——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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引き続き重い話です……
また来週末よろしくお願いします


第六十七話:散華

 

 ……あれ……。

 

 意識の淵で、結衣は自分の置かれた状況を掴みかねていた。

 ひどく体が重い。手足の先が、自分のものじゃないみたいに冷たくて、感覚が遠い。

 気づくと、結衣はいつの間にか硬い「椅子」に座らされていた。

 けれど、はっきりと周囲を見渡すことができない。頭に、ずっしりと重い「何か」を被せられているからだ。視界は厚い闇に覆われ、自分が今、どこでどうなっているのか、その断片さえも把握できない。

 

「なに……ここ……あたし……なんで……」

 

 掠れた声が、自分の耳にさえ余所々しく響く。

 意識がこれほどまでに朦朧としているのは、きっと、家に帰り着いたと思ったあの瞬間――背後で何かが弾けるような音がして、甘い霧のようなものを吸い込んだからだ。抗う間もなく、意識の糸を断ち切られた。

 

「あ、起きたんだ。じゃあ、はじめよっか」

 

 唐突に、静寂を切り裂いて声が届いた。

 

 ……女の子の声?

 

 高く澄んだ、けれど感情の起伏が削ぎ落とされたような、無機質な響き。

 

「はじめまして、由比ヶ浜結衣さん。私はソフィア。……と言っても、それ被ってたんじゃ何も見えないか」

 

 だんだんと意識が覚醒していくにつれ、手首と足首に違和感が募っていく。

 重い。動かない。

 肌に食い込むのは、冷たくて硬い、金属の感触。

 

「……動けない……これ……なに……っ!?」

「ああ、ごめんね? 暴れられると困るから、ちょっと動けないようにしてるの。あなたの前(ほか)の人たち、みんな死ぬまで暴れて、ダメになっちゃったから」

 

 ソフィアと名乗った少女は、まるで明日の天気を話すような気軽さで、おぞましい事実を口にした。

 

「え……」

「エイトマンと雪ノ下家の次女の間に漂ってるんですもの。きっと、あなたにも何かがあると思うの。ねぇ、知りたくない? 自分の『可能性』ってやつ」

 

 結衣の心臓が、ドクンドクンと早鐘を打ち始める。

 自分が今、明らかに『普通ではない』異常な状況に置かれていることを、本能が理解してしまった。

 自分は、さらわれたのだ。

 手足は椅子に強固に拘束され、頭には未知の機械を被せられ、闇の中に放置されている。

 逃げ場のない、逃げ道のない絶望。

 底知れない恐怖が、冷たい氷の指先となって、結衣の背筋をゆっくりと這い上がっていった。

 

「なに、これ。……やだ!! なにこれ!? 出して、出してよっ!!」

 

 結衣は必死に手と足を動かそうともがいた。しかし、手首と足首を固定する分厚い拘束具は、彼女の細い肢体を無情に締め付けるだけで、びくともしなかった。

 

「ああ、だから暴れても無駄だってば。何回も言わせないでよ。これだから古い人間は。会話のたびに疲れちゃうのよね」

 

 結衣の耳には、相変わらず鈴を転がすような少女の声が聞こえる。だが、視界が塞がれている極限状況で、その無垢な声は、どんな怪物の咆哮よりも結衣の恐怖を増幅させた。

 

「あなたは誰!? なんで、なんでこんなことするの……っ!」

「友達が欲しいから」

 

 結衣の必死の叫びに対し、ソフィアはあまりにも平然と言い放った。

 

「とも、だち……?」

「会話の通じない猿相手なんか、もうウンザリなの。だから、自分たちで作るのよ。……『会話の通じる人間』をね」

 

 何を言っているのか、結衣にはさっぱり理解できなかった。ただ、淡々と響く少女の声が、この世の道理をすべて踏みにじるような異常な圧力を帯びていることだけは、肌が粟立つほどに伝わってきた。

 

「この装置ね、『ビバトロン』っていう放射線を、お姉さんの『脳』に直接照射するの。ビバトロンっていうのはねー……上手くいくと、人間の潜在能力を引き出す力がある……って言われてるの」

 

 ソフィアの足音だろうか。コツ、コツという規則正しい音が、結衣の頭上で止まった。

 

「――戦争中に、研究されてたみたい。実験でいっぱい死んだけどね」

 

その言葉に、結衣は全身が凍りつくのを感じた。

 

「やめて……お願い、やめて……っ!」

「大丈夫。あなたには期待してるんだから。さあ、最高のクリスマスの始まりだよ」

 

 機械が低い唸りを上げ、結衣の頭を覆う装置が不気味に熱を帯び始めた。

 

「……この『魔女計画』っていう実験、昔ナチスで研究されてたものなのよ」

 

 ソフィアの解説が、結衣の耳に毒のように流れ込む。頭部を覆う装置の重みが、そのまま得体の知れない悪意となってのしかかってくる。

 

「バカな人間たちが妄想した『超越者』の製造。俗にエスパーなんて呼ぶのかしら……。まあ、いっか。あなたに理解できるとは思えないし、さっさとはじめちゃいましょ」

「やめて!! やめてよぉっ!! 助けて! ゆきのん!! ヒッキー!!!!」

 

 結衣の必死の懇願は、冷たいコンクリートの壁に跳ね返るだけだった。ソフィアの手が、無慈悲にコンソールのレバーを押し下げる。

 

 バヂッッッ――!

 

「──ぁ、あ……?」

 

 それは、脳髄を直接犯すような、あまりにも不吉で無機質な音だった。

 

 ジジジジジジジジジジジジジジ……!

 

「──あ、あ、ああ、あああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!?!!!!?」

 

 脳の奥深くに、焼けつくような熱を帯びた「何か」が直接差し込まれる感覚。神経の束を一本ずつ針で突き通され、そのまま高電圧を流し込まれたような衝撃が結衣を襲う。

 

「あ゛ぁーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」

 

 痛い、痛い痛い!!! 痛い痛い痛い痛い!!!!!!

 思考が、記憶が、自分という存在を形作るすべてが、ビバトロンの放射線によってバラバラに粉砕されていく。結衣は椅子の上で、拘束具が軋むほどに全身をのけ反らせた。

 

「ああー……ダメかもね、これ。やっぱり普通の人間かぁ」

 

 ソフィアの退屈そうな声は、もはや結衣には届かない。それどころではなかった。

 視界は真っ白に染まり、ただ「苦痛」という概念だけが宇宙のすべてを埋め尽くす。

 

 やめてやめてやめてやめてやめて助けて助けて助けて痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!

 

「──ヒッキー…… 助け……て……ぇ……」

 

 涙と、溢れる生理的な液体にまみれながら、結衣はこの世で最も愛おしい存在の名を、喉の奥から絞り出した。

 

「……ヒッキー? もしかして、エイトマンのこと言ってるの?」

 

 ソフィアが不思議そうな声を上げる。

 それと同時に、限界まで唸りを上げていたビバトロン照射機の稼働が、ふっと収まった。

 

「あ……あ……」

 

 結衣はもはや満身創痍だった。頭が割れるようにズキズキと痛む。

 痛すぎて、逆に意識が異常なまでに冴え渡っていくのがわかる。

 これ以上やられたら、「死」が待っている。その冷厳な事実が、今の彼女には確信として理解できた。

 

「あなた、もしかして『何も』知らないで、彼の近くにいたの?」

「──え……」

 

 ソフィアの、薄気味悪い嘲笑のような声が、結衣の耳に今度こそはっきりと届いた。

 

「……あなたねぇ、いくらなんでも、『殺した人間』が彼の側にいられるわけないでしょう?」

 

 息も絶え絶えに、結衣はソフィアの言葉を聞いていた。焼けるような脳の痛みの向こう側で、その一言が、鋭利な冷気となって心臓を突き刺した。

 

「──殺した、人間……?」

「そう。彼が、最初からロボットだったとでも思ってた?」

 

 ソフィアの声は、無邪気なほどに残酷だった。

 結衣は、八幡のことを「何かの理由があって人間のふりをしているロボット」だと思っていた。エイトマンとして製造され、高校生としての生活をシミュレートしている、孤独なヒーローなのだと。

 

 それは半分は正解で、半分は致命的な間違いだった。

 

「あなたの犬が道路に飛び出して、彼が庇ったでしょ? あの時、死んじゃったのよ。比企谷八幡(オリジナル)はね」

 

 

「……………………………………え?」

 

 

 結衣の思考が、真っ白にフリーズした。

 そんなはずはない。あの日、彼は病院に運ばれて、少しして学校に来て。不機嫌そうな顔をして、でも確かに生きてそこにいたはずで。

 だから、きっと、そんなことは間違ってるんだ。

 

 きっと、そうに違いない。

 

 

「今のエイトマン……比企谷八幡だっけ? その人間の思考を機械に刷り込ませたの。それが今の彼。だから簡単に言うと、あなたが原因で彼は『死』んで、機械として生き返ったのよ」

 

 カチカチと、結衣の歯が音を立てて震え始める。

 

「正確に言うと、生き返ってすらいないわね? 死んだ脳のデータを吸い上げて、動く機械にコピーした……ただのAI搭載ロボットよ。……あ、息が止まってるわよ? 大丈夫?」

 

 ソフィアの嘲笑が、結衣の鼓膜を破らんばかりに響く。

 

 心臓が痛いほど激しく脈打ち、全身の毛穴から冷や汗が噴き出す。

 

「まあ、それも全部、あなたが原因なんだけど……。本当に知らなかったの? ちょっと信じられないわね。人殺しのくせに、よくあんなに楽しそうに笑えたわね」

 

 一年以上前、入学式の日。

 

 道路に飛び出したサブレを庇って、車に轢かれた男の子。

 その後、彼が無事だったことに安堵し、同時に興味を持った。まるでヒーローのようなことをする彼が、どういう存在なのかを知りたかった。

 

 奉仕部という場所に、彼はいた。不機嫌そうな顔で本を捲る姿はイメージとは違ったけれど、それでも彼は、自分の相談に乗ってくれた。

 いつの間にか自分も奉仕部にいて、彼の傍らで、よく笑うようになっていた。誰に気を遣うまでもなく、ただ、心から笑うことができるようになっていた。

 

 

 

 

そして、私は、いつの間にか彼に──。

 

 

 

 

 

(……あたしは、笑っていた)

 

(何も、知らずに)

 

(全部、間違っていた)

 

 

 自分には、彼の側にいる資格など一欠片も存在しなかった。

 

 彼を鋼鉄の檻に閉じ込め、人間としての未来を奪い、死に追いやったのは、他でもない

 

 

 ──自分自身だったのだ。

 

 

「あ、あ゛、あぁあああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!!!」

 

 

 結衣の喉から、人間としての形を保てないほどの慟哭が溢れ出した。

由比ヶ浜結衣という一人の少女の精神は、救いのない真実の濁流に呑み込まれ、跡形もなく崩壊した。

 

「ああ、ちょっとちょっと!! 何勝手に照射してるの! もう、この子はダメよ。ちょっとトラウマを刺激しただけで壊れちゃうんだから。まったく……」

 

 無機質な機械音と共に、結衣の頭部を覆っていた拘束具が乱暴に外された。

 

 そこには、もはや「由比ヶ浜結衣」としての形を保てていない無惨な姿があった。

 

 目や耳、鼻からは、脳内の毛細血管が弾けたことを示すどす黒い血液が垂れ流され、半開きになった口からは泡が力なくこぼれ落ちている。その表情は、天から地獄の底へと突き落とされたような絶望の色に塗りつぶされていた。

 

 ──結衣は、完全に生命活動を停止していた。

 

「はあ……もう、期待外れね。さっさと片付けちゃって。大江くんに知られると、後始末が厄介だから……」

 

 ソフィアは退屈そうに背を向け、扉から入ってきた作業服姿の職員たちと入れ替わるように部屋を出ようとする。去り際、彼女は結衣の残骸となった肉体を、ゴミを見るような目で見下ろした。

 

「でも、今死んじゃった方が幸せだったかもね。だって、どうせ生きていても、いつかはあの真実(キズ)を知ることになるんだから」

 

 指示を受けた職員たちは、げんなりとした表情で作業に取り掛かった。彼らのオーナーは、この狂気じみた実験を、今日まで数え切れないほど繰り返してきたのだ。

 普通の人間の脳に放射線を浴びせたところで、超越者が生まれるわけがない。そんな道理は誰にでもわかるはずなのに、あの「超人類」と呼ばれる怪物たちは、まるで路傍の石を摘むかのように、一人の少女の人生を徹底的に破壊し尽くした。

 

(いずれ、すべての人類が、この哀れな少女のように潰されてしまうのだろうか……)

 

 一人の職員が、結衣の亡骸を運ぼうと拘束具のロックを解除しようとした。

 

 

 ──その時だった。

 

 

ピクッ

 

 

 虚ろなガラス玉と化していたはずの彼女の瞳が、僅かに、だが確実に動いた。

 

 

 ──クシャッ

 

 

「えっ」

 

 職員は、耳慣れない異様な音を聞いた。それは、厚手の紙を手の中で力任せに握りつぶした時のような、嫌な音だった。

 

 ──隣にいた、もう一人の職員の姿が消えていた。

 

 いや、正確には、彼はまだそこにいた。

 かつて人間だったモノが、目に見えない巨大な力で「折り潰され」、バスケットボールほどのサイズの肉塊となって床に転がっていたのだ。

 

「な、あ……?」

 

 驚愕する暇さえ与えられなかった。

 結衣を椅子に縛り付けていた鋼鉄の枷が、内側から弾けるように吹き飛ぶ。ギギギギと不快な金属音を立てながら、重厚な実験椅子そのものが、飴細工のように奇妙な角度で捻じ曲がっていく。

 職員は、信じられない光景を目撃した。

 死を宣告された彼女の、鮮やかな桃色の髪が――根元からみるみるうちに、凍てつくような「真白」へと染まっていく。

 血と涙で汚れた制服の上から、白く輝く光の粒子が編み重なり、神聖さと邪悪さが同居するローブのような衣が形作られていく。

 

そして。

少女の瞳が、深淵の底で燃えるような「紅」に染まった時。

 

 

「……あ、は」

 

 

その口の端が、三日月のように歪に吊り上がった。

 

 

──

 

 

「あれ? もしかして、成功?」

 

 ソフィアは、分厚い防音扉の向こう側で起こっている異変を、モニター越しに正確に把握していた。歓喜に震えるその声は、邪悪な子供が新しい玩具を手に入れた時のそれと同じだった。

 閉ざされた扉の向こう側から、絶叫が響き渡る。

 それはもはや人間の喉から発せられる悲鳴ではなく、空間そのものが軋みを上げているような、生理的な不快感を伴う音だった。

 

 肉を裂く音が。

 骨を粉々に砕く音が。

 生皮を力任せに剥ぎ取る音が。

 温かい内臓を無慈悲に抉り出す音が。

 そして、湿った脳髄を靴底で踏み潰すような、鈍い音が。

 

 あらゆる破壊の残響が、密閉された実験室から溢れ出していた。

 やがて、死の静寂が辺りを包み込む。その直後――ソフィアの目の前にある重厚な鋼鉄の扉が、目に見えない巨大な鉄槌で叩かれたように、内側から激しくへこんだ。

 

 ドォォォン!!

 

 何度も。何度も、何度も。

 執拗に、呪詛を叩きつけるように。

 歪んでいく金属の塊は、内側に閉じ込められた「何か」の、凄まじいまでの殺意を物語っていた。

 

「……ふふっ。私が憎い? 殺してやりたい?」

 

 ソフィアが、強化ガラス越しに愛おしげに語りかける。

 

「でも、残念。生まれたばかりのあなたじゃ、そこまでが限界。もっと強くならなきゃね。……だから、今は、おやすみなさい」

 

 ソフィアが手元の端末を操作し、催眠ガスを噴射するコマンドを入力する。

 

 シューッという微かな音と共に、扉を叩く暴力的な衝撃は、数分をかけて漸く収まっていった。

 

「大江くんに言ったらびっくりするわね。人工的な超人類、『魔女・超越者(エスパー)』の完成よ」

 

 ソフィアは、期待以上の実験結果が出たことに満足し、三日月のような笑みを浮かべて暗い廊下へと消えていった。

 

 

 

──

 

 

 暗闇の中、血と臓物に塗れ、蹲りながら、「それ」は優しく囁いた。

 

 ──可哀想な『結衣』。

 

 あなたはいつもそう。

 誰にも本当の姿を見られず、誰にも省みられず、

 誰にも愛されない。

 でも、安心して?

 たとえ世界中の誰も彼もがあなたを見捨てても、私だけはあなたの側にいるから。

 

『私』が、あなたを守る。

『私』が、あなたを苦しめるものを、すべて壊してあげる。

『私』が、あなたをこんな目にあわせた奴らを、一匹残らず殺してあげる。

 

 だから、今は安心しておやすみなさい。

 きっと、いつか……あなたを地獄から救ってあげるから。

 

 

 

 

 だから……おやすみ。結衣。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

───────ふあっ!?

 

 

 気づくと、そこは近所の公園のベンチだった。

 

「あ、あれ? あたし、なんで……」

 

 結衣は混乱したまま、ペタペタと自分の顔を触る。湿り気はない。血の匂いもしない。そこにあるのは、いつもの自分の肌の感触だけだ。

 夜はもう随分と深まっていて、冬の刺すような冷たい空気が、容赦なく体温を奪っていく。

 

「眠って……た、の? こんなところで?」

 

 どうして、ここに座っているのか。何も思い出せなかった。

 部室を出て、駅前を通り、確かに自分の家の前まで歩いていたはずなのに。

 

 ──でも、その後の記憶が、ページを破り取られたように完全に欠落しているのは、なぜだろうか。

 

「……疲れてるのかなぁ?」

 

 ゴシゴシと、眠気を払うように目を擦る。

 やはり、どれだけ記憶の糸を手繰り寄せても、何も思い出せなかった。

 

 ……とにかく、今は寒くてたまらなかった。こんなところでじっとしていては、明日を待たずに風邪をひいてしまう。

 

「っくしゅんっ!」

 

 ……やっぱり、風邪ひいちゃったかな。

 

 はやく家に帰ろう。

 家に帰って、温かいお風呂に入って、ごはんを食べて、ふかふかのベッドで寝よう。

 

 ──なぜか、すぐにでもそうするべきだと。

 

 自分の本能が、何かに怯えるように急かしている気がした。

 まるで、今しがた自分の中に刻まれた「何か」を、必死に忘れ去ろうとしているかのように。

 

 結衣はふと、夜空を見上げた。

 

 そこには細い、薄い三日月が、冷たく怪しく輝いている。

 

 

 ──それは、すべてを知りながら、壊れた彼女を嘲り嗤っているかのようだった。

 

 

 

 




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