——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第七話:鋼鉄のエース

 

「比企谷くんは、ここで何してるの?」

 

袖口を掴んだまま、上目遣いで問いかけてくる戸塚。その破壊力に電子頭脳が一時的なフリーズを起こしかけるが、八幡は必死に表面上の平穏を保った。

 

「何って……俺はここの部員なんだけど。お前こそ、なんでここに?」

「今日は依頼人を連れてきてあげたの、ふふんっ!」

 

八幡の問いに答えたのは、戸塚ではなく、横で無駄に大きい胸を反らして自慢げに笑う由比ヶ浜だった。

 

(……お前には聞いてねーよ。というか、その自信満々なポーズのせいで、俺の視覚センサーに余計な視覚情報が流れ込むからやめろ)

「やー、ほら、なんてーの? あたしも奉仕部の一員じゃん? だから、ちょっと働こうと思ったわけ。そしたらさいちゃんが悩んでる風だったから、連れてきたの」

「由比ヶ浜さん」

 

雪ノ下が本から目を上げ、静かに口を開いた。

 

「ゆきのん、お礼とかそういうの全然いいから。部員として当たり前のことをしただけだから!」

「由比ヶ浜さん。……別に、あなたは部員ではないのだけれど」

「そうなんだっ!?」

 

由比ヶ浜が、文字通り鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。

 

(そうなのか……。てっきり、あのクッキー事件の時にどさくさに紛れて部員になってるパターンだと思ってたんだがな)

 

「ええ。入部届ももらっていないし、顧問の承認もないから、あなたはまだただの『部外者』よ」

「書くよ! 入部届くらい、何枚でも書くよ! 仲間に入れてよっ!」

 

半ば涙目になりながら、カバンからルーズリーフを取り出し、猛然と「入部届」をしたため始める由比ヶ浜。

 

(……おいおい、せめて漢字くらいちゃんと書けよ。その『奉仕』の字、棒が一本足りねーぞ)

 

八幡はマックスコーヒーの空き缶を弄びながら、その光景を眺めていた。

それにしても、と彼は思う。

雪ノ下を「ゆきのん」呼ばわりし、あまつさえ一定のスキンシップまで取ってのける由比ヶ浜。その対人スキルには、鋼鉄の理論を遥かに凌駕する「何か」を感じざるを得ない。

だって、あの雪ノ下雪乃だぞ?

つい最近まで友達ゼロの孤高を貫いていたはずの彼女の懐に、いつの間にかするりと入り込んでしまう。これは、ある種の才能と言ってもいい。

 

(……このコミュ力があれば、一躍クラスの中心にでもなれそうなんだがな。まあ、三浦とタメを張るような真似を、こいつがするとは思えないが)

 

「あ、あの、比企谷くん……。僕の依頼、聞いてもらってもいいかな?」

 

由比ヶ浜と雪ノ下のやり取りを背後で見ていた戸塚が、遠慮がちに声をかけてきた。

 

八幡は、網膜ディスプレイに映る戸塚の「天使指数」が最大値であることを再確認し、あえて素っ気なく答えた。

 

「……ああ。聞くだけならタダだ」

「それで……戸塚彩加くん、だったかしら? 私たちに何か御用かしら」

 

雪ノ下が、冷徹な美貌に事務的な色を乗せて問いかける。

 

「あ、あの……ここで、テニスを強くしてくれるって聞いたんだけど……」

 

戸塚はおどおどしながら、由比ヶ浜の方を振り返った。

案の定、雪ノ下の絶対零度の視線が戸塚を射抜く。

 

「奉仕部は便利屋ではないわ。目標を達成するための手伝いはするけれど、強くなるかどうかは貴方次第よ。私たちはあくまで補助的な役割に過ぎないのだから」

「そう、なんだ……」

 

雪ノ下の冷たい物言いに、戸塚が目に見えて縮こまる。

 

(あーあ、ちぢこまっちまったじゃねーか。可哀想に……)

 

八幡は内心で由比ヶ浜を睨んだ。どうせ、彼女が外で「ここなら何でも解決してくれるよ!」的な適当な吹聴をしたに違いない。

 

「由比ヶ浜さん。貴方の無責任な言動で、一人の少年の淡い希望が打ち砕かれたわよ」

「ん? んんー、でも、ヒッキーとゆきのんなら何とかしてくれるでしょ?」

 

由比ヶ浜は人懐っこい笑顔で、さらりと言ってのけた。

 

(由比ヶ浜、もし今のセリフを狙って言ってるなら、お前は大した策士だよ……)

 

雪ノ下のようなプライドの塊を刺激するには、これ以上ない「挑発」だ。案の定、雪ノ下の瞳の奥に蒼い炎が宿ったのを、八幡の視覚センサーは鮮明に捉えた。

 

「……へぇ。貴方もなかなか言うようになったわね。そこの死んだ魚の目の男はともかく、私を試すような発言をするなんて」

 

どうやら、雪ノ下の中の「負けず嫌い」のスイッチが入ったらしい。こうなると、彼女は相手を——そして課題を——徹底的に叩き潰して正解を導き出すまで止まらない。実におっかない性質だ。

そして、その張り詰めた空気に当てられたのか、戸塚が潤んだ瞳で助けを求めるように八幡を見つめてきた。

 

(ああ、ちくしょう、そんな涙目でこっちを見るな!)

「……仕方ない。もともと俺も関わってた話だしな。俺も手伝うよ」

「ほ、本当!? ありがとう、比企谷くん!」

 

キラキラキラ……ッ!

部室内だというのに、八幡の網膜ディスプレイには謎の光のエフェクトが重なり、戸塚の背後に透き通るような白い翼がスキャンされた。

 

(何なんだ、この子は。マジで可愛すぎるだろ。……神は地上に本物の天使を遣わされたのか?)

 

もはや戸塚の性別が「男」であるという事実は、電子頭脳の隅っこでエラーログとして虚しく点滅しているに過ぎなかった。

 

「……いいだろう。俺がお前だけの『宗方コーチ』になってやるよ」

「?」

 

戸塚は首を傾げたが、その仕草すらもはや八幡にとっては「聖なる加護」のようなものだった。

 

「ゆきのん、宗方コーチって誰?」

 

由比ヶ浜が不思議そうに尋ねると、雪ノ下は溜息をつきながら本を開き直した。

 

「後で平塚先生に聞いてみなさい。多分、喜々として一時間くらい語ってくれるわよ」

 

──

 

その日の夜、地図にない地下研究所。

火花の散るコンソールを前に、谷博士は呆れたように肩をすくめた。

 

「久しぶりに会ったと思ったら、わざわざこの男のビジュアルデータをインストールしてくれとはな……」

「すいませんね、無理言って。……だが、これが必要なんです。天使を救うには、鋼鉄の意志を持った『コーチ』がな」

 

八幡は、網膜に投影された『エースをねらえ!』の資料映像を指差した。谷博士はフム、と顎をさすり、マッドサイエンティスト特有の不敵な笑みを浮かべた。

 

「いや、なかなか興味深い実験……もとい、試みだと思うよ。任せなさい、出力レイヤーを一段噛ませるだけだ。すぐに終わる」

「お願いします」

 

ピーガガガッ!

ジジジジジジ……ッ!

バチバチバチッ!

 

八幡の電子頭脳に、昭和の熱血アニメ特有の「劇画調フィルタ」と、常に背景に集中線と薔薇を背負う「エフェクト・チェンジ・プログラム」が書き込まれていく。

 

――

 

 

翌日、放課後のテニスコート。

初夏の風が吹き抜ける中、奉仕部の面々と戸塚が待ちぼうけを食っていた。

 

「ヒッキー、遅いね……」

「あの男はまったく……。まさか、天使に色よい返事をしておきながら、土壇場で逃げ出したわけではないでしょうね」

 

雪ノ下の毒舌が、待ち時間の長さに比例して鋭さを増していく。

 

「そ、そんなぁ……比企谷くんに限って」

 

戸塚が悲しげに俯いた、その時だった。

 

「悪い、待たせたな」

 

低く、響き渡るようなバリトンボイス。

そこには、いつもの猫背で死んだ魚の目をした比企谷八幡の姿はなかった。

 

「あ、来た! ヒッキー、おそ、い……っ!?」

「一体何をもたもたし、て……って、誰よ貴方!?」

 

振り返った由比ヶ浜と雪ノ下が、同時に絶叫に近い声を上げた。

 

「あ、あの……貴方、誰ですか?」

 

戸塚に至っては、目の前の人物が認識できずに、おろおろと後退りする始末。

無理もない。そこに立っていたのは、彫りの深い劇画調の輪郭に、鋭く、それでいて星が瞬くような輝きを宿した瞳を持つ「超二次元的イケメン」だったからだ。

 

「戸塚。……エースをねらえ!」

 

八幡(劇画調エフェクト全開)が、きらりと目を光らせて指をさす。その背後には、テニスコートにもかかわらず、荒れ狂う波濤と燃え盛る炎の幻影が重なっていた。

 

「ひ、ヒッキー、なんか変だよ! 目が腐ってない! というか、線が太いよ!?」

「まるで……そうね、昭和の少女漫画の描き方ね。電子的に網膜をハッキングされているのかしら……」

 

女子二人の驚愕を余所に、八幡は満足げにラケットを構えた。

これこそ、谷博士の変身装置を応用した「エフェクト・チェンジ:宗方モード」

 

今の俺は、クラスの端っこで卑屈に笑う比企谷八幡ではない。

────宗方八幡だ!!

 

「いるか、塩のつぶ」

テニスコートにそぐわない、あまりにもストイックな(そして意味不明な)台詞。

戸塚はポカンとし、由比ヶ浜は戦慄し、雪ノ下は最大級の深いため息をついた。

 

「……どうやら、中身の腐り具合だけは変わっていないようね」

 

雪ノ下の冷たいツッコミさえ、今の「宗方八幡」には心地よい打球音にしか聞こえなかった。

 

「……比企谷、くん、だよね?」

困惑と、ほんの少しの期待が入り混じった瞳で、戸塚が問いかける。

八幡は無言で、だが劇画調の鋭い眼差しを崩さぬまま、すっと戸塚の前へ歩み寄った。

 

「戸塚」

「あ……」

八幡の手が、女子よりもさらさらとしてそうな戸塚の髪に触れる。

(……想像通りだ。絹のように繊細な感触。電子頭脳の触覚センサーが、かつてないほど心地よい微振動を記録している)

「今は、『コーチ』と呼んでくれないか?」

 

キィィィィン……ッ!

八幡の背後で、再び謎の光のエフェクトが炸裂した。劇画調の輪郭線がさらに太くなり、瞳の星が一段と輝きを増す。

 

「は、はい……。コーチ……」

 

淡く頬を染める戸塚。いや、今はあえて彩加と呼ぶべきか。

八幡は心の中で、地下研究所の老人に深い感謝を捧げた。

 

(谷博士、あんたはやはり天才だ。ここまで完璧な『概念』をインストールできるなんて……!)

 

その様子を、数メートル離れた場所から眺めていた女子二人の視線は、絶対零度を下回っていた。

 

「ねえ、ゆきのん」

「……何かしら」

「なんか、あの二人の空間だけ、季節外れの花が咲き誇ってるんだけど」

「ええ、きっと薔薇の花ね。……それも、かなり毒々しい色の」

 

由比ヶ浜と雪ノ下の辛辣な実況を余所に、今日の八幡は異様なやる気に満ちていた。

この日のために、電子頭脳のリソースを割いて『エースをねらえ!』全巻、さらには『テニスの王子様』全巻を読破し、あらゆる「魔球」と「熱血」のデータをバッファに溜め込んできたのだ。

 

「戸塚! とにかくお前は体力が低い!」

 

ラケットを突きつけ、激しく、時に厳しく声を張り上げる。

 

「強い打球にこだわらず、どんな球にも追いつける足とスタミナをつけることが第一だ! 分かったか!」

「分かりました、コーチ! 頑張ります!」

 

戸塚の瞳に、八幡(宗方モード)の熱が伝染していく。

 

「だから……もっとシゴいてください!」

「…………っ!?」

 

危ない。

今のセリフは、精神衛生上、そして法的に非常に危ないぞ、戸塚!

八幡の論理回路が一時的なショートを起こすが、彼はあえて「コーチ」としての仮面を脱がなかった。

 

「……もう一度、言ってくれないか?」

「もっと、シゴいてください!」

 

…………ふぅ。

 

これがコーチ、癖になりそうだ。

八幡の視界には、もはやテニスコートの緑ではなく、オレンジ色に染まる夕焼けの海と、そこに向かって走り出す自分たちの幻影が見えていた。

 

「……ヒッキーが、キモい」

「見ちゃダメよ、由比ヶ浜さん。……目が腐るわ。いえ、網膜そのものが破壊される」

 

雪ノ下の忠告は正しかった。

比企谷八幡の鋼鉄の日常は、もはや「青春」という名の制御不能な熱暴走(メルトダウン)を引き起こしていた。

 

 

──

 

 

テニスコートを吹き抜ける風が、少しずつ熱を帯び始めている。

戸塚の特訓は順調だった。雪ノ下の妥協なき指導(という名のしごき)に、戸塚は必死に食らいついていた。

その様子を、八幡は電子頭脳の解析機能で静かに見守る。

 

(……心拍数一四〇。筋疲労度、限界に近い。だが、瞳の輝き——熱量(カロリー)は、インストールされたどのデータよりも高いな)

 

雪ノ下は合理的だ。その指導は、戸塚のスタミナと動体視力の限界を正確に見極め、その一歩先を常に要求する。付いてこれる者が限られるその「正しさ」は、彼女が孤高のぼっちである理由そのものだが、今の戸塚にはそれが最高のスパイスになっている。

 

ちなみに、呼んでもいないのに材木座がラケットを振り回して「我が剣風にひれ伏せ!」などと喚いているが、八幡の視界からはノイズキャンセリング機能で除外されていた。……正直、邪魔だ。

 

「……続けるの?」

 

五十球を超え、転倒した戸塚に雪ノ下が淡々と問いかける。

 

「うん、まだやれるよ。みんなが協力してくれてるんだから」

 

その返答を聞き、雪ノ下は「あとはお願い」と由比ヶ浜に告げて校舎へ歩き去った。突き放したようにも見えるが、八幡の聴覚センサーは、彼女が去り際にこぼした小さな、満足げな吐息を拾い上げていた。

 

「交代だ、由比ヶ浜。お前は休んでろ」

「あ、そう? ありがとヒッキー。あ、これ、五球で飽きるから注意ね」

 

由比ヶ浜からボールの籠を受け取る。

だが、交代した瞬間、それまで明るかった彼女の表情が、急激に色を失った。

 

(……血流の変化。瞳孔の収縮。由比ヶ浜の生体信号が、明確な『拒絶』と『恐怖』を示している)

「あ、テニスしてんじゃん、テニス」

 

甲高い、それでいて場を支配する傲慢な響きを含んだ声。

振り返れば、そこには葉山隼人と三浦優美子を中心とした、総武高校の頂点に君臨する「一大勢力」がいた。

三浦優美子の派手な金髪と、周囲を圧する「陽」のオーラ。そして葉山隼人の、誰にでも好かれる完璧な王子様の笑顔。

八幡の網膜ディスプレイが、彼らのステータスを次々と書き換えていく。

 

(……三浦優美子。推定攻撃力、最大級。葉山隼人。リア充指数、計測不能。取り巻きの雑兵、多数)

 

彼らが歩いてくるだけで、テニスコートの空気が塗り替えられていく。

由比ヶ浜は、まるで首輪を嵌められた子犬のように、三浦の視線から逃れるように俯いた。

 

「なんだ、結衣も一緒だったの?」

 

三浦の視線が、由比ヶ浜に突き刺さる。

 

「あ、うん……ちょっと、ね」

 

曖昧な笑みを浮かべる由比ヶ浜。

八幡は、手に持ったボールを握りしめた。

鋼鉄の指先が、テニスボールのフェルトを微かに凹ませる。

 

(……なるほどな。お邪魔虫ってわけか。せっかくの天使の特訓に、泥を塗るような真似はさせねーよ)

「三浦さん、僕は別に遊んでるわけじゃ、なくて……練習を……」

 

戸塚の声は蚊の鳴くように弱々しい。スクールカーストの頂点に立つ「女王」を前に、天使の翼がすくんでいる。八幡の聴覚センサーは、戸塚の心拍数が緊張で急上昇しているのを鮮明に捉えていた。

 

「え? 何? 聞こえないんだけど」

 

三浦の取り付く島もない態度。戸塚よ、言いたいことは大きな声で言わなきゃダメだぞ。というか、由比ヶ浜といい戸塚といい、この金髪の女王にビビりすぎだろう。

八幡の網膜ディスプレイが、急速に接近する三浦の「敵対指数」を赤く点滅させる。このまま「宗方モード」の劇画エフェクト全開で対峙すれば、火に油を注ぐのは明白だ。

 

(……不味い、一旦リセットだ)

 

八幡は電子頭脳にコマンドを打ち込み、谷博士特注の「熱血コーチ・プログラム」を緊急停止させた。

シュン……。

一瞬にして、八幡の鋭い輪郭線は消え失せ、瞳に宿っていた星の輝きも霧散した。背後に渦巻いていた荒れ狂う波濤の幻影も、まるで幻だったかのように消え去る。そこに残ったのは、いつもの猫背で、死んだ魚の目をした、どこにでもいる(そして誰からも相手にされない)比企谷八幡の「通常形態」だ。

 

「あー、悪いんだけど。ここのコートは戸塚が先生にお願いして、練習のために専有してるんだ。他人はお呼びじゃない」

 

八幡はいつもの気だるげな声で、三浦の前に立ちはだかった。早く出て行ってくれ。俺と戸塚の純粋な青春(特訓)のために。マジで。

 

「は? だから? あんた部外者なのに使ってんじゃん」

 

三浦が蔑むような視線を向けてくる。エフェクトを解除したことで威圧感こそ消えたが、逆に三浦の不快感を逆なでするような「不気味な無機質さ」が際立つ。

 

「俺は戸塚の『専属コーチ』だからな。立場が違う」

「専属」の部分を不自然なほど強調して言い放つ。安心しろ戸塚、お前は俺が守る。鋼鉄のボディが、女王の威圧感を物理的に遮断する。

 

「はぁ? なに意味わかんないこと言ってんの? キモいんだけど」

 

三浦の吐き捨てるような言葉。

 

(すいませんごめんなさい調子に乗っていました。だからそんな不燃ゴミを見るような目で睨まないで! 透過装置がなくてもあんたの殺意が透けて見えるくらい怖いから!)

 

心の中の「比企谷八幡」が悲鳴を上げるが、エイトマンとしての鋼鉄の自制心がそれを表に出さない。

 

「まあまあ優美子、そうカリカリしないで。みんなでやった方が楽しいしさ、それでいいんじゃない?」

ここで総武高校の太陽、葉山隼人が爽やかな笑顔で割って入った。その完璧すぎる善意のオーラ。だが、八幡にとってそれは特訓のノイズでしかない。

 

「いや、楽しいとかそういう問題じゃないんだ。こっちは真剣なんだよ。遊びじゃないんだ、テニスは」

「ねー隼人ー、何だらだらやってんの? あーし、早くテニスしたいんだけど」

「うーん……あ、じゃあこうしないか? 俺たち側とヒキタニ君たち側で勝負して、勝ったほうが今後、昼休みにテニスコートを優先的に使えるってことで。もちろん、俺たちが勝っても戸塚の練習には付き合うし——」

 

葉山の妥協案。一見すれば合理的で、どちらにも利がある提案だ。周囲の「空気」も、それに賛同する流れに傾きかける。

 

「却下だ」

 

八幡は即座に、冷徹に断言した。

 

「……ヒッキー?」

 

由比ヶ浜の驚く声が聞こえた。

テニスコートの権利なんてものは、今の八幡にとっては二の次だ。

だが、葉山の「戸塚の練習に付き合う」という言葉だけは見過ごせない。

それはつまり、俺以外の人間が、俺以外の不純物が、この純粋な天使の特訓に混ざり込むことを意味する。

テニスはどうでもいい。

だが。

 

(……だが、戸塚は渡せねえな。この俺が、最高の『エース』に仕立て上げるんだ。余計な光はいらねえんだよ、太陽(ハヤマ))

 

通常モードに戻っても、その独占欲にも似た「コーチ」としての矜持は消えていなかった。

比企谷八幡の鋼鉄の日常に、スクールカーストを巻き込んだ「聖域守護」の戦いが始まろうとしていた。

 

「なんか試合をやる方向に持ってきたげな所悪いがな……それをやるかどうか決める決定権はお前らにはねえよ」

 

八幡の冷めた声が、葉山の提案で作られかけた「空気」を切り裂いた。

そうだ。ぶっちゃけこんな勝負を受ける義理なんかない。俺に「お願い」をしてくれたのは戸塚であって、このキラキラした集団ではない。

 

「それに、コーチなら間に合ってるぜ……」

八幡の電子頭脳が、再び『宗方プログラム』をスタンバイさせる。

最強のマシンプレイヤー、宗方・八幡。彼の辞書に「接待テニス」の文字はない。

 

「ちょっとあんた、あーしらのこと舐めてんの?」

三浦の苛立ちが頂点に達しようとしている。だが、八幡は動じない。

 

「どうしてもと言うなら、試合してやってもいいけどな」

「はぁ?」

「ヒキタニ君、わかってくれたんだね」

 

葉山が安堵の表情を見せるが、八幡の言葉には続きがあった。

 

「ただし、こっちも時間が惜しいんでな。……面倒だから、お前ら二人まとめてかかってこい。それが条件だ」

その場の全員が凍りついた。二対一。テニスにおいて、それは圧倒的な戦力差を意味する。

 

「バカ? 二対一なんて勝負に——」

「なんだ、怖いのか」

 

八幡は、かつて数々の修羅場(ボッチ的な意味で)を潜り抜けてきた経験を総動員し、口の端を歪めた。

超精密な表情筋の制御が生み出す、渾身のゲス顔スマイル。

 

「〜〜〜〜っ! やってやろうじゃん! 隼人、やるわよ!」

 

三浦のプライドに火がついた。彼女の背後に、県選抜クラスの猛々しいオーラが立ち昇るのを八幡のセンサーは感知した。

 

「あ、ああ……いいんだな? 比企谷君」

「二言はねえよ」

 

八幡は背を向け、準備に取り掛かる。

 

「ちょ、ちょっとヒッキー! 何考えてんの!?」

 

慌てて駆け寄ってきた由比ヶ浜が、八幡の袖を掴む。

 

「二対一なんて無茶だよ! それに優美子、中学の時女テニで県選抜にも選ばれてるんだよ!?」

「ほう……あの縦ロールは伊達じゃないってことか。まさかお蝶夫人に勝るとも劣らない実力者だったとはな」

 

八幡は心の中で、インストールされたテニス漫画のデータを更新した。なるほど、相手に不足はない。

 

「ま……そんな心配しなくてもいいから」

「ヒッキー! ……もう! さいちゃんもなんか言ってよ!」

 

助けを求められた戸塚は、じっと八幡の背中を見つめていた。その瞳には、不安の色はない。

 

「……由比ヶ浜さん」

戸塚の鈴を転がすような、だが芯の通った声が響く。

 

「……コーチなら、もしかしたら勝っちゃうかも」

 

その言葉に、八幡の電子頭脳が微かに共鳴した。

信頼。データでは計り知れない、熱いエネルギー。

 

(……コーチ、か。そう呼ばれちゃあ、期待に応えないわけにはいかねえな)

 

八幡は再び、宗方モードのスイッチを入れた。

視界がモノクロームから、鋭いコントラストを伴う劇画の世界へと変貌していく。

ターゲットロック。葉山隼人、三浦優美子。

比企谷八幡の鋼鉄の右腕が、ラケットを「武器」へと変える。

 

 

──

 

 

テニスコートを包んでいた熱気は、唐突な幕切れと共に静寂へと変わった。

結論から言えば、最新鋭のロボット相手に生身の人間が太刀打ちできるはずもなかった。比企谷八幡の圧勝である。

八幡の放つサーブは地味ながらも、電子頭脳が導き出した「回避不能」なコースを正確に突き、レシーブは相手の重心の乱れを突く際どい軌道を描き続けた。

 

葉山と三浦は二人という数的有利を活かそうと、コートの端から端へと揺さぶりをかける。しかし八幡は、まるで『マリオテニス』のヨッシーを彷彿とさせる効率的な足運びで、あらゆる打球に先回りしていた。

無茶苦茶なスライスがかけられたスピンショットがコートを抉り、土煙を上げる。翻弄され続けた二人が膝をついたとき、勝負は終わっていた。

 

「げ、ゲームウォンバイ比企谷!!」

 

審判席に座る戸塚彩加が、興奮を隠せない声で叫ぶ。

その傍らで、由比ヶ浜結衣は信じられないものを見たという表情で立ち尽くしていた。

 

「うそ……勝っちゃった……」

「これで納得してくれたか」

 

八幡は網膜ディスプレイに表示される、二人の疲労困憊を示すバイタルデータを一瞥した。そして、表面上は穏やかな、しかしどこか無機質な「営業用スマイル」で握手を求める。

葉山たちは、顔をひきつらせながらそれに応じた。

 

「そ……そうだね……」

「あ、あんた……、バケモノよ……」

 

三浦の罵倒に近い称賛を、八幡は背中で受け流す。化け物とは心外だ、と彼は思う。これでも谷博士の最高傑作、人類の幸福を守るための鋼鉄の騎士なのだから。

 

「なんだか妙な事態になってるようね。もう終わったみたいだけれど」

 

そこへ、奉仕部部長・雪ノ下雪乃が帰還した。その手には救急箱が握られている。当初の目的であった戸塚の手当のために用意したものだろう。八幡は、彼女のそうした隠れた配慮を、論理回路の隅で冷静に評価していた。

 

「ねえ、ヒッキー。つかれてないの? なんか汗一つかいてないけど」

 

由比ヶ浜が訝しげに八幡の顔を覗き込む。

 

「ん? あー、気にすんな。体質だからな。平気だ」

 

八幡は短く答えた。実際には、原子炉の熱を先ほど流し込んだマックスコーヒーで強制冷却している真っ最中なのだが、それを説明する術はない。

 

「コーチ! お疲れさまでした!」

 

戸塚が駆け寄り、新しいマックスコーヒーを差し出してきた。八幡のセンサーが、戸塚の純粋な好意を検知する。

コートの片隅で、八幡は戸塚の様子を伺った。

 

「怪我、大丈夫か?」

「うん……その、比企谷くん、今日はありがとう」

 

戸塚は八幡をまっすぐに見つめ、言い終わると同時にその頬を朱く染めた。

その愛らしい姿に、八幡の電子頭脳は一時的に「性別判定」のプライオリティを下げた。可愛いのであれば、もはやどちらでも良いのではないか。そんな、人間的な妥協が彼の思考をよぎる。

 

これが男同士の友情なのか、それとも別の何かなのか。今の八幡には判別がつかなかった。

 

「俺はそこまで大したことやってねーよ。礼なら部長の雪ノ下にでも……」

八幡が周囲を見渡すと、見慣れた黒いツインテールの端がテニス部の部室脇から覗いているのが見えた。

 

「ゆきのし……あっ」

 

声をかけようと角を曲がった八幡の視界に、強烈な光景が飛び込んできた。

そこは着替えの真っ最中だった。

雪ノ下の慎ましい肢体と、由比ヶ浜の健康的な曲線美が、夕日に照らされて鮮明に映し出される。

並の男子高校生であれば、赤面して逃げ出すか、硬直して言葉を失う場面だろう。だが、鋼鉄の理性を持つ彼は、あえて「平然」を装うという最適解を選んだ。

 

「お取込み中でしたか」

 

極めて冷静な、事務的なまでの声。

 

「もうほんと死ねっ!!」

 

刹那、由比ヶ浜の羞恥に満ちた絶叫と共に、テニスラケットが八幡の顔面に向けてフルスイングされた。

ガギィィィィィィィィン!!

放課後の校庭に、およそ生物を叩いたとは思えない硬質な衝突音が響き渡る。

しかし、粉々に砕け散り、ひしゃげたのはラケットの方だった。

 

「……あ」

 

八幡の鋼鉄の顔面は微動だにせず、ただ呆然とする少女たちの前で、バラバラになったガットが虚しく地面に落ちた。

比企谷八幡の青春は、どこまでも頑丈で、そして救いようがないほどに壊れていた。

 

──

 

 

数分後。

 

「……で、なんで君はまだそこに突っ立っているのかしら。早く消えなさい、この不燃ゴミ」

 

雪ノ下が、予備のジャージで身を包みながら、氷の刃のような視線を向けてくる。

八幡は、ひしゃげたラケットの残骸を拾い上げながら、どこか遠くを見つめて答えた。

 

「いや……悪い。由比ヶ浜のフルスイングの衝撃で、首のサーボモーターがロックしちまった。……悪いが、この角度から視線が動かせねえんだわ」

八幡の顔は、ちょうど雪ノ下と由比ヶ浜が着替えていた「現場」の方向にガッチリと固定されていた。

 

「確信犯……! ヒッキーのえっち! 死ね! もう一回死ねっ!!」

「比企谷君、安心して。その首、今すぐ私が物理的に『解放』してあげるから。……雪ノ下流合気術を舐めないことね」

「待て、待て雪ノ下! それをやると、俺の頭がボウリングの玉みたいに飛んでいくぞ! 校舎が壊れるからやめろぉぉぉぉぉ!!」

 

鋼鉄の少年が放つ悲鳴(物理的な電子音)が、夕暮れの総武高校に虚しく響き渡った。

 




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