——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
十二月の風は日ごとにその鋭さを増し、総武高校の校舎も冬の静寂に深く沈み込んでいた。
かつて崩壊寸前の空気に包まれていた部室は、今や元の奉仕部としての穏やかな空気を取り戻している。
窓の外に広がる夕暮れは、燃えるような茜色から深い群青へと溶け始めていた。給湯器が小さく音を立て、部室には雪乃がページをめくる規則正しい音だけが響いている。
「……ふぅ」
八幡は、雪乃が淹れてくれた紅茶を一口啜り、温かな蒸気に目を細めた。手元にあるのは、使い慣れた黒地に赤いラインの入った無骨なマグカップ。その温もりが、指先から全身へと伝わっていく。
「ねぇ、ヒッキー。クリスマスってさ、何か予定ある?」
由比ヶ浜結衣が、椅子の背もたれに腕を乗せて、期待と少しの不安が混じったような顔で覗き込んできた。
「例年通り家族と過ごすだけだ。今年は小町が受験だからな。パーティの予約とかケーキの手配とか、例年小町がやってたことを全部俺が引き受けることになりそうだ」
「あはは、ヒッキーらしいね。でも、小町ちゃん喜びそう!」
結衣がふふっと笑い、それを見た雪乃もまた、口元に微かな笑みを浮かべて視線を本に戻した。
八幡は、カップから立ち上る湯気の向こう側を見つめる。
奉仕部への入部、雪乃と結衣との出会い、エイトマンとしての戦い、ドクトル・デーモンとの決着、そして自分の居場所を守るために親友たちと真っ向からぶつかり合った、あの泥沼の生徒会選挙。
思い返せば、一分一秒が最適化された演算の連続であり、綱渡りのような一年だった。
(……ようやく、平和に年が越せそうだな)
張り詰めていた鋼鉄の糸が、少しずつ解けていくような感覚。この日常が、何よりも尊い勝利の証のように思えた。
──だが、その安堵を切り裂くように、扉を叩く「コン、コン」という音が響いた。
それは、遠慮を知らない、計算され尽くしたリズム。
八幡の電子頭脳が、一瞬で「平穏の終了」を検知し、警戒のアラートを鳴らした。
「失礼しまーす……」
扉が開くと同時に、冬の冷たい空気と、それ以上に「あざとい」熱気が部室に流れ込んできた。
入ってきたのは、新生徒会長・一色いろはだった。
彼女は八幡の姿を認めるやいなや、迷いのない足取りで彼へと近づく。
「せーんぱい……もう、本当に、本当に困ってるんですってば」
いろはは最初からフルスロットルの「弱り顔」で、八幡の返事も待たずに隣の椅子へ滑り込むと、ぐい、と身体を密着させる。その瞳には薄っすらと涙が浮かんでおり、計算され尽くした潤みが、冬の西日に反射してキラキラと輝いていた。
「……一色。まず座り方がおかしい。あと本題を言え。お前のその顔は、大抵ろくでもないことを押し付ける時の予兆だ」
「ひどい! 酷すぎます先輩! 私、こんなに心細い思いをしてるのに……。ほら、見てください、指先とかこんなに震えてるんですよ?」
いろははそう言って、資料を握る手をわざとらしく小刻みに震わせ、そのまま八幡の袖口をキュッと掴んだ。
上目遣いで、今にも零れ落ちそうな涙を堪えながら、八幡のパーソナルスペースを蹂躙していく。鼻先をかすめる甘い香りが、八幡の電子頭脳(リアクター)に「未知の妨害電波(ノイズ)」として記録される。
「先輩じゃないと、もう無理なんです。私、生徒会長になんてならなきゃ良かった……なんて、思っちゃダメですよね……?」
「…………っ」
その湿り気を帯びた、消え入りそうな声。
八幡の演算回路は、彼女が「演技」であることを九十九パーセントの確率で弾き出している。だが、残りの一パーセント──彼女が本当に追い詰められている可能性──を切り捨てられないように最適化されたいろはの挙動に、防衛線がジリジリと後退していく。
「……比企谷くん」
その時、部室の空気がカチリと凍りついた。
雪ノ下雪乃が、本を閉じる音さえ立てずに顔を上げていた。
部室内の温度が物理的に数度下がったのを、八幡のセンサーが敏感に検知した。
声の主は、雪ノ下雪乃。
彼女は読みかけの本を閉じ、文鎮を置くように静かな、けれど底冷えするような声を出した。
「……そういえば、あなたたち。あの選挙を通して、ずいぶんと『親密』になったのね。微笑ましいことだわ」
「ゆ、ゆきのん……? 目が笑ってないよ?」
結衣が冷や汗を流しながらフォローを入れるが、雪乃の「氷の微笑」は消えない。
彼女は机の上に置かれた八幡のマグカップをじっと見つめ、それから再び一色へと視線を戻した。
「一色さん。あなたのその『困った感じ』、ずいぶんと……そうね、独創的なアプローチだわ」
雪乃の瞳には、一切のハイライトが宿っていない。彼女は手に持っていた栞を、まるで処刑台のレバーを下ろすかのような冷徹さで机に置いた。
「そんなに震えているのなら、今すぐ保健室に行くべきよ。……比企谷くん、あなたの隣は、いつから救護室になったのかしら?」
「ゆ、ゆきのん……! 笑顔が氷点下だよぉ……っ!」
結衣が椅子をガタガタ鳴らして怯える中、八幡の網膜ディスプレイには、デーモン襲来時すら超える、最大級の赤色警報が点滅し続けていた。
雪乃が放つ「静かなる威圧」は、物理的な温度を奪い去る。部室内のすべての分子が運動を停止したかのような、重苦しい静寂がそこにはあった。
雪乃は椅子から立ち上がると、一切の無駄を省いた流麗な、けれど逃げ道を塞ぐような確実な歩みで八幡といろはの正面へと歩み寄った。彼女の瞳は、八幡の袖を掴み涙目で縋りつくいろはを冷徹にスキャンする。その視線は、いろはが懸命に演じている「演算された弱さ」の表層を容易く突き破り、その奥にある本質を暴いていた。
「……いいかしら、一色さん。生徒会長ともあろう者が、不確かな感情に流されて特定の個人に依存するのは、組織の管理として致命的な欠陥だわ」
「う……。で、でも、比企谷先輩がいなきゃ、私、本当に無理なんです……」
いろははさらに八幡の影に隠れるようにして、湿った瞳で雪乃を見上げる。だが、雪乃はそんな「あざとさ」の定石など一瞥で切り捨てた。彼女の矛先は、静かに、そして鋭く八幡へと向けられる。雪乃の口元には、月光のように美しく、そして刃物のように冷たい「微笑」が浮かんでいた。
「比企谷くん。これは奉仕部への正式な依頼ではなく、あなたが選挙を通して彼女と結んだ『個人的な契約』の延長線上にあるもの……つまり、あなたの個人業務として受理しなさい」
「……個人業務、か。つまり奉仕部(ここ)の活動とは切り離すということか?」
八幡が確認すると、雪乃の瞳がさらに深く、底の知れない昏い色を帯びた。彼女は机に置かれた八幡のマグカップ――自分が紅茶を注ぎ続けてきたその器――を指先でなぞる。
「ええ。ただし、絶対の条件があるわ。あなたが彼女のサポートを行う際、その進捗、交わした会話、彼女による不当な物理接触、そして現場でのすべての判断……その詳細を、一分一秒の遅れもなく私に報告すること。いいわね?」
「……それ、実質的に俺にGPSと盗聴器を付けろと言っているのと同義じゃないか?」
「あら、心外だわ。私はただ、部長としてあなたの『健康状態』を正確に管理したいだけよ。比企谷くん、あなたの頭脳は、特定の刺激に対して稀に致命的なバグを起こすから」
雪乃の指先が、八幡の胸元を軽く突いた。内部にあるリアクターの熱を直接測るかのようなその仕草に、八幡の心回路(プロセッサ)が予期せぬ跳ね上がりを見せる。
「ゆ、ゆきのん……。それ、報告っていうより、ただの『ひとりじめ』じゃないかなぁ……」
結衣が横からおずおずと突っ込むが、雪乃は一瞥もくれない。彼女は八幡の目をじっと見据え、最後通牒を突きつけた。
「いい? 報告を怠った場合は……そうね、あなたのその無骨なマグカップに、二度と私の紅茶が注がれることはないと思ってちょうだい」
それは八幡にとって、回路を物理的に破壊されるよりも重い脅しだった。
八幡は冷や汗が背中を伝うのを感じながら、静かに、重く頷くしかなかった。
「……了解だ。定時報告、およびイベントログの完全共有を約束する」
「……ちぇー。雪ノ下先輩、ガード固すぎです」
いろはが不満げに頬を膨らませ、掴んでいた八幡の袖を離した。雪乃は満足げに、けれど依然として冷ややかな微笑を湛えたまま、元の席へと戻っていく。
こうして八幡は、雪乃による全天候型監視システムの下で、いろはと共に生徒会の仕事をすることとなった。
──
部室の扉を閉め、雪乃の冷徹な視線からようやく解放された廊下。冬の湿った空気が、加熱し始めていた八幡のリアクターをわずかに鎮めた。
隣を歩くいろはは、先ほどまでの涙目が嘘のように、どこか楽しげにステップを踏んでいる。
「……で、一色。いい加減、その『困りごと』の具体的なログを開示しろ。雪ノ下にあそこまで言わせて、単なる雑用でした、じゃ済まされないぞ」
八幡が溜息混じりに促すと、いろはは手に持っていたクリアファイルから、海浜総合高校の校章が入った資料を取り出した。
「これですよ、これ。クリスマス合同イベント企画。海浜総合高校側から持ちかけられたんですけど、中身がぜーんぜん決まらなくて。向こうの代表さん、なんか言葉が凄すぎて、私、宇宙人と喋ってるのかなって思っちゃいました」
「……海浜総合か」
八幡のデータベースによれば、そこは最近幾つかの高校が統合されて出来た比較的新しい学校だった。
「何度か会議したんですけど、向こうの会長さんがよくわかんないことばっかり言って、全然話が進まないんです。結局、ツリーをどこに置くかさえ決まってないんです」
「それは……流石に遅すぎねーか?」
クリスマスまであと二週間かそこら。高校の合同イベントともなれば、準備においてもそれなりに時間が掛かる。まったく進捗していないとは、グダグダにも程がある。
「このままだと、二週間後の本番には、何も決まってないまま当日を迎えることになりますよ? それって会長としての私のキャリアに泥を塗るっていうか、普通に最悪じゃないですか」
いろははそこで一旦言葉を切ると、袖口を弄りながら、縋るような声と上目遣いで『あざとく』お願いした。
「だから……ね? 先輩のその凄い頭で、なんとかしてください」
いろはは再び八幡の顔を覗き込み、いたずらっぽく笑った。
「……まぁ、どうせ部外者の俺が行っても、何か出来るわけでもないが、アドバイスくらいなら言ってやる」
「やった!それじゃ、今回もよろしくお願いしまーす!」
パッと八幡の側を離れるいろは。
やはりこの女、いちいち計算され尽くしたムーブだが、慣れてくると結構わかりやすくてやりやすい気もする。
雪乃とも結衣とも違う『気軽さ』は、ある意味では新鮮だった。
そんなことを思いながら、八幡は久しぶりに『雪ノ下雪乃』とも『由比ヶ浜結衣』とも一切関係のない依頼に足を踏み入れることとなった。
──八幡は知る由もなかった。
これから向かう場所が、これまでの戦いを遥かに凌ぐ、過酷な「論理の砂漠」であるということを……。
──
駅前の喧騒を通り抜け、八幡といろはは駅近くにあるコミュニティセンターへと足を踏み入れた。3階の多目的ホールは、地域の集会などで使われる殺風景な場所だが、今は海浜総合高校との「合同会議室」として、妙に張り詰めた、それでいてどこか浮ついた空気に支配されている。
ホールの重い扉を開けると、そこにはコの字型に並べられた机と、その中心で熱っぽく、しかし静かに語る一人の少年の姿があった。
「あ、玉縄さん! お疲れ様です。今日は助っ人を連れてきましたよ」
いろはの声に、その少年──玉縄がゆっくりとこちらを振り返る。彼は整った顔立ちに、どこか哲学的な、あるいは宗教的なまでの確信を宿した瞳をこちらに向けた。
「やあ、いろはちゃん。待っていたよ。僕たちのプロジェクトは今、ちょうど新たなフェーズへ移行するためのクリティカル・ポイントに達しようとしていたところだ」
玉縄は立ち上がり、八幡に向かって手を差し出す。
「初めまして。海浜総合高校生徒会長の玉縄だ。君が、一色さんが絶大な信頼を置いているという、総武高校の……」
「比企谷だ。一応、書記をやってる」
八幡がその手を握ると、玉縄は満足げに頷き、そのまま八幡の目をじっと見据えた。
「比企谷くん、か。良いマインドだ。君の瞳からは、既存のフレームワークに囚われない、オルタナティブな可能性を感じるよ。今回のクリスマスイベント、僕たちは単なる出し物をするんじゃない。地域と学生、そして未来を繋ぐ『サステナブルなスキーム』を構築しなければならないんだ。わかるだろう?」
「……あ、ああ。まあ、努力はする」
(……何だ、今の自己紹介は。俺の電子頭脳が、こいつの単語一つ一つに『定義不明』のエラーを吐き出してやがる……)
八幡の網膜ディスプレイには、玉縄が発言するたびに「解析不能」を意味する砂嵐が走った。
そこへ、追い打ちをかけるような声が響く。
「あれー?比企谷じゃん?なに、あんたもこっちに来てたんだ。やだ、超ウケるんだけど!」
卓の端で資料を回していた少女──折本かおりが、堪えきれないといった様子で吹き出した。
「折本……お前もいたのか」
「そりゃいるよ! 私、こっちの運営手伝ってるし。っていうか比企谷とクリスマスイベとかマジウケる」
「いや、ウケねーから……」
折本は笑いながら、八幡を「今、この場の空気」を温めるための燃料として惜しげもなく投入する。玉縄はそれを聞き、「なるほど、カオスからコスモスを生み出すタイプか」と、これまた意味不明な納得をして頷いた。
かつての同級生と、エラーを連発する存在。八幡はなにやら物凄く嫌な予感がしてきたことと、この場に来たことを本気で後悔し始めていた。
「よし、挨拶はここまでだ。比企谷くん、いろはちゃん。早速ブレインストーミングに入ろう。僕たちが今日決めるべきなのは、アウトプットじゃない。僕たちが『何を考え、どう感じるか』という、そのプロセスそのもののコンセンサスだ」
玉縄がそう宣言し、ホワイトボードに大きく「SYNERGY(シナジー)」と書き殴る。
八幡の電子頭脳は、かつてサイバーと対峙した時よりも深刻な、オーバーヒートの兆候を検知し始めていた。
席に着くと、会議という名の「言葉の空転」が幕を開けた。玉縄は流れるような動作で立ち上がり、ホワイトボードの中央に「POSSIBILITY(可能性)」と大きく書き殴る。
「まず始めに、僕たちが定義すべきなのはクリスマスの『本質的価値』だ。単なるイベントに終わらせないための、パラダイムシフトが必要だと思わないかい?」
玉縄の言葉に、海浜総合のメンバーたちが「確かに」「本質、大事だよね」と深く頷く。八幡はノートPCを開き、その発言をログとして記録し始めたが、電子頭脳は早くも警告を発していた。
(……くっ、脳内CPUが悲鳴を上げてやがる。こいつらの会話、一見ロジカルに見えて、実数解が一つも含まれていない「純粋な虚無」だ……!)
「あはは、玉縄くん、それカッコいい! 比企谷、ちゃんと打ててる? 難しすぎて指止まってんじゃない?」
折本が茶化してくるが、八幡の指は止まらない。それどころか、画面の半分では議事録を作成しながら、もう半分では「二週間という残り時間、予算、人員」を瞬時に逆算し、実現可能なプランのシミュレーションを終了させていた。
(……このままじゃ当日、ホワイトボードの前で『マインドの共有』をして終わることになる。やるしかないか)
八幡は隣のいろはに向け、自分にしか見えない網膜ディスプレイの内容を、チャットツールを通じてこっそり送信した。
「一色、一応、現段階で可能な案を作成した。これを読め」
スマホの通知に気づいたいろはが、画面を見て目を丸くする。そこには、玉縄たちの抽象的な議論を逆手に取りつつ、いつの間にか決定事項として滑り込ませるための、極めて具体的な実行案がまとめられていた。
いろははコホンと一つ咳払いをし、あざといまでの「前向きな生徒会長」の顔を作って挙手した。
「あの、玉縄さん! 皆さんの仰る『本質的シナジー』、凄くワクワクします! それを具体化するために、まずは園児たちとお年寄りの皆さんの交流を目的とした、『手作りオーナメントのワークショップ』を核に据えるのはどうでしょう? 小さな力が集まることこそ、サステナブルな愛の形……みたいな!」
「……ほう、ワークショップ。ボトムアップによる価値の共創、ということだね?」
玉縄が顎に手を当て、思考のポーズをとる。
果たして彼は本当にわかっているのだろうか。八幡は顎に手をやる玉縄を見ながら、物凄く不安に感じた。
いろはが八幡のカンペをそのまま読み上げると、会議室の空気が一瞬だけ、具体的な「実務」の方角へと傾いた。
だが、玉縄は満足げに微笑むと、再びペンを走らせた。
「面白い。では、その『ロジカルなスキーム』の精神的背景について、もう少しブレインストーミングを深めてみようか」
(……あれ? 戻されたぞ? 具体案を出したはずなのに、一瞬で抽象の海に沈められたぞ……!?)
八幡は、議事録の「決定事項」の欄が白紙のまま増えていくのを眺めながら、自分の電子頭脳が物理的な熱を持ち始めるのを感じていた。
──
一時間後
ホワイトボードに「GIVE & TAKE」ならぬ「GIVE & SHARE」という謎の文字が書き加えられる。会議開始から一時間が経過したが、八幡が打ち込む議事録の「決定事項」の欄は、依然として冷ややかな空白のままであった。
「……現状を整理させてもらうぞ。場所はここ、コミュニティセンターの大ホール。対象は近隣の保育園児とデイサービスの高齢者。目的は地域貢献と多世代交流。……ここまではいいな?」
八幡がキーボードを叩く音を響かせ、確認を取る。電子頭脳は、ここまでの情報を最小限の実行ユニットとしてパッケージングし、残り二週間での成功率を八十五パーセントと算出していた。
だが、その論理的な安堵は、玉縄の次の一言で粉砕される。
「比企谷くん、少し……視野がナローじゃないかな? 保育園とデイサービス、それだけでは『地域のダイバーシティ』を包摂したとは言い難い。もっと、こう、マッシブなムーブメントが必要だと思わないかい?」
「……マッシブ?」
なに言ってんの?といった顔で玉縄を見る。
「そう、例えば近隣の全小学校を対象に含め、さらには商店街を巻き込んだ形式にする……。それこそが、僕たちの目指すべき『クリスマス・レボリューション』のコア・コンセプトだ」
玉縄の言葉に、海浜総合の面々が「いいね、それ!」「ワクワクする!」と同調する。
八幡の網膜ディスプレイには、一瞬で赤い警告(アラート)が走った。
(……待て、正気か? 規模を五倍に広げるつもりか? 残り時間、予算、人員……そのすべてが『不可能』を指し示しているぞ!)
八幡は素早く、いろはにメッセージを送る。
『規模拡大は死を意味する。拒否しろ。リソース不足を強調しろ』
いろはは即座に、困り果てたような、けれど断固とした表情を作って挙手した。
「あの! 玉縄さん。仰ることはすごく素敵なんですけど、さすがに今からだと人員が全然足りなくて……。まずは、今決まっている範囲を完璧にするのが『ロジカルな誠実さ』じゃないでしょうか?」
「……いろはちゃん、それは少し悲しい意見だね」
玉縄は哀れむような瞳でいろはを見つめ、静かに首を振った。
「ブレインストーミングというのは、可能性の翼を広げる作業だ。最初から『できない理由』を探すのは、僕たちのマインドをデリートすることに他ならない。今は、限界を決めずにクリエイティブなビジョンを共有する時間なんだ」
(……否定、しただと?)
八幡の電子頭脳に、かつてないほどの激しいノイズが走った。
ブレインストーミングと言いながら、自分たちの意に沿わない具体的な懸念を「マインド」という名の壁で遮断する。それはもはや対話ではなく、集団催眠に近い。
「比企谷、そんな怖い顔しなーい! 可能性、広げようよ!」
折本が笑いながら言う。八幡の指先は、キーボードの上でわずかに震えていた。
無理な拡大。不透明な実務。そして、論理の通用しない支配者たち。
八幡のリアクターは臨界点に近い熱を帯び、冷却ファンが脳内で悲鳴を上げる。このままでは、クリスマスの前に自分の回路がショートするのは、もはや演算の必要もない確定した未来だった。
(──たすけて、雪ノ下さん)
八幡はこの場にいない、恐らく彼の中で最大の変数である彼女の名前を、心の中で切実に呟いた。
──
コミュニティセンターの殺風景な廊下。会議室から吐き出された八幡は、吸い寄せられるように自販機の前に立っていた。
ガコン、と重い音を立てて落ちてきたのは、この世で最も甘く、暴力的な糖分──マックスコーヒー。八幡はそれを迷わず二本連続で購入し、プルタブを引き絞った。
「……ふぅ、……っ、……はぁ」
一気に煽る。喉を焼くような甘みが食道を通り、加熱しすぎてエラーログを連発していた電子頭脳(リアクター)へと届く。強制冷却(オーバーライド)。思考回路にこびりついた玉縄の「マインド」や「シナジー」という名の砂を、黄金の液体が強引に洗い流していく。
隣では、いろはと副会長たちが、魂が抜けたような顔でスポーツドリンクを啜っていた。
「……死ぬ。マジで死ぬかと思った……。何なんですか、あの人たち……。喋れば喋るほど、やるべきことが霧の中に消えていくんですけど……」
いろはが壁に頭を預け、虚空を見つめて呟く。その表情に、いつもの「あざとさ」を演じる余裕は微塵もなかった。
結局、会議は海浜総合側の「マインド」が暴走し、近隣小学校との連携を強行する形で決着してしまった。アポ取りこそ海浜側が引き受けたものの、その後の実務──つまり泥臭い調整や当日のオペレーション──は、すべて総武高校側が引き受ける。事実上の「丸投げ」である。
八幡は、震える手で二本目のマッ缶を開けた。
(……危ないところだった。参加人数に制限をかけるという一線だけは、いろはに無理やりねじ込ませたが……それが無ければ、今頃は千葉県中の小学生を集めるなんて言い出しかねなかった……)
八幡は戦慄していた。
これまで対峙してきた敵……例えばドクトル・デーモンには、狂気であれ何であれ「論理」があった。目的があり、そこに至るための合理的な手段があった。だからこそ、エイトマンの演算能力は攻略の糸口を掴めたのだ。
だが、玉縄たちは違う。
合理性も効率も、彼方の向こうへすっ飛ばしている。会話をしているはずなのに、言葉が相手に届かず、虚空で霧散していく感覚。ゴールが見えないどころか、走っている方向すら毎秒変わるマラソンを強いられている。
(……会話が、成立しない。これが……人類の生み出した、究極の非論理(ノイズ)……)
八幡は、かつてない未知の脅威に直面していた。デーモンが物理的に世界を壊そうとしたのに対し、彼らは「対話」という名の儀式で、精神の基盤そのものを削り取っていく。
「……先輩、明日、報告するんですよね? 雪ノ下先輩に……」
いろはの弱々しい問いかけに、八幡は重く頷いた。
定時報告の義務。だが、果たして今の自分の脳(プロセッサ)で、あの冷徹な観測者に正気なログを渡せるのだろうか。
八幡はマックスコーヒーの空き缶を握りつぶし、重い足取りで夜の帳が下りた駅へと向かった。
──
翌日の放課後、奉仕部の部室。
扉を開けた八幡の姿は、昨日の地獄を物語っていた。
「……よう、お疲れ」
その声は掠れ、足取りは磁場を失ったコンパスのように不安定だった。
八幡はいつもの席に座るなり、机に突っ伏した。電子頭脳(リアクター)の冷却ファンは回ることをやめ、網膜ディスプレイには、もはや文字の体をなしていない「意味不明なカタカナの羅列」がエラーログとして流れ続けていた。
「やっはろー、ヒッキー……って、ええっ!? 何その顔! 目のクマが凄いことになってるよ!?」
結衣が椅子を蹴るような勢いで立ち上がり、八幡の顔を覗き込む。
雪乃もまた、手にしていた本をゆっくりと置き、その鋭い瞳で八幡の状態をスキャンした。
「……報告を聞かせなさい、比企谷くん。一分一秒の遅れもなく、と言ったはずだけれど……。今のあなたは、ログを吐き出すためのリソースすら残っていないようね」
雪乃の声には、昨日の冷徹な厳しさはなく、代わりに隠しきれない困惑と懸念が混じっていた。
「……会話が、成立しなかった……」
八幡は顔を上げず、呻くように言った。
「合理性、効率、実務……そのすべてが『マインド』という名のブラックホールに吸い込まれて消えた。……雪ノ下、俺は今まで、演算という怪物を相手にしてきたと思っていた。だが違った。本当の恐怖は……『善意で舗装された、中身のない言葉』の連射だ……」
八幡が断続的に語る「玉縄」という脅威。
ブレインストーミングの名の下に行われる責任の所在の霧散。小学校への丸投げ。肥大化し続ける空虚なビジョン。
報告が進むにつれ、雪乃の表情もまた、かつてないほどに険しくなっていった。
「……比企谷くん、もういいわ。それ以上喋るのを止めなさい。言語野に深刻なノイズが混じっているわ」
雪乃は立ち上がり、棚から特別に用意していた茶葉を取り出した。手際よく淹れられた紅茶の香りが、部室の重苦しい空気をわずかに和らげる。
「……座りなさい。由比ヶ浜さん、彼に甘いものを。今の彼の脳には、論理ではなく糖分が必要よ」
「う、うん! チョコあるよ、それにマックスコーヒーも。ヒッキー、食べて!」
雪乃から差し出された、いつもより濃いめの紅茶。その熱と香りが、八幡の凍りついた思考回路をゆっくりと解凍していく。
「……済まない」
「……謝る必要はないわ。あなたがこれほどまでに疲弊するなんて。……一色さんの『お願い』は、どうやら想像以上に毒性が強いようね」
雪乃は八幡の隣に座り、彼の手元にあるマグカップを見つめた。
そこに映る八幡の瞳は、まだ「思考の砂漠」から帰還しきれていない。
──八幡の電子頭脳は、まだ知らない。
この非論理的な「旧人類」の不毛な地獄の先に、さらに異質な知性が待ち構えていることを。
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