——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第五十八話:大江シン

 

 コミュニティセンターの入り口に、冷たい冬の風が吹き抜ける。八幡は、隣を歩く雪乃と結衣の存在を、演算回路の片隅でどこか不思議に感じていた。昨日の「思考の砂漠」で干からびた脳をデバッグするように、二人の歩調が心地よく響く。

 

「……あれ? 先輩、雪乃先輩に結衣先輩も!?」

 

 向かいのコンビニから、パンパンに膨らんだビニール袋を両手に下げたいろはが現れた。会議用の菓子類だろうか、その重みに細い指先が赤く食い込み、足取りもどこか覚束ない。

 

「こんにちは、一色さん。比企谷くんから大体の話は聞いたわ。今日から奉仕部として、この企画が崩壊しないよう可能な限りのサポートをさせてもらうわね」

 

 雪乃が凛とした声で告げると、結衣も大きく頷いた。

 

「そうそう! いろはちゃん一人じゃ大変だもん。一緒に頑張ろう?」

「……あ、ありがとうございます。……でも、雪乃先輩、報告、ちゃんと上げてるんですけど」

 

 いろはは少しだけ、自分の領地に踏み込まれたような複雑な表情を見せたが、その腕の限界は近そうだった。

 

「おい、貸せ」

 

 八幡は、会話の合間に割り込むことさえせず、ごく自然な動作でいろはの隣に並んだ。そして、あたかも最初から自分の持ち物であったかのように、いろはの両手から重い袋をひょいと奪い取った。

 サイボーグとしての筋力制御、そして効率を追求した最短の動線。

 それは「手伝う」という意志表示を挟む隙すら与えない、あまりにもスムーズなエスコートだった。

 

「……え」

 

 いろはは、空になった自分の両手を見つめ、それから八幡の横顔を見て、耳の先まで真っ赤に染まった。

 

「……あ、あの。せ、先輩? あざといですよ、今の。……不意打ちとか、普通に減点ですからね?」

「……あー、いや。効率の問題だ。お前がその速度で歩くと、会議の開始時刻を三〇〇秒超過する演算結果が出たからな」

「ヒッキー……今の、自然すぎてちょっとびっくりした」

 

 結衣が目を丸くして感心する一方で、八幡の背後には、絶対零度の冷気が漂っていた。

 

「……ずいぶんと、その『最適化』されたエスコートが身に付いているのね、比企谷くん。まるで呼吸をするように一色さんの世話を焼く姿、感服したわ」

 

 雪乃の氷のような視線が八幡の背中に突き刺さる。八幡の網膜ディスプレイには、昨日の精神的疲労とはまた別の意味で、深刻な「警告(アラート)」が点滅し始めた。

 

「……行こう。一秒でも早くこの袋を置きたい」

 

 八幡は、逃げるようにコミュニティセンターの自動ドアへと足を進めた。

 

 

──

 

 

 コミュニティセンターの会議室へと続く廊下。そこには、昨日の会議で八幡を精神的摩耗に追い込んだ内の一人、折本かおりが海浜総合のメンバー数人と談笑していた。

 

「あ、比企谷じゃん! おはよー」

 

 折本がこちらに気づき、軽い足取りで近づいてくる。

 

「……おう」

「何その顔、今日もまた死んでるんだけど! 昨日の帰り際とか、マジで魂抜けてたよね? 超ウケる。やっぱり比企谷にこういうの、向いてないんじゃない?」

 

 折本は悪びれる様子もなく、中学時代の八幡を扱うのと同じトーンで茶化す。その無遠慮な言葉に、後ろにいた雪乃の眉がわずかに跳ね上がり、結衣もどこか複雑な、居心地の悪そうな表情を浮かべた。

八幡が「……別に、いつものことだ」と受け流そうとした、その時。

 

「あ、そういうの、今の先輩には必要ないんで」

 

 冷ややかな、けれど突き放すような鋭い声が廊下に響いた。一色いろはが、雪乃や結衣が口を開くよりも早く、一歩前へ踏み出していた。

 

「え、一色さん?」

 

 折本が呆気にとられたように瞬きをする。いろはは、先ほどまでの「あざとい後輩」の仮面を完全に剥ぎ取り、凛とした総武高校生徒会長としての視線を折本へと向けた。

 

「今の比企谷先輩は、()の生徒会の欠かせない役員なんです。過去に先輩がどうだったかなんて、今の仕事には一ミリも関係ありませんし、失礼なこと言うのはやめてもらえます?」

 

「……あ、あはは。ごめん、そんなつもりじゃ……」

 

 いろはの放つ、実務者としての冷徹な「圧力」に、折本は気圧されたように一歩後退した。彼女は気まずそうに「じゃ、また後で」とだけ言い残し、逃げるように会議室へと消えていった。

 

「…………」

 

 八幡は、目の前の後輩の背中を、どこか呆然と見つめていた。中学時代の呪縛を、こうもあっさりと、そして苛烈に断ち切ってくれる存在が現れるとは、電子頭脳のシミュレーションにもなかった事態だ。

 

「……一色さん、今の対応、見事だったわ。あなたの『守るべきもの』に対する判断力は、高く評価するべきね」

 

 雪乃が感心したように呟くと、結衣もパッと顔を明るくした。

 

「うん! いろはちゃん、今のすっごいかっこよかった!」

「……えへへ。当然ですよー。先輩を馬鹿にしていいのは、私だけなんです。ね? 雪乃先輩、結衣先輩!」

 

 先ほどまでの氷のような表情はどこへやら、いろははあざとく首を傾げて二人に笑いかけた。八幡はそんないろはを見て、少しだけ救われたような気がした。

 そんな八幡の気持ちを知ってか知らずか、いろははくるりと八幡の方を振り向くと、さっきまでの冷徹な表情をどこへやら、得意げな笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。

 

「どーですか先輩? 今の私、めちゃくちゃ『出来る生徒会長感』ありましたよね? 雪乃先輩たちにも褒められちゃいましたし」

「……ああ。あれだけはっきり言われりゃ、あいつも当分は余計なこと言ってこないだろ。助かったよ」

 

 八幡が偽らざる本心で評価を口にすると、いろはは「えへへ」と満足げに鼻を鳴らした。

 

「これなら葉山先輩にも、しっかり仕事してるアピールができちゃいますね! 『一色は頑張ってるな』なんて言われちゃったらどうしようかなー」

 

 あっけらかんと野心を語るその姿は、先ほど八幡を庇った「騎士」の面影を微塵も残していない。しかし、彼女はそこで言葉を切らず、さらに釘を刺すように人差し指を立ててみせた。

 

「あ、今のを見て『一色は俺のためにあんなに怒ってくれたんだ……好き』とか、勘違いしちゃダメですからね? あくまで会長としての公務の一環ですし、そもそも先輩、私のタイプじゃないですし。……っていうか、今の、普通にナシですから」

 

 いつもの、呼吸をするように繰り出される「お断り」。

 八幡は呆れたように肩をすくめ、小さく鼻で笑った。

 

(……そうだった。こいつはこういう奴だったな)

 

 他人を攻撃するための盾ではなく、自分を守るための、そして高めるための「あざとさ」。その図太さと徹頭徹尾一貫した性格に、電子頭脳に溜まっていた重苦しいエラーログが、少しだけ軽くなった気がした。

 

「……了解だ。お前のその性格の悪さに、改めて安心したよ」

「ひどーい! 乙女の純情に向かって性格悪いとか、訴えますよ?」

 

 軽口を叩き合いながら、一行は小学生たちの待つ会議室の奥へと進む。さっきまで感じていた過去の残響は、いろはのあざとい喧騒によって、もはや霧のように消え去っていた。

 

 

──

 

 

 コミュニティセンターの大会議室に一歩足を踏み入れると、そこには異様な「二層構造」の空間が広がっていた。部屋の奥では玉縄たちがホワイトボードを囲み、昨日と変わらぬ熱量で空虚な言葉を踊らせている。一方で、手前の長机には近隣の小学校から集まった十数人の児童たちが、所在なげに座っていた。

 

「やあ、総武高校の皆さん、いろはちゃん。待っていたよ」

 

 玉縄が眩しい笑顔でこちらを振り返る。彼は小学生たちを一度だけ手で示すと、さも名案を思いついたかのように告げた。

 

「これからの時代、重要なのは『世代間シナジーの共創』だ。だから、小学生たちのクリエイティビティを引き出す役目は、より彼らの感覚に近い君たちにお願いしたい。……期待しているよ、ベストなアウトプットをね」

 

 そう言い残すと、玉縄たちは「僕たちはマインドの深掘りに戻るよ」と、再び自分たちのブレインストーミングの世界へと引きこもってしまった。

 

「……あいつ、完全に丸投げしたな」

「これは……想像以上ね」

「あの人、なに言ってるのか全然わかんなかったよ……」

 

 雪乃と結衣も、玉縄の放つ『意識高い系』の得体の知れない気迫に脅威を感じたようだった。

 八幡が溜息をつくと、小学生たちの集団から一人の少女がこちらを見ているのに気づいた。

 

「……鶴見、留美」

 

 千葉村のキャンプ以来の再会だった。

 彼女は他の小学生たちから少し離れた席に座り、相変わらず孤高の雰囲気を纏っていたが、以前の「凍りついた瞳」とは違い、その表情には微かな柔らかさが宿っていた。

 

「……また、あなたなの」

 

 留美は八幡の姿を認めると、小さく呟いた。雪乃がその隣に歩み寄り、穏やかに声をかける。

 

「久しぶりね、留美さん。……困っているようだけれど」

「……あの人たち、ずっと難しい言葉で喋ってるだけで、何をすればいいか全然教えてくれないから」

 

 放置された子供たちは、作業内容すら決まっていない状況に困惑していた。雪乃は即座に周囲の状況をスキャンし、一色へと進言する。

 

「一色さん、まずは具体的で単純なタスクを。クリスマスの飾り付け、折り紙や画用紙を使った装飾の制作を指示してちょうだい。それが最も確実な第一歩よ」

「わかりました! ……みんなー、注目! 今日はこれから、会場を飾る素敵なオーナメントをみんなで作るよ!」

 

 いろはの号令で、ようやく停滞していた時間が動き出す。しかし、雪乃は八幡たちの方を向き、その瞳に鋭い懸念を宿らせた。

 

「……比企谷くん、由比ヶ浜さん。玉縄くんたちの無責任さも問題だけれど、今の状況はさらに危ういわ。作業内容の細部すら詰まっていない。このままでは、当日のオペレーションが立ち行かなくなる」

 

 八幡は雪乃の言葉に頷きつつも、留美のすぐ隣で、静かに折り紙を手に取った「影」に目を向けた。

 

(なんだ……?)

 

 八幡の電子頭脳がその存在を捉えた瞬間、回路の奥底から身を焦がすような警告音が鳴り響き始めた。

 

(……待て。あいつ、さっきから一度も瞬きをしていない気がするんだが……)

 

 留美が手元の作業を始めたとき、その隣に座っていた少年が、音もなく椅子を引いて立ち上がった。

 

 その少年は、小学生という枠組みには到底収まりきらない、異様な静寂を纏っていた。仕立ての良さを感じさせる端正な服装。整いすぎた顔立ち。そして何より、その瞳には子供特有の揺らぎが一切なく、鏡のように滑らかな知性が湛えられている。

 少年は迷いのない足取りで八幡の前まで来ると、優雅に頭を下げ、右手を差し出した。

 

「比企谷さんですね。……お噂はかねがね。一度、お会いしたかったんです」

 

 鈴の鳴るような、けれど一切の感情を排した澄んだ声。

 八幡が反射的にその手を握った瞬間、網膜ディスプレイが瞬時に【YELLOW ALERT】を点灯させた。

 

(…… 何だ、この冷たさは……)

 

 それは単なる体温の低さではない。熱量そのものが存在しない真空、あるいは極限まで最適化された「無」の感触。

 デーモンのようなドロリとした悪意ではなく、計算し尽くされた絶対零度の論理が、手のひらを通じて八幡の心回路(プロセッサ)を撫でていく。

 

「……大江、シンです。留美さんと同じ小学校で、今回は……そうですね、この『非効率な試み』を観測しに来ました」

 

 大江は八幡の目をじっと見据え、微かに口角を上げた。その瞳の奥には、単なる「年上の先輩」を見る以上の、深い洞察と確信が宿っているように見えた。

 

「……比企谷さん。あなたは、この混沌とした世界をどうやって『整理』されているのか。……興味があります」

 

 誰にも聞こえないほど小さな、けれど八幡の聴覚センサーを正確に撃ち抜く囁き。

 八幡のリアクターが微かに火花を散らす。正体をバラされたわけではない。だが、この少年は「何か」を知っている。あるいは、自分と同じ次元の視界を持っている──その確信が、八幡の背筋を凍らせた。

 

「……比企谷くん、何を呆けているの? 失礼よ」

 

 雪乃のたしなめる声で、八幡は強引に現実へと引き戻された。大江はすでに手を離し、何事もなかったかのように深々と一礼する。

 

「失礼しました。あまりに理想的な先輩にお会いできたので、つい見惚れてしまいまして」

 

 大江はそう言い残すと、留美の隣に戻り、黙々と飾り付けの制作に取り掛かった。その指先の動きは精密機械のように正確で、一分の狂いもなく複雑な切り絵を完成させていく。留美と同じく周囲と距離を置いているようだが、彼の場合は「馴染めない」のではなく、あえて「ノイズを排除している」ように見えた。

 

「礼儀正しくて、知性に溢れた少年ね。どこかの目が腐った男にも爪の垢を煎じて飲ませたいわ」

 

 雪乃が感心したように、あるいは皮肉を込めて呟く。

 

「……ああ。そうだな。……そうだといいんだがな、雪ノ下」

 

 八幡は、まだ痺れの残る自分の右手を凝視した。

 雪乃たちの目には「理想的な少年」に映っていても、八幡の電脳は、彼が放つ圧倒的な「異質さ」を捉え続けていた。

 

 

──

 

 

 小学生たちの作業が、雪乃の的確な指示と一色の仕切りによってようやく形になり始めた頃。八幡たちは、その平穏な島を離れ、再び「言葉の砂漠」の中心へと足を踏み入れた。

 円卓では、玉縄たちが昨日と変わらぬポーズで、実体のない概念を宙に書き込んでいた。

 

「……悪いが、少し現実的なログを共有させてもらうぞ」

 

 八幡が口を開くと、玉縄は待っていたと言わんばかりに、眩しい笑顔で振り返った。

 

「やあ、比企谷くん! ちょうどいいところだ。僕たちは今、企画の『魂』についてディスカッションを深めていたんだ」

「その魂とやらを肉体(じつむ)に落とし込まないと、いくら人手があってもイベント当日には何も残らない。今日中に中身の枠組みを決めさせてもらう。いいな?」

 

 八幡の冷徹な言葉に、玉縄は「ハハハ! 彼は相変わらずストレートだね!」と大仰な仕草で八幡の肩を叩いた。その叩き方は、まるで「わかっている仲」を演出するかのようで、八幡の電子頭脳(リアクター)は不快感のアラートを鳴らす。

 

「いいだろう、みんなで話し合おう(レッツ・トーク)! 否定からは何も生まれない。可能性の海へダイブしようじゃないか」

 

 玉縄の号令により、海浜総合と総武高校の合同会議が本格的に再開された。

 

「クリスマスらしく、クラシックなコンサートを核にするのはどうだい? 音楽は国境も世代も超えるユニバーサル・ランゲージだ」

 

 玉縄の提案は、珍しく具体的だった。これに呼応するように、停滞していた空気が一気に動き出す。

 

「それなら、軽音部に声をかけてクリスマスソングのバンド演奏はどうかな?」

「ダンス部も、華やかなステージができると思う!」

「演劇部による短い朗読劇も、お年寄りに喜ばれそう」

 

 総武高校側からも次々と手が上がり、ジャズ、聖歌隊、ゴスペル、ミュージカル……と、具体的なコンテンツがホワイトボードを埋めていく。

 

(……ほう。悪くない傾向だ。実数解が含まれた意見がこれだけ出れば、あとはパズルを組み立てるだけだ)

 

 八幡は議事録を打ち込みながら、内部クロックの回転数が安定していくのを感じていた。

 雪乃と結衣も、ようやく噛み合い始めた会議の歯車に、安堵の表情を見せる。

 

「これなら、一色さんの負担も現実的な範囲に収まりそうね」

「うん、ゆきのん! みんな楽しそうだし、いいイベントになりそう!」

 

 だが、その希望は、玉縄が浮かべた「最高にクリエイティブな微笑」によって、一瞬で凍りつくことになる。

 

「素晴らしい……最高のバリエーションだ! 皆からこれだけのパッションが出たんだ。比企谷くん、これらを一度すべて()()しよう」

 

 八幡の指が、キーボードの上で凍りついた。網膜ディスプレイが、再び不吉な赤色に染まり始める。

 

「……待て。一度すべて検討する、だと? 絞り込むんじゃないのか」

 

 八幡が問い返すと、玉縄は「比企谷くん、否定からは何も生まれないよ」と、悟りを開いた聖者のような顔で首を振った。

 

「誰かの意見を不採用にするのは、その人のマインドを否定することと同じだ。僕たちが目指すべきは、全員の案を最高密度のシナジーで統合(インテグレート)すること。そうだろう?」

 

 その瞬間、海浜総合側から無責任な熱狂の火の手が上がった。

 

「いいじゃん! 全部やっちゃおうよ!」

「音楽系をまとめてミュージカルにして、それを映画にするっていうのは?」

「商店街の各店舗と同時中継を結んで、ARでサンタを出現させるとか!」

 

「……正気か」

 

 八幡の電子頭脳が、一秒間に数千回のシミュレーションを実行するが、算出される成功率は全て「0.0%」で固定された。

 

「ミュージカルの脚本、映画の撮影と編集、ARのシステム構築……それを二週間で? 物理法則を無視した演算結果を出すのはやめろ。そんなのリソースがいくらあっても足りない」

「リソースが足りないなら、想いで補えばいい。パッションが限界を突破させるんだ。比企谷くん、君はもっと自分たちのポテンシャルを信じるべきだよ」

 

 玉縄の言葉は、一見前向きな光を放っているが、その実体は中身が空っぽの「承認欲求のブラックホール」だ。

 いろはは「あはは……」と引き攣った笑顔を浮かべ、その瞳からは生気が失われていく。雪乃の顔は蒼白な怒りに強張り、持っていたペンが今にも折れそうなほど指先に力がこもっていた。

 

「うわぁ……カオスだね、これ……」

 

 結衣が引き気味に声を漏らす。まとまりかけていた会議は、再び空中分解し、実体のない言葉の雲へと消えていった。

 八幡は、雪乃が差し出したマックスコーヒーを口に含み、脳内CPUの強制冷却を試みる。その喉を焼くような甘さの中で、八幡はある確信に辿り着いた。

 

(……こいつら、会議そのものを『エンターテインメント』として楽しんでやがる)

 

 仕事をしている気分に浸り、意識の高い言葉を吐き散らし、自己承認欲求を満たす。かつて文化祭を私物化した相模南と、その本質は何も変わらない。彼らは最後には全てを台無しにし、その残骸を「頑張った僕たちの証」として他人に押し付けるのだ。

 

「……酷いものね。ここは、思考の死体が積み上がる墓場だわ」

 

 雪乃が吐き捨てるように呟き、白い目で狂騒の円卓を見つめる。

 

 ──その時だった。

 

 部室の喧騒から切り離された特等席で、大江シンだけが、折り紙の手を止めていた。

 少年は、ぐちゃぐちゃに散らばった大人たちの言葉の残骸を、まるで顕微鏡でプランクトンを観察する学者のような、冷徹で、好奇心に満ちた瞳で眺めている。

 

(……あいつ、笑ってやがる)

 

 八幡は戦慄した。玉縄たちの無能さよりも、それを「喜劇」として楽しそうに観測し続ける少年の、底知れない異常性に。

 八幡がそう感じていると、大江と目があった。

 

 ──にっこりと、笑顔を浮かべた。

 

 しかし、その笑顔は葉山隼人のような爽やかさでも、雪ノ下陽乃のような裏を感じる笑顔でもない。

 

 ただひたすらに、寒気のするほど暖かい笑顔だった。

 

 

──

 

 

 会議の喧騒から逃れるように、八幡は廊下の隅にある自動販売機の前に立っていた。

 電子頭脳が吐き出し続けるエラーログを、糖分とカフェインで強引に上書きしようと指を伸ばした、その時。

 

「お疲れ様です、比企谷さん。……これ、いかがですか?」

 

 音もなく隣に現れた大江シンが、事も無げにマックスコーヒーを差し出してきた。

 八幡は一瞬、その隙のない柔和な微笑に毒気を抜かれ、無言でそれを受け取った。プルタブを引き、黄金の液体を喉に流し込む。暴力的な甘さが脳に回り、オーバーヒート寸前だったプロセッサがようやく落ち着きを取り戻した。

 

「……ふぅ。……悪いな。お前、よくこれが俺の好みだと分かったな」

「いえ。この状況であなたの表情筋が最も弛緩する外部因子を推測すれば、自ずとこれに行き着きます」

 

 大江は自分の分のお茶を一口含むと、遠くでまだ「マインド」がどうのと騒いでいる会議室を眺め、静かに、けれど確信を持って告げた。

 

「会話が成立しないって、疲れますよね。……いえ、『プロトコルが一致しない』と言った方が正確でしょうか」

 

 八幡はマッ缶を握る手を止め、隣の小学生を見やった。その瞳には、子供らしい無邪気さではなく、あまりに高い視座を持ってしまった者が抱く特有の「倦怠」が宿っていた。

 

「……お前も、そうなのか」

「小学校で教師と話が合うことはまずありません。留美さんとは、それとなく……そう、感性の波長が合うので意思疎通は可能ですが。それ以外の人間は、僕にとっての『玉縄さん』でしかありませんから。言葉を投げても、虚空で霧散していくばかりです」

 

 大江はどこか、自嘲気味に息を吐く。

 その表情を見た瞬間、八幡は初めてこの少年に対して、正体不明の「異質さ」を超えた、同族としての共感を抱いた。

 

「……お前も、苦労してんだな」

 

 ポツリと漏らしたその言葉に、大江は一瞬だけキョトンとした顔をした。

計算し尽くされた完璧な微笑が消え、そこには初めて、等身大の小学生としての、驚きを隠せない「年相応の顔」が覗いていた。

 

「……あはは。比企谷さんにそう言われると、なんだか本当に救われた気がします」

 

 大江はすぐに元の涼しげな笑顔に戻ると、八幡の目をまっすぐに見据えた。

 

「あなたとは、友だちになれそうですね」

 

 そう言い残すと、彼は軽やかな足取りで留美の待つ作業場所へと戻っていった。

 八幡は残りのマックスコーヒーを飲み干し、空き缶をゴミ箱に投げ入れた。

 

(……友だち、か。あいつ、最後の方は笑ってやがったな)

 

 皮肉でも計算でもない、少しだけ晴れやかなシンの後ろ姿。

 八幡は、自分の電脳がわずかに「静かな安らぎ」をログに記録したのを確認し、決戦の場へと戻るべく再び扉に手をかけた。

 

 

──

 

 

 会議室の片隅、総武高校側の陣地には、戦場のような張り詰めた空気が漂っていた。

 円卓で踊る空虚な言葉を遮断し、八幡、雪乃、結衣、の奉仕部。そしていろはたち総武高校生徒会による「現実的デバッグ」が開始される。

 

「……いいかしら、一色さん。このレジュメはもはや企画書ではないわ。ただの『願望の羅列』よ」

 

 雪乃の手の中で、赤いサインペンが冷徹な閃光のように動く。

 シャッ、シャッ、という無慈悲な音と共に、玉縄が誇らしげに書き連ねた「音楽系全種統合」「商店街同時中継」といった文字が、太い線で次々と抹殺されていく。

 

「予算の不透明性、人員配置の欠如、法的な許可の未取得……。一分一秒を惜しむべき状況で、これほど無駄なインクを消費する神経が理解できないわ。そもそもこのスケジュール、二十四時間を四十八時間として計算しているのかしら?」

 

 雪乃の言葉は、まるで鋭利なメスで腐った部分を切り取っていく執刀医のようだった。

 

 結衣が「わぁ、ゆきのん……」と尊敬の眼差しを送り、いろはは「……雪乃先輩、ガチで怒らせちゃダメなタイプですね……」とドン引きに近い畏怖の視線を送っている。

 

 八幡はその様子を、背後から静かに眺めていた。

 

(……やはり、実務においてこいつを凌ぐ人材はいないな)

 

 八幡の電子頭脳が算出する「効率的な答え」を、雪乃はさらに具体的で、有無を言わせぬ「制度」へと昇華させていく。問題点の整理、コストの算出、代替案の提示。そのどれもが、機械的な演算能力しか持たない自分より、圧倒的に「生きた論理」として機能していた。

 これほどの知性と実行力を持ち合わせた雪乃を相手に、あの選挙で一色がよく勝てたものだと、八幡は改めて自分たちの「勝利」の薄氷さを思い知る。

 

「……比企谷くん、何か言いたげね」

 

 不意に、作業を止めた雪乃がじっとこちらを見つめてきた。

 

「あ、いや。……相変わらず、鮮やかな手際だと思ってな。その短時間で、よくそこまで致命的なバグを見つけ出せるもんだ」

「……お世辞はいいわ。これくらいの整理、あなたも同じように考えていたのでしょう?」

 

 雪乃はフイとそっぽを向き、赤ペンを机に置いた。少しだけ早口になったその声には、微かな気恥ずかしさと、確かな信頼が混じっている。

 

「これだけの欠陥(エラー)、あなたなら脳内でとっくに赤ペンを入れ終えていると思ったから……。私はそれを、ただ紙の上に書き出したに過ぎないわ」

「……そんなことねえよ。俺の演算能力を過大評価しすぎだ」

 

 八幡が面映ゆさに鼻先を擦ると、雪乃の口元に、いつものような、けれどどこか柔らかい微笑が浮かんだ。

 

 激動の冬を越え、ようやく取り戻したこの「呼吸」。

 無機質な会議室の中に、マックスコーヒーよりも確かな温度が、ほんの一瞬だけ灯った。

 

「……さて。この真っ赤になった『処刑台のリスト』を持って、まずは学校側に予算が降りるか打診してみましょうか」

 

 修正という名の改変案を手に雪乃が立ち上がる。その瞳には、迷いのない強固な意志が宿っていた。

 

 

 




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