——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第七十一話:二日目のデート

 

 待ち合わせ場所は千葉駅の大型ビジョン前。これ以上なく分かりやすいその指定は、人混みを避けるための計算というよりは、一刻も早くお互いを視認したいという『想い』の現れのようにも思えた。

 駅から吐き出される群衆の中に、八幡は自らの白い息が混じっていくのを感じながら待つ。

 

「やっはろー!」

 

 不意に、改札の向こうから弾けるような声が響いた。

 八幡が顔を上げると、そこには大きく手を振る結衣の姿があった。

 

「おお」

「ごめん、ちょっと遅れちゃった!」

 

 ベージュのコートを忙しなくはためかせ、ブーツの底をパタパタと鳴らして彼女が走ってくる。裾がひらりと舞うたびに、膝近くまである丈の長いニットとキュロットジーンズが、冬の陽光を反射してちらりと覗いた。

 そして、八幡の視線は彼女の頭部に釘付けになる。

 いつものお団子髪には、あのクリスマスに贈った「蒼いシュシュ」が誇らしげに巻かれていた。

 

「……それ、着けてきたのか」

「……あ、う、うん。……どう、かな?」

 

 うっすらと頬を紅く染め、視線を泳がせながら尋ねてくる結衣。

 どうもこうもない。このシュシュは、エイトマンの全演算能力を総動員し、『由比ヶ浜結衣に最も適合するギフト』として選別したものだ。これで似合わなかったら、八幡の頭脳は秋葉原のジャンク屋に並ぶポンコツ以下ということになる。

 

「おう、似合ってると思う……ぞ」

 

 だが、導き出された最適解を言語化する段になると、八幡の出力装置は致命的なエラーを吐き出す。入力は量子コンピュータ並みなのに、出力は旧時代のダイヤルアップ接続並みのもどかしさだ。

 

「そう、かな? ……ありがとう。すごく嬉しいよ」

 

 それでも、結衣はそれで十分だと言わんばかりに満たされた微笑を浮かべ、八幡の目をまっすぐに見つめ返した。

 その瞳に宿る『微熱』は、昨日感じたあの艶やかな残照を伴って、八幡の内部回路を優しく、けれど確実にくすぐっていく。

 

「で、どこ行く。雪ノ下のプレゼントだろ」

 

 思わず視線を上げ、当初の目的を盾にして気恥ずかしさを誤魔化す。

 

「ちょっとぷらぷらして選ぼうかなって!」

 

 結衣はぐるーっと駅周辺を指差しながら、軽やかな足取りで歩き出した。

 

「まあ、お前に任せるけど……」

 

 女の子へのプレゼント選びにおいて、八幡の経験値は初期装備のままだ。こういう時は、フィールドを知り尽くしたエキスパートに従うのが、生存戦略としての正解だろう。

 

「あ! じゃ、C・oneから行こっか!」

 

 指差された先は、高架下に伸びるショッピングモール。

 初売りの飾りが賑やかなモール内は、お正月クリアランスセールとやらの活気に満ち溢れていた。

 とりわけ買い物中の結衣は、エイトマンの出力をも上回るほどのエネルギーを放っていた。店員さんと楽しげにファッション談議に花を咲かせ、流れるように服を選んでいくその背中を、八幡はただ圧倒されながら追いかけていった。

 

 

──

 

 

 初売りの活気に満ちたC・oneの通路を、泳ぐように進んでいく。八幡は陳列された服を眺めながら、昨日必死に電子頭脳へとインプットした「最新ファッション統計データ」を参照し、雪乃に似合うギフトのシミュレーションを開始した。

 こういう専門店が並ぶエリアでは、目的のものをピンポイントで狙い撃つだけでは三流だ。

 まずは関係のないものでも、店の端から端までぶらぶら歩いて「市場調査」を行う。それだけで、最終的な出力結果の精度は劇的に違ってくる。八幡は靴下コーナーの前で立ち止まり、厚手のルームソックスを手に取った。

 

(雪ノ下のことだ、冬場のフローリングの冷たさは死活問題だろう。実用性を考えれば、こういうルームソックスとかはアリか……)

 

 真剣な表情で、まるで爆弾の信管でも選別するかのように品定めをする。その横に、一着のパーカーを抱えた結衣がひょこっと現れた。

 

「ね、ね、ヒッキー! これ! 超可愛くない!?」

「ああ、いいんじゃないの。……雪ノ下が着るには、ちょっとファンシーすぎる気もするけどな」

「え、これ? これはあたしの! これなら春も使えるかなーって!」

 

 結衣は雪乃のプレゼントそっちのけで、自分に当てる服を選んではきゃっきゃとはしゃいでいる。どうでもいいが、今日の主旨はわかっているのだろうか。エイトマンのタスク優先順位表が、彼女のマイペースな挙動によって次々と書き換えられていく。

 結衣はファー付きのパーカーを羽織り、姿見の前でくるりと回って「どうかな?」と忙しそうにしている。

 その顔には、一点の曇りもない。あまりにも悩みなどなさそうな、心底楽しそうな笑顔。

 それを見ていると、八幡はまじめに「最適解」を計算している自分が、なんだかアホらしくなってきた。

 

(……ま、俺も楽しんで選べばいいか)

 

 ガチガチの論理回路を一時的にスリープモードへと移行させる。

 今は、このプレゼント選別という名の空間を、彼女と一緒に楽しむこと。それがこの場における、唯一の正解なのかもしれない。そう思うことにした。

 

「じゃ、俺もちょっとその辺見てくるわ。何か浮かぶかもしれんし」

「あ、逃げた! ちょっと待ってよー!」

 

 結衣の抗議を背中で受け流しながら、八幡はぷらぷらと付近のショップをふらつき始めた。実際に物を見ながら考えれば、電子データの海を漂うよりも、案外マシな何かが浮かぶはずだ。

 雪乃へのプレゼント候補として、パンさんグッズや猫の写真集を脳内リストから除外していく。彼女なら、限定品以外はコンプリートしていそうだ。やはり、日常的に身につける「実用品」が安牌か……。

 そんなことを考えながら付近の店をぐるぐると回っていると、いつの間にか元いた場所に戻ってきてしまった。そこで、何着か服を抱えた結衣があたりをきょろきょろと見回しているのを発見する。

 

「あ、ヒッキー! なんで勝手にどっか行くし……」

 

 八幡を見つけるなり、結衣が大きく手招きしてきた。

 

「ああ、わりぃ。ちょっと何選ぶか考えてたんだよ」

「勝手にいなくなると困るし!」

 

 ぷくっと頬を膨らませる結衣。

 まるで比企谷小町か一色いろはかというような、あざといまでの仕草。だが、そこには後輩特有の小悪魔的な計算などは含まれていない。ただ純粋に、置いていかれたことへの不満が滲んでいる。

 そのあまりの直球さに、八幡のリアクターがこそばゆい振動を起こし、思わず「くっ」と笑みがこぼれた。

 

「ヒッキー、なに笑ってるの」

「あ、いや……なんでもねぇ」

 

 いつの間にかジト目に切り替わった彼女に訝しがられる。

 ……なんというか、彼女といると、エイトマンとしての「装甲」を脱いだ、剥き出しの『素』の自分……あるいは『弱い部分』を曝け出してもいいような、そんな錯覚に陥りそうになる。

 

「そうだ、ヒッキー。これ見て! このセーターとか、これもかわいくない!?」

 

 そう言いながら、結衣は「よいしょ」と自身のコートを脱ぎ捨てた。それどころか、あろうことかその下のニットまで脱ぎ出そうとする。

 

「おい、ちょっ……!?」

 

 下にはシャツを着ているとはいえ、不意に視界の端をかすめたお腹のあたりの柔らかな肌色に、八幡の網膜ディスプレイがホワイトアウトしかける。

 

(急にそんなこと、やるなって……!)

 

 慌てて目を逸らしたが、今度は衣擦れの乾いた音や、彼女のわずかに弾む息遣いなど、微細な音声を聴覚センサーがこれでもかと拾い上げてしまう。

 

「よっと……。どう、かな?」

 

 声をかけられて、ようやく恐る恐る振り返る。

 そこには、もこもこと温かそうな縦編みのセーターを纏った結衣が立っていた。

 

「よく似合ってるけど……。それ、雪ノ下のサイズに合うか?」

「う」

 

 サイズのことを指摘された瞬間、結衣は自分のお腹あたりを「ふにっ」とつまんだ。

八幡としては、腹回りの話ではなく、もっとその……上半身のアーマー部分の規格が雪乃と合っていない、という意味で言ったのだが。

 

「大きい、かな…………」

 

 その顔には、深い絶望が浮かんでいた。さらにお腹のあたりにあった手は二の腕へと移動し、ますます表情が暗くなっていく。大きさを気にしているのか、それとも「規格」の差を痛感しているのか。

 

「いや、その、大丈夫だ。というか、全然ちょうどいいっていうか……」

 

 フォローしようとしどろもどろに言葉を繋ぐが、挙動不審さが極まった八幡の言葉など、結衣には疑わしげなジト目で返されるだけだ。

 

「……まあ、よく似合ってるし。俺はそれでいいと思うけど」

 

 八幡がなんとか本音を絞り出すと、結衣はようやく、雪解けのような笑顔を見せた。

 

「……えへへ、ありがと」

 

 彼女はいそいそとセーターを脱ぎ、それを丁寧に畳み始める。

 

 ……二人は気づいていない。周囲の客や店員から見れば、それはどこからどう見ても、気の置けない仲睦まじい男女の光景だった。

 何者にも侵害されない、比企谷八幡と由比ヶ浜結衣だけの空間。

 そこには、紛れもない『暖かさ』が、確かに存在していた。

 

 

──

 

 

 結局、雪乃へのプレゼントは結衣の見立てで「猫の手ミトン」と「猫の足ルームソックス」に決まった。これに猫耳としっぽ、それに首輪でも添えれば、どこに出しても恥ずかしくない完全体「猫耳ゆきのん」が顕現するだろう。……もっとも、そんなものを贈って無事に明日を迎えられるかは、エイトマンの生存シミュレーションでも生存率1%未満の極低確率を叩き出していたが。

 

 場所を移し、今度は千葉センシティへと足を踏み入れる。自然、足はレディースものを取り扱うフロアへと向かうことになった。

 引き続き「ガハマ先生」による熱血指導のもと、小物アイテムがひしめき合うショップで試行錯誤が続く。

 

「いろいろ見てみるといいんじゃない? 手袋とかアクセとかマフラーとか……。あとなんか、雑貨系とかさ!」

 

 結衣に背中を押され、八幡も店の中を物色し始める。

 店員さんの「いらっしゃいませ」という圧力をセンサーで受け流しながら、棚から棚へと移動していると、ふと結衣が足を止めた。その棚のポップには『アイウェア』と横文字が躍っている。

 

(なんだよアイウェアって。眼鏡って言え、眼鏡って。何でもかんでもカタカナにすりゃあ洗練されると思ってんのか、千葉の意識高い系かよ……)

 

 心の中で、江戸時代の頑固親父さながらの悪態をついていると、結衣がトントンと肩を叩いてきた。

 

「ねえねえ、ヒッキー」

 

 振り向くと、そこにはなぜか自慢げな様子で眼鏡をかけた結衣が立っていた。フレームの端を指でクイ、クイと押し上げながら、したり顔で微笑む。

 

「ふふん。なんか、頭よさそうじゃない?」

「……『眼鏡をかければ頭がよく見える』っていう発想自体が、もう相当頭悪そうだぞ、お前」

「うるさい、ばか」

 

 図星だったのか、結衣は頬を膨らませて拗ねたように言い返す。だが、すぐに気を取り直したように、アイウェア――もとい眼鏡をあれこれ手に取っては、そのデザインを熱心に確かめ始めた。

 八幡もそれに倣い、一つ手に取ってみる。

 プラスチックの軽い感触。レンズ越しに歪む景色。

 ただの道具に過ぎないはずのそれが、今は彼女と同じ空間を共有するための、奇妙なキーアイテムのように思えた。

 

「あ。ほら、ヒッキーもかけてみてよ。これとか」

 

 結衣が棚からひょいとつまみ上げたのは、シュッとしたビジネスマン向けの鋭利なデザインの眼鏡だった。いかにも「デキる男」を演出するための、無機質な銀縁。

 

「こんな感じか」

 

 すちゃっと眼鏡を装着し、人差し指でくいっとフレームを押し上げる。エイトマンの精密動作モードを無駄に発動させ、完璧な角度でポーズを決めてやった。

 すると、結衣が盛大に吹き出した。

 

「……っ、似合わなっ!」

「うっせーな……。だろうな、自分でもわかってたよ」

 

 憮然としながら眼鏡を外すと、結衣はさらにもう一つ、今度は別のデザインの眼鏡をトレイから差し出してきた。

 

「じゃー、次は…………これっ!」

「……やだよ。しつこいぞ」

「いいじゃん。はいっ!」

 

 有無を言わさぬ勢いで、深い蒼色の眼鏡をぐいっと顔に押し込まれた。ええい、鬱陶しい……。中途半端に耳に引っかかったテンプルを苛立ちまぎれに掛け直し、文句の一つでも言ってやろうと結衣に向き直った。

 すると、結衣はぽけっと口を開けたまま、こちらを凝視して固まっていた。

 

「…………」

「いや、無言かよ。自分で振っといてまさかのノーリアクションはきついだろ」

 

 せめて「似合わない」と笑ってくれた方がマシだ。何か言うべきだろうと視線を向けると、それに気づいた結衣が、顔を林檎のように真っ赤にしながら慌てて両手を振った。

 

「あ、ううん、なんでもない! ……なんか、意外に、似合う、かも」

「……それはどうも」

 

 褒められると、それはそれでこっちのリアクション用回路がショートする。

 気まずさを散らすように鏡を見ようとしたその時、結衣の声が低く、震えるように響いた。

 

「………………お揃い……」

 

 くしくしと、あの蒼いシュシュを着けたお団子髪をいじりながら、結衣は俯いてしまった。

 彼女の髪にある蒼。そして、俺の視界を縁取る蒼。

 エイトマンの光学的センサーが、その二つの色彩が完璧に同調していることを、残酷なまでの精度で報告してくる。

 

「……ん……いや、なんだ……『蒼』も、悪くねえかな」

 

 八幡は、こういう時にどう振る舞えば正解なのか、一生かかっても答えに辿り着ける気がしなかった。

 

 だが、今。

 

 ショーケースに反射する自分たちの姿と、その間に流れる微熱を帯びた時間が、『間違いではない』ことだけは、確かに理解できていた。

 

 

──

 

 

 買い物を終え、心地よい疲労感が足に溜まっていた。しばらく歩きっぱなしだったこともあり、どこかで腰を下ろしたい。駅の外にあるいつものスタバまで歩く選択肢もあったが、自動ドアの向こうに広がる一月の冷気を想像しただけで、エイトマンの外出意欲回路はシャットダウンを選んだ。

 

「ここでいいか」

「うん、賛成! ちょっと足疲れちゃったし」

 

 結衣の同意を取り付け、そごうの館内にあるカフェへと滑り込む。ここはフロアの隅に位置しているせいか、セールの喧騒が嘘のように遠のき、落ち着いた琥珀色の空気が流れていた。

 

「二名で」

 

 店員さんに案内されたのは、窓際の四人掛けの席だった。結衣に奥のソファ席を譲り、八幡は対面に腰を下ろす。背後に広がる大きな窓の向こうには、冬の陽光に照らされた千葉駅が一望できた。

 規則正しく滑り込んでくるモノレールの銀色の機体。それを見下ろしていると、なんだか千葉がとんでもない未来都市のように思えてくる。千葉マジ未来都市。俺たちの戦場は、いつの間にかこんなハイテクな場所に移行していたらしい。

 そんな現実逃避気味の思考でモノレールの軌道を追っていた、その時だった。

斜め向かいの席に座る人物と、ふいに視線が衝突した。

 

「ありゃ、比企谷くんだ」

 

 その人もまた、窓を背にしてゆったりとソファに沈んでいた。

白を基調としたフリルのついたシャツ、その胸元に垂れる金紗のネックレス。外光を一身に集めたかのようにキラキラと輝いているというのに、楽しげに弧を描く瞳は、暮れなずむ空よりも深い、底なしの黒。

 そんな、美しさと不気味さが同居するちぐはぐな印象を包み込むように、鮮やかな赤いストールを羽織り直して、雪ノ下陽乃は八幡の名を呼んだ。

 

「陽乃さん……と、」

 

 隣に座る結衣も異変に気づき、驚きに声を震わせる。結衣の視線が、陽乃の対面に座る人物へと移った。

白とも黒ともつかない絶妙な色合いの灰色カットソーに、仕立ての良い紺のジャケット。薄い金に近いブラウンの髪の下で、少しだけ虚を突かれたような目を見せつつも、瞬時に「正解」の笑顔を貼り付けた男。

 

「隼人くんじゃん」

「……やぁ」

 

 軽く上げた袖口から、鈍い銀色の光を放つ腕時計を覗かせて、葉山隼人は短く応じた。

 一年の計は元旦にあり。

 エイトマンの予測演算が「波乱含みの一年」という回避不能なログを叩き出しているのを痛感した。

 

 

──

 

 

 落ち着かない視線はテーブルの上を彷徨い、横と向かいに座る面々へと向かった。四人掛けの席で前に座るのは、戸惑い混じりの微笑みを浮かべる結衣だ。

 その戸惑う理由は、由比ヶ浜のすぐ隣にいた。若干引き攣った俺たちの微笑みとは対照的に、にこにこと楽しげに笑う雪ノ下陽乃である。

 陽乃は八幡たちとばったり出くわすと、新年の挨拶もそこそこに、あれよあれよという間に同じテーブルについていた。エイトマンの回避プログラムが作動する隙すら与えない、鮮やかな接敵機動だ。

 

「なんか比企谷くんとガハマちゃんに会うの久しぶりかもー」

「あ、ですね! 超奇遇って感じします!」

「だねー」

「ですねー!」

 

 なんて、仲良さそうに二人してにこやかに微笑んではいるが、とりあえず上辺だけ調子を合わせている感が拭えない。そんな会話を聞いていると、毛穴から嫌な冷や汗が滲み出てくる。

 不意に目が合うと、陽乃は意味ありげに「ふふっ」と鼻で笑い、ゆっくりと目を細めた。

 その眼差しは、雪原で獲物を見定める捕食者を彷彿とさせ、暖房の効いた店内でも背筋にぞくりとした氷の柱が走る。

 結衣と陽乃からこそっと視線を逸らすと、その先では同じように困惑した笑顔を浮かべている葉山隼人がいた。葉山は女性二人の会話に無難な相槌を打ちながら、手早く店員を呼んで注文を済ませていた。

 

(相変わらず、無駄に気が利く男だよな……)

 

 無心になっておしぼりをいじいじと弄り、自分を背景に同化させようと試みていると、前方から極めて不穏な言葉が飛んできた。

 

「デートかー、このこのっ。相変わらず仲良いなぁー。雪乃ちゃんは一緒じゃないの?」

 

 陽乃は、苦笑いを浮かべている結衣の脇腹をグイグイと突っつく。

 

「あ、今日はちょっと、ゆきのんのプレゼント買いに来てて……」

「あー、もうすぐ誕生日だもんね、あの子。……そっか、なるほどね」

 

 ふむふむと頷きながら結衣の話を聞いていたが、陽乃はさっと携帯電話を取り出すと、どこかへ電話をかけ始めた。

 その指先の動きに、一切の迷いはない。

 陽乃の指が迷いなく画面を叩く様子を見ていた葉山が、小さな苦笑を浮かべ、控えめに口を開いた。

 

「……出ないんじゃないかな。来ないって言ってたんでしょ?」

「まあね。けど、わかんないじゃない? 気が変わるかも」

 

 携帯電話を耳に当てたまま、陽乃さんは目を細める。その瞳の奥にある真意までは、エイトマンの高性能センサーをもってしても見通すことはできない。ただ一つ確かなのは、彼女がこの状況を心の底から楽しんでいるということだ。

 

「うーん、電話に出てくれれば来ると思うんだけどなぁ……。出てくれないかなぁ……、お姉ちゃん、悲しい」

 

 くすんくすんとわざとらしい泣き真似をしながらぼやくが、陽乃に諦める様子は微塵もない。携帯電話を矯めつ眇めつしてから、「もう一回」と気合を入れて、再度リダイヤルを開始した。

 その異様な執念を結衣が不思議そうな面持ちで見ている。その表情の意味するところを察したのか、葉山が声を潜めて説明を始めた。

 

「毎年、年始の挨拶回りがあってね。その後、うちの家族と陽乃さんたちとで会食する予定なんだ。今はちょうど、親たちと待ち合わせ中なんだよ」

「へぇ~、そうなんだ。なんか挨拶回りとか、大変そうだねぇ」

「慣れているから、そうでもないよ」

 

 感心したように言う結衣に、葉山は軽く頷く。

 実際、葉山のコミュニケーション能力――というか、表面上をさらっと完璧にやり過ごす能力を考えれば、その手のことには本当に慣れているのだろう。対人関係のスキルは本人の資質ももちろんだが、踏んだ場数によっても左右される。

 葉山本人の学校生活での立ち位置、また親御さんの仕事関係の立場を考えれば、そうした「人前に立つ機会」には事欠くまい。だが……。

 

「そういうことなら、俺ら普通に他所行くぞ。なんか、あれだろ。親御さんとか来たら邪魔だろ」

「……あ、そだね」

 

 八幡の言わんとすることを理解した結衣が、うんうんと首肯する。だが、葉山は軽く頭を振ると、安心させるような「いつもの」笑みを浮かべた。

 

「別に気にすることないさ。むしろ、暇つぶしの相手が来てくれて、陽乃も喜んでると思うけど」

 

 言いながら、葉山はちらりと陽乃の方を見た。彼女はまだ携帯電話を耳に当てていたが、会話は筒抜けだったようで、静かに、しかし力強く頷いた。それを受けて、葉山が再び八幡に向き直る。

 

「な? お気遣いは無用だよ」

「……お前の親御さんとばったり出くわしても、なんか、気まずいんだが」

 

 げんなりしながら八幡は天井を仰ぐ。慣れないカフェの無機質な天井が、やたらと視覚センサーを刺激する。

 

「……お?」

 

 と、その時。やがて回線がつながったらしい。陽乃が小さく驚きの声を上げた。意外さが口元からこぼれて、微かに唇がほころぶ。

 

「繋がったわ」

 

 その一言で、このテーブルの空気が一気に凍りついた。

 陽乃の持つ携帯電話から、低く沈んだ声が漏れ聞こえてきた。

 

『もしもし……』

 

 それは新年の喜びとは無縁の、底の抜けたような声だった。しかし、陽乃のトーンはそれとは真逆の、不自然なほど明るい「きゃぴるん」とした色を帯びる。

 

「あ、雪乃ちゃん? お姉ちゃんですよー。今から出てこれる?」

『切るわ……』

 

 その即断即決の切り返しに、傍で聞いていた結衣も葉山も思わず苦笑いを浮かべた。しかし、陽乃はこの程度の拒絶には慣れっこなのだろう。動じることなく、獲物を吊り上げる釣り人のような口調で続けた。

 

「あれー? 切っちゃっていいのかなー?」

『……何?』

 

 陽乃が獲物を網に追い込んだ捕食者のように、にやりと笑う。

 

「実はね、比企谷くんと一緒にいるんだよ!!」

『またくだらない嘘を……。いい加減に──』

「はい、比企谷くん」

 

 陽乃は言い終わるよりも早く、携帯電話を八幡の顔の前に押し付けてきた。

 

「ちょ、え……?」

 

 戸惑う八幡を余所に、彼女は両手を後ろに隠して素知らぬふりを決め込む。受け取る意志は微塵もないらしい。八幡は致し方なく、その端末を手に取った。

 

「あー……もしもし」

 

 何を話せばいいか分からず、とりあえずそんな情けない声を出す。すると、電話口の向こうで雪乃が息を詰まらせる気配が伝わってきた。わずかな沈黙の後、深い、深いため息が吐き出される。

 

『はぁ……。来れた。どうしてあなたがそこにいるの』

「いや、たまたま出掛けてたら、なんか捕まっちゃってだな……」

『もういいわ。すぐ行くから姉さんに替わって』

「…………はい、ごめんなさい」

 

 なぜか本能的に謝ってしまった八幡。おしぼりで画面を丁寧に拭いてから陽乃に返すと、彼女は満足げに雪乃と二言三言、場所を伝えて通話を切った。

 

「雪乃ちゃん、来るって」

 

 満足げに微笑む陽乃。八幡と結衣は顔を見合わせ、苦笑いするしかなかった。この人の強引さは、久々に目の当たりにしてもなお、恐怖を覚えるレベルにある。

 それから三十分ほどの間、陽乃は雪乃へのプレゼント選びを口実に、スマホの画面を向かいの葉山に見せていたが、彼の無難な対応に早々に飽きたようだった。矛先は再び八幡へと向けられる。

 

「ね、比企谷くん、どうどう?」

 

 陽乃はテーブルの上に身を乗り出し、上半身を軽く揺らしながら、八幡の顔を覗き込んできた。

 

「いいんじゃないですか、可愛らしくて……」

 

 先ほど葉山が口にしていたセリフをそのままコピーして返す。

 

「その皮肉な返し方、比企谷くんって感じ」

 

 陽乃は楽しげに目を細め、満足したように席に座り直した。

 この人には恩義を感じる面もあれば、八幡自身の内面にある自己に対する嫌悪感を暴かれたきっかけでもある。総じて、八幡にとって最も苦手な部類の人間だった。エイトマンの表情解析機能をもってしても、彼女がこの状況を「楽しんでいる」ということ以外、その深淵を分析することはできない。

 八幡が内心で項垂れていると、隣の結衣が何かに気づいて「あ」と小さく声を上げた。

 視線の先、つかつかと早歩きでこちらに向かってくる雪ノ下雪乃の姿があった。

 

「ゆきのーん、こっちこっち!」

 

 結衣が大きく手を振ると、雪乃もそれに気づき、冬の風を切り裂くような鋭い足取りで、八幡たちの座るテーブルへと辿り着いた。

 鋭い足取りで、雪乃はテーブルの横に立った。その双眸は冬の月のように冷たく冴えわたり、座を支配していた陽乃の熱を真っ向から押し返している。

 

「由比ヶ浜さん……。あなたも、来てたのね」

 

 不意に投げかけられたその言葉に、雪乃の驚きが滲んでいた。

 

「そうそう。えっと……なんていうか、ヒッキーと買い物してたら、なんか捕まっちゃって……」

 

 あはは、と誤魔化すように笑いながら、結衣はくしくしとお団子髪を弄った。

 本当は、今まさに目の前に座った本人のための誕生日プレゼントを買いに来ていたのだ。それを正直に言っていいものか、それともサプライズのために伏せるべきか。結衣の脳内回路は一瞬でオーバーヒートを起こし、結局、微妙に言葉を濁すという一番怪しい選択肢を弾き出した。

 

「買い物……。そ、そう……」

 

 それを聞いた雪乃は、結衣と八幡を交互に、訝しげな視線で射抜いてきた。

 何かを問い詰めたげな、それでいてどこか疎外感を含んだ眼差しに圧されて、結衣もまた、八幡と雪乃の間を視線で彷徨わせる。

 交わされているのは視線だけで、そこに言葉は介在しない。

 わずかな時間ではあったが、粘りつくような重苦しい沈黙が卓上を支配した。

 周囲の客の話し声、カップとソーサーが触れ合う乾いた音、薄く流れるBGM、店員のローファーが床を鳴らす足音。

 そして、陽乃の「くすり」という、全てを見透かしたような小さな笑い声。

 雑音はこれほどまでに溢れているのに、この五人の間にある静寂だけが、妙に耳に痛い。

 

「とりあえず、座ったら?」

 

 沈黙の糸を断ち切ったのは、葉山だった。その一言に弾かれるように、結衣がソファから腰を浮かせる。

 

「あ、ほら、こっちこっち!」

 

 自分の隣に一人分のスペースを空けると、手招きして雪乃を誘う。

 

「え、ええ……。ありがとう」

 

 雪乃もそれに素直に応じた。着ていたコートを脱いで軽く畳み、小脇にちょこんと置いて腰を下ろす。八幡の正面、結衣の隣。これで、逃げ場のない「五人の茶会」の布陣が完成した。

 雪乃は隣の結衣に向き直ると、申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「ごめんなさい、姉が迷惑をかけて」

「ううん、全然!」

 

 結衣が明るい調子で手を振って答えると、雪乃は少しだけ安心したように胸を撫で下ろした。それから、今度は隣の八幡へと顔を向ける。探るような、少しだけ不安げな上目遣い。

 

「比企谷くんも、その……」

「別に。どのみち暇だったからな」

 

 プレゼントを真剣に選んでいたなんて、口が裂けても言えない。八幡は虚空を見つめたまま、素っ気ない返事という名の防壁を築いた。

 

「雪乃ちゃん、おっそーい。お姉ちゃん待ちくたびれちゃった」

「……いきなり呼び出しておいて、よくもまあ、抜け抜けと……」

 

 陽乃のからかうような物言いに、雪乃が横目で毒を吐く。だが陽乃はそれを平然と受け流し、楽しげに目を細めた。

 二人の間に挟まれた結衣は、ただ困ったような笑顔を浮かべて、嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように身を縮めていた。

 

 

──

 

 

 雪乃が頼んだ紅茶の香りがテーブルに広がる頃、会話の主導権は自然と「かつての三人」へと移り変わっていった。

 雪乃は結衣からの問いに答える形で、葉山と自分たちの幼少期の話を淡々と、けれどどこか懐かしむように話し出した。かつて動物公園の遊園地ゾーンで、陽乃の無茶振りに振り回されて散々な目に遭った葉山の失敗談。あるいは、臨海公園の観覧車をこれでもかと揺らして妹を恐怖のどん底に叩き落とした、陽乃の傍若無人なエピソード。

 八幡と結衣は、その完成された「過去」の輪郭に触れることもできず、ただコーヒーを啜りながら適度な相槌を打つことしかできなかった。

 

(……当たり前だけど、この三人には三人だけの時間があるんだな)

 

 余人が立ち入る隙など微塵もない、共有された記憶の財産。八幡は雪乃の意外な子供時代に少しの興味を覚えつつも、どこか遠い世界の出来事を眺めるような心地でその光景を分析していた。

 

「今の二人は、なんだか可愛げがないからなぁ……」

 

 陽乃が、つまらなそうに頬杖をついて零す。

 

「いつまでも子供扱いはやめてくれないかしら?」

 

 冷ややかに返す雪乃の瞳には、かつて姉に対して抱いていた「怯え」の色は希薄だった。文化祭実行委員会や生徒会選挙という修羅場を潜り抜け、自分なりの足場を固めた自信が、彼女をこうして言い返せるまでに変えたのだろうか。

 そんな妹の成長を認めるように、陽乃はくすりと艶やかに笑った。

 

「まあ、でも今の雪乃ちゃんには比企谷くんがいるしね。……私も、比企谷くんを可愛がればいっか」

 

 その瞬間、八幡の内部回路に鋭い悪寒が走った。

 向けられたのは、獲物を絡め取るような湿り気を帯びた上目遣い。楽しげな光の裏側で、暮れた空よりも暗い瞳が『お前だけは逃がさない』と無言で告げている。

 

「……体育会系みたいな『かわいがり』は勘弁していただきたいんですが」

 

 エイトマンとしての防御本能が、苦し紛れの皮肉を吐き出させる。

 

「そういうところが可愛がりたくなるのよねー。よーしよし、八幡よーしよし」

 

 陽乃は楽しげに腕を伸ばし、子供をあやすように八幡の頭を撫でようとしてきた。八幡は反射的に身を逸らし、その白く細い指先をさらりとかわす。

 

「ありゃ、逃げられちゃった」

 

 にこにこと笑う陽乃の表情は、一見すればどこにでもいる「気のいいお姉さん」そのものだ。年上の美人に微笑まれる体験は、男子高校生としての八幡にとっては決して悪い気はしない。

 だが、時折雪乃との関係を煽り、あるいは冷徹な調整を試みる彼女の真意が読めない。もしかしたら、自分が『エイトマン』であることすら、彼女はとっくに看破した上で遊んでいるのではないか。

 

(全部を自分の管理下に置きたい、コントロールマニア……。いや、そんな言葉じゃ片付かないな)

 

 エイトマンとしての直感――「センス」と呼ぶべき不確かな警告が、目の前の女性にはまだ決定的な秘密が隠されていると告げていた。八幡はその予感を飲み込むように、冷めかかったコーヒーを喉の奥へと煽った。

 

 

──

 

 

 コーヒーのカップが空になり、底に沈んだわずかな澱を見つめて、八幡は心の中で決断を下した。

 

「……ちょっと」

 

 短く断りを入れて、八幡は席を立った。

 別に生理現象が限界だったわけではない。ただ、この密度の高すぎる空気の中に居続けることが、エイトマンとしての、あるいは一人の高校生としての精神衛生上よろしくないと判断したためである。

 かつて数々のアルバイトを数日でバックレてきた経験は伊達ではない。逃げ際の見極めだけは超一流なのだ。

 大体、自分を除いたこの四人はあまりにも華がありすぎる。

 

(葉山が黄金だとしたら、雪ノ下は白磁……)

 

 陽乃はカットされたばかりのダイヤモンドで、結衣は……なんだろうか。とにかく、そんな注目の集まりやすい異様な集団の中に、自分がこれ以上混ざっているのは気まずくて仕方がなかった。

 

「あ、わたしもちょっと用事あるんだった」

 

 だが、八幡の小賢しい撤退戦を見透かしたように、陽乃もまたしなやかな動作で立ち上がった。

 

「ちょっとお姉さんに付き合ってよ。あんまり時間取らせないから」

 

 雪ノ下陽乃は小首を傾げ、獲物を追い詰める捕食者のように、からかうような微笑を浮かべた。

 

「いや、俺ちょっと、あれなんですが……急用というか」

 

 引き攣った笑顔でやんわりと断り、肩に置かれた彼女の手の感触を振り払えないまま、店の外へとじりじりと後ずさる。しかし、陽乃の指先は逃げ場を塞ぐように、八幡のコートの襟元を掴んで離さない。

 

「いいじゃない、つれないなー。……ねえ」

 

 突然、ぐいっと腕を引き寄せられた。

 抗う隙も与えず、陽乃は八幡の耳元へと顔を寄せ、熱を帯びた小声で囁いた。

 

「……少し、デートしよ」

 

 殺し文句というなら、まさしく殺し文句。

 脳内の全演算回路が一時停止し、硬直した八幡は、ろくな抵抗もできないまま腕を引かれてその場を後にした。

 

「……っ」

「ヒッキー……?」

 

 背後から、凍てつくような雪乃の眼差しと、先ほどまでの温もりが嘘のように消えた結衣の鋭い視線が、物理的な衝撃を伴って突き刺さったような気がした。

 

 

 




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