——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第六十一話:そして、彼と彼女は堕ちていく

 

 夜の帳が下りる頃、臨海部に位置するディスティニィーランドには、昼間の華やかさを切り裂くような冷たい海風が吹き込み始めていた。

 パンさんショップでの「激闘」を終えた一行は、いくつかのアトラクションを巡りながら、閉園に向けたラストスパートに入っていた。八幡は手に持ったデジカメで、夜のパレードに向けたライティングや装飾をパシャパシャと収めていく。

 

(……よし。これで休日明けの資料提出に不備はないな)

 

 八幡の電子頭脳内には、企画書に必要なビジュアルデータが最適なフォルダ分けで構成されていく。

 パーク内を歩きっぱなし、立ちっぱなしの状態で、周囲の人間には目に見えて疲れが溜まっていた。本来なら「疲労」という概念を持たない機械の身体である八幡だが、システムに負荷がかかればオーバーヒートは免れない。

 八幡は念のため持参していたマックスコーヒーのプルタブを引き、その極甘の液体を流し込んで電子頭脳を物理的に冷却した。

 

「……はぁ、生き返るわ」

 

 途中、何度か休憩を挟みはしたものの、この混雑ぶりでは精神的な摩耗は避けられない。ふと視線を感じて横を見ると、結衣がどこか複雑そうな、それでいて頼もしさが混じったような不思議な眼差しをこちらに送っていた。

 

「あんた、まだ全然余裕そうだね」

 

 隣を歩く沙希が、少し感心したように声をかけてくる。すると、結衣がなぜか自分のことのように嬉しそうに胸を張った。

 

「そうそう、ヒッキーってけっこう体力あるんだよ! 修学旅行の時もそうだったし!」

「いや……まあ、省エネ走行が身についてるだけだ」

 

 結衣のストレートな賞賛に、八幡はマックスコーヒーの缶を口に当てて顔を隠した。電子頭脳が照れ隠しの信号を発信し、冬の冷気にさらされた頬がわずかに熱を帯びるのを感じていた。

 パレードの開始時刻が近づき、一行は最後のアトラクションに向けて移動を開始した。しかし、昼間の熱狂のツケを払うかのように、全員の歩調は重い。

疲労で口数が減り、どこか気だるい空気が漂う中、八幡の斜め前を歩いていた一色いろはが不自然な動きを見せた。彼女はあえて集団から少し距離を置くと、前方を歩く戸部に接触したのだ。

 

「戸部先輩、ちょっといいですか」

「おー、どした、いろはす?」

 

 いろはの声は周囲に悟られないよう抑えられていたが、戸部の声がデカすぎて台無しだ。いろはは慌てたように戸部の袖をぐいと引き、耳元で何事か囁き始めた。

 

(……なんだ? 一色が戸部に相談?)

 

 不穏な気配に好奇心を抑えられず、八幡は電子頭脳の高周波センサーの感度を最大まで引き上げた。盗み聞きという行為に「しまった」と思う間もなく、情報の断片がクリアな音声データとして鼓膜に届けられる。

 

──葉山先輩と、二人きりになりたいので、協力してください。

 

 その一言に、八幡の電子頭脳は一瞬フリーズした。

 いろはの行動、それは葉山隼人に対する「告白」の舞台を整えるための下準備だった。

 

(……マジかよ。まさかこの状況で、あいつに踏み切るつもりか?)

 

 確かにいろはが葉山に好意を抱いているのは明白だ。だが、この場所、このタイミングでの「告白」はあまりに性急に思える。八幡の電子頭脳は、過去の葉山隼人の言動データを瞬時に照合し、いろはの勝算を冷徹に演算した。

 

 結果は、限りなくゼロに近い。

 

 失敗の可能性が少しでもある戦いは避ける主義だと思っていたいろはが、これほど無謀な勝負に出る。その意外性に八幡は目を見張った。

 それにしても──。

 

(こういう裏方の仕事を戸部に頼むとはな。てっきり、俺に泣きついてくるもんかと……)

 

 かつて葉山との交渉を請け負ったこともある自分は、いろはにとって戸部よりも有効な「カード」のはずだ。なのに、彼女はそれを避けた。

 

 ──まさか、自分にだけは知られたくないとでも思ったのか。

 

 一瞬脳裏をよぎった論理はあまりに飛躍していると、八幡は即座にそのデータをゴミ箱へ捨てた。

 

「……ま、がんばれよ」

 

 戸部に対して神妙に頭を下げるいろはの横顔を見ながら、八幡は心の中で、届くはずのないエールを彼女に送った。

 

 

──

 

 

 由比ヶ浜と海老名は、まだ何かを楽しそうに話し合っていて元気そうだったが、後ろを歩く雪乃は完全にお疲れモードに入っていた。

 その歩みは目に見えて重く、元々の体力の低さに加えて、この異常なまでの混雑である。八幡の網膜ディスプレイが映し出す彼女のバイタルゲージは、すでにイエローから完全なレッドへと差し掛かっていた。

 今も、その細い脚を無理やり動かしているのがわかる。不意に、雪乃の口から深く、重いため息が漏れた。

 

「……大丈夫か?」

「ええ」

 

 声をかけてはみたものの、雪乃の答えはそっけない。こちらを見ようともせず、ただ足元を見つめている。

 

(大丈夫じゃねぇな。どっかで強制的に休ませる必要がある……)

 

 八幡が周囲のベンチの空き状況を電子頭脳で検索しようとした、その時だった。

 

「あ、やばっ!」

 

 前を歩いていた結衣の声が響く。見れば、広場に伸びる道に、パレードの進路確保のためのロープが今まさに張られようとしていた。

 

「ゆきのん、ヒッキー、急いで!」

 

 結衣と海老名がたたたっと駆け出し、ロープが閉まる寸前に向こう側へ滑り込む。だが、疲労困憊の雪乃を連れた八幡は、完全に出遅れてしまった。

 物理的なロープ一本を隔てて、先行組と分断される。向こう側に着いた結衣が振り返り、「おーい!」と心配そうに手を振ってきた。八幡は軽く手を上げてそれに応える。

 

「先行ってろ、後で追いつく!」

「わかったー!」

 

 結衣はぶんぶんと手を振り、葉山たちを追って人混みの向こうへ消えていった。

 静かになった空間で、八幡は隣の雪乃を振り返った。

 

「……じゃ、行くか」

「そうね」

 

 八幡にとっては幸いだった。このまま集団行動を続けるのは、今の雪乃のバイタルでは酷すぎる。人混みを避けて一息つける場所へ誘導する、絶好の機会だ。

 

「ちょっと早足で行くぞ」

「──あ……」

 

 八幡は雪乃の細い手を無造作に、だがしっかりと握った。

 エイトマンの視覚センサーが、複雑に入り組んだ群衆の中から迂回のための最適ルートを瞬時に割り出す。八幡はその演算結果に従い、雪乃を安全な領域へと誘導するために人混みを潜り抜けていった。

 この時、八幡は雪乃の数値を安定させることだけに集中しており、自分が彼女の手を引いているという事実、そして、疲労で青白かったはずの雪乃の頬が、薄紅く火照り始めていることには、まだ気づいていなかった。

 

 

──

 

 次に乗る予定だったスプライドマウンテンに辿り着いた頃には、予定の時間を大幅に過ぎていた。

 エントランス付近をスキャンするが、先に分断された結衣たちの姿は見当たらない。八幡は電子頭脳で周囲の人口密度を計測し、最も静かで、かつ風の当たりにくい位置にある空きベンチを特定した。

 

「……ここでちょっと休んどけ」

 

 八幡に言われるがまま、雪乃は力なくベンチに腰を下ろした。八幡はそこでようやく、自分が彼女の手を握りしめたままだったことに気づき、慌てて指を離した。握っていた掌に残る微かな熱を振り払うように、近くの移動販売店へと向かう。

 

「それ飲んで、一息つけろ」

 

 戻ってきた八幡は、温かい飲み物を雪乃に手渡した。

 

「……ありがとう、比企谷くん」

 

 雪乃は両手でカップを包み込むように持ち、小さく感謝を口にする。八幡は軽く手を挙げて応えると、ポケットからスマートフォンを取り出し、結衣にコールした。

 

『あ、ヒッキー? 大丈夫?』

「ああ。スプライドの前まで着いたんだが……お前ら、もう中に入ったか?」

『あ、うん、ごめんね! 列が動き出しちゃって、先に入っちゃった。サキサキも一緒だよ』

「わかった。俺らも後で合流する」

 

 電話を切ってから、八幡は改めて雪乃の様子を観察した。温かい飲み物を口にしたせいか、バイタルゲージのレッドゾーンは徐々に落ち着きを見せ、顔色にも僅かながらの生気が戻りつつある。

 

「中で合流だそうだ。……それ飲んだら、無理のない範囲で行くぞ」

 

 雪乃は静かに頷き返し、しばらくの間、二人は閉園間近の喧騒から切り離されたような、穏やかな沈黙を共有した。数分後、少しだけ体力を回復させた雪乃が立ち上がるのを見届け、二人はライトアップされたスプライドマウンテンの列へと足を進めた。

 ライドの乗り場へと続く洞窟のような待ち行列。結衣に連絡を試みるが、電波の状態か、あるいは走行中なのか応答はない。目の前にはすでに、丸太の形をしたライドが次々と客を乗せて出発する光景が広がっていた。

 

「ここまで来たら、戻るより乗った方が早そうだな。……出口で待ってるかもしれないし」

「……そ、そうね」

 

 答える雪乃の声は、どこか落ち着きがない。八幡がちらりと視線を向けると、彼女はあからさまにスッと顔を背けた。その指先が、防寒用のストールを落ち着かなげに弄っている。

 

「……どうした?」

「……別に」

 

 聞いても雪乃は何も答えない。だが、八幡の電子頭脳は彼女の微細な震えと、不自然に強張った肩のラインを見逃さなかった。

 

(……やはりというか、やっぱりこいつはそうなんだろうな)

「一応、確認しておいていいか?」

「何かしら」

 

 雪乃は、自分を鼓舞するようにキリッとした表情で八幡を見据えた。八幡もまた、その瞳の奥にある揺らぎを逃さないよう注意深く、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「お前、……こういうの、苦手か?」

 

 しばしの無言。お互いに無表情のまま、じっと睨み合うような沈黙が続く。やがて、雪乃の視線が耐えきれなくなったようにスーッと横へスライドした。

 

「……苦手、というわけでもないけれど」

「うん、苦手なんだな」

「大丈夫よ」

「いや、でもあんまり得意じゃないんだろ?」

 

 思えばスペマンの時から、彼女はふらついていた。人混みに酔っただけだと思っていたが、どうやらそれだけではなかったらしい。八幡は、自分の配慮が足りなかったことに僅かな後悔を覚えた。

 

「大丈夫だと言っているでしょう。この程度……」

「アホか。別に無理するようなことじゃないし、意地を張るようなことでもないだろ」

 

 つい言葉が厳しくなってしまう。

 すると、雪乃はぴくっと肩を震わせ、力なく視線を落とした。

 

「……違うの。本当に、大丈夫だから」

 

 そう答える声は、いつもよりずっと幼く聞こえた。

 普段の彼女が、あまりに凛として大人びて見えるから忘れてしまいそうになるが、実際は自分と変わらない、等身大の女の子なのだ。

 八幡は、これまでよく彼女を「世の中から隔絶された、神聖で不可侵なもの」として見てしまうことが多かった。だが、目の前で不安に指先を震わせる姿を見て、ようやく理解した。

 

 ──彼女もまた、ただの、普通の女の子なのだと。

 

 ライドを待つ人々の喧騒が、雪乃の沈黙によって遠のいていく。彼女は逃げるように視線を床に落としたまま、訥々と、拙い言葉を継ぎ足した。

 

「……あまり自覚がなかったのだけれど。由比ヶ浜さんと一緒の時は、大丈夫だったから。だから、たぶん、大丈夫よ」

 

 普段の理詰めで隙のない話し方とは違う、防壁の向こう側から漏れ出したような本音。

 誰かと体温を共有していれば耐えられる。そんな、あまりに年相応で、それでいて彼女らしい切実な吐露に、八幡は電子頭脳の演算を一時停止させた。

 

「……まあ、お前がそう言うなら、これ以上は言わねーけど。無理すんなよ。もっと気楽に乗れ、気楽に」

 

 少なくともこのアトラクションは、最後の落下までは緩やかなクルーズだ。彼女が恐れているような、内臓を揺さぶる加速や旋回はほとんどない。

 

「……なんかあったら、助けてやるから」

 

 それは、半ば無意識に放たれた言葉だった。

 エイトマンとして、もし本当に緊急事態が生起すれば、物理法則を捻じ曲げてでも彼女を救い出す。比企谷八幡の最優先事項として設定された『雪ノ下雪乃を助ける』というプロトコルに従った、彼にとって最も合理的で誠実な答えだった。

 

「…………」

 

 雪乃は一瞬、驚いたように目を見開いた。

 だが、その言葉に裏表がないことを悟ると、彼女の肩から不自然な力が抜けていく。

 

「──そうね。それなら、少しは安心ね」

 

 不安の霧が晴れていくように、彼女の唇に微かな、本当に微かな安らぎが宿る。八幡の何気ない、だが絶対的な響きを持った一言が、冬の冷気に凍えていた彼女の心に、ゆっくりと浸透していく。

 最後のカーブを曲がり、目の前に木製のライドが姿を現した。

 乗り場へと足を踏み出す雪乃の背中には、先ほどまでの悲壮な緊張は、もうどこにも見当たらなかった。

 

 

──

 

 

 ライドはゆっくりと、水面を叩く音を立てながら暗いコースを進んでいく。

 いくらか緊張のほぐれた雪乃が、隣で小さく呟いた。

 

「……姉さんが隣にいるよりは、だいぶマシだわ」

 

 昔の陽乃は、こうしたアトラクションに乗ると、わざとライドを揺らしたりちょっかいを出したりして雪乃を怖がらせたらしい。

 

「あの人なら、やりそうだな……」

 

 八幡も苦笑いしながら納得した。あのアクティブな姉が、おとなしい妹をいじり倒す姿は容易に想像がつく。

 

「姉さんはいつもそう……」

 

 ぽつりと、雪乃が吐き出した言葉の意味を咀嚼する間もなく、ライドは暗い洞窟の奥へと進む。ハゲタカのロボットが不吉な言葉を吐きかけ、その先で天井がぽっかりと口を開け、冷たい夜空を覗かせていた。

 カタカタと音を立てながら、ライドが傾斜を昇っていく。もうすぐてっぺんだ。雪乃が再び身を固くした。

 頂上に達した瞬間、ライドが水平になり、一瞬だけ動きを止めた。

 

「……っ」

 

 眼下に、ディスティニーランドの夜景が広がっていた。

 クリスマスの装飾に彩られたホテル群。シーの活火山が放つ赤々とした灯火。そして、無数の光が満天の星空のように煌めくパークの全景。

 それを見て、雪乃が短いため息を吐いた。

 

 

「ねぇ、比企谷くん」

「ん?」

 

 

 ──そこから先の光景を、比企谷八幡は一生忘れないだろうと直感した。

 

 振り向いた視線の先にあったのは、青白くライトアップされた白亜の城を背負い、今にも泣き出しそうな、それでいてどこか救われたような顔で微笑む、雪ノ下雪乃の姿だった。

 そのあまりに高貴で、壊れそうなほど儚い姿に、八幡の電子頭脳は過負荷による警告を発し、息が詰まるような錯覚に陥る。

 雪乃は安全バーからそっと手を離し、八幡のコートの袖口をぎゅっと握り込んだ。その拍子に、彼女の指先の震えが直接肌に伝わってきて、八幡は心臓を掴まれたような衝撃を受ける。

 やがて、重力に従ってどこまでも堕ちていくような浮遊感が訪れる。

 

 

 

「いつか、私を助けてね」

 

 

 

 雪乃のささやき声は、落下する風の音と絶叫にかき消され、八幡は返事をすることができなかった。

 それはたぶん、雪ノ下雪乃という一人の少女が、その生涯で初めて口にした、剥き出しの「願い」だったのだと思う。

 

 

 ──この日、比企谷八幡は『堕ちて』いった。

 そして、おそらくそれは彼女も──

 

 

──

 

 

 ライドが激流を下り終え、穏やかな水面を滑って到着ホームへと戻る。八幡はふらふらと足元の覚束ない雪乃を支えるようにして、出口のすぐそばにあるベンチへと誘導した。

 

「……少し、ここで休んでいろ」

 

 雪乃は力なく頷き、ベンチに腰を下ろした。八幡が売店へ飲み物を買いに行き、数分後に戻ってくると、雪乃はいつの間にか手に入れていたらしい薄い縦長のビニール袋を、大切そうにバッグの奥へ仕舞い込んでいるところだった。八幡の視線に気づくと、彼女は素早くバッグの口を閉じ、何事もなかったかのように脇に置いた。

 

「ほら。……これでも飲んで落ち着け」

 

 八幡が手渡したのは、パンさんのボトルケースに入ったクリスマス限定のドリンクだ。雪乃はそれを拒むことなく、素直に受け取った。

 

「……ありがとう」

 

 彼女がストローに口をつけ、ゆっくりと液体を喉に流し込む。八幡もまた、自分のために買ったコーヒーを啜った。

 冷たい海風が吹き抜けているはずなのに、八幡の胸の奥にあるリアクターは、いまだに冷却が追いつかないほどの熱を帯びていた。

 

(……網膜ディスプレイから消えねえな)

 

 先ほど、落下する寸前に見た雪乃の顔。白亜の城を背に、泣き出しそうなほど儚く、それでいて慈しむように微笑んでいたあの光景が、強烈な焼き付き(イメージ・バーン)となって八幡の電子頭脳を支配していた。

 

「……前も、こんなことがあったわね」

 

 カップを両手で包み込んだまま、雪乃が不意に独り言のように呟いた。

 

「そうだったか?」

 

 八幡は記憶のアーカイブを検索する。彼女に飲み物を差し出した場面はいくつか候補に挙がったが、雪乃が視線を上げた瞬間に、その正解を悟った。

 

「文化祭の時よ。……あなたから、缶コーヒーを受け取ったわ」

「……ああ。あの時か」

 

 雪乃がすべてを背負い込み、八幡がその影で最適化を繰り返したあの日々。二人で初めて、ボロボロになりながらも一つの『世界』を作り上げようとしていた、あの文化祭の準備期間。

 今と同じように、限界まで擦り切れていた彼女に、八幡は無愛想にコーヒーを差し出したのだ。

 あの日々から、八幡のモノクロだった世界に、鮮やかな色彩が混じり始めたことを、電子頭脳は正確に記録していた。

 

「あの時からだいぶ時間が過ぎたけれど、今でもはっきりと覚えているわ」

 

 雪乃の言葉は、冬の夜空に溶けていく白い吐息のように静かだった。

 

「……そうだな。俺も、ずいぶん昔のことのように感じるが、覚えてる」

 

 八幡もまた、ぬるくなったコーヒーを啜りながら同意した。

 あの日、文化祭の準備期間から、八幡の世界は劇的に色を変えた。

 自己の存在を肯定できず、最適化と自意識の間で苦悩していた八幡。

 そして、偉大すぎる姉の影に怯え、独りで自滅の道を歩もうとしていた雪乃。

 それら不安と恐れを一気に払拭するような、鮮烈で、痛々しいほどに純粋な日々の始まりだった。

 

「……今でも、あの人みたいになりたいと思ってるか?」

 

 八幡は、かつて雪乃を『秀吉になりたがっている石田三成』と例えた。

 そして『たまには三成が勝ってもいい』と、彼女の不器用な戦い方を全肯定した。あの日を境に、雪乃は陽乃の背中を追うことをやめ、自分の足で立ち始めたのだと八幡は思っていた。

 

「どうかしら。今はもう、あまり思わないけれど……。ただ、姉さんは私にないものをすべて持っているから」

「……それが欲しいのか?」

 

 雪乃は静かに首を振った。その瞳には、かつてのような鋭い刺はなかった。

 

「いいえ。……なぜ私はそれを持っていないんだろうって、持っていない自分に失望するの」

 

 その感覚を、八幡の電子頭脳は正確にシミュレーションし、理解した。

 憧憬も、羨望も、嫉妬も、行き着く先は常に「自身の欠落」への失望だ。他者という鏡を見て初めて、自分の損なわれた部分が浮き彫りになる。

 

「それでも、あの時のあなたは、私のことを認めてくれた。姉さんを追う私ではなく、私が私のまま戦う姿を、肯定してくれたわ」

「……俺は、ただ、あの時のお前が報われてもいいと思っただけだ」

 

 八幡はぶっきらぼうに視線を逸らす。いつもの無愛想なインターフェースを盾にするが、雪乃はもう慣れたというように、くすりと小さく笑った。

 

「私にもできることがあると気づけたから……。だから、私は救いたいと、思ったのかもしれないわね」

「……何をだ?」

 

 いったい何を、あるいは誰を、彼女は救いたかったのか。

 八幡はその欠落した言葉を埋めたくて問いかけたが、雪乃はそれ以上、何も語ろうとはしなかった。

 

「……さぁ、何かしら」

 

 雪乃は試すように、少女らしい悪戯っぽい微笑を浮かべただけだった。

 たぶん、その問いの答えこそが、彼女の『理由』なのだ。あの生徒会選挙のとき、なぜ雪ノ下雪乃が、奉仕部という居場所を懸けてまで立候補しようとしたのか。その本当の理由が、今の言葉の中に隠されていた。

 ぬるくなったコーヒーを飲み干すと、それを見届けた雪乃が凛とした動作で立ち上がった。

 

「もう大丈夫だから、そろそろ行きましょう」

「ああ」

 

 二人はベンチを離れ、広場へと向かう。パレードの喧騒が遠ざかり、代わりに夜空を彩る大輪の花火が打ち上がる時間が近づいていた。

 

 

 




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