉は、相変わらず鋭利な刃物のようだった。

八幡は内心で、マックスコーヒーを啜りながら毒づく。

 

(いや、そんな数十年先のキャリアプランを見据えてスクールカーストの荒波を渡ってるのは、世界中探してもお前くらいだっつーの……)

だが、その言葉を受けた由比ヶ浜は、以前のようにただ怯えるだけではなかった。彼女は少しだけ困ったように笑い、それから八幡の方を向いた。

 

「ヒッキーも、ありがとね。あの時、立ち上がってくれて」

「……いや、俺は別に」

 

八幡は視線を泳がせ、窓の外に広がる夕焼けを凝視した。

あの昼休みの教室。三浦の放つ重苦しい「空気」を切り裂くために八幡がやったことといえば、ただ椅子から立ち上がり、「雪ノ下が待ってるぞ」と周囲に聞こえる声で言い放っただけだ。

ついでに、頼まれていたレモンティーを、精密な弾道計算に基づいて投げつけてやった。

超高速で移動し、誰にも悟られずにパシリを完遂する。世界最速のパシリの名は伊達ではない。……いや、全く名誉なことではないのだが。

 

「ううん。それでも嬉しかったよ? 普段ヒッキー、皆の前であんなこと言わないから」

 

由比ヶ浜の瞳が、真っ直ぐに八幡を射抜く。その視線は、八幡の鋼鉄の装甲を容易に透過して、奥深くにある電子頭脳の基板をじりじりと熱くさせた。

 

「……ヒッキーとゆきのんがきっかけで、あたし、良い感じに変われてると思うんだよね」

 

彼女の言葉に、嘘偽りのない実感がこもっていた。

自分の意見を押し殺し、周囲の顔色を伺うことでしか居場所を確保できなかった少女が、今、この部室という「隔離された空間」で、ようやく深呼吸を始めている。

 

「……さいですか」

 

八幡は短く、素っ気なく返した。

電子頭脳は彼女の脈拍の安定と、表情の輝度の向上を「良好」と診断している。

彼女の変化は、奉仕部の依頼としては成功なのだろう。

だが、八幡は思う。

彼女が変わっていく中で、自分はこのまま「鋼鉄」であり続けていいのだろうか。

変化を拒み、一人でいることを論理で正当化し続ける自分は、果たして彼女たちが眩しく見つめるその場所に、いつまで立っていられるのだろうか。

比企谷八幡の鋼鉄の指先が、空になったコーヒー缶を軽く弾いた。

冷たい金属の感触だけが、今の彼にとって唯一確かな現実だった。

 

──

 

体育の授業、テニスの時間。

コートのあちこちでは、リア充たちが爽やかな汗を流し、黄色い声を上げながらダブルスに興じている。

だが、そんな喧騒から物理的にも精神的にも隔絶された校舎の裏側で、比企谷八幡は一人、コンクリートの壁と向き合っていた。

テニスとは本来、相手がいて初めて成立するスポーツだ。

しかし、相手がいない俺にとって、テニスとは「自己」と「壁」との果てなき対話に他ならない。

 

(……動体予測、完了。スイングスピード、マッハ0.1に固定。衝撃吸収システム、正常稼働)

 

八幡は、脳内の電子頭脳に一つのプログラムをロードした。

タイトルは『脳内スポ根空間:エースをねらえ!』。

かつてのアニメのオープニングテーマが、超高音質のデジタルサウンドで彼の聴覚システムを駆け巡る。

 

「コートでは~誰で~も~ひとり、ひとりきり~♪」

 

ボソリと、誰に聞かせるでもない歌声を漏らしながら、八幡はラケットを振った。

放たれたボールは、正確無比な弾道で壁の狙った一点に衝突し、寸分狂わぬ角度で手元へと戻ってくる。

普通ならこれだけで超絶技巧だが、彼にとってはただの「アイドリング」に過ぎない。

 

私の愛も~私の苦しみも~だ~れ~も~わかってく~れ~な~い~♪

(……改めて思うんだが、この歌詞、完全にぼっち専用の聖歌だよな。宗派によっては国歌に採用されてもおかしくないレベルの親和性だぜ)

 

歌詞の一節一節が、八幡の鋼鉄のボディに深く染み渡っていく。

愛も苦しみも、そもそも人間ではない自分を誰が理解してくれるというのか。

理解された瞬間に、俺の日常は「実験動物」か「兵器」へとカテゴリー変更される。だからこそ、この「独り」であることの自由が、今の俺にはたまらなく心地よい。

 

「白いボールになって~♪」

 

八幡はさらにリズムを上げ、ラケットを振り抜いた。

加速装置をわずかに併用したその一打は、もはやテニスボールの限界速度に近い。

壁に当たった衝撃音すら、電子頭脳がノイズキャンセリングで消去していく。

今の比企谷八幡は、誰にも邪魔されない「孤独のエース」だった。

視覚センサーの隅では、遠くのコートでキャッキャと騒ぐ三浦や葉山たちの姿がスキャンされているが、そんなものは背景のドット欠けに等しい。

壁は裏切らない。

壁は余計な気を使わせない。

そして壁は、俺がエイトマンであろうとなかろうと、等しくボールを返してくれる。

比企谷八幡とコンクリートとの友情という、極めて硬質なコミュニケーションが成立していた。

 

 

ザワザワ……。

「おい、あれヤバくね?」

「壁、凹んでるぞ……」

 

 

周囲から漏れ聞こえる戸惑いの声に、八幡の超感度センサーが反応した。

 

(……ああ、ほら、いらん注目を集めちまった)

 

脳内スポ根プログラム『エースをねらえ!』に没頭するあまり、出力調整を誤ったらしい。あの作品は魔球を否定するリアリズム漫画なのに、これでは俺一人だけが『テニスの王子様』の世界に迷い込んだかのようだ。

コンクリートの壁に刻まれた打球痕を視覚センサーが捉え、八幡は慌ててスイングスピードを「人間並み」にまでリミッターカットした。

 

「比企谷君って、すごく上手だね! 僕、思わず見とれちゃったよ」

 

背後からかけられた、鈴を転がすような清らかな声。

 

(ほら、勘違いした女子が寄ってきた……。つーか『僕』って何だ?)

 

一人称に違和感を覚えつつも、八幡は気だるげに振り返った。

 

「……誰?」

「あれ、同じクラスなんだけどな。やっぱり、僕って影薄いかな」

 

そこに立っていたのは、透き通るような白い肌と、色素の薄い柔らかな髪を持つ「美少女」だった。

八幡の網膜ディスプレイが、瞬時に彼女……いや、その人物をスキャンする。

 

(……計測不能。この透明感、この純粋な波動。電子頭脳がバグを起こしそうだ。性別判定……え、男? うそだろ、リミッターを解除して再スキャンしろ!)

「僕、戸塚彩加。よろしくね、比企谷君♪」

 

戸塚がはにかみながら微笑んだその瞬間。

八幡の視覚センサー越しに、爽やかな風が吹き抜け、どこからともなく白い羽が舞い散るエフェクトが(勝手に)展開された。

 

ああ。

そうか。

これが、天使か。

 

電子頭脳の論理回路が、初めて「信仰」という名のバグに汚染されていく。

ついさっきまで部室で暴れていた「自称・エンジェル」こと材木座義輝の姿が、ログの端でゴミのように処理されていく。

……材木座? 断言する。あれは天使なんかじゃない。ただの自意識の煮凝りだ。

 

「あ、ああ……。戸塚……か。悪かったな、今の壁打ちは……その、ただの暇つぶしだ」

 

八幡は、自分の声がわずかに上ずっているのを感知した。

原子炉の冷却系は正常なのに、なぜか排熱が追いつかない。

 

「ううん、あんなに速いボールを正確に打ち返せるなんて、本当にすごいよ。もしよかったら、今度テニス部の練習、見てくれないかな?」

 

天使の誘い。

それは、鋼鉄の体を持つ比企谷八幡にとって、どんな悪の組織の誘惑よりも抗いがたい、神聖なる「デバッグ」の始まりだった。

 

──

 

「……で、テニス部に入る気なの?」

雪ノ下が、呆れを通り越して憐れみすら含んだ視線をこちらに向けてきた。

八幡は手元のマックスコーヒーを一口啜り、視線を泳がせる。

 

「ま、まあ? 俺もあそこまで頼まれちゃ無碍にはできねぇし……」

 

事の経緯は単純だ。テニス部員の戸塚彩加から、部の技術向上のために力を貸してほしい、ひいては入部してくれないかと打診されたのだ。

エイトマンとしての演算能力と身体能力をもってすれば、テニスの王子様どころか、物理法則を書き換えるレベルのコーチングすら可能ではある。

「無理ね。貴方、客観的に自分を見られないのかしら? 貴方のような、生きながらにして死んだ魚の目をした異物が、健全な部活動の輪に受け入れてもらえるはずがないでしょう?」

相変わらずの歯に衣着せぬ……というか、衣をシュレッダーにかけて叩きつけてくるような毒舌だ。

しかし、冷静にログを照合しても彼女の指摘は間違っていない。八幡のようなぼっちがリア充の集うテニス部に混じれば、それはもはや部活動ではなく「検疫」か「隔離」の対象である。

 

「もっとも、貴方という『共通の敵』を得て一致団結することはあるかもしれないわね。けれど、それは単に貴方を排除するための努力であって、自身の向上に向けられることはない。だから、解決にはならないわ。……ソースは私」

 

雪ノ下の語る「ソース」には、鋼鉄の装甲を貫くほどの重みがあった。

なまじ完璧すぎるために、周囲が追いつけず、結局は足を引っ張るという行為に逃げる。その陰湿なカーストの力学を、彼女は身をもって体験してきたのだ。

 

「お前に敵う人間なんてそうそういないと思うけどな」

「だから諦めるの? 努力らしい努力もしないで、他人の足を引っ張ることに逃げて……そんなのが正しいなんて、私は認めないわ。馬鹿らしい」

「バカなんだろ。そいつら」

八幡が吐き捨てた一言に、雪ノ下は不意を突かれたように目を見開いた。

「……貴方、時々ぐさりと刺さる言葉を言うわね。もしかして、それが素なのかしら?」

(さあな。少なくとも平塚先生の石頭をからかってる時よりは真剣だよ)

 

八幡は内心でそう答え、電子頭脳の不要なプロセスをシャットダウンした。

「やっはろー! 依頼人連れてきたよー!」

扉が開き、由比ヶ浜の明るい声が響く。その後ろから、おどおどとした様子で一人の「美少女」……否、「美少年」が入ってきた。

 

「あ! 比企谷くん!」

 

戸塚彩加。その姿を視覚センサーが捉えた瞬間、八幡の網膜ディスプレイには再び「Angel detected」の警告(あるいは祝福)が点滅した。

戸塚はとててっと小走りに駆け寄り、きゅっと八幡の袖口を掴んだ。

 

(……スキャン結果:握力、微弱。体温、最適。心拍数、やや上昇。……なんだこの可愛らしい挙動は。電子頭脳が……オーバーヒートしそうだ)

 

鋼鉄の騎士として、いかなる武装集団の強襲にも動じない自信はある。

だが、この可憐な生物が上目遣いで袖を掴んでくるという「攻撃」に対して、谷博士は一度として防御プログラムを用意してくれなかった。

しかし。

八幡は、自身の原子炉が激しく明滅するのを感じながら、心の中で自分に言い聞かせた。

 

(……これ、男なんだよな。そうなんだよな……?)

 

鋼鉄の理論と、天使の引力。

比企谷八幡の奉仕活動は、今、新たな混迷の局面を迎えようとしていた。

 

 




2026年1月21日:内容を更新
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