——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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新しい章が始まります。


第六章:Genesis-超人類編
第五十六話:訪れた平穏


 

 一色いろはの生徒会長当選という激震から一夜明け、特別会議室に置かれた「中央最適化委員会」の看板が外される時が来た。

 

「……以上をもって、中央最適化委員会を正式に解散とする」

 

 八幡の宣言と共に、室内に集まった面々は、どこか名残惜しそうに、けれど晴れやかな表情で顔を見合わせた。

 長机の上には、一色が予算(あるいはポケットマネー)から捻出したささやかな菓子とジュース、そして山積みのマックスコーヒーが置かれている。

 

「いいか、お前ら。解散したからって、その技術や知識を悪用するなよ? ネット掲示板の世論操作とか、学内サーバーへの不当アクセスとか……その力は人民、つまりは一般生徒の平和な学園生活のために活かすように。わかったな」

 

 八幡は、この個性の強すぎる連中が再び暴走してテロ組織化しないよう、最大限の「政治的配慮」を込めて釘を刺した。彼らの能力を一番理解しているからこそ、その責任は重い。

 

「承知しております、比企谷書記長! 貴方の采配、まさに神の如き電脳戦でした!」

「書記長、俺たちわかってますよ。あなたはやはり、雪ノ下女史のいるあの部室に、奉仕部にいるのが一番お似合いだ」

 

 委員会メンバーが、どこか満足げに頷く。彼らは、八幡が一人の高校生として戻るべき場所があることを、この数日間の戦いを通じて理解していた。

 

「……おう。わかればいい」

 

 八幡が少し照れくさそうにマックスコーヒーを煽った、その時だった。

 

「同志八幡! 一色殿! 我ら人民から、感謝の印でござる!」

 

 材木座が恭しく差し出したのは、二枚の巨大なスチル写真だった。

 一枚は、逆光の中で威厳たっぷりに遠くを見つめる八幡の姿を捉えた、『人民の指導者・比企谷』。

もう一枚は、計算され尽くした右斜め四十五度からの角度で、可憐さと鋭さを同居させた『新生徒会長・一色いろは』。

 

「…………」

「…………」

 

 八幡といろはは、手渡された巨大な自分たちの肖像画(のような写真)を手に、同時に頭を抱えた。

 

「……先輩、これ、どうします? 生徒会室に飾ったら、私、間違いなく独裁者って呼ばれますよ」

「俺だって自分の部屋にこんなのあったら、呪いの儀式でもしてると思われて小町が泣くわ……」

「わっはっは! 良いではないか! 勝利の記憶よ!」

 

 豪快に笑う材木座の横で、戸塚と川崎が「まあまあ」となだめるように苦笑いを浮かべている。

 混乱と熱狂、そして少しの気恥ずかしさを残して、中央最適化委員会はその幕を閉じた。

 

 

──

 

 

 その日の放課後

 

 奉仕部部室の扉の前に立つと、内蔵されたリアクターが不規則な熱を帯び、ドクドクと激しい鼓動を刻み始めた。比企谷八幡の超電子頭脳は、これまで幾多の戦場で最適解を導き出してきたが、今この扉を開けるための「正しい作戦」だけは見つけられずにいた。

 

八幡は一度深く息を吐き、静かに、そしてごく自然を装って引き戸を開けた。

 

「…………」

 

 目に飛び込んできたのは、窓から差し込む夕陽に照らされた、いつもの長机。

そして、そこに佇んで静かに本をめくる、雪ノ下雪乃の姿だった。

 自分が鋼鉄の戦士として、あるいは詭弁を弄する策士として、泥に塗れながら守りたかった風景が、そこにはあった。

 

「やっはろー、ヒッキー! 遅かったね!」

 

 隣では、結衣がいつもと変わらない、弾けるような笑顔で挨拶を投げてくる。

 八幡は改めて二人を見て、自分がかけるべき言葉を何一つ用意していなかったことに気づく。天帝すらも翻弄した思考回路が、この場所ではただの沈黙を選んでしまう。

 すると、雪乃が静かに立ち上がり、給湯器のそばにあるマグカップを手に取った。それは、黒地に赤いラインが入った、無骨で飾り気のないデザイン。八幡がこの部室でずっと愛用していたものだ。彼女は手慣れた動作で紅茶を淹れると、八幡の定位置である席の前に、カチリと小さく音を立てて置いた。

 

「……紅茶、冷めるわよ」

 

 雪乃がふっと口元を綻ばせ、八幡の目を見つめる。その瞳には、敗北の悔しさなど微塵もなく、ただ「おかえりなさい」という全幅の信頼と温もりが宿っていた。

 八幡は少し照れくさそうに視線を逸らしながら、ゆっくりとその席に腰を下ろした。

 

「……ああ。また、宜しく頼む」

 

 奉仕部再結成。その重みを噛み締めるように短く答えると、結衣が「もう、ヒッキー照れすぎー!」と茶化すように笑った。

 

 部室に立ち上る紅茶の香りが、凍りついていた時間を溶かし、三人の日常を再び繋ぎ合わせていく。八幡にとって、これこそがどんな勝利の勲章よりも価値のある、安らぎの瞬間だった。

 

 

──

 

 

 

「ただいま……」

「あ、お兄ちゃんお帰り! 遅かったね」

 

 八幡は、解散式で材木座から押し付けられた、丸めた巨大スチル写真を抱えたまま居間に入る。捨てるに捨てられず、かといって広げる勇気もないその「指導者・比企谷」の重みが、今の彼には妙に可笑しく、そしてひどく重かった。

 

「……これ、どうすんだよ、マジで」

「あはは、何それ? 卒業証書にしては太くない?」

 

 小町がキッチンからトテトテと駆け寄ってきて、八幡の様子をじっと覗き込む。泥のように疲弊し、けれどどこか憑き物が落ちたような兄の顔を見て、彼女はすべてを察したようにふんわりと微笑んだ。

 

「お兄ちゃん、こっち座って」

「あ? ああ……」

 

 言われるがままにソファに腰を下ろした八幡の頭を、小町が背後から包み込むようにして抱きかかえた。

 

「よしよし、お兄ちゃん。本当にお疲れ様。小町のために、みんなのために、いっぱい頑張ったもんね」

「……よせ。小町だって受験の真っ最中なのに、俺の勝手な頼み(選挙手伝い)のせいで時間削らせて悪かった」

 

 八幡は少し身をよじりながらも、妹の温もりに心の底から安堵していた。

 

「いいよ、そんなの。お兄ちゃんに勉強教えてもらう口実ができたし。……それにね、小町は、またお兄ちゃんが結衣さんや雪乃さんと一緒に笑えるようになったのが、一番嬉しいんだよ」

 

 小町の言葉に、八幡は言葉を詰まらせた。

 妹にまで、どれほどの心配をかけていたのか。自分の「非日常」を守るために、どれほどの「日常」の優しさに甘えていたのか。

 

「……サンキューな、小町。マジで助かった」

 

 照れ隠しに小さく呟くと、小町は「今の小町ポイント、めっちゃ高いよ!」といたずらっぽく笑った。

 

 窓の外では、冬の星座が静かに夜空を彩っている。

 比企谷八幡は、丸めた写真を部屋の隅に置き、鋼鉄の守護者としての重荷を完全に下ろした。明日はまた、ひねくれ者の高校生として、あの紅茶の香りが待つ部室へ向かう。

 

 比企谷家は、今日も平和だった。

 

 

──

 

 

 後日、川崎家。

 

 そこには、ドクトル・デーモンと対峙した時よりも、ある意味では鋭い殺気を放つ比企谷八幡の姿があった。

 

「おじゃましまーす! 沙希さん、今日はよろしくお願いします!」

 

 小町の元気な声が川崎家の玄関に響く。その後ろで八幡は、参考書の束を武器のように抱え、周囲への索敵を怠らない特殊部隊のような足取りで足を踏み入れた。

 

「……やあ。あんたも小町ちゃんも、よく来たわね」

 

 出迎えた沙希は、相変わらずの不機嫌顔で髪をかき上げた。だが、選挙戦という修羅場を共に潜り抜けた八幡にはわかる。その表情の裏にあるのは、約束を守った自分に対する最低限の信頼と、隠しきれない身内への「照れ」だ。

 

「あ、比企谷さん! いらっしゃいっす!」

 

 奥から顔を出した大志の表情が、春の陽だまりのようにパッと明るくなる。その瞬間、八幡の脳内リアクターが臨界点に達し、網膜ディスプレイに赤い警告が点滅した。

 

(大志……。今、コンマ数秒、俺の小町を見て鼻の下を伸ばしたな? 次に不届きな動きを見せたら、貴様の脳内メモリーを悪性ウィルスで物理的に初期化(フォーマット)してやる……)

「ちょっと、あんた。さっきから何大志を睨んでるわけ?」

 

 沙希の冷ややかな声が、八幡の殺気を遮断した。

 

「……別に。視覚センサーのキャリブレーション(微調整)だ」

「はあ? わけわかんないこと言ってないで、さっさと上がりなさいよ。大志が緊張するでしょ」

 

 八幡も大概なシスコンだが、沙希のブラコンも相当なものだ。大志に近づく不審者(八幡)への警戒心は、八幡が小町に向けるそれと完全に同質だった。

 

「はいはーい、お兄ちゃんも沙希さんもそこまで! 喧嘩しないの!」

 

 小町が手慣れた様子で二人の間に入り、過保護な守護者たちをリビングへと押し込む。こうして、静かな火花が散る中、川崎家における「地獄の(あるいは極めて効率的な)勉強会」が幕を開けた。

 リビングのテーブルを囲み、小町と大志の模試の結果が広げられる。八幡の網膜ディスプレイ上では、二人の誤答パターンが瞬時にグラフ化され、弱点のプロファイリングが完了した。

 

「いいか、二人とも。勉強ってのは、全部を完璧にすることじゃない。取れる場所で確実に『1』を積み上げる作業だ」

 

 八幡はそう言いながら、二人の解答用紙を指し示す。

 小町は数学の計算過程でパニックを起こしやすく、大志は国語の古文で足止めを食らい、現代文の読解時間をロスしている。この程度のマルチタスクを処理するのは、今の八幡にとって、バックグラウンドでシステムアップデートを走らせるよりも容易なことだった。

 

「大志、古文の係り結びは理屈じゃなく、リズムで叩き込め。あと、現代文。お前は全部を読もうとしすぎだ。キーワードだけを抽出して、選択肢の矛盾を探せ。時間を削る練習をするんだ」

「はい、お兄さん! ……凄いっす、教え方がすごく分かりやすいっす!」

 

 大志が目を輝かせて頷く。その素直な賞賛に、八幡は少しだけ鼻のあたりを掻いた。

 

「小町。数式の苦手意識を今さらどうにかしようとするな。それより、公式の応用パターンの『ケアレスミス』をゼロにすることに集中しろ。解けるはずの問題を落とすのが一番のロスだ。お前の場合は、検算のフローを最適化させる」

「さすがはお兄ちゃん! 小町ポイント、爆上がりだね!」

 

 そんな二人の様子を、少し離れたキッチンで飲み物を用意していた沙希がじっと見ていた。

 彼女は、選挙準備期間に八幡が見せた超人的な事務処理能力を高く評価していたが、まさか勉強の教え方まで、こうも的確だとは思っていなかったらしい。

 

「……あんた、意外と面倒見がいいのね。勉強に関しても、そこのところは……まあ、評価してあげてもいいわよ」

 

 沙希が少しだけ顔を赤らめ、ぶっきらぼうにマグカップを置く。

 

「……別に。効率を追求してるだけだ」

 

 八幡はそう答えながら、二人のノートに視線を戻した。

 無闇に知識を詰め込むのではない。電子頭脳は、二人が本番で「自分の正解」を信じられるように、自信を最大化させるルートを常に最適化し続けていた。

 

「糖分補給だ。あんたたち、少し休みな」

 

 沙希が差し出したトレイには、色とりどりのおやつと、そして八幡にとっての聖水――マックスコーヒーが鎮座していた。

 

「わーい! 沙希さん、ありがとうございます!」

「ありがとう、姉ちゃん!」

 

 小町と大志が差し出された菓子に手を伸ばす中、八幡は迷わず黄金色に輝く缶を手に取った。一口含めば、脳を直接殴りつけるような暴力的な甘さが、加熱気味の電子頭脳を急速に冷却していく。

 

「……気が利くな。正直、助かる」

「っ、……別に。これもあんたの言う、効率ってやつでしょ」

 

 八幡の素直な賞賛に、沙希は顔を赤くしてプイと視線を逸らした。けれど、その手はもう一本の予備のマッ缶を八幡の隣にそっと置き、「あんたもお疲れ様」と、低い声で付け加えた。

 

「……選挙の時、あんたが一番ボロボロだったから。あそこまでやるなんて、正直思ってなかったわ」

 

 沙希の言葉には、共に戦った者だけが持つ確かな敬意が混じっていた。彼女は、八幡が冷徹な戦略を練りながら、その実、奉仕部という居場所を守るために文字通り心身を削っていたことを理解していたのだ。

 

「俺も、あんなに必死に働いたのは、生まれて初めてだ。できれば当分、労働という概念からは距離を置きたい」

 

 八幡はソファに深く背中を預け、だらりと脱力してみせる。本心だった。エイトマンとしてのリミッターを解除し続けた代償は、今も重い倦怠感として残っている。

 

「……ふん。あんたがそう言ってる時は、大抵ろくなことにならないわよ」

 

 沙希は呆れたように鼻を鳴らす。

 

「あんたはなんだかんだ言いながら、また自分から面倒ごとに首を突っ込むんじゃない? 放っておけない質(タチ)みたいだし」

「勘弁してくれ。次は、平穏なスリープモードを維持するつもりだ」

 

 そうならないことを祈るよ、と八幡は心の中で付け加え、最後の一口を飲み干した。

 窓から差し込む午後の光は穏やかで、隣では小町と大志が楽しそうに笑い合っている。

 これから先、どんな「非日常」が襲ってこようとも、今はただ、この甘ったるい静寂に身を浸していたかった。

 

 

──

 

 

 夕暮れ時、川崎家を後にした八幡と小町は、オレンジ色に染まった住宅街を並んで歩いていた。冷たい冬の空気が、勉強会で火照った頭を心地よく冷やしていく。

 

「ふぅ……。お兄ちゃん、本当にお疲れ様! 大志くんも沙希さんも、すごく喜んでたね」

 

 小町が隣で弾むように歩きながら、八幡の顔を覗き込む。

 八幡はポケットに手を突っ込み、少し猫背気味に歩きながら「……労働に見合う報酬(マックスコーヒー)はもらった」と、いつもの調子で答えた。

「もー、素直じゃないんだから。でも、小町は知ってるよ。お兄ちゃんが今日、二人に教えるために昨日からこっそりノートをまとめてたこと」

「……視覚センサーの記録を整理してただけだ」

「はいはい、そういうことにしてあげる。……ねぇ、お兄ちゃん」

 

 小町が不意に足を止め、沈みゆく夕日を見つめた。

 

「今回の選挙も、今日の勉強会も、お兄ちゃんは誰かのために一生懸命だったね。小町、そんなお兄ちゃんを見て、改めて『あー、私のお兄ちゃんで良かったな』って思ったよ。……今の、小町的にポイント高すぎでしょ?」

「……自分から言うな。恥ずかしいだろ」

 

 八幡は顔を背けたが、小町の言葉は、エイトマンとしての回路ではなく、比企谷八幡という一人の人間の心に、温かな光を灯していた。

 戦いの日々は終わった。天帝との決戦も、五票差の接戦も、今はもう遠い記憶の断片になりつつある。

 

「……ま、これからは平穏な隠居生活だ。二度と『最適化』なんて言葉は使わないし、面倒ごとも御免だ」

「あはは、沙希さんと同じこと言ってる! でも小町は、お兄ちゃんがまた誰かを助けちゃうのを楽しみにしてるよ?」

「……呪いをかけるな」

 

 二人の笑い声が、夕暮れの街路に溶けていく。

 八幡は一度だけ後ろを振り返り、遠くに見える学校の校舎を眺めた。そこには明日も、紅茶の香りと、少しだけ不器用な親友たちが待っている。

 

 鋼鉄の守護者、比企谷八幡。

 彼が守り抜いたのは、世界という巨大な概念ではなく、妹の笑顔と、隣に座る権利。そして奉仕部という大切な空間と、そこに居る二人の存在。

 そんな、どこにでもある、けれど彼にとって唯一無二の「日常」だった。

 

(……さて、明日はなにが起きるやら……)

 

 そんな思考を巡らせながら、八幡は一歩、また一歩と、穏やかな明日へと歩みを進めた。

 

 




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