——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
カフェの喧騒から離れ、人混みを縫うようにしてエスカレーター付近まで辿り着いた。陽乃に取られたままだった右腕から、八幡は抵抗というよりは、摩擦を排するように「ぬるり」と音もなく抜け出した。
「……あの、どこ行くんですか、これ」
解放された腕を無造作にポケットに突っ込み、八幡は隣を歩く陽乃に問いかけた。
「言ったでしょ、ちょっと買い物に付き合ってもらうだけ」
「デートじゃなかったんすか」
「あれ? そっちの方がよかったかなー?」
陽乃がいたずらっぽく小首を傾げる。
「いや、全然」
八幡は即答した。そこには一欠片の遠慮も、男子高校生らしい感慨も含まれていない。
ここには雪乃も結衣もいない。もはや「比企谷八幡」という等身大の少年として取り繕う必要も、誰かの機嫌を伺う必要もなかった。
いつの間にか、八幡の瞳からは生気が削ぎ落とされていた。かつての宿敵、デーモン博士と冷徹な会話をするように、精密で、無機質な機械としての側面が表層へとせり出してくる。
「いいね、その目。雪乃ちゃん以外はどうでもいいって感じの目……」
陽乃はその鋼鉄の視線に射抜かれながら、あろうことか恍惚とした悦びさえ浮かべていた。
八幡は、目の前にいるこの存在が、一秒たりとも演算の隙を与えるべきではない「猛毒」だと理解している。だが、『雪ノ下雪乃の姉』という属性コードと、彼女の瞳の奥に時折明滅する、無垢な少女性を残した視線が、電子頭脳の論理回路をわずかに鈍らせる。
「……話があるなら、はやくしてください」
八幡は極めて事務的な、温度のない声で促した。
余計な感情を排し、最短距離で用件を済ませる。それが今の自分にできるベストな「最適解」であると、電子頭脳は静かにログを叩き出していた。
「比企谷くんはこういう時、ほんと嫌そうな顔するねぇ。感心するよ」
「正直者なので、つい」
八幡が感情を削ぎ落とした声で返すと、陽乃はくすくすと喉を鳴らした。
「じゃあ、わたしとお揃いだ」
陽乃はぬけぬけと言ってのけ、足を止めて八幡と向き合った。口元に蠱惑的な微笑を浮かべると、吸い寄せられるように距離を詰め、そっと耳打ちする。
「でも、お揃いってちょっと可愛いと思わない? ……どう? お揃い」
その声には官能的な響きがあり、首筋に触れる吐息はしっとりと甘い。からかわれていることなど百も承知だ。だが、一瞬脳内のリアクターが勝手に熱を帯びるせいで、陽乃の表情を横目で見ることすら、八幡には躊躇われた。
陽乃は八幡の硬直を十分に楽しむと、満足げに一言付け足した。
「ガハマちゃんとお揃いだったの、嬉しいと思った?」
「……」
八幡の脳裏に、あの『蒼』が浮かぶ。なぜ彼女がそのことを知っているのか。その疑問は、思考を割くほどのものではなかった。目前の女性にとって、その程度の符合を看破するのは造作もないことだろう。
八幡は表面上、いかなる反応も示さなかった。鋼鉄の仮面を維持することに全演算能力を注ぎ込む。
「ダメだよ。比企谷くんには、雪乃ちゃんがいるんだから……。ううん、違うか」
陽乃は愛おしむような、あるいは残酷に嬲るような視線で八幡を見つめた。
「君には、雪乃ちゃんしかいない。……雪乃ちゃん以外、誰も君を理解(わか)ってくれる人はいない」
「……なんですか、急に」
「雪乃ちゃんは、君が誰であろうと受け入れてくれる。……そういう風に、君があの子を強くしてくれたからね」
一瞬だけ、陽乃の端正な顔に寂寥感とでも言うべき影が差した。過去を慈しむような、あるいは取り返しのつかない何かを悔やむような。その表情に滲むのは純粋な優しさだけではない、もっと濁った、得体の知れない何かが隠されている気がした。
「本当は、私が鬼になってでも、あの子を強くしなきゃならなかったんだけどね」
ふいと背を向け、陽乃は独り言のように言葉を紡ぎ出す。
「強くする……とは?」
八幡は、その言葉の真意を測りかねていた。彼女が今まで妹に仕掛けてきた精神的な揺さぶりの全てが、その一言に集約されているというのだろうか。
「これから来る時代を、『生き残ることができる強さ』を得ること、かな」
「時代……」
また大仰なワードが出てきたものだ、と八幡は内心で毒づく。だが、陽乃の背中は冗談を言っているようには見えなかった。
「ガハマちゃんじゃ、ダメなんだよね。ちょっと見どころもあるし、いくらか弄ってもらったみたいだけど……」
ぶつぶつと呟く陽乃。その瞳には、隠しきれない忌々しそうな苛立ちが含まれていた。
「あの子じゃ、君と雪乃ちゃんの相手は無理だね。いつか、あの子は君たちを拒絶するよ。……優しすぎるからね、あの子は」
振り返った陽乃の目は、もはや何も映さない虚無の闇に塗りつぶされていた。
「だから、比企谷くんには雪乃ちゃんのことだけを考えて欲しいの。君と雪乃ちゃんなら、いつか『本物』に辿り着ける。……そう思っているから」
陽乃は一歩、八幡に近づき、冷たい宣告のように言い放った。
「──あの子を守れるのは、君しかいない」
それだけ告げると、陽乃はカフェの方向に向かって、迷いのない足取りで歩き始めた。
取り残された八幡は、呆然とその背中を見送るしかなかった。
全てを見透かされ、内臓まで曝け出されたような気分だった。
あの人は、比企谷八幡の感情の全てを理解していたのだ。八幡自身が「システムエラー」として頑なに認めようとしなかった、ある一つの事実さえも見抜いていた。そう……
──自分は、由比ヶ浜結衣という存在にも、決定的に惹かれているのだということを。
──
カフェに戻る道中、陽乃はずっと無言だった。八幡もまた、重い沈黙を破るような言葉を持ち合わせてはいない。既に「宣告」は終わっており、これ以上重ねる言葉は、ただ傷口を広げるだけの蛇足でしかなかったからだ。
だが、カフェの席に戻った瞬間、陽乃のテンションは劇的な跳ね上がりを見せた。
「はい、雪乃ちゃん! お誕生日プレゼント。お姉ちゃん、超真剣に選んだの!」
陽乃は雪乃に抱き着かんばかりの勢いで身を寄せると、むぎゅぎゅっと可愛らしくラッピングされた包みを押し付けた。
「……っ、急にどうしたの?」
あまりの剣幕に雪乃はたじろいだが、誕生日プレゼントと言われて無碍に断る理由も見当たらないのか、困惑の色を隠せないままそれを受け取った。
その包みのブランドロゴを見た結衣が、パァッと瞳を輝かせる。
「あ、そのお店の! 超可愛いですよねー!」
「そうそう! さすがガハマちゃん、詳しい! 可愛い妹のために、とびきり可愛いものをね。お姉ちゃんの愛を存分に感じてほしいわ!」
びしっと結衣を指差し、陽乃がふふんと誇らしげに胸を張る。その姿は、どこからどう見ても妹を溺愛する「理想のお姉さん」そのものだった。
(……さっきと変わりすぎだろ、この人)
八幡は、そのあまりの落差に頬を引き攣らせるしかなかった。エイトマンの感情解析ユニットが、この多面的な狂気について行けず、バグ報告を連発している。
しかし、二人の賑やかなやり取りを見て、雪乃もいくらか毒気を抜かれたようだった。腕の中にある包みをしげしげと眺め、小さく溜息を漏らす。
「……愛、ね。……けど、まあ、可愛くは、あるわね」
消え入るような小声で呟くと、雪乃は満足そうに一度だけ頷いた。どうやら、姉の選んだギフトはお気に召したらしい。雪乃はその包みをそっと膝の上に乗せ、逃がさないようにきゅっと浅く抱きしめた。
そして、俯いたまま、ぽしょぽしょと唇を動かす。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
かあっと林檎のように頬を朱に染める雪乃を、陽乃は慈しむような、それでいて全てを掌の上で転がしているような満面の笑みで眺めていた。
そんな微笑ましい光景を見て和んでいたのは、八幡だけではなかった。葉山隼人もまた、どこか安堵したような優しい眼差しで、雪ノ下姉妹のやり取りを見守っていた。
ふと、葉山が何かに気づいたように手元の時計に目を落とす。それからテーブルの下で携帯電話を取り出し、手早く内容を確認した。どうやら、待ち合わせていた親たちからの連絡が入ったらしい。
「……陽乃さん、そろそろ」
葉山が囁くように告げると、陽乃もブラウスの袖口を薄くめくった。細く白い手首に巻かれた金紗の腕時計。その文字盤と八幡の顔を、彼女は交互に見やった。
どうやら、親との待ち合わせという「現実」の時間がやってきたらしい。となれば、自分たちはここで身を引くのが最善の判断だろう。
「じゃあ、俺ら帰ります」
「うん、だね」
八幡が切り出すと、結衣もそれに続いた。陽乃も葉山も、ここが潮時だと判断したのか、満足げにこくりと頷く。
「あ……」
ただ一人、雪乃だけが所在なげに視線を彷徨わせていた。八幡と陽乃、双方を窺うように交互に見やり、やがて何かを決意したかのように、瞳に強い光を宿して頷いた。
「姉さん、私も会食に行くから。先に伝えておいて」
まっすぐ陽乃を見据えるその瞳に、迷いはない。
「あれ? 来ないんじゃなかったっけ?」
「家族に会うのに、いちいち許可がいるのかしら?」
雪乃の間髪入れぬ切り返しに、陽乃は満足そうに目を細めた。そしてスマホを取り出し、軽やかな手つきで連絡を入れ始める。これが、陽乃が口にしていた「生き残るための強さ」の片鱗なのだろうか。
「ゆきのん、かっこいい……」
感心したように結衣が呟く。だが、すぐに何かを思い出したように、小脇に抱えていた袋をガサガサと弄り始めた。
「あ。そうだ、これ! ちょっと早いけど、明日お誕生日だから」
結衣が今日選んだプレゼントの袋を、雪乃の手元へと差し出した。結衣がこのタイミングで渡すのなら、これ以上の正解はない。八幡も、ポケットの奥に意識を向けながら言葉を添えた。
「……おめでとさん」
「あ、ありがとう……」
雪乃は虚を突かれたように、しばらくその袋をまじまじと見つめたまま固まっていた。けれど、ようやくのことで切れ切れの声を出す。彼女は袋をきゅっと胸に抱きしめ、冬の氷が解けるように、ふわりと顔をほころばせた。
そんな雪乃を見て、結衣もまた満開の笑みを湛える。
「あのね、あたしケーキ用意してくから! また学校で改めてお祝いしようね!」
その言葉は、結衣なりの精一杯の気遣いなのだろう。こうした場で友人一人を残して別れるのは、どこか追い返してしまったような、後ろ髪を引かれる思いがするものだ。八幡は、その優しさに便乗することにした。
「じゃ、またな」
軽く手を上げて言うと、雪乃がふっと微笑み、中途半端に開いた手を小さく振った。結衣の気遣いは、十分に届いているようだった。
「ええ。……また」
「うん、またね!」
結衣は元気よく手を振り返す。
雪乃は胸元に重なったプレゼントの袋を、いつまでも大切そうに抱えていた。
席を離れ、陽乃に軽く会釈をする。
「んじゃ、失礼します……」
ひらひらと適当に手を振る陽乃と、相変わらず爽やかな笑みで送り出す葉山に見送られ、八幡と結衣は店を出た。
店からエレベーターホールまではさしたる距離もない。このフロアから乗る客は他にいないようで、がらんとした静謐な空間に、二人の足音だけが規則正しく響いている。
「ケーキさー、何ケーキがいいかなー? ショートか、チョコか……」
エレベーターのボタンの前に立った時、結衣が何事もなかったかのように、明るい調子で話しかけてきた。
「どっちでもいいだろ、好きなほうにしなさいよ……」
「えー、ヒッキーも考えてよ。あたし、どっちも好きだから決めらんないし……。あ! ハーフ&ハーフ? とかできないのかな?」
「ピザじゃないんだから……」
なんにせよ、帰りしなにどのケーキを選ぶかも考えなければなるまい。呆れ交じりに言いながら、八幡はエレベーターのボタンへと手を伸ばそうとした。
伸ばした指の先には、二つのボタン。
上を向いた三角と、下を向いた三角。
どちらかしか押すことのできない、その無機質な記号を前にして、伸ばしかけた手が我知らず止まっていた。
──君には、雪乃ちゃんしかいない。
不意に、先ほどの陽乃の声が、鼓膜の奥でノイズのように蘇った。
その宣告についぞ答えることはできず、考えることさえ放棄して、持ち上げた腕が力なく落ちかける。
淡い光が灯ってしまえば、もう取り消すことはできない。
けれど、選ばずにいたら、どこへも行けずに、このまま冷たいホールの隅で立ち尽くして終わってしまう。
あるべき場所へ向かう正しい道筋を選ぶ。
そのために、八幡はひとつだけ、ボタンを押し込んだ。
カチリ、と小さな電子音が響く。
選ばれた方向を示す光が灯る。
しかし、網膜の奥に焼き付いた『蒼』の残像だけは、いつまでも消えなかった。