——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第七十話:『彼女』の影

 

 

 クリスマスパーティーの喧騒が嘘のように静まり返り、一二月のカレンダーは音を立てるようにしてめくられていった。

 大晦日の夜、八幡は『おおみそかだよエイトマン』とでも銘打ちたいほど、徹底的に自堕落な時間を過ごしていた。コタツという名の絶対領域に下半身を埋め、紅白歌合戦の賑やかな音を子守唄代わりに、気づけば意識のシャットダウンを許していた。

 目が覚めた時には、世界はすでに2026年へとアップデートされていた。

 

「……あけましておめでとう、世界。……おはよう、コタツ」

 

 乾いた喉で新年の第一声を放った八幡を待っていたのは、神聖な初詣……ではなく、実の妹による非情な「外装検閲」だった。

 

「お兄ちゃん、動かないで! そのマフラーの巻き方、解釈違いだから!」

「……あの、小町さん? 服選ぶたびにダメ出しするのやめてもらえますかね。もう三十分以上経ってるんだけど」

 

 小町の厳しいファッションチェックは、エイトマンの装甲換装よりも遥かに緻密で容赦がなかった。次々と投げ捨てられる衣類。八幡はただの着せ替え人形と化し、妹の美的センスという名のプログラムに身を委ねるしかなかった。

 その時、リビングの隅から「ピロリロリン♪」と軽快な電子音が響き、猫の顔を模したディスプレイを光らせてベラがやってきた。

 

『あけましておめでとうございますニャ、はちまん様。新年のサービスだニャ』

 

 ベラはトレイに乗せた黄色い缶を、八幡の目の前でピタリと止めた。

 

「おう、サンキュな、ベラ。あけましておめでとう」

 

 八幡は小町の目を盗み、その神々しく鎮座する缶を手に取った。

 

 プシュッ。

 

 小気味よい音とともに、新年初の「マックスコーヒー」を開栓する。

 練乳の暴力とも言える強烈な甘さが、年末年始の不摂生で鈍った脳細胞に染み渡る。これだ。これこそが、比企谷八幡の、そしてエイトマンの真の起動燃料である。

 

「ぷはぁ……。生き返る……」

『糖分を補給して、シャキっとするニャ! 食べ終わったお皿は……あ、お皿はなかったニャ』

 

 ベラは満足そうにディスプレイの目を細めると、くるりと反転してキッチンへと戻っていった。

 

「あーっ! お兄ちゃん、またそんな甘いもの飲んで! せっかく小町が選んだ服を汚したら、本気で承知しないからね!」

「わーってるよ……。これがなきゃ、俺の新年は始まらないんだ」

 

 マッ缶で血糖値を強引に引き上げた八幡は、ようやく小町から出されたOKサインを受け取った。鏡の前に立てば、そこには「いつもの比企谷八幡」を極限まで薄めた、清潔感のある少年が立っていた。

 

「よし! 合格! じゃあ、結衣さんと雪乃さんを待たせちゃ悪いから、すぐ行くよ!」

 

 小町に急かされるようにして家を出る。

 エイトマンとしての激闘を越え、束の間の平穏の中で迎える新年。その待ち合わせ場所には、二人の少女が待っているはずだった。

 

 

──

 

 

 稲毛浅間神社の入り口付近。新年を祝う色鮮やかな幟が寒空にたなびき、参道はすでに多くの参拝客で埋め尽くされていた。

 人混みの中、待ち合わせ場所に立つ二人の姿を見つけた瞬間、八幡の網膜に映る色彩のコントラストが鮮明に跳ね上がった。

 由比ヶ浜結衣は、薄いベージュの暖かそうなコートを羽織り、首元には鮮やかな「蒼いマフラー」を巻いていた。その明るい色が、彼女の屈託のない笑顔と相まって、冬の冷たい空気を一瞬で塗り替えていく。

 一方、その隣に立つ雪ノ下雪乃は、一点の曇りもない純白のコートに、同じく真っ白なマフラー。チェック柄のスカートが、彼女の持つ怜悧な美しさをより際立たせていた。

 

(……あぶねぇ。小町のファッションチェックがなけりゃ、俺一人だけ公開処刑レベルで浮いてたところだわ……。マジで感謝だわ、妹……)

 

 八幡が内心で冷や汗をかいていると、お団子髪を揺らしながら結衣がこちらに気づいて駆け寄ってきた。

 

「あけましてやっはろー!」

「何その挨拶……。あけましておめでとう」

「結衣さん、あけましておめでとうございます! 今日も超可愛い!」

 

 元気よく新年の挨拶を交わす小町と結衣。その後ろから、雪乃が雪の上を滑るような足取りで、しずしずと歩み寄ってくる。

 

「……あけましておめでとう」

 

 照れくさいのか、あるいは寒さのせいか。雪乃はモフッとした白いマフラーに顎を埋め、上目遣いにこちらを見た。その一瞬の仕草に、八幡の鼓動が不意に不規則なリズムを刻む。

 

「ああ……まあ、なに。おめでとう」

「じゃあ、お参りしましょうか」

 

 雪乃の言葉を合図に、四人はゆっくりと人混みの波へと進んでいった。

 拝殿の前に辿り着き、賽銭を投げる。二礼二拍手一礼。八幡は目を閉じ、静かに手を合わせた。

 

(去年は、本当に色々ありすぎたからな……)

 

 比企谷八幡として奉仕部で過ごした、あの危うくも充実した日常。そしてエイトマンとして、次々と襲い来る戦闘ロボットたちと命懸けで戦い続けた、鋼鉄の夜。

 

 世界は常に壊れやすく、平穏はあまりにも脆い。

 

(……今年くらいは、穏やかであってほしいもんだ。家内安全、あと世界平和。……それから……)

 

 八幡は、隣で真剣な表情で目を閉じている小町に意識を向けた。

 鋼鉄の体を手に入れ、数々の絶望を穿ってきた八幡であっても、こればかりはどうしようもない領域。

 

(小町の受験合格。……これだけは、本当によろしくお願いしますわ、神様)

自分の力では届かない願いを、八幡は今日この日だけは、素直な気持ちで神に託した。

 

 

──

 

 

 参拝を終えた一行は、色とりどりの御神籤が並ぶ授与所へと足を向けた。新年の運試し。エイトマンの演算能力をもってしても、この紙切れ一枚に記された「運命」だけは予測不可能だ。

 

「せーのっ!」

 

 小町の掛け声で、四人が一斉に筒を振り、中から飛び出した竹の棒を番号札と引き換える。

 

「……おお、大吉だ」

「わぁっ! あたしも大吉! ヒッキーとお揃いだよ!」

 

 八幡と結衣の手元には、燦然と輝く「大吉」の文字。結衣はお団子髪を弾ませて大喜びし、八幡も「まあ、幸先はいいな」と内心で安堵のログを記録する。

 一方で、その隣では雪乃が眉間に微かな皺を寄せていた。

 

「……中吉。悪くはないけれど、なんだか釈然としないわね」

 

 端正な横顔に滲む、隠しきれない悔しさ。相変わらずの負けず嫌いを発揮する彼女に対し、八幡が苦笑を漏らそうとした、その時だった。

 

「………………うわぁぁぁん! なんでぇ!?」

 

 絶叫に近い悲鳴を上げたのは小町だった。その手にある紙には、都市伝説だと思っていた「大凶」の二文字が、呪いの呪文のように刻まれている。

 先ほどまでピンと立っていたアホ毛は見る影もなく萎れ、彼女の周囲には物理的な闇さえ感じさせる「どよーん」としたオーラが漂い始めた。

 

(……マジか。本当に大凶なんて実装されてるのかよ、この神社)

 

 八幡は、絶望の淵に沈む妹の肩をそっと叩いた。

 

「ほら、交換してやるから落ち込むな」

「え……。いいの? お兄ちゃん」

「ああ。遠慮すんな。神様も新年のバグでコマンドミスったんだろ。パッチ当てるのは兄貴の役目だ」

 

 八幡は迷うことなく、自分の「大吉」を小町の「大凶」と取り替えた。

 自分自身の運勢など、エイトマンとしてのスペックや日々の屁理屈でどうにでもなる。だが、小町の「合格」というミッションクリティカルな事象に、一片の不安も残したくはなかった。

 

「やだ、ヒッキーが優しい……。ちょっと見直しちゃうかも」

「ふふっ。比企谷くんにしては、ずいぶん気が利くわね。……少しだけ、感心したわ」

 

 結衣と雪乃が、驚きと温かさの混じった視線を八幡に向ける。

 八幡は照れ隠しに鼻の頭を掻きながら、手元に残った「大凶」の紙を見つめた。

 

 【待ち人:来ず、しかし災いとして訪れる】

 【失物:見つからず、形を変えて現れる】

 

 不穏な文言が並ぶその紙を、八幡は静かに折り畳んだ。

 これが「縁」というやつなら、甘んじて受け入れよう。エイトマンとしての自分の肩代わりで、彼女たちの行く先が少しでも平穏になるのなら、安いものだ。

 

「……さて、おみくじも引いたし、あとは甘酒でも飲んで帰るか」

 

 八幡の言葉に、小町が元気を取り戻して「お兄ちゃん奢りね!」と声を上げる。

 だが、八幡の胸の奥では、大凶の文字が放つ冷たい予感が、じわりと広がり始めていた。

 

 

──

 

 

 四人分の甘酒を両手に抱え、湯気に視界を遮られながら戻ってくると、そこにあるはずの黒髪の少女の姿がいなくなっていた。

 

「あれ、雪ノ下は?」

「あ、ヒッキーおかえり。ゆきのんなら、あっちの射的の景品にパンさんを見つけたらしくて……」

 

 結衣が指差した先では、一際鋭い眼光でコルク銃を構える雪乃の背中があった。新年初の獲物を狙うその姿は、もはや参拝客というよりは凄腕のハンターだ。

 

「……あ、ヒッキー。ちょっといい?」

 

 不意に、結衣が八幡の袖をくいっと引っ張った。

 そのまま小さくしゃがみ込む彼女に合わせて腰を落とすと、結衣は顔を近づけ、内緒話をするような距離で耳打ちしてきた。

 

「あのさ、ゆきのんのプレゼント買いに行くの、どうする?」

「……。……もう、あまり時間がねぇな」

 

 一月三日は雪乃の誕生日だ。

 誰かと予定を合わせて行動する。こればかりは、エイトマンとしての演算能力をもってしても「最適解」が見つからない難問だ。話を切り出すタイミング、相手への気遣い、自分勝手にならないための細心の注意……。

 

(うむ、やっぱり自分には向いてねぇわ、これ)

 

 心の中で早々に白旗を上げかけながらも、八幡は電子頭脳内のスケジュール管理を開く。最も効率的で、かつ「不自然ではない」ムーブを瞬時に構築した。

 

「……明日とか、暇か?」

「う、うん。空いてるけど」

 

 結衣は少し面食らったように、お団子髪をくしゃりといじった。

 

「そうか。じゃあ、明日……」

「うん……」

 

 そう返事をしたきり、結衣はふいっと視線を外し、黙り込んでしまった。八幡も、急に二人きりの予定を立ててしまった気恥ずかしさから、なんとなく口を閉ざす。

 そんな微妙な距離感の二人を、小町がニヨニヨと眺めていた。

 

(……我が妹ながら、本当にいい性格してやがる。というか、その腹の立つ青狸みたいな顔はやめろ)

 

 微笑ましいものを見る「ドラえもん」のような目を向ける小町に対し、八幡は内心で毒づいた。だが、その視線の裏にある妹なりの「お節介」に救われていることも、否定はできなかった。

 

「お兄ちゃん、ほら。結衣さんからせっかくのお誘い(?)なんだから、ちゃんと行ってきなよ」

「いや、誘ったのはこっちの方なんだが……」

 

 小町のその「微笑ましいものを見るドラえもん」のような顔を見ていると、八幡は無性に腹が立ってくる。……もしかして、この絶妙に煽りスキルの高い表情は、比企谷家共通の遺伝子的な特徴なのだろうか。エイトマンの超電子頭脳をもってしても、この妹の精神攻撃だけは防ぎきれない。

 その時、結衣のポケットから電子音が鳴った。

 

「あ、ちょっとごめん」

 

 結衣は短く断りを入れると、少し離れた場所で通話を始めた。その背中を見送りながら、八幡と小町が手持ち無沙汰に甘酒を啜っていると、人混みの向こうから雪乃が帰還した。

 だが、その足取りは重く、表情には明らかな落胆の色が滲んでいる。

 

「……パンさんはどうしたんだ」

「ええ、もういいわ、あんなもの……」

「ん?」

 

 八幡が首を傾げ、彼女が戦っていたはずの射的屋を覗き込んでみると、そこには驚愕の光景があった。

 景品棚に鎮座していたのは、愛らしい「パンさん」などではない。

 白と黒の体色に、なぜかお腹には四次元的なポケット。そして右手にはどら焼きを握りしめている、パンダの『パン田さん』。……否、どう見てもどこかの猫型ロボットにパンダの皮を被せたような、度し難い『パチモン』だった。

 

「パチモンですね」

 

 小町がバッサリと切り捨てると、雪乃は顎に手をやり、どこかで聞いたような名前だとばかりに小首を捻った。

 

「確か苗字は、ひ、ひき……」

「ちょっと待て? それもしかして俺じゃないよな? ていうか苗字もうろ覚えなのか?」

「失礼ね。ちゃんと覚えているわよ。……比企……ガエルくんだったかしら」

「その方が失礼なんだよなぁ……」

 

 それでも、かつて『ヒキガエル』だの『ヒキタニ』だの、散々なあだ名をつけられてきた身としては、この『パチモン』という響きにはまだ救いがある気がしてしまう。八幡の自己評価システムは、新春早々バグを起こしつつあった。

 雪乃が結衣の姿を探すと、ちょうど電話を終えた結衣が戻ってきた。だが、その顔は先ほどまでとは打って変わって、妙に沈んでいる。

 

「どうかしたの?」

 

 雪乃の問いに、結衣は顔に迷いを浮かべたまま、無理に作ったような笑いを返した。

 

「あ、あのね。優美子たちも、こっちに来てるみたいなんだけど……。これから会おうって、誘われちゃって」

 

 結衣の視線が、ちらりと八幡を掠める。

 彼女の交友関係は奉仕部という狭い箱庭だけではない。華やかな「三浦優美子」たちのグループ。その関係性を察した八幡は、エイトマンの冷却ファンを静かに回した。

 新年早々、三浦と雪乃が火花を散らす姿を見るのは、精神衛生上よろしくない。

 結衣が距離を近く取りたがるのは親愛の現れだろうが、友人の友人が友人とは限らないのは世の常だ。全員が同じ空間で過ごすことが、必ずしも「ベスト」とは限らない。

 

「……じゃあ、そろそろ帰るか」

「えっ」

 

 八幡は結衣の立場を気遣い、自分たちが身を引くことで彼女の交友関係を円滑にしようとした。だが、それに対する結衣の反応は、感謝でも安堵でもなく、戸惑いと、どこか取り残されたような寂しさを孕んだものだった。

 

「私もそろそろ帰るわ。人混みは得意でないし」

 

 雪乃の淡々とした言葉に、結衣は複雑に揺れる表情を浮かべた。その胸の内の懊悩を、長い付き合いゆえか、あるいは彼女なりの不器用な優しさゆえか察したのだろう。雪乃がそっと、結衣の肩に細い指先を触れさせた。

 

「またすぐ会えるじゃない」

「…………」

 

 励ますような雪乃の言葉だったが、結衣はそれに反応を返さなかった。ただ、視線を足元に落とし、固く俯いてしまう。

 

「由比ヶ浜さん……?」

「結衣さん? どうかしました?」

 

 雪乃と小町の重なる問いかけを受けても、結衣は顔を上げない。

八幡もまた、どこか様子のおかしい……いや、明らかにおかしい結衣を、電子頭脳のセンサーを研ぎ澄ませて見守っていた。

 その時、結衣が不意に顔を上げ──八幡と、目を合わせた。

 

「……っ」

 

 一瞬、呼吸が止まった。

 視界に飛び込んできたのは、まるで捨てられた子犬のように潤んだ瞳だった。

 なぜ、そんな目をしている。

 エイトマンの高性能な表情解析機能。微細な筋収縮、瞳孔の開き、肌の紅潮。それらをデータとして処理し、感情を導き出そうとする。だが、結衣が放つその『感情の波長』は、可視化された数値の枠を容易く超えていた。

 

「ヒッキー……。あたし、やっぱり……」

 

 絞り出すような、やっとの思いで出した声。

 それは縋るような、あるいは切実に懇願するような、ひどく熱を帯びた響きだった。

 八幡は結衣のそのただならない様子に、胸の奥をざわつかせる、どうしようもない『不安』を覚えた。放っておけば、この少女は今ここで消えてしまうのではないか。そんな、根拠のない、けれど確信に近い予感。

 

「……一緒に、帰る……か?」

 

 気づけば、脳内の演算回路が導き出した結論を待たずに、そんな言葉を口にしていた。三浦たちのところへ行かせ、円滑な人間関係を維持させる。それが「最適解」だったはずなのに。

 結衣は一瞬、何を言われたのか理解が追いついていないようだった。だが、言葉の意味がゆっくりと彼女の心に浸透していくにつれ……。

 みるみるうちに、その表情が綻んでいった。

 

「──う、うん。そうする……」

 

 頬を僅かに朱に染めながら、目を伏せがちにはにかむ結衣。

 それは、今まで見たこともない『表情』だった。

 

「……」

 

 八幡は、息を呑んだ。

 普段の、太陽のように明るく元気な結衣からは想像もできないような、しっとりとした『艶』を目の当たりにして、一瞬だけ、その顔から目を逸らすことすら忘れ、ただ『見入って』いた。

 雪乃と小町もまた、あまりの変貌ぶりに目を丸くしている。

 小町などは、結衣が放つ圧倒的な「想い」の残滓に当てられたのか、思わず自分の頬を染めて口元を抑えてしまうほどだった。

 

「じゃあ、……行くか」

 

 八幡が促すと、結衣は「うんっ」と短く、けれど力強く頷いた。

 その笑顔の裏側に、クリスマスの夜に芽生えた「独占欲」という名の毒が、甘く深く沈んでいることに、八幡はまだ気づけずにいた。

 

 

──

 

 あの後、結衣は少し離れた場所でスマホを取り出し、三浦に連絡を入れ直していた。

 電話越しだというのに、何度も何度も小刻みに頭を下げる結衣の姿。それは失礼ながら、理不尽な要求に応える歴戦の社畜を彷彿とさせるようで、八幡の胸には言いようのない哀愁が去来した。

 元来た参道を戻り、巨大な大鳥居をくぐって国道沿いへと出る。

 そんな、初詣の帰りにありがちな、どこにでもあるはずのタスク。だが、そこには決定的な『いつもと違う』事象が生起していた。

 

 結衣の位置が、明らかに八幡に近かった。

 

 歩道の内側から小町、雪乃が並び、結衣が続き、そして車道側に八幡。この横並び自体は、結衣が雪乃と八幡の間に入るという、いつもの奉仕部の「フォーメーション」だ。だが、いつもなら結衣は雪乃側に寄り、二人を繋ぐようなバランスを保っていた。

 それが今は、逆のことが起きていた。

 まるで結衣と八幡の周囲の空間だけを切り取ったかのように、二人の距離が『近い』。

 

「えへへ、やっぱりみんなで帰れるの、嬉しいな」

 

 結衣は、先ほどまでの沈んだ様子が嘘のように、朗らかにニコニコとしていた。今にも八幡の腕に自分の腕を絡ませそうな距離だ。

 だが、その急激な変化に、八幡も雪乃も戸惑いを隠せない。小町に至っては、額に薄っすらと冷や汗をかきながら、「ここは三人きりにするべきか……いや、でも……」と、小声でぶつぶつと自己対話を繰り返していた。

 広い国道を、一月の冷たい風が容赦なく吹き抜けていく。

 思わず身震いし、八幡も小町もコートの襟をぎゅっと掻き合わせた。一方で、雪乃は寒さに耐性があるのか、マフラーの首元をそっと直す程度で、凛とした佇まいを崩さない。

 

「うぅ、寒いね……」

 

 結衣が、八幡を風除けにするかのように身を縮こませ、さらにその距離を詰めて寄り添ってきた。

 ふわりと漂う軽い香水の匂い。そして、厚いコート越しでも伝わってくる彼女の仄かな体温。

 八幡のリアクター(熱源)に、じわりと異常な熱が籠り始める。

 

「そ、そうか……? まあ、一月だしな」

「うん」

 

 なんてことのない会話の一つ一つ。それが、結衣の放つ空気感によって、鮮やかな色彩を得ていく。

 そういえば、結衣が雪乃の応援演説を行った時もそうだった。彼女が話し始めた途端、会場の空気が塗り替えられ、設計されていった。

 元々、彼女にはそういった「場」を支配する才能があるのだろうか。

 今、この国道沿いの帰り道という名の空間は、完全に由比ヶ浜結衣の色で『設計』されていた。

 八幡は、その心地よさと、喉元に刺さるような違和感の間で、ただ黙々と歩を進めるしかなかった。

 なだらかに続く坂道をゆっくり歩き、駅の改札前まで辿り着いたところで、小町が唐突に足を止めた。

 

「はっ! い、いっけなーい! 小町ったらお守りを買い忘れてしまいました! なんてことでしょう!」

 

 棒読みにも程がある絶叫。さらに、胸の前で手を合わせるという古風な驚きポーズまでセットだ。

 

「それに絵馬を書くのもすっかり忘れてきちゃったので、ダッシュで戻ります! 雪乃さん、結衣さん、というわけで小町はここで!」

「あ、お守りなら俺も買っとこうかな」

 

 ついでにと口を挟むと、小町が般若のような半眼でこちらを射抜いた。

 

「お兄ちゃん、何言ってるの。ごみいちゃんのバカ! ボケナス! 八幡! いいから、三人で先帰っていいから!」

「お、おう……。いや、ちょっと待て。八幡は悪口じゃねぇだろ」

 

 言い返したものの、その言葉が届く前に小町は脱兎のごとく参道へと駆け出していった。

 ……これはいつもの気遣いか。あるいは、この場の「設計」された空気に耐えきれずに逃げたのか。

 どうしたものかと雪乃に目を向けると、彼女はぷるぷると肩を震わせ、顔を背けていた。

 

「なんだよ……」

 

 問うと、雪乃は「ふーっ」と深く息を吐き、呼吸を整えた。そして、口の中で噛み締めるように、至極小さな声で漏らす。

 

「……バカ、ボケナス、八幡……」

「あはは、なんだかゆきのんのツボにハマっちゃったみたい」

 

 結衣が微笑ましいものを見るように言う。

 どうやら雪ノ下さんの『罵倒語彙ディクショナリー』に、久々の大型アップデートが入ってしまったらしい。じとっとした視線を送ると、雪乃は誤魔化すように小さく咳払いをした。

 

「いえ、本当に仲が良いのねと思っただけよ」

 

 柔らかな微笑みを一度だけ見せると、彼女はくるりと前を向き、改札を抜けた。

 後を追ってホームの階段を上る。やがて滑り込んできた電車に乗り込んだが、車内の座席はすでに埋まっており、三人はドア付近で立たざるを得なかった。

 少々混み合ってはいるが、目的地まではせいぜい二駅だ。エイトマンの姿勢制御システムを頼るまでもなく、我慢できないほど柔な身体ではない。

 駅を発車する際、ガタンと電車が揺れた。

 身体バランサーの数値を微調整し、重心を安定させる。

 その時、コートの端に微かな引っかかりを覚えた。

 ふと視線を落とすと、雪乃の細く白い手が、八幡のコートの裾をぎゅっと握り込んでいる。

 揺れに備えるためか、あるいは人混みへの拒絶か。その小さな手のおかげで、よろけまいとする脚に余計な力が入る。

 

 そして──。

 

 背中の左側に、確かな熱を感じた。

 結衣が、その背中を八幡に預けていた。

 電車の走る振動、窓を打つ風の音、乗客たちの無機質な存在感。車内には音が溢れていた。

 それでも、電車が揺れるたびに右側から微かに聞こえる雪乃の吐息は、驚くほど鮮明に耳に届く。

 そして左側に感じる、結衣の生命力そのもののような熱量。

 

(……まあ、混んでいるし。揺れるしな。別にいいんだが)

 

 これといって会話をすることもなく、八幡の視線は自然と中吊り広告や窓上の路線図へと向かう。

 三人の距離が等間隔の三角形だった頃にはなかった、歪で、濃密な重力。

 八幡はただ、複雑な数式のように入り組んだ路線図の一点を、意味もなく眺め続けていた。

 やがて、ガタンと大きく揺れて、電車がホームへと滑り込んだ。

 

「あ、俺ここだから」

「ええ」

 

 短い言葉に頷きを返し、八幡は開いたドアからホームへと降りた。冬の冷たい空気が、車内の熱を帯びた肌を撫でる。

 

「あ、あたしもー」

 

 慌てた様子で、結衣も八幡に続いてホームへ降りてきた。八幡は足を止め、少し意外そうに彼女を振り返る。

 

「……おまえ、駅ここだっけ?」

「えへへ、ちょっと寄ってくとこがあるんだ」

「そうか」

 

 特に深く追求することもなく、八幡は短い言葉に頷きを返し、残された雪乃の方へと向き直った。

 

「じゃあな」

 

 気をつけて帰れよ、と一言付け足そうとしたが、振り返った時にはすでに電子音が鳴り、扉は閉まる直前だった。

 強化ガラスの向こう側、雪乃は顔を俯かせたまま、微かに動く唇で、囁くように言った。

 

「…………今年も、よろしく」

 

 その掠れた声は、閉まるドアの音にかき消されそうだった。けれど、確かに八幡の耳に届く。

 

「うん、よろしくね! ゆきのん!」

 

 隣で結衣が元気よく手を振る。八幡も小さく片手を上げ、加速していく電車の尾灯を見送った。

 

 

──

 

 

 駅から出た後、結衣は八幡の数歩先を小走りで行きながら、くるりとこちらに振り返った。冬の午後の陽光が、彼女のベージュのコートを淡く照らしている。

 

「ヒッキー」

「どした」

 

 何か言い忘れたことでもあるのかと問うと、結衣はお団子髪をくしくしと指先で撫でながら、軽く身を捩った。そして、一度だけ深く、小さく息を吸う。

 

「えっと…………、また、明日ね」

 

 ちらりとこちらを伺うような、上目遣いの視線。

 年明けの特別な日だというのに、口から出たのは何の変哲もない、いつもの言葉。それがなんだかおかしくて、八幡の口元に自然と笑みがこぼれた。

 

「明日、楽しみにしてるね」

「…………ああ。また明日な」

 

 逸らさず、しっかりと目を見て返事をする。

 その瞬間、結衣の表情がパッと花が咲いたように明るくなった。

 

「うんっ!」

 

 大きく手を振りながら、結衣は軽やかな足取りで歩き出していく。八幡はその背中を見送ってから、自分もまた一歩、何も変わらないはずの新しい一年へと踏み出した。

 エイトマンとしての戦いも、奉仕部としての葛藤も、すべてを背負ったまま。

 

 けれど、この時。

 遠ざかっていく結衣の足元に、正午の太陽が落とした影が、わずかに歪んでいたことには、まだ誰も気づいていなかった。

 

 

──

 

 

 雑踏を一人歩きながら、結衣は新年の清々しい空気を全身に浴びていた。

 胸の奥が、あたたかい。

 さっきまで隣にいた彼の体温が、まだ左側の肩に残っているような気がして、結衣は無意識に自分の肩を抱いた。

 

 ──楽しかった?

 

 ふいに頭の芯に響いた問いかけに、結衣は小さく、けれどはっきりと心の中で頷く。

 

「うん、楽しかったよ。こんなお正月は初めてかもしれないね」

 

 誰に気兼ねすることもなく、自分の気持ちに正直に動くこと。

 嫌われたくないからと顔色を窺うのをやめて、ただ「隣にいたい」という想いに身を任せる。その清々しさは驚くほど心地よく、乾いた砂に水が染み込むような安らぎを彼女に与えていた。

 

 何より、彼の側に居ることができた。

 

 以前の自分なら、彼女に気を遣って、あんな風に近くに寄り添うなんてことはしなかったはずだ。そうする時はいつも、彼女のいない時……二人きりの時でしかしなかった。

 

 ──彼女の近くで、彼の隣に居るのは嬉しい?

 

「……ちょっと悪いかな、と思った。あたし、ゆきのんのことも大好きだし」

 

 結衣はふっと視線を落とした。親友を裏切りたいわけじゃない。ただ、自分を後回しにするのをやめただけ。

 

 ──結衣は、優しい子ね……。

 

 脳裏を撫でるような、甘く、けれど温度のない声が続く。

 

 ──でもね。

 ──『私』は知ってるわ。それは優しさじゃなくて、ただ『欲しい』だけってことを。

 ──でも、それでいいの……。結衣はもっと、『欲しがって』いいの……。

 

 一歩、踏み出すたびに声が深くなっていく。

 

 ──諦めや我慢の果てにあるものなんて、決して幸せなんかじゃない。結衣はもっと、もっと……『わがまま』になっても、いいの。

 

 キィィィィィン──。

 

 突如、視界が白く爆ぜた。

 頭の中でテレビの砂嵐のような激しいノイズが吹き荒れ、結衣はたまらず足を止めた。

 

「────あっ?」

 

 今、誰と『話して』いたんだっけ?

 激しい耳鳴りが収まったあと、結衣は不可解そうに後ろを振り返ったが、そこには見知らぬ通行人が行き交っているだけだった。

 

(……あたし、どこに行こうとしてたんだっけ?)

 

 数秒前までの思考が、指の間からこぼれ落ちる砂のように消えていく。自分がなぜ立ち止まったのかさえ、霧の向こう側へ消えてしまった。

 

「……ま、いっか」

 

 特に気に留めることもなく、結衣はせっかくだからと街の散策を決めて再び歩き出した。

 すでに正午を迎え、南天から降り注ぐ陽射しは、冬の澄んだ空気を通して結衣の影をアスファルトに濃く浮かび上がらせている。

 

 その影の、ちょうど顔にあたる部分。

 

 本来ならのっぺりとした黒一色であるはずの場所に、まるで哄笑を浮かべて裂けたような「三日月」の模様が、不気味に浮かび上がっていた。

 

 




今日と明日であと二話くらい投稿する予定です
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