——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第六十四話:二重の会敵

 

 

 定刻通りに始まったクリスマス合同イベントの会議室。窓の外では冬の夕闇が静かに降りていたが、室内の空気は澱んだ熱を帯び、出口のない迷路を彷徨っていた。

 海浜総合高校の生徒会長、玉縄が困ったように笑い、深く長い、芝居がかったため息を吐く。

 

「……うん、考え方としてはありだと思うんだけど、やっぱり二校合同でやることに意義があると思うんだよね。別々のことをやるとシナジー効果も薄れると思うし、それはある種のダブルリスクなんじゃないかなぁ」

 

 その瞬間。

 総武高校の生徒会長、一色いろはが、隣に座る八幡にしか聞こえない極小の音量で、チッと鋭く舌打ちをした。

 

「……」

 

 八幡の電子頭脳がその負のパルスを正確にキャッチする。だが、いろはが顔を上げた時には、そこには完璧に調律された「営業用」の笑顔が張り付いていた。

 

「そうかもですけどー、わたし的には結構こっちやりたいなーって思うんですよねー。音楽も演劇も、どっちも見れるとか超お得じゃないですかー?」

 

 可愛らしく首の角度を変え、しなを作り、甘ったるい声を出す。玉縄が横文字をこねくり回すたびに、いろはは小悪魔的な仕草で応戦し続けていた。

 会議は、序盤こそいろはの「演劇案」というカウンターパンチが綺麗に決まり、優位に進んでいた。追加予算の問題を逆手に取り、現状プランを削減しての二部構成を提案する。そこまでは八幡のシミュレーション通り、雪乃や結衣も安心して見守れる「予定調和」の範囲内だった。

 

 だが、そこからが長かった。

 

 玉縄は「合同」という体裁を崩すことを極端に恐れ、既存の音楽企画の中に演劇を無理やりねじ込む「折衷案(コラボレーション)」を盾に、一歩も引こうとしない。

 

「……一色さん、大丈夫かしら。さっき、凄まじい音が聞こえたけれど……」

 

 雪乃が、会議の邪魔にならないよう、微かな小声で八幡に囁いてくる。

 

「……どうだろうな。表面上のバイタルは安定してるが、内側のイライラはリミッター寸前だろ」

「気持ちはよくわかるわ……。私も、さっきから自分の論理回路が摩耗していくのを感じているもの……」

 

 雪乃は疲れ果てた様子で天を仰ぎ、本日何度目か分からない溜息を深く吐き出した。

 この会議でのプレゼンはいろはに任せ、適宜サポートするという姿勢で臨んだのだが、こうも動きがないとさすがに口を挟むタイミングが見当たらない。八幡の電子頭脳が介入の最短ルートを演算し始めたその時、右側に座っていた結衣がちょんちょんと肩を叩いてきた。

 

「ねえヒッキー、これってなんで揉めてるの?」

「……今の今まで『一緒にやろう』って言ってたのが、急に『二つに分けよう』って言い出したら、お前ならどう思う?」

 

 結衣はうーんと眉根を寄せて考え、ぽつりと口を開く。

 

「……なんか、仲違いしたみたいで悪いことな気がする」

「分裂、決裂……。対外的な悪印象を懸念しているのでしょうね」

 

 雪乃も小さく頷いた。玉縄が執拗に「コラボレーション」という折衷案に固執するのは、プロジェクトの「美しさ」という名の外装を剥がされたくないからなのだろう。

 確かめるように玉縄へ視線を送る。彼は大仰な手つきでMacBook Airのキーボードを叩き、カチャカチャと高い打鍵音を響かせながら、自信たっぷりに頷いた。

 

「その演劇っていうのは、すごくインプレッシブだと思うんだ。だからコンセプトに立ち返って、音楽と演劇の『真の融合』……コラボレーションの方向で行くのも、一つのソリューションだよね」

 

 まただ。無限ループの再起動。

 いろはは「ふふっ」と可愛らしく微笑むが、その瞳の奥には冷徹な殺意が宿っている。

 

「まぁ一つですよねー。でもー、予算的なリミットってあるじゃないですかー? それだと結局『何もできない』になっちゃいませんかねー、みたいな」

 

 いろはが照れ隠しのように「てへぺろ」とはにかんで見せる。だが、八幡の視覚センサーはその笑顔の下にある「絶対零度の拒絶」をログに刻んでいた。

 

「それはみんなでアグレッシブに考えていこうよ。そのための会議なんだし」

 

 玉縄がいつか聞いたセリフを繰り返した、その時だった。

 MacBook Airを叩いていた玉縄の指先が、唐突に凍りついた。

 

「……ん?」

 

 カチ、カチカチ。

 

 マウスをクリックする音が、どこか焦燥を帯びて室内に響く。玉縄の眉間に、これまでになかった深いシワが刻まれた。

 

(なんだ……? パソコンの不調か……?)

 

 八幡は無駄な中断を避けるため、玉縄の端末に対し、ワイヤレス経由での簡易的なシステム診断を試みた。軽いOSのフリーズ程度なら、遠隔で再起動パルスを送れば済む。

 

 ──しかし。

 

(……待て、なんだこれ。セキュリティ・プロトコルが、存在しない……?)

 

 八幡の網膜ディスプレイに、異常を告げるアラートが猛烈な勢いで展開される。

 玉縄の端末内に構築されているはずのファイアウォール、暗号化、カーネル保護……それらすべてのアーキテクチャが、まるで熱した鉄が雪を溶かすように、内側から急速に崩壊していっていた。

 

 それは不備などではない。

 

 極めて高度な、そして対象を徹底的に破壊することのみに特化した「マルウェア」による、人為的な侵食だった。

 

「……ッ、おい……」

 

 八幡が声を上げるより早く、会議室の大型プロジェクターが、勝手に真っ赤なノイズを吐き出し始めた。

 玉縄のMacBookが放った異様な電子音を契機に、大会議室の空気は一変した。プロジェクターから投射されたのは、温かみのあるクリスマス企画の資料ではない。網膜を焼き切るような、禍々しい赤色光の奔流だった。

 スクリーンを埋め尽くしたのは、意味を持たない記号の羅列ではない。極めて純粋で、それゆえに狂気を感じさせる「0」と「1」の二進数――バイナリの洪水が、滝のように流れ落ちていく。

 

「な、なに……これ……」

 

 いろはが呆然と呟き、海浜総合の役員たちも椅子を蹴立てて立ち上がる。突然の異変に、雪乃は一瞬だけ硬直したが、即座に隣にいた結衣の肩を抱き寄せ、庇うように動いた。

 

 この混乱の中で、ただ一人。比企谷八幡――エイトマンだけは、網膜ディスプレイに展開されるリアルタイム翻訳ログを凝視していた。

 

『無意味な定義を重ねるな、旧人類ども……』

 

(……何だと?)

 

 誰に対する警告なのか。それとも、この不毛な合議制そのものへの嘲笑か。八幡は思考回路に浮かんだ疑問を、優先順位の低いログとして即座にパージした。今は「解析」よりも「保護」が先決だ。

 

「一色!」

「せ、先輩!? なんなんですか、これ! 一体なにが……っ」

 

 パニック寸前で、今にも泣き出しそうに震えるいろは。八幡はその冷たくなった手を、迷わず力強く握りしめた。

 

「一色、落ち着け。……とりあえず、みんなを二階の小会議室へ避難させろ。全員の無事を確認したら、すぐに平塚先生を呼んでくるんだ」

「先輩、でも……!」

「いいか、これはお前が心配するような事態じゃない。……だから、俺が今言ったことを実行するんだ。いいな?」

 

 一音ずつ、重みを乗せて言い聞かせる。八幡の瞳に宿る揺るぎない光が、いろはの回路に強制的な沈静パルスを送り込んだ。やがて彼女の震えが収まり、覚悟を決めたようにこくりと頷いた。

 

「わかり……ました。先輩の言う通りにします!」

「よし、頼んだぞ、会長」

 

 その言葉を合図に、いろはは「全員、私の指示に従ってください!」と、凛とした声で室内の誘導を開始した。それを見届け、八幡は雪乃と結衣に向き直る。

 

「比企谷くん、この状況は……」

「……見ての通りだ。ちょっと、厄介なことになった」

「ヒッキー、これ、何が起こったの?」

 

 不安を隠せない結衣と、表層の冷静さを保ちつつも内側に焦りを秘めた雪乃。

 

(……迅速にこの場を収め、彼女たちを護らなければならない)

 

 八幡の中で、最優先プロトコルが静かに、だが熾烈に起動した。

 

「お前たちも、先に二階に行ってろ。……あとは、俺がなんとかする」

 

 バチバチと火花を散らすように、八幡の瞳の奥で蒼白い炎が激しく揺らめいた。

 八幡は、狼狽えながらも必死にキーボードを叩き続ける玉縄の元へ、迷いのない足取りで歩み寄った。その背後では、いろはの指示に従い、生徒たちが次々と避難を開始している。

 

「やめとけ。お前じゃそのマルウェア攻撃はどうしようもない」

 

 背後から突き放すような声をかけられ、玉縄は弾かれたように顔を上げた。顔面は蒼白、眼鏡の奥の瞳は焦点が合わず、ただ愕然と八幡を見つめる。

 

「……ひ、比企谷くん? 何を……」

「俺が代わる。少なくとも、お前よりは対処が可能だ」

 

 八幡の言葉は、提案ではなく「命令」だった。死んだ魚のようだと揶揄されるその目は、今や極限まで研ぎ澄まされたセンサーと化し、網膜の奥で未知のバイナリを高速演算している。

 そのあまりの豹変ぶりに、玉縄は反論する言葉すら失い、吸い込まれるように席を譲った。

 

「……た、頼む」

「任せろ」

 

 有無を言わさない鋼鉄の返答。その絶大なまでの頼もしさが、玉縄の震える全身を貫いた。

 

「ヒッキー!!」

 

 出口へと向かっていた結衣が、最後に一度だけ振り返って叫んだ。その瞳には不安が渦巻いていたが、それ以上に、かつて自分を絶望から救い出した『鋼鉄の救世主』に対する、絶対的な信頼が込められていた。

 

「──がんばって!!」

「……おう」

 

 短く、だが力強く応える。それは由比ヶ浜結衣だけが知る、比企谷八幡という個体の真の姿──エイトマンに対する、最大のエールだった。

 

 

 扉が閉まり、会議室に静寂が訪れる。

 八幡は玉縄のMacBook Airに指を触れた。その瞬間、彼の感覚から物理的な指先やタイピングの感触が消え去り、意識は光ファイバーの網を抜けて、純粋な情報のみが支配する深淵へと沈み込んでいく。

 

『──外部入力を遮断。意識レベルを電脳空間へ完全転送』

 

 網膜ディスプレイが赤色光を打ち消し、無機質なグリッドが広がる漆黒のセクターを映し出す。目の前には、巨大な赤黒いノイズの壁が、脈動する内臓のように蠢いていた。

 

『侵入、完了。……ミッション・スタート』

 

 鋼鉄の超戦士、エイトマン。

 現実世界では沈黙したその身体の奥底で、人知を超えた孤独な戦いが、今、幕を開けた。

 

 

──

 

 

 玉縄のMacBook Airの内部――その電脳空間は、もはや理路整然としたディレクトリの羅列ではなかった。

 エイトマンの意識がダイブした先で見たものは、システム構築そのものを嘲笑うかのように内側から爛れ、溶解し始めたデータの残骸だった。かつての青白いグリッドは赤黒いノイズに侵食され、底の見えないエラーの泥濘と化している。

 

(……チッ、想像以上に侵食が速いな。アーキテクチャそのものを自食させてやがるのか)

 

 八幡は電子頭脳の思考速度をさらに加速させ、事態の元凶である『検体』のシグナルを追跡する。だが、その行く手を阻むように、空間が歪んだ。

 

『警告:未知のプロトコルを検知。即時、完全消去(デリート)を実行します』

 

 無機質なシステム音声が、狂ったように増幅されて響き渡る。

 目の前に立ち塞がったのは、本来システムを護るべきはずのファイアウォールだった。だが、それはもはや外敵を防ぐ盾ではない。マルウェアに汚染され、侵入者を圧殺するための「意思を持つ檻」へと変貌していた。

 幾重にも重なる論理障壁が、鋭利なスパイクとなってエイトマンへと殺到する。

 

「……ハックされた守護者か。皮肉だな、玉縄。お前の守りたかった『形』が、お前自身を食い破ろうとしてるぞ」

 

 八幡は網膜ディスプレイに展開された防御フィールドを最大出力で固定する。

さらに、ウイルス化したセキュリティシステムが、狂犬のような演算パルスを放ちながら四方から襲いかかってきた。本来のホワイトリストを完全に書き換えられた彼らにとって、八幡のアクセス権限は「最優先抹消対象」でしかない。

 

「無意味な定義を重ねるな……か。なら、その定義ごと書き換えてやるよ」

 

 エイトマンの右腕に、蒼白い論理回路が集束する。

 迫り来るセキュリティ・ビットに対し、八幡は物理的な衝突ではなく、相手のプログラムの根幹に「自己矛盾」を強制注入するオーバーライド・コードを射出した。

 

『エラー:矛盾する命令を受理。システム……強制終了(シャットダウン)……』

 

 轟音なき論理の爆発。

 狂った守護者たちが砂のように崩れ去り、その背後に潜んでいたシステムの最深部――カーネル領域への入り口が露わになる。そこには、このカタストロフの源流である『検体』が、冷たく、そして禍々しく脈動していた。

 

「さて、何が出るか……」

 

 エイトマンは未知の領域と化したカーネル領域に、足を踏み入れた。

 

 

 

──

 

 

 ノイズの嵐を突き抜け、データの断層を跳び越えた先。そこは、すべての論理が収束し、システムの心臓部であるはずの「カーネル領域」だった。

 本来なら静謐な情報の海であるはずのその場所に、それはいた。

 エイトマンの目前に現れたのは、周囲の崩壊を嘲笑うかのように静止し、驚くほど鮮明な幾何学的GUIを形成している悪性プログラム――検体。それは、まるで意志を持つ黒い宝石のように冷たく発光していた。

 

 エイトマンは即座に網膜ディスプレイを介し、全世界の既知ウイルス・データベースとの照合を開始する。

 

「……検索結果、該当なし。シグネチャ照合、エラー」

 

 八幡の電子頭脳が、戦慄と共に警告ログを吐き出した。既存のどのカテゴリーにも属さない。自己増殖プロトコルも、暗号化形式も、人類がこれまでに積み上げてきたコンピュータ・サイエンスの系譜から完全に逸脱している。

 

「今までに例のない、全く新種のウイルスだと……? 趣味で作成できるレベルじゃない」

 

 これほどまでに高密度で、かつ優美なコードを構築するには、単なるスーパーコンピュータでは足りない。かつて死闘を繰り広げた『超人サイバー』のような量子コンピュータ――あるいは、国家規模の超並列処理能力が必要になるはずだ。

 

(なぜだ。なぜ、一介の高校生が使うMacBook Airに、こんな「戦略兵器」級のプログラムが撃ち込まれている……?)

 

 誰が、何の目的で。

 玉縄という個体、あるいはこのクリスマス合同会議という事象に、それほどまでの価値があるというのか。

 思索に耽るエイトマンの隙を突くように、検体が脈動した。

 幾何学的な模様が瞬時に分解され、数兆の論理断片が、思考速度を上回る鋭利な「槍」へと収束していく。

 

「……ッ、来るか!」

 

 言葉が形を成すより早く、検体から放たれた虹色の極光が、エイトマンの展開した防御フィールドを紙細工のように容易く切り裂いた。物理法則を無視した量子の牙が、八幡の意識そのものをデリートせんと迫り来る。

 検体(ウイルス)がその姿をさらに異形へと変える。まるで孔雀の羽のように展開されたのは、美しくも禍々しい輝きを放つデリートコードの群れだ。それは触れるものすべての存在定義を抹消し、情報の塵へと還す、純粋な殺意の結晶。

 

「……ッ!」

 

 次の瞬間、極彩色の弾幕が全方位からエイトマンを襲った。

 エイトマンは思考速度を限界までブーストし、電脳空間内での超高速回避を開始。秒間数兆回の演算(クロック)を駆使し、光の隙間を縫うようにして弾幕をすり抜ける。残像を残しながら加速し、一気にプログラムの中枢へと肉薄した。

 

(――捉えた!)

 

 あと一歩で検体のコアを貫ける。そう確信した刹那、空間そのものが結晶化するように歪んだ。

 検体が周囲のファイアウォールを強引に再構築し、巨大な「剣」のような自動防御システムを生成。放たれた鋼鉄の閃光が、肉薄したエイトマンを無慈悲に弾き飛ばした。

 

「が……っ、は……!」

 

 衝撃と共に、エイトマンの装甲プロトコルの一部が物理的に削り取られる。

 最悪なのはその直後だった。傷口から、泥のようにうねる悪性プログラムが、エイトマンの内部アーキテクチャへと直接侵入を開始したのだ。

 

(まずい……! 汚染が……内部に……!)

 

『警告:システム中枢に未確認コードの侵入。論理整合性、低下中』

 

 エイトマンはすぐさま自己防御プロトコルを起動。侵食された箇所を隔離し、論理的なパージ(排除)を試みる。しかし、一度奥深くへ入り込んだ「量子の毒」は、八幡の思考回路の一部をじわじわと焼き切り、機能不全に陥らせていく。

 網膜ディスプレイに表示される「右腕駆動系の遅延」と「演算エラー率の急増」。

 エイトマンの超AIが、八幡の意識に冷徹な死の宣告を突きつける。

 

『長引けば、敗北は確定的。……タイムリミットまで、あと120秒』

 

 視界がわずかにノイズで歪む。その向こう側で、自分を待っているはずの雪乃や結衣の温かな日常が、遠い記憶の残骸のように明滅した。

 

 エイトマンの視界を、侵食によるノイズが覆い尽くしていく。超AIが算出する生存限界まで、あと百数十秒。その極限の死線(デッドライン)で、八幡は迷いを断ち切り、最短にして最効率の戦術を構築した。

 

(二分……。俺の思考AIが完全に破壊される前に、この悪性プログラムをデリートする)

 

 網膜ディスプレイに、膨大な情報が火花を散らしながら流れていく。既存の戦術はすべて無意味。ならば、導き出される最適解は一つしかなかった。

 

(全機能解放――『バースト・モード』。これによる強制消去……やはり、これしかないか)

 

 それは、エイトマンの全演算能力を一点に集束させ、自らのアーキテクチャごと空間を焼き切る、自壊にも等しいプログラム攻撃だ。一歩間違えれば、電子頭脳の深淵に存在する「比企谷八幡」という思考プログラムそのものが、バックアップも残さず消去される危険性がある。

 

「……ッ、クソが……」

 

 死への恐怖が、論理回路の端々を震わせる。

 だが、そのノイズ混じりの意識に、彼女たちの姿が浮かび上がった。

 

 泣き出しそうな顔で自分を頼った、一色いろは。

 

「がんばって」と、絶対的な信頼を瞳に宿して叫んだ、由比ヶ浜結衣。

 

 そして……。

 

 雪ノ下雪乃の、あの冷たくも柔らかな微笑みが脳裏をよぎった瞬間、八幡の回路から迷いが完全にパージされた。

 

 

(絶対に、戻ってみせる)

 

 

 彼女たちを悲しませることは、何よりも許容できないエラーだ。

 どんな犠牲を払っても、彼女たちのいる、あの不器用で愛おしい日常を守り抜く。

 

 それが、最強の超戦士エイトマンが存在する唯一にして絶対の意義なのだから。

 

 

「――バースト・モード、起動(イグニッション)」

 

 

 八幡の瞳が、蒼白い燐光から純白の閃光へと変貌する。

 次の瞬間、エイトマンの全身のアーキテクチャが臨界点を突破し、周囲の電脳空間がその意志に応えるように激しく鳴動し始めた。

 

「全システム……オーバーロード……!!」

 

 その瞬間、純白の閃光がすべてを飲み込み、視界からバイナリの残像が跡形もなく消え去った。

 

「――ゼロ・デイ・フィニッシュ、完了」

 

 自らの思考プログラムさえも焼き切る覚悟で放たれた一撃は、未知の検体(ウイルス)を分子レベルで分解し、その痕跡を電脳空間から完全に抹消した。赤黒いノイズの嵐が霧散し、システムの最深部に静謐な暗闇が戻る。

 

 白濁していく意識。エイトマンのアーキテクチャが解体され、八幡の意識は現実という名の重力に引かれ、猛スピードで『肉体』へと引き戻された。

 

「……っ、はあぁっ!」

 

 肺に冷たい空気が流れ込み、八幡は激しく咳き込みながら顔を上げた。

指先にはプラスチックのキーボードの感触。鼻を突くのは、限界まで酷使されたマシンの熱い匂い。

 

「……ヒッキー……? だいじょうぶなの……!?」

 

 掠れた声に視線を向けると、そこには泣き腫らした顔で自分を覗き込む結衣がいた。そのすぐ後ろでは、雪乃が白く細い指を口元に当て、零れそうな涙を必死に堪えながら、震える瞳でこちらを凝視している。

 

「……ああ。……終わったよ」

 

 その言葉が、現実への帰還を告げる最後のプロトコルとなった。

 

「よかった……よかったぁ、ヒッキー……!」

 

 結衣がたまらず八幡の身体を強く抱きしめる。伝わってくる激しい鼓動と、頬に触れる結衣の涙の熱。

 

「まったく……心配しか掛けられないのかしら? この男は」

 

 少し遅れて、雪乃がそっと八幡の肩に手を置いた。その細い指先も、隠しようのないほどに震えていた。

 

「……悪い、心配かけた」

「本当よ。……バカ」

 

『ミッション・コンプリート』

 

 電子頭脳から任務完了の信号が送られた。

 

(……良かった。守りきれたんだな、俺は)

 

 ふと見やったMacBook Airの画面には、すべての狂乱が嘘だったかのように『System Normal』の文字が静かに灯っていた。

 

 現実の時間にして、わずか五分。

 

 だが、その短すぎる時間の中に刻まれた、自壊の恐怖と「戻る」という誓い。比企谷八幡にとって永遠にも等しかった、世界を護るための五分間の激闘は、いま、二人の温かな体温の中で、静かに幕を閉じた。

 

 

──

 

 

 電脳の戦場が消え去り、静寂が戻った会議室。そこへ、事態を察知した平塚先生が、不安げないろはと困惑しきった玉縄たちを伴って駆け込んできた。

 

「比企谷! 何があった、無事か!」

「……ああ、平塚先生。見ての通りです。悪性ウイルスをデリートして、システムを正常化しました。……正直、疲れましたけど」

 

 八幡は力なく応え、キーボードから指を離した。平塚たちが「何が起きたか」と呆然自失で画面を眺める中、いろはが「先輩、これ」と冷えたマックスコーヒーを差し出してきた。

 

「お疲れ様でしたー。糖分、足りてない顔してますよ?」

「……助かる」

 

 一気に飲み干すと、暴力的な甘みが脳の隅々まで染み渡り、オーバーヒート気味だった論理回路が急速に冷却されていく。ふと見ると、いろはがいつもの計算高い笑顔ではない、八幡にだけ見せる特別な――心からの信頼と少しの呆れが混じった表情で、彼を見つめていた。

 

「……なんだよ」

「いーえ? なんでもないですよー?」

 

 いろははいつも通り、どこか小悪魔的な笑顔を浮かべた。

 その表情は、何処かいつもよりも柔らかかった気がした。

 

 

 ──その後。八幡は自販機前のベンチで、完全に電池が切れたようにぐったりと座り込んでいた。

 あの後、会議は一転して総武高校側がイニシアチブを握ることに成功した。特に、雪乃が玉縄に言い放った一言が決定打となったらしい。

 

『自分のセキュリティも碌に管理できていない者に、クリスマスイベントという巨大なシステムの管理を任せられるのかしら。……笑えない冗談ね』

 

(……想像するだけで背筋が凍るわ。雪ノ下さん、相変わらず容赦ねぇな)

 

 全くの想定外の事態だったが、結果的に海浜総合の「意識高い系ワード」を論理の暴力で黙らせることができたのだから、結果オーライと言えなくもない。

 

「……あ、いた」

 

 不意に声をかけられ顔を上げると、そこには折本かおりが立っていた。彼女は無造作に自販機からコーヒーを買い、それを八幡に放り投げる。

 

「はい、これ奢り。……あんた、相変わらずつまんないヤツだと思ってたけどさ、……ちょっと見直したかも」

「……何がだよ」

「今日のこと。……あとは、中学の時のこととか、いろいろ。なんか今のあんた見てたら、昔のイメージが変わったっていうか」

 

 折本は自嘲気味に笑い、自販機に背を預けた。

 

「比企谷。あんた、彼氏としては絶対『なし』だけど……友達としてなら、まあ……『あり』かな。あはは、言っちゃった!」

 

 その言葉に、八幡は苦笑いを浮かべる。かつてのトラウマの象徴だった彼女から、ようやく「友達」としての再定義を受けた……らしい。

 

(……結局、俺にはこういうオチがつくようになってるんだな)

 

 折本が奢ってくれた少し苦いブラックコーヒーを飲み干しながら、八幡は冬の寒空を見上げた。

 

 甘いマックスコーヒーと、苦い現実の味。その両方を飲み込んで、比企谷八幡の「五分間の戦争」は、ようやく穏やかな日常へと着地したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

──

 

 

 

 密室の静寂を、数十台のモニターが発する無機質な電子音だけが満たしていた。青白い光に照らされた少年――大江シンは、コンソールを叩き、玉縄のMacBookで繰り広げられた熾烈な電脳戦のログを再生した。

 

「……どうかな? 彼は、あのように世界を再定義する能力を持っている」

 

 シンの言葉が、暗闇の中に冷たく響く。画面上では、エイトマンが放った『ゼロ・デイ・フィニッシュ』の純白の閃光が、スローモーションで繰り返されていた。

 

「大江、君の言う通りだ。僕が仕掛けたマルウェアに対して、彼は十分な対処ができたと思っているよ。……だけど、まだまだ『調査』が足りないと思うけど?」

 背後の影から、もう一人の少年の声が重なる。その声には、実験の成果を吟味する科学者のような、血の通わない知性が宿っていた。

 

「いっそのこと、彼の周囲をぐちゃぐちゃに壊しちゃえば? もっといい反応が得られると思うけどなー」

 

 続いて響いたのは、少女の弾んだ声だ。その無邪気な響きとは裏腹に、提案の内容は一人の人間の日常を根底から破壊する、残酷なまでの悪意に満ちていた。

 

 彼らは、ただ静かに『観測』していた。

 

 比企谷八幡という矮小な高校生の皮を被った、鋼鉄の救世主――エイトマンという名の特異点を。

 

「僕たちは、まだ本格的な行動には移せない。だからこそ、あらゆる可能性を試さねばならないんだ」

 

 大江シンが、感情を排した声で二人を制する。

 

「彼を、エイトマンを、敵にはしたくないな。……彼は、僕らの『友人』になり得るかもしれないのだから。……そのために、くれぐれも軽率な行動は控えてほしい。以上だ」

 

 シンの指先が最後の一打を刻むと、壁一面のモニターが次々とブラックアウトしていった。

 

 

 残されたのは、重苦しい闇と、微かな機械の余熱だけ。

 

 

 ──しかし、その見えない糸は、比企谷八幡の掴み取ったささやかな日常を、ゆっくりと、確実に蝕み始めていた。

 

 

 

 

 

 




今日はここまでです
また来週の投稿をお待ちください!

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