——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第六十五話:合同イベント開始

 

 千葉県警本部の無機質なエントランス。冷たい空気の中、平塚静はどこか落ち着かない様子で、隣に立つ教え子の横顔を盗み見た。単なる高校生同士のトラブル、その事情聴取という名目で呼び出されたはずだったが、案内されたのは一般の相談窓口ではなく、重厚な扉が並ぶ刑事部の奥深くだった。

 

「……比企谷。本当にお前、何をやらかしたんだ? 学校間の問題なら私が頭を下げるだけで済むはずだが、この空気は……」

「……さあ。ただのボランティア活動の延長ですよ」

 

 八幡が死んだ魚の目で適当に受け流した、その時。廊下の奥から、地響きのような足音が近づいてきた。

 

「よォ、比企谷くん! また派手な種火を拾ってきたそうじゃないか!」

 

 姿を現したのは、スーツをはち切れんばかりに着こなした巨躯の男、警視庁捜査一課の田中善右衛門課長だった。その後ろには、明らかに「現場」の空気を纏った警視庁サイバー対策班の面々が控えている。

 

「……田中さん。相変わらず、声がデカいですよ」

「ははは! 警視庁の課長がこの程度でビビってちゃ仕事にならん。三度目の邂逅だな、相変わらず厄介な事件を引き寄せる体質は健在か」

 

 田中は豪快に八幡の肩を叩く。その力強さは、数々の修羅場を共にした「戦友」への信頼そのものだった。平塚はその光景を、絶句して見つめるしかなかった。

 

「……比企谷。お前、いつの間に警視庁の、それも捜査一課の課長と知り合いになったんだ? しかも、その態度は……」

「平塚先生、ご安心を。彼は我々にとって極めて重要な『協力者』だ。今回の件、直通で連絡が入りましてね。うちのサイバー班が色めき立っていますよ」

 

 田中は平塚に対し、大人としての礼節を保ちつつも、有無を言わせぬ威圧感を持って八幡を促した。

 

「いよいよウチ(総武高校)から国際指名手配犯が出るのかと冷や冷やしてたんだが……。比企谷、無茶はするなよ」

「……善処します」

 

 不安げな表情を浮かべる平塚に背を向け、八幡は田中課長と共に、電子ロックが幾重にも施された取調室の奥へと消えていった。

 厚い防音壁と電磁シールドに囲まれた、特設取調室。窓一つない密室の空気は、サーバー室のような乾いた冷気を帯びていた。田中課長はデスクの向かい側にどっしりと腰を下ろし、鋭い眼光を八幡に向けた。

 

「さて、比企谷くん。改めて聞かせてもらおう。……なぜ、あの場でマシンの物理破壊を選ばなかった?」

 

 田中はデスクの上で指を組み、一歩も引かない構えを見せる。

 

「ウイルスを封じ込めるだけなら、端末ごと粉砕して回路を物理的に断つのが最も確実だ。君が『エイトマン』としてのリソースを割き、あえて電脳空間で直接対峙するリスクを負う必要はなかったはずだが」

「……玉縄のパソコンなんて、俺にとってはどうでもよかったんですけどね」

 

 八幡は自嘲気味に呟きながら、懐から小さな記録メディアを取り出した。自身の内部ストレージに完全隔離したウイルスの『検体』だ。

 

「あれは、俺に対する明確な『メッセージ』だったんです。バイナリの羅列に紛れ込ませた、旧人類への蔑称。……放置すれば、俺の周囲のネットワークすべてが汚染され、逃げ場を失っていた。それに、こいつは……今まで見たどのコードとも、構造が違いすぎる」

「……そうか。だから、わざわざ『彼』を呼んだんだ」

 

 田中の言葉と同時に、部屋の隅にある重厚な扉が開いた。静かに姿を現したのは、かつての「超人サイバー事件」で自らの生み出したシステムに叛乱され、すべてを失った悲劇の天才――泉博士だった。

 

「……お久しぶりです、泉博士」

「……比企谷くん。いや、エイトマンと呼ぶべきかな。……また君を、こんな深淵に引きずり込むことになってしまった」

 

 博士の顔には深い疲労の色が滲んでいたが、八幡が提出した検体を解析端末にロードした瞬間、その瞳に科学者としての戦慄が宿った。モニターに走る、既存の論理体系を根底から覆す「0と1の螺旋」。

 

「……信じられない。これはプログラムではない……もはや『意志』だ。私がかつて設計したアルゴリズムを、まるで捕食するように取り込み、自らを再定義している。比企谷くん、これを作った者は、私たちが到達した領域のさらにその先を見ているよ」

 

 博士の震える指が指し示したのは、コードの深淵に刻まれた不穏なシグネチャだった。

 

「比企谷くん……これは宣戦布告だ。君が守ろうとしている日常そのものを、根底から否定するためのね」

 

 田中課長の重苦しい言葉が、取調室の静寂を切り裂いた。八幡はモニターに映る極彩色のノイズを、無言で見据え続けていた。

 

 

──

 

 

 千葉県警本部での事情聴取を終え、八幡は平塚の運転する赤いスポーツカーの助手席にいた。車内には、冬の夕暮れの冷気と、どこか重苦しい沈黙が同居している。

 

「……しかし、驚いたぞ。まさか捜査一課の課長がお前を名指しで呼びに来るとはな」

 

 ハンドルを握る平塚が、感心したような、あるいは呆れたような溜息を吐く。

 

「卒業後の進路が決まったじゃないか。警視庁サイバー対策班への永久就職……。公務員だし、安泰だぞ?」

「……勘弁してください。24時間365日、有事の際に叩き起こされる職場なんて、ブラック企業よりさらにブラックですよ。俺は専業主夫が第一志望なんです」

 

 八幡が死んだ魚の目で冗談を返すと、平塚は「お前らしいな」と苦笑した。だが、信号待ちで車が止まった瞬間、彼女の表情から温度が消えた。

 

「……比企谷。最近、妙な噂を耳にする。正体不明の機動兵器同士が争っているという話や、先日の『印旛沼』で起きた原因不明の爆発事件……」

 

 平塚は、前を見据えたまま静かに言葉を繋ぐ。その問いの先にあるものを、八幡は正確に察知していた。

 

「あの日、選挙期間中にお前の端末へ届いたロシア語の暗号メッセージ。……お前、印旛沼に何をしに行ったんだ?」

 

 バックミラー越しに、平塚の鋭い、けれど慈愛に満ちた視線が八幡を射抜く。それは教え子の無謀を案じる、一人の教師としての眼差しだった。

 

「……知人に会いに行っていただけですよ。昔の、ちょっとした腐れ縁の知り合いです。爆発なんて、俺が帰った後のことじゃないですか?」

 

 八幡は努めて冷静に、感情の起伏を一切排した声で応えた。嘘ではない。ただ、その知人が「ロシアの最新鋭戦闘歩兵」であり、爆発の原因が自分自身の放ったエネルギー弾だったという事実を伏せているだけだ。

 

「……そうか。君がそう言うなら、これ以上は追求すまい」

 

 平塚は追及を止め、信号が青に変わるのと同時にアクセルを踏み込んだ。

 

「だが、これだけは忘れるな。君が無理をすれば、悲しむ者がいる。……私も、その一人だ」

 

 薄く、どこか寂しげに微笑む平塚。八幡は窓の外を流れる冬の景色を眺めながら、心の中で小さく謝罪した。

 

(……すいません、平塚先生。でも、俺が戦うことでしか守れない平穏もあるんです)

 

 その「平穏」を維持するための代償を、自分一人で背負う覚悟。八幡の瞳の奥で、蒼白い回路が静かに明滅していた。

 

 

──

 

 

 翌日、クリスマス合同イベントの準備拠点となっているコミュニティセンターは、昨日までの沈滞した空気が嘘のような活気に包まれていた。有志の数も増え、ホールでは演劇のための舞台設営が着々と進んでいる。

 

「じゃあ、次は保育園の方に衣装のサイズ確認と、当日の動線の打ち合わせに行きますよ。ほら、先輩シャキっとしてください!」

「……わかったから引っ張るな。俺の肩の関節は脱着式じゃないんだぞ」

 

 いろはに急かされ、八幡は市内の保育園へと足を運んだ。協力要請のための挨拶回りだったが、そこで思わぬ再会が待っていた。

 

「あ、さきちゃんのおともだち!」

 

 元気よく駆け寄ってきたのは、どこかで見た青みがかった黒髪の女児だった。その後ろから、少し照れくさそうに、けれどどこか誇らしげな表情で川崎沙希が姿を現す。

 

「……や、やあ」

「川崎……どうしてお前がここにいるんだ?」

 

 八幡の問いに、沙希は少女の頭を撫でながら、言いづらそうにしていた。その様子を、勘の鋭いいろはが瞬時に察する。

 

「えっ、川崎先輩? もしかして……この子のお姉さんですか?」

 

 いろはが意外そうな声で問うと、沙希は恥ずかしそうに顔を赤らめながら返した。

 

「……あ、比企谷と一色か。妹が世話になるみたいだな。……京華、このお兄ちゃんたちが当日の劇を準備してくれてるんだ。迷惑かけんじゃないよ」

「はーい! お兄ちゃん、よろしくね!」

 

 沙希はいつもの尖った雰囲気とは打って変わり、完全に「優しい姉」の顔をしていた。その家庭的なギャップに八幡が感心していると、京華は八幡のズボンの裾をぎゅっと掴み、無邪気な笑顔を向ける。だが、その視線がいろはに移った瞬間、京華の表情は急速に凍りついた。

 

「おねえちゃん、だれ?」

「えっ、私はいろはだよ! 一緒に楽しいクリスマスにしようねー?」

 

 いろはが完璧な営業スマイルで膝をつく。だが、京華は八幡の後ろに隠れ、冷ややかな視線をいろはに突きつけた。

 

「……うそつきのにおいがする」

「ぶふぉっ……!」

 

 八幡は必死に笑いを堪えた。純粋無垢な子供の目は、いろはの幾重にも塗り固められた「あざとさ」を本能的に見抜いてしまったらしい。

 沙希もそんないろはを見て笑いを堪えていた。

 

「ちょっと! 先輩いま笑いましたよね!? 何なんですかこの子、超失礼なんですけどー!」

「いや、子供は正直なだけだ。……気にするな、一色。お前の腹黒さはもはやオーラとして漏れ出してるんだよ」

「ひどーい!! そんなこと言う先輩とかほんとありえないんですけどー!?」

 

 ぷんすか怒るいろはを宥めながら、八幡は今後の打ち合わせを沙希と行った。

 

 コミュニティセンターに戻ると、ホールではさらに準備が加速していた。

 その喧騒から少し離れた工作スペースで、黙々と飾り付けの制作に励む二人組がいた。鶴見留美と、大江シンだ。

 

「……そこの角度、もう少し鋭角にした方が光の反射が綺麗だと思うよ」

「……わかった。やってみる」

 

 留美が静かに応じ、大江の指摘通りにカッターを動かす。会話は最小限だが、その間にはどことなく仲が良さそうな、互いの能力を認め合った者同士特有の静謐な空気が流れていた。

 かつてキャンプ場で孤独だった留美の隣に、誰かが、それも極めて自然な形で収まっている。その光景を見つめながら、八幡の電子頭脳は、理由のない小さなノイズを検知していた。

 工作スペースの片隅。黙々と作業を続ける二人の背中に、八幡は少しだけ躊躇いながら近づいた。

 

「よお。……それ手伝おうか? 結構な量あるだろ」

 

 八幡が留美の隣に腰を下ろそうとすると、留美はカッターを動かす手を止めず、平坦な声で返した。

 

「……いい。大江君と二人でやるから」

「……え?」

「八幡、他にもやることあるんでしょ。ここは私たちがやったほうが早いから」

 

 その、あまりにも事務的で、けれど確かな信頼に基づいた「拒絶」に、八幡の身体が中空で固まった。自分は「お邪魔虫」なのだろうか。立ち上がろうとした八幡の背に、大江が穏やかな、けれど全てを見透かしたような声をかける。

 

「気にしないでください、比企谷さん。……今のは、彼女なりの気遣いですよ。今のあなたは、もっと全体を見るべき『特別な役割』があるはずだ……そう、彼女は本能で理解している」

 

「……お前、小学生のわりには随分と物分かりがいいんだな」

 

 八幡が苦笑しながら尋ねると、留美が少しだけ誇らしげに口を開いた。

 

「……大江君、夏休みが終わってから転校してきたの。アメリカからの帰国子女なんだって。すっごく頭が良くて……たぶん、学校の先生よりも」

「アメリカ、ね……」

 

 八幡の電子頭脳が「帰国子女」というキーワードを検索し、大江シンのプロファイルを更新する。大江は留美の手元の作業を完璧なタイミングでサポートしながら、知性的な笑みを浮かべた。

 

「留美さんこそ、年齢の割にとても大人びた視点を持っている。……このコミュニティの歪みを正確に把握している彼女は、僕にとっても稀有な対話相手なんです」

 

 その言葉に、あのクールな留美が僅かに頬を赤らめ、視線を逸らした。

 

(……何だこれ。小学生相手に、完全な敗北感を味わってるんだが……)

 

 かつて孤独の深淵で共鳴したはずの留美が、自分ではない、自分より遥かにスマートで「完璧」な少年と、自分たちの知らない言葉で語り合っている。

 八幡は項垂れながら、作業スペースを立ち上がった。かつて自分が留美に教えた「独りでもいられる強さ」は、大江という「理解者」の出現によって、新しい形に書き換えられようとしているのかもしれない。

 作業スペースを後にしようと背を向けた八幡の背中に、留美の視線が突き刺さる。それはかつてのキャンプ場で、独りきりで闇を見つめていた少女が、唯一自分を見つけ出してくれた「共犯者」に向ける、名残惜しさに満ちた瞳だった。

 

「……あー、比企谷さん。もしお時間があるなら、少しだけ彼女の手伝いに入ってもらえませんか?」

 

 大江が、まるで全てを察したかのような完璧なタイミングで声をかけた。

 

「僕一人では、彼女の求める『正確さ』を形にするのに少し人手が足りなくて。あなたのような経験豊かな方の助言があれば、彼女もより納得できるはずだ」

「……大江、お前本当にかわいげねーな」

 

 八幡は苦笑しながら、再び留美の隣に腰を下ろした。小学生らしからぬ気遣いの良さに感心しつつも、どこかやり込められたような気分だ。

 

「……八幡。ここ、どうすればいい?」

「……あ? ああ、留美。そこは、そうだな……」

 

 自然に名前で呼び合い、三人の作業が再開される。留美はどこか嬉しそうに、けれど黙々と手を動かし続けた。

 

「……学校、相変わらずなのか?」

「……別に。一人でいるだけ。クラスの男子なんて、馬鹿みたいに騒がしいのばっかりだし。時々、意味のわからない告白とかされるけど……本当に、全くそういう気になれない」

 

 留美は淡々と、けれど心底退屈そうにカッターを走らせる。

 

「……全員、大江君みたいならいいのに」

「それはそれで、学校が研究施設みたいになって退屈ですよ、留美さん」

 

 大江が苦笑交じりに嗜める。

 八幡は、かつて孤立していた少女が、今や「告白」を面倒なタスクとして処理するほどモテるようになっている事実に、深い感銘を覚えた。

 

(……あの鶴見留美が、男子をバッサリ切り捨てる強者(つよき)な美少女に成長してるとは……)

 

 八幡は、親戚の子供の成長を喜ぶドラえもんのような、慈愛と温かさに満ちた視線を留美に送る。

 

「……何その目。気持ち悪いんだけど」

「……ぶふぉっ。……すまん、凹んだ」

 

 辛辣な一言で瞬時に沈没する八幡。

 だが、そんなやり取りの最中、飾り付けのノルマが終わりを告げようとしていた。八幡は出来上がったリースを手に取り、ふと思いついたように口を開いた。

 

「なあ、留美。……イベントで、俺たちが企画してる演劇。お前、それに出る気はないか?」

 

 日常という名の舞台から一歩踏み出し、新しい自分を「定義」するための提案。

 八幡の言葉に、留美の手が止まり、大江シンが静かに目を細めた。

 八幡の唐突な提案に、留美は一瞬だけ戸惑うように大江の顔を見た。大江は穏やかに頷き、その背中をそっと押す。

 

「……わかった。やってみる、演劇」

 

 留美は静かに、だが確かな意志を込めて頷いた。かつてキャンプ場の闇の中で「独り」を選んだ少女が、今は誰かの作った舞台(セカイ)へ、自らの意志で踏み出そうとしている。

 

「助かる。……大江、お前はどうする。裏方の手伝いなら、いくらでも仕事はあるぞ」

 

 八幡はついでという風に大江にも声をかけたが、大江は淡い笑みを浮かべて首を振った。

 

「いえ、僕は影から見守る方が性に合っていますから。それに、舞台には『主役』にふさわしい光が必要です。僕のような者は、客席の方が似合っている」

「……相変わらず、達観してやがんな」

 

 八幡は、どこか浮世離れした大江の物言いに首を傾げつつも、心の奥で安堵していた。

 最初はどこか胡散臭い、自分と同種の「異物」だと思っていた大江。だが、彼が留美の隣にいて、彼女の学校生活が少なからず良い方向へ変化しているのなら、それは喜ぶべきことなのだ。

 八幡と留美が、打ち合わせのためにホールの舞台袖へと歩き出す。

 その背中を、大江シンは冷徹なまでの静寂を湛えた瞳で見送っていた。

 

「……みんなあなた方のようだったら、僕たちはこれほど苦労しなくて済んだのにね」

 

 その呟きは、準備に追われる生徒たちの喧騒に飲み込まれ、誰の耳にも届かなかった。

 

 そして、ついにその時が訪れた。

 会場の照明がゆっくりと落とされ、華やかなジングルが鳴り響く。

 雪乃、結衣、いろは、そしてエイトマンとしての顔を隠した八幡。それぞれの想いと、裏側で蠢く巨大な思惑を乗せて。

 クリスマス合同イベントが、いま、静かに幕を開けた。

 

 

──

 

 

 コミュニティセンターのバックヤードは、まるで戦場のような喧騒に包まれていた。だが、その混沌の中には、着実に完成へと向かう確かな規律が存在していた。

 

「由比ヶ浜さん、クッキーの袋詰めは終わったかしら?」

 

 調理室の主(ぬし)と化した雪乃が、鋭い手つきでクリスマスケーキのデコレーションを仕上げながら問いかける。

 

「おっけー! ばっちりだよ、ゆきのん! ね、私もそのケーキ焼くの……」

「大丈夫よ。気持ちだけ受け取っておくわ。だから由比ヶ浜さん、絶対にそのオーブンには手を触れないで。……絶対によ?」

 

 雪乃の必死なまでの念押しに、結衣は「えー、ひどいよー」と頬を膨らませる。だが、雪乃にとって、ここで「暗黒物質(ダークマター)」を生成されることだけは、何としても避けなければならない論理的必然だった。

 

 一方、舞台裏では八幡といろはが、最終確認の台本(シナリオ)を手に並んでいた。

 

「あー……もー、絶対やばいですよー。噛みますよ私、絶対本番で『くりすにゃしゅ』とか言っちゃいますよー……」

「安心しろ。そうなったら俺が照明を全部落としてやるから、お前はその隙に逃げろ」

「先輩のフォロー、極端すぎません!? もっとこう、優しく包み込むようなエールとかないんですか!」

 

 いろはが半泣きで八幡の腕を叩く。八幡はそんな彼女を、少しだけ真剣な眼差しで見据えた。

 

「……選挙の時に比べれば、お前も慣れたもんだ。自信持てよ。シナリオは書記の子が頑張って作ったし、俺も何度も目を通した。何より、この二週間、お前は自分の足で動いてただろ」

 

 八幡たちの手を借り切るのではなく、自ら汗をかいて調整を続けた一色いろは。その努力を一番近くで見ていたのは、他でもない八幡だった。

 

「……。……えへへ。……ありがとうございます、先輩」

 

 いつになく素直に、いろはが深く頭を下げる。

 

「先輩たちが色々教えてくれたこと。この二週間、私なりに会長として頑張れたこと。……全部、無駄じゃなかったって証明してきます。あ、副会長との最終タイミング確認、よろしくお願いしますね? あとケーキの運搬も!」

「……ああ、了解だ。行ってこい、会長」

 

 迷いの消えた背中を見送りながら、八幡は短く息を吐いた。

 色々な意味で、これまでのどの「奉仕」よりも大変なイベントだった。だが、目の前で成長した少女の背中を見ていると、悪くない充足感が胸を満たしていくのを、八幡は静かに認めていた。

 ホールの照明が鮮やかに切り替わり、海浜総合高校のブラスバンドが奏でる軽快なジャズが会場を包み込む。その熱気を引き継ぐように始まった総武高校の演劇は、観客の予想を遥かに上回る完成度を見せていた。

 舞台の中央、スポットライトを浴びて凛と立つ留美の姿に、客席からは感嘆の声が漏れる。かつて独りであることを選んだ少女は、今、大勢の視線を受け止めながら、物語の言葉を紡いでいた。

 舞台裏では沙希が、出番を待つ園児たちの衣装を直し、あちこちを駆け回っている。その表情は鋭い「川崎沙希」ではなく、妹の京華を慈しむ優しい「姉」のそれだった。

 そして、イベントはクライマックスへ。雪乃たちが心血を注いで完成させたクリスマスケーキが、天使の羽を背負った園児たちの手によって、慎重に、かつ誇らしげにパーティー会場へと運ばれていく。

 

「……なんとか、無事に終わりましたね」

 

 会場の隅、重厚な扉を閉めたところで、副会長の本牧が額の汗を拭いながら八幡に話しかけてきた。

 

「ご苦労だったな。お前たち生徒会も、よく頑張ったよ。一色の補佐も、十分以上だったぞ」

 

 八幡は自販機で買ったマックスコーヒーのプルタブを引き、暴力的な甘さを喉に流し込んだ。本牧はどこか照れくさそうに、けれど真剣な面持ちで八幡に向き直る。

 

「……最初は不安だったんです。年下の一色さんが会長になって、本当にやっていけるのか。……実際、あなたがアドバイスをくれるまでは、僕たちも何をしていいか分からなかった」

 

 本牧は苦笑しながら、パーティーの中心で園児たちやお年寄り、そして玉縄たちとまで屈託のない笑顔で談笑するいろはを見つめた。

 

「正直なところ、一色陣営の最強の参謀だった比企谷さんが、最初から生徒会に来てくれればもっと楽だったんですけどね」

「……ふっ。……生徒会なんて、ガラじゃねぇよ。それに――」

 

 八幡は、かつて自分が無理やり担ぎ上げた「虚像の会長」が、今、自分自身の足で立ち、自分自身の言葉で誰かを幸せにしている光景を網膜に焼き付けた。

 

「――もう、俺みたいなひねくれた参謀の出番はなさそうだしな」

 

 空になった缶をゴミ箱に放り、八幡は喧騒から少し離れた壁に背を預けた。

 エイトマンとしての「定義」も「演算」も、今は必要ない。ただの比企谷八幡として見つめるこの温かな景色こそが、彼が守りたかったものの一つだった。

ホールの喧騒を少し離れた壁際。八幡は、手に残ったマックスコーヒーの微かな温もりを感じながら、独り静かに会場を見渡していた。

 

(……いつからだろうな。こんな風に思うようになったのは)

 

 ふと、自嘲気味な思考が脳裏をよぎる。

 かつての自分なら、効率や合理性を欠いた「人のための奉仕」など、偽善か自己満足だと切り捨てていただろう。だが、文化祭のあの日、エイトマンの力を振るって雪乃を助け、そして今、いろはが自分の足で未来を掴み取った。その先にある、この騒がしくも穏やかな『世界』を見ること。それが、今の自分にとって何よりも代えがたい充足感となっていることに気づく。

 

 ──エイトマンのボディ。

 

 それは本来、人間の1000倍以上の労働をこなし、極限環境下での宇宙開発という人類の壮大な夢を背負わされて作られた、究極の「道具」だ。

 数兆回の演算、重力さえ制御する出力、物理法則をねじ伏せる機動力。その全てが今、目の前の小さなケーキを運び、少女の悩みを聞き、たかだか高校のイベントを成功させるという、ささやかな『幸せ』のために注ぎ込まれている。

 

(……宇宙開発なんて大層な目標より、こっちの方がよっぽど難しいし、価値がある気がするな)

 

 高性能な電子頭脳が導き出す、あまりにも非合理で、けれど温かな結論。

 冷徹な兵器として定義されるべき存在が、日常という名の聖域を守る防波堤となっている。その矛盾がおかしくもあり、愛おしい。

 

(……ああ。今は、これでいい。俺という個体が、比企谷八幡として存在し、作られた意味は……これでいいんだ)

「はい、はーちゃん! あーん!」

 

 思考の海に沈んでいた八幡を呼び戻したのは、京華の無邪気な声だった。小さな手に持たれたフォークが、一口サイズのケーキを八幡の口元に運んでくる。

「……おう。サンキュ、京華」

 

 促されるままに口に運んだケーキ。

 生クリームの濃厚な甘さと、飲み干したばかりのマックスコーヒーの特有の甘苦さが口の中で混ざり合う。

 その複雑で、けれど確かな実感を伴う味を噛み締めながら、八幡は思う。

 網膜ディスプレイに表示されるシステムステータスは『All Green』。

 戦略的勝利でも、任務完了のログでもない。目の前で笑い合う彼女たちの笑顔こそが、エイトマンという最強の救世主が勝ち取った、最大にして最高の報酬だった。




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