——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

79 / 91
先週は投稿できなかったので、今週は投稿します!


第七十四話:軋み始める何か

 

 クラスの全方位から突き刺さる、無遠慮なスキャンのような視線。八幡はそれを、皮膚が粟立つような物理的な圧力として感じていた。

 

『比企谷八幡と由比ヶ浜結衣が付き合っている』。

 

 その、スクールカーストの生態系を根底から覆すようなバグ同然の噂は、先ほどまでの「葉山と雪乃」という優雅なゴシップを、暴力的な速度で塗り潰していった。

 ざわざわと波立つ教室の中で、八幡は瞬きをすることさえ忘れ、無機質なガラス玉のような瞳を結衣に向けた。

 視界の端で、結衣は困惑と、羞恥と、そして何かもっと切実で判別不能な感情を瞳に宿し、八幡を見つめ返している。彼女のような「光」の側にいる存在に、自分という「異物」との噂を無理やり混入させてしまった事実。その事態の残酷さに、八幡の内部回路は激しい火花を散らした。

 

「いやいやいや! マジでないから! ヒキタニくんとか、そんなんありえないっしょー!」

 

 その凍りついた空気を切り裂いたのは、戸部の、わざとらしいほどに明るく、そして必死な叫びだった。

 こういう時の「空気の読み方」に関してだけは、戸部は葉山や結衣さえも凌駕する特異なセンスを発揮する。

 戸部の渾身のフォローに縋るように、結衣も真っ赤な顔で声を張り上げた。

 

「そ、そうだよ! 買い物、手伝ってもらっただけだもん! 全然、そんなんじゃないから!」

 

 戸部の道化じみた立ち回りと、結衣の必死の弁明。それらが合わさることで、教室に充満していた「最悪の期待」は、少しずつ、けれど確実に霧散していく。クラスメイトたちの顔に、「なんだ、やっぱりか」という、どこか安堵したような嘲笑が戻ってくる。

 

(わりぃな、戸部。おまえ、普段はウザいけど本当はいいやつなんだよな。ウザいけど……)

 

 八幡は、重鉛のような身体を投げ出すように、ガタンと音を立てて机に突っ伏した。

 視界を暗転させ、冷たい机の感触に意識を沈める。

 一刻も早く、この薄ら寒い空気から消失してしまいたかった。

 それと同時に、由比ヶ浜結衣という、本来なら一点の曇りもなく輝いているべき存在の履歴に、「比企谷八幡との噂」という拭い去れない汚点を混入させてしまった自分自身に、反吐が出るほどの嫌悪感を覚えるのだった。

 エイトマンのセンサーが、遠くで響くクラスの笑い声を拾うたびに、胸の奥の何かが、修復不可能な音を立てて軋んでいた。

 

 

──

 

 

 慌ただしい噂が、まるで実体のない霧のように教室から引き、放課後のチャイムが鳴り響いた。

 結衣が意を決して八幡の席に目を向けると、そこは既に抜け殻のようになっていた。

 

(……やっぱり、逃げちゃったんだ)

 

 当たり前だ。あんな好奇の目に晒されて、平然としていられるはずがない。

結衣は焦る気持ちを抑えながら、乱暴に身支度を整えて席を立つ。教室を出ようとするその短い足取りの間にも、クラスメートたちのヒソヒソとした囁きと、値踏みするような視線が、結衣の心の奥底にある『何か』を執拗に逆なでし続けた。

 

『あたしが、彼と一緒にいるのが、そんなにおかしいの?』

 

 それは、自分と彼に向けられた嘲笑に対する、純然たる疑問であり、沸々と湧き上がる苛立ちだった。

 この教室の、いや、この学校にいる連中の大半は、比企谷八幡という存在の本当の姿を何一つ知らない。

 死んだ魚のような目。ひねくれた性格。やる気のない態度。

 そんなものは、彼の側面の、それも極めて薄っぺらな表層に過ぎないのに。

 結衣だけは知っている。彼がどれほど重い秘密と苦悩を背負って生きているかを。

 それらを抱え、壊れそうになりながらも、誰かのためにボロボロになって戦い続けている、あの高潔な『エイトマン』としての姿を。

 そして、誰にも弱音を吐けず、自分や親友、家族の前でだけ、必死に『ヒッキー』という日常を繋ぎ止めていることを。

 

(……何も知らないくせに)

 

 結衣の拳が、カバンの持ち手を白くなるほど強く握りしめる。

 

(あたしの大切な人を、勝手に嗤わないでよ……!)

 

胸の奥で爆発しそうな苛立ちを振り払うように、結衣は八幡の後を追って教室を飛び出した。

 その強い想いの裏側で、他者を拒絶するような黒い澱みが、一滴ずつ、確実に溜まり始めていた。

 

 放課後の喧騒は、特別棟へ続く長い廊下にも不快な余熱として広がっていた。

 新年、あるいは新学期特有のそわそわした高揚感が校内に満ち、冬の夕暮れが窓から差し込む廊下は、どこか現実味を欠いたセピア色に染まっている。

 

「聞いたー? 葉山くんの話ー」

「あー、あれね。なんかガチっぽいんでしょ?」

 

 すれ違った女子たちが、仕入れたばかりの鮮度の高い情報をエンターテインメントとして消費し、笑いさざめく。断片的な情報が誰かの悪意によって繋ぎ合わされ、推測やネタとして拡散されていく。現代の「教室」という名の病理。

 別に自分が直接関係している話題ではないのに、それが耳に入るたび、首筋を這い寄るような不快感がぞわりと八幡の内部回路を逆なでした。

 その不快感の正体は、軽々しく噂話に興じる連中の醜悪さへの嫌悪……だけではない。

 

「なあ、聞いたか? F組の由比ヶ浜が……」

「あー、聞いた聞いた。なんか同じクラスのやつと付き合ってるって」

「マジかー。マジショックだわー……」

 

 自分自身の名前すら出されない、正体不明の「誰か」として。

けれど、確実に由比ヶ浜結衣という光に泥を塗る存在として語られる自分。

 こんなくだらない噂にいちいち聞き耳を立て、憤っている自分自身がたまらなく嫌だった。

 

(……誰のせいだと思っている。そうだ、これは全て、俺自身の行いの結果だ)

 

 初売りの繁華街。高校生が溢れかえっているのは道理だ。普段、買い物になど出かけないせいで、その手の「社会的な警戒心」が完全に抜け落ちていた。

 自覚はなかったが、冬休みに入ってから比企谷八幡はずいぶんとはしゃいでいたらしい。

 クリスマス、年末、正月。立て続けに発生したイレギュラーな幸福に当てられて、なにか致命的な勘違いをしていたのだ。

 

(何様のつもりだ、比企谷八幡)

 

 お前はカースト最底辺のぼっちにして、人の皮を被った機械の塊。

 決して人間社会とは相容れない、論理上のバグ……不純物だ。

 そんなお前が、彼女に、由比ヶ浜結衣という存在に迷惑をかけるな。

 

(自覚しろ、この愚か者め)

 

 八幡が自身を厳しく戒め、感情の出力を極限まで絞り込んで「再定義(リブート)」した瞬間、背後から賑やかな足音が迫ってくることをセンサーがキャッチした。

 弾むような歩幅。わずかに乱れた呼吸。そして、冬の空気に混じって漂う、あの特有の甘い香り。

 振り向かずとも、それが誰であるかは明白だった。

 少し歩調を緩めると、背後から追いかけてきた結衣がすぐに隣に並んだ。そして、挨拶代わりと言わんばかりに、げしっと鞄で腰のあたりを小突いてくる。

 

「あいったー……」

 

 エイトマンの装甲、あるいは鍛えられた比企谷八幡の肉体にとって、女子高生の鞄アタックなど羽毛が触れた程度の衝撃でしかない。だが、そこは「礼儀」として痛がるポーズを見せつつ足を止めた。隣に並んだ結衣が、不満げなジト目を向けてくる。

 

「なんで勝手に行くし」

「いや、なんかまだ話してたから……」

 

 というか、そもそも一緒に行くような約束をした記憶はない。……が、去年の十二月、あの激動の時期を経てからは、約束せずとも放課後に合流して部室へ向かうのが、二人の間での不文律(プロトコル)として定着してしまっている。

 

「……とりあえず、行くか」

 

 顎先で先を促し、廊下を進む。

 隣をてこてこと歩く結衣をちらりと横目で見ると、何か言いたげに唇を尖らせていた。視線だけで「なに?」と問いかけると、結衣はおずおずと、けれど意を決したように口を開く。

 

「あのさ、さっきの話……。き、聞こえてた?」

「まあ、あんだけ目立てばな……」

 

 元々目立つグループである。教室の中心で騒げば、嫌でも耳に入ってくる。まさか比企谷八幡の名前がその中心に放り込まれるとは夢にも思わなかったが。

結衣はもじもじと視線を彷徨わせ、やがて顔を覗き込むようにして、ぽつりと言った。

 

「……ヒッキー、嫌だった、よね?」

 

 八幡は、反射的に目を逸らした。

 彼女との会話で、これほどまでに明確に視線を外したのは久しぶりな気がした。

 

「なにが……」

 

 何が、などという問いは愚問だ。

 彼女のような存在が、自分という「不純物」とのくだらない噂に晒される。その一点だけが、エイトマンの論理回路においても、比企谷八幡という個の感情においても、許容できないエラーだった。

 

『では、比企谷八幡自身の感情は? 蔑まれたことは不快ではないのか?』

 

 脳内の電子頭脳が冷徹なクエリを投げてくる。八幡はそれを「演算に値しない」と即座に破棄した。自身のプライドなど、この際どうでもいい。考えるな。捨て去れ。

 

「……ヒッキー。ねぇ、こっち見てよ」

 

 結衣が、消え入りそうなほど寂しげな声で言う。

 

「なんだよ……俺と一緒にいると、また変な噂されるぞ。そんなのイヤだろ」

「あたしは、イヤじゃなかったよ」

 

 鼓膜を震わせたその不意打ちにも等しい言葉に、八幡は思わず顔を向けた。

 

「……イヤじゃない、よ」

 

 どこか弾んだ声。結衣が本来持つ明るさを秘めた、柔らかい声だった。

 けれど、彼女はその告白を廊下の空気に置き去りにしたまま、ぱたぱたと足早に八幡の前を行く。

 結衣は顔を俯かせ、癖になっているお団子髪をくしくしと撫でていた。

 その通り過ぎた瞬間の、ほんの一瞬だけ見えた彼女の横顔。

 そこに、冬の陽だまりのような柔らかな微笑が浮かんでいたことは、決して見間違いではないのだろう。

 八幡は、その場に縫い付けられたように動けなかった。

 

「イヤじゃなかった」

 

 その言葉が、彼が必死に再定義した「不純物としての自戒」を、音を立てて内側から食い破っていく。

 

(アホか、今さっきちゃんと決めたばっかりだろうが)

 

 彼女との会話が、頑なに鋼を纏おうとした気持ちを揺るがし、本来あった剥き出しの心が顕になる。

 

(俺は、どうかしているな……)

 

 先ほど決めたはずの定義が、音を立ててぐらつく。由比ヶ浜結衣に搭載された能力のせいか、それとも比企谷八幡の本来ある脆弱性の顕れか。今の八幡にはどちらが本当か判別がつかなかった。

 ガシガシと頭を掻いて、八幡は彼女の後に続いた。

 

 

──

 

 

 雪乃の誕生日を祝うため、結衣が持ち込んだ「飲めるほどに柔らかい」と評判のフルーツケーキ。その純白のクリームの上には、「1」と「7」を模った色鮮やかなキャンドルが、小さな命を宿したように揺らめいている。

 

「誕生日おめでとう、ゆきのん!!」

 

 結衣の弾むような祝辞が、部室の静寂を賑やかに塗り替える。主役である雪乃は、戸惑ったように瞬きを繰り返し、白い指先で自らの頬をなぞった。

 

「おめでとさん」

「おめでとうございまーす」

 

 八幡と、そしてなぜか当然のようにその場に収まっている一色いろはが声を揃える。雪乃は居心地悪そうに身を捩りながらも、その唇の端には、冬の氷が解けるような、微かな、けれど確かな熱を帯びた微笑を浮かべていた。

 

「あ、ありがとう……。その、お、お茶があったほうがいいかしら」

 

 照れ隠しのように立ち上がると、雪乃はいそいそと紅茶の準備を始める。カップが重なる軽やかな音に混じって、隣から「へー」と感心したような、どこか計算高い声が聞こえてきた。

 

「雪乃先輩、一月三日が誕生日だったんですねー。ちなみにわたしは四月十六日ですよ、先輩。……メモらなくて大丈夫ですか?」

「聞いてねぇよ……」

 

 八幡は、ジト目で隣の亜麻色の髪を睨んだ。

 そもそも、なぜ彼女がここにいるのか。

 一色いろは。ちょっぴり着崩した制服の袖を余らせ、フォークの先をぷるぷるとした唇に当てて、当然のようにケーキの四分の一を占有している。あまつさえ、雪乃から手渡された紙コップの紅茶を、我が家のような顔で啜るその適応力。

 

「おまえがここに来る時は、大概厄介な仕事を持ち込んでくるパターンだよな。いい加減、学習したぞ」

「うっ」

 

 図星だったのか、いろははケーキを頬張ったまま動きを止めた。

 

「今の時期なら……進路相談会の設営か、あるいはマラソン大会の運営雑務か? 生徒会の手が足りないからって、ここに泣きつきに来たんだろ」

「ううっ」

「悪いが、奉仕部は生徒会の下請け会社じゃないんだ。……ブラックな外注は他を当たってくれ」

 

 八幡の冷徹な指摘に、いろはは「うううっ」と唸りながら、救いを求めるように隣の結衣へと視線を向けた。

 

「ゆ、結衣せんぱーい! 先輩がいじめてきますー! 誕生日の神聖な空気、ぶち壊しですー!」

 

 結衣の制服の裾を掴み、潤んだ瞳で上目遣いを作る。その、あまりにも「分かっている」あざとい仕草に、八幡はエイトマンのセンサーが警告音(アラート)を鳴らすのを感じていた。

 結衣の胸元に顔を埋めるようにして、いろはは小刻みに肩を震わせる。そのあざとい被害者面を見つめる八幡の目は、もはや憐れみすら含んでいた。

 

「よしよし……。っていうかヒッキー、普段行事に興味ないって顔してて、色々知ってるんじゃん」

 

 結衣がいかにも「お姉ちゃん」といった様子でいろはの頭を撫でながら、感心したように声を漏らす。

 

「当たり前だ。俺はやっかいごとを事前に察知し、音もなく回避するためなら、校内行事全てを把握する努力は惜しまないぞ。リスク管理こそぼっちの生命線だからな」

「相変わらず、そういう後ろ向きな努力だけは欠かさないのね。クズ谷くん」

 

 雪乃が淹れたての紅茶をテーブルに置きながら、呆れ混じりに言い放つ。その動作には一分の無駄もなかったが、彼女の視線は鋭く一色いろはを射抜いていた。

 

「……でも、奉仕部が生徒会の便利屋、あるいは下位組織扱いされている現状は否めないわね。一色さん。そのあたり、組織運営としていかがなものかしら?」

 

 八幡に続き、雪乃の絶対零度のジト目を受けた瞬間、いろはは「ひいっ」と喉を鳴らした。あわあわと結衣の背後に隠れ、プルプルと震えだす。その姿は、さながら飢えた山猫に追い詰められたハムスターのようだった。

 

「はいはい、二人とも。いろはちゃん、せっかくゆきのんの誕生日のお祝いに来てくれたんだから、あんまりいじめちゃダメだよ」

「せんせー。イジメじゃありませーん。コミュニケーションの一環としての『いじり』でーす」

 

 八幡が死んだ魚のような目で、やる気のない声を出す。

 

「うわ、うっざ」

 

 結衣の背中に隠れたまま、いろはがゴミを見るような目で一変して毒を吐いた。当然、八幡の地獄耳には筒抜けなのだが、彼女はそれを承知でやっている。

 

「はぁ……」

 

 雪乃が深い溜息を吐き、隣では結衣が困ったような苦笑いを浮かべていた。全く、この一色いろはという後輩は……と、全員が呆れ果てていたのだが、当の本人は既にけろりとした様子で、大して熱くもなさそうな紅茶にふーふーと息を吹きかけて誤魔化している。その変わり身の速さは、もはや大女優の風格さえ漂わせていた。

 

「あ、そういえば」

 

 不意に、いろはが思い出したように顔を上げた。その瞳には、先ほどまでの怯えなど微塵もなく、代わりに底の知れない好奇心の火が灯っている。

 

「雪乃先輩と結衣先輩って、どっちが葉山先輩と付き合ってるんですかー?」

「「……えっ」」

 

 結衣の素頓狂な悲鳴と、雪乃がティーカップをソーサーに戻すカチャリという乾いた音が、同時に部室の空気を凍らせた。

 八幡はいろはが「思いついた」と装いながら、その実、極めて意図的にこの話題を振ったことを察した。

彼女がわざわざ誕生会に顔を出したのには、学校に漂う空気の真偽をその鋭い嗅覚で確かめるという目的も含まれていたのだろう。

 

「あ、あのね、いろはちゃん。それさぁ……」

 

 苦笑いで事態を収束させようとする結衣の言葉を、ひどく冷たい声音が遮った。

 

「一色さん……」

 

 その声の主、雪乃の方を見やれば、彼女はうっすらと極光(オーロラ)のベールで包まれたような微笑を浮かべていた。だが、その微笑の奥にあるのは、極北の氷壁から削り出したように冴え冴えと澄み渡った、絶対零度の瞳だ。

それを正面からまともに受けてしまったらしく、いろはは小刻みに肩を震わせた。

 

「は、はいいっ!」

 

 裏返った返事をしながら、いろはは椅子ごと身をのけぞらせ、今度は八幡の背後にするりと隠れた。こら、人を肉壁にするんじゃない。

 八幡の肩口から、おずおずと顔を覗かせるいろはに向かって、雪乃は射抜くような眼光を固定したまま静かに告げる。

 

「……そんなこと、あるわけないでしょう」

 

 はっきりと、微塵の迷いもなく断言するその言葉。いろはは「ですよねー!」と大袈裟に頷いて返した。

 

「ですよねー! いや、わたしも絶対にないって思ってたんですよ! 隼人先輩、もっとこう、キラキラした感じが好きそうですもんね!」

「そ、そうだよ! そんなのあるわけないし! ゆきのん、怒んないで?」

 

 それに乗っかって、結衣がむんと気合を入れるように力強く同調する。だが、いろはは八幡の影から這い出すと、ぶんぶんと手を振ってしれっと追い打ちをかけた。

 

「いやいや、雪乃先輩はないですけど、結衣先輩はふっつーに『超ありそう』ですけどね」

「なんでっ!? そこであたしだけっ!?」

 

 結衣の悲痛な叫びが部室に虚しく響き渡る。

 雪乃の氷のような微笑が、今度は結衣へと向けられた。その温度差に、八幡の内部回路は激しい火花を散らしながら予測(シミュレート)し始めていた。

 

 ──殺られる

 

「結衣先輩ってふつーに彼氏持ちって見られてもおかしくないですし? むしろ、今までそういう噂がなかったことの方がびっくりというか……」

 

 いろはがふむ、と人差し指を口元にやりつつ、勝手極まる思索に耽る。

 

「あたし……そ、そんなふうに見られてたんだ……」

 

 ずーんと目に見えて落ち込み、椅子の背もたれに沈み込む由比ヶ浜。そして、未だに「極光の微笑」を崩さないご立腹なご様子の雪ノ下をよそに、一色は止まることを知らない舌をぺらぺらと回し続けていた。

 

「あ、そういえば。結衣先輩の噂は、どっちかというと葉山先輩とではなくて、あー……」

 

 ちらっ、ちらっ、と。

 八幡の方を、確信犯的な上目遣いで盗み見るいろは。

 

「……なんだよ。おまえも教室の変な噂を面白がるクチか?」

「あ、先輩は先輩で、今けっこう噂されてるんですよ? 知らなかったですか?」

「ああ?」

 

 じろり、と死んだ魚の目をさらに濁らせて睨む八幡だったが、いろははそれを柳に風と受け流し、またも予測不能な爆弾を放り込んできた。

 

「実は先輩って、一年の間だとけっこう人気あるんですよ?」

「……はい?」

「えっ」

「えっ!?」

 

 部室に三つの声が重なる。共通する感情は、純然たる『驚愕と困惑』だ。

 

「先輩、文化祭のあたりからちょくちょく話題に上がることがあったんですけど、生徒会選挙で地味に火がついたというか……。あ、炎上って意味じゃないですから安心してください」

「いや、全然安心できねえんだけど」

 

 一体なんの冗談だろうか。八幡は自分の預かり知らぬところで、何か掴みきれないような不気味な変化が起きていることを感じていた。エイトマンのセンサーが捉えきれない、名もなき群衆の熱。

 

「ここのところはまた落ち着いてたんですけどねー。結衣先輩との噂があってから、また話題になるようになって……」

「ちょっと待って、一色さん」

 

 遮るように響いたのは、雪乃の声だった。

 

「そもそも、比企谷くんと由比ヶ浜さんとの『噂』とはなんなのかしら? 詳しく教えてほしいのだけれど」

「えっ? 雪乃先輩、まだ知らなかった系ですか?」

「……」

「……」

 

 八幡と結衣は、示し合わせたように一斉に顔を背けた。

 二人とも、首筋から背中にかけて嫌な冷や汗がダラダラと流れている。

 その冷や汗ごと、部室内の全ての分子を凍りつかせんとするような、極大の冷気が雪乃から立ち込めていることを肌で感じた。

 

「……あれ。もしかして私、やっちゃった感じですか?」

 

 いろはの「てへっ」という声が、死を待つような静寂の部室に、空虚に響き渡った。

 

 

──

 

 

 F組から広まった噂の概要を一通り説明し終えると、部室を支配していた雪乃の絶氷の冷気はようやく凪いでいった。だが、火種が消えた後に残ったのは、比企谷八幡という存在の周辺に起きている、奇妙な「変異」への疑問だった。

 いろはの話をかいつまんで整理すると、どうやら事態は予想だにしない方向へ転がっているらしい。

 文化祭の準備期間から生徒会選挙にかけて、八幡の鬼気迫る八面六臂の活躍。それが一年生の女子たちの目には、あろうことか大層輝いて映ってしまったのだという。

 葉山のように黄色い歓声を浴びるタイプではない。どちらかといえば、クラスの隅で「あの先輩、なんかいいよね」と、一部の物好きたちがこっそり熱弁を振るうような、そんな類いの需要。

 

「比企谷くんのどこを見れば輝きの要素があるのかしら。一学年の女子全体が、何らかの集団催眠にでもかかっているとしか思えないわね」

「おい、人を詐欺師かカルトの教祖みたいに言うのはやめろ」

 

 雪乃の相変わらずの毒舌を受け流しながら、八幡は己の置かれた状況を客観的に解析(シミュレート)する。

 どうやら今の自分は、鋼鉄の書記長として辣腕を振るった結果、某死神漫画の「L」のように、奇人変人のゲテモノ枠――あるいは一部のマニア向けの「希少種」としての扱いを確立しつつあるようだった。

 自分が一年坊の間でゲテモノ扱いされている事実に軽くショックを受け、八幡はスッと死んだ目で天井を見やった。

 

「まあ、先輩は存在自体がいるかどうかもハッキリしない『レアキャラ』くらいの扱いですから。あまり気にしなくてもいいと思いますよ?」

「幻のポケモン扱いかよ、俺の存在」

「ヒッキー、一年の子たちからそんな風に見られてたんだ……」

 

 ポツリと、結衣が呟いた。

 まるで自分だけが彼の良さを知っているという特権的な立場が、実はそうではなかったのだと突きつけられたかのような、微かな戸惑い。

 

「う、うん。でも、ヒッキーのいいところがみんなに知ってもらえるのって、きっといいことだと思うよ! うん……」

 

 結衣は、嬉しさと寂しさが複雑に混ざり合ったような笑顔を浮かべ、無理に前向きな言葉を紡いだ。

 

「そ、それにさ、人の噂も四十九日って言うじゃん? そのうち消えて無くなっちゃうよ」

「……七十五日な。四十九日は仏さんだ」

 

 八幡の的確なツッコミに「あはは……」と苦笑いしつつも、結衣は言葉を続ける。

 

「とにかく! 気にしないようにしようよ。ね?」

 

 噂は噂でしかない。そう自分に言い聞かせるように、結衣はこの話題を強引に締めくくった。

 

「……そうね。実体のないものに振り回されるのは、時間の無駄だわ」

 

 雪乃もその言葉の裏にある結衣の意図を察したのか、小さく、けれど静かに頷いた。

 

「そうだといいですけどねー」

 

 似たような肯定の言葉のはずなのに、いろはが口にすると、まるで不吉な予言か何かのようにニュアンスが変質して聞こえる。

 

(……なんか不安になってくるから、そういう含みのある言い方やめてほしいんだが)

 

 八幡の内心の危惧をよそに、いろはは縁側のおばあちゃんのように、ずずっと音を立ててお茶を啜っていた。だが、八幡の咎めるような視線に気づくと、にこりと計算高い笑みを浮かべる。

 

「まぁ、そんな深刻にならなくても大丈夫じゃないですか? 知らんけど」

「適当すぎんだろ……」

 

 八幡が呆れて言うと、いろはは心外だと言わんばかりにむっと頬を膨らませた。

 

「今はバレンタインデーが近いから、そういう話題で盛り上がりやすい時期なんですよ。もしこれが、葉山先輩と雪乃先輩がぁ〜みたいな一対一のガチ恋噂だったら、もっと重苦しい雰囲気になっちゃってアレでしたけど……」

 

 確かに、いろはの指摘には一理あった。

 雪乃、葉山、結衣、そして不本意ながら八幡。

 この四人で噂が分散され、複雑に絡み合っているおかげで、決定的な「本命」が絞り込めず、噂の一極化という最悪の事態は避けられているのかもしれない。

 

(……とはいえ、そこに俺の名前があること自体、大いに不満なんだがな)

 

 雪乃と結衣も、自分たちの預かり知らぬところで面白おかしくネタにされるのは御免だと言わんばかりに、「うぇ〜」と不快そうに口元をもにょらせている。

三人とも、そのもにょらせた後味を洗い流すように、ほぼ同時にカップを傾けた。

 カチャリ、と三つの湯飲みと紙コップが空になる。

 

 雪乃が慣れた手つきで二巡目のお代わりを注いでいると、いろはが「はた」と手を打った。

 

「あ、盛り上がるで思い出したんですけど。先輩方、どこか打ち上げに使えそうなお店、知ってたりしません?」

「……打ち上げ?」

 

 一色の紙コップに黄金色の紅茶を注ぎ足していた雪乃が、はてな、と小首を傾げて問い返した。

 

「はい。今度マラソン大会あるじゃないですかー? 生徒会も一応運営のお手伝いに入るんですよ。なので、終わったら打ち上げしたいなーと」

「ふーん。で、その場所を決めたいから奉仕部にきた、というわけか」

 

 八幡は確信を持って、ジト目でいろはを射抜いた。

 

(……こいつ、やっぱり結局は仕事案件じゃねえか)

 

「まあまあ、そう言わずに聞いてくださいよー」

 

 最初に来たときは「何用もない」とうそぶいておきながら、この鮮やかな手のひら返し。

 結衣はがっつり引き気味の苦笑いを浮かべ、雪乃は込み上げてくる頭痛を堪えるように、白く細い指先をこめかみに当てて呆れ果てていた。

 だが、二人の冷ややかな視線もどこ吹く風、いろはは「てへぺろ」と言わんばかりに自分の頭をこつんと叩き、あざとくウインクを飛ばしてみせる。

 

「ある程度融通が利いて、使い勝手がいいところがいいんですよね〜。あ、あと安く済みそうなところで!」

「……学生の打ち上げなんて、しゃぶ葉かスタミナ太郎でいいだろ。予算が厳しいならサイゼ一択だ」

「先輩らしく効率重視で面白みに欠ける案は却下するとして」

「おいコラ」

 

 八幡の「最適解(コストパフォーマンス重視)」は、いろはの冷徹な一言によって秒でゴミ箱へ放り込まれた。

 

「結衣先輩、どこか心当たりありません?」

「ん〜……。安いだけならそこそこあるけど、そういうとこって値段なりだし……。ちゃんとしたお店選んだほうが、みんなの満足度は高いかも?」

 

 熟慮の末に絞り出された結衣の言葉に、いろはががっくりと肩を落とした。

 

「あ〜……、ですよね〜」

 

 その声音には、女子特有のシビアな共感がたっぷりと詰まっている。それが呼び水となったか、結衣もうんうんと頷き、さらにシビアな「女子の選別基準」を並べ立て始めた。

 

「うん。荷物置く場所がなかったり、食べ飲み放題でも選べるメニューが少なかったり……」

「ですね」

「それに、周りがうるさすぎたり、隣のグループが絡んできたり……」

「わかる」

「あと、サラダがなんか……こう、雑」

「それな!」

 

 あまりにも「わかりすぎた」結果、完全なる「わかり手」と化した一色いろはが、敬語も忘れて結衣をびしっと指差した。だが、結衣の方はタメ口を叩かれたことなど微塵も気にする様子はなく、「だよねだよねっ!」と異様な盛り上がりを見せている。

 

(……女子の店選び、判定項目が多すぎだろ。もはや精密機械の検品作業だな)

 

 八幡がそんな学びを得ていると、雪乃も「ふむ」と静かに頷いた。どうやら彼女の中にも、共鳴する部分があるらしい。

 

「確かに、ある程度以上の価格帯になると、がらりと客層が変わるものね。落ち着いて会話を楽しむなら、そこは外せない要素だわ」

「そうそう、そうなんですよ! なので、本当はごりごり予算を使い込みたいところなんですけど……。来月は来月でまたイベントを考えてたりするんで、厳しいんですよね〜」

 

 いろはは頬に手をやり、悩ましげな溜息を吐く。

 その仕草だけ見れば苦労性のリーダーに見えるが、「ごりごり予算を使い込みたい」などと本音を漏らしているあたり、実にちゃっかりしている。いや、うっかり口を滑らせた「うっかり者」の可能性も微粒子レベルで存在するが。

だが……。

 

(……使い勝手が良くて、安く上がる店。……心当たりがないわけではない)

 

 八幡は、自身の脳内データベースへのアクセスを開始した。

 網膜ディスプレイ上で、千葉の地図と飲食店データが高速でマッチングを開始する。

 エイトマンの検索エンジンが、この矛盾だらけの要求に対する「唯一の正解」を導き出そうとしていた。

 

八幡は、網膜ディスプレイの奥で静かに、かつ膨大な演算を開始した。

 

(検索開始。指定条件は『団体の学生客でも安く済み、それでいて一定のクオリティとアトモスフィアが保証された店舗』)

 

 瞬時に千葉県中の該当店舗がリストアップされ、膨大なメタデータが脳内を駆け巡る。移動距離、生徒会の予算、店舗の延べ床面積、さらには過去の口コミから推測される「サラダの新鮮度」や「客層の静粛性」にいたるまで。閲覧しては次へ、また次へと、不要な候補をミリ秒単位で切り捨てていく。

 

(検索終了。……これだけ絞れば十分か)

 

 最終選別を経て、五件まで厳選したリストをスマホに同期させ、いろはに提示する。

 

「一色、何件か候補をリストアップした。選ぶならここら辺から思考するのがベストだ」

 

 八幡の超高速検索エンジンから導き出された「最適解」を渡され、いろはは一瞬きょとんとした。だが、内容を確認するやいなや、待ってましたとばかりに満面の笑みを浮かべる。

 

「さすが先輩! お仕事が早いですねー。やっぱりなんだかんだ言って助けてくれるの、ほんと頼りになります♪」

 

 ばちこんと小気味よい音を立ててウインクを決めると、るんるん気分でリストを精査し始めた。そんな八幡といろはのやり取りを、雪乃と結衣が冷ややかな、あるいは複雑な眼差しで見つめている。

 

「……ヒッキーってさ、いろはちゃんには甘いよね」

「そうね。それに、こんな時の仕事の速さと手の速さは比例するのかしら。……詳しく聞いてみたいものだわ」

「他意はないんだから、そんな目で見るのはやめろ」

 

 奉仕部の空気は、いろはという異分子を加えつつも、いつもの軽妙なやり取りを維持していた。それは、嵐の前の静けさ、あるいは束の間の平穏の証であった。

そんな時だった。

 

 ──コン、コン。

 

 控えめだが、どこか断定的なノックの音。こちらの返事を待つこともなく、ドアは無遠慮に開け放たれた。

 

「……今、いい?」

 

 夕映えの残照を背負い、一人の少女が立っていた。

 照り返しを受けてきらりと光る、巻き上げられた金髪。そして、室内の暖気によってわずかに曇り、その奥の瞳を隠してしまった赤いフレームの眼鏡。

 戸口に立っていたのは、三浦優美子と、その背後に寄り添う海老名姫菜だった。

 

「優美子、姫菜……。どうしたの?」

 

 結衣が目をぱちくりさせると、海老名がレンズの奥の瞳を細め、ひらひらと手を振った。

 

「はろはろ~。ちょーっとお話あるんだけど、いいかな?」

「そっか。まあ、とりあえず入って入って」

 

 結衣の促しに、海老名は三浦の肩をそっと押しながら部室へと足を踏み入れる。三浦は入室するなり、そこに居座っていたいろはへ胡乱げな視線を向けた。

 

(なんでこの子、ここにいんの……)

 

 口にこそ出さないが、その鋭い眼光が雄弁にそう語っている。

 

「あ。じゃあ、わたし、生徒会の仕事があるので、この辺で……」

 

 流石に空気を読んだのか、いろはがそそくさと身支度を整え、逃げるように部室を後にする。

 

「ではではー」

 

 小さな声を残して扉がそっと閉められた。その消え入るような音を確認してから、結衣が三浦と海老名に椅子を勧める。

 自然、八幡、結衣、雪乃の三人が横に並び、対峙するように三浦と海老名が腰を下ろす構図になった。

 

「話ってなに?」

「別に……なんっつーの? そんなアレじゃないんだけど。……ちょっと」

 

 結衣の問いかけに、三浦は珍しく遠慮がちに言葉を濁し、気まずげに顔を逸らした。だが、ひとつ大きく息を吐くと、意を決したように雪乃、ついで結衣へと視線を向ける。

 そのそわそわと落ち着かない雰囲気は、普段の傲岸不遜な三浦優美子とはまるで別人だ。竹を割ったような直情径行はどこへ消えたのか、彼女の瞳は不安げに揺れている。

 海老名が、そんな彼女の背中を「とん」と軽く叩いた。

 それでようやく踏ん切りがついたのか、三浦は「はぁ……」と短い溜息を吐いて顔を上げた。

 

「……あのさ、あんたら。隼人と、なんかあんの?」

 

 その言葉は、もはや隠しきれない毒となって教室中を侵食している、あの「噂」に相違なかった。

 葉山と雪乃、そして結衣。

 無責任な憶測が尾ひれをつけて拡散し、学校という狭い社会を席巻している。

 部活を再開した初日に、いろはがあれほど無邪気に爆弾を投げ込んできた時点で、八幡は気づくべきだったのだ。噂の真偽を確かめるために、直接この場所へ乗り込んでくる「当事者」が存在する可能性に。

 

 葉山隼人に最も近い場所にいる、三浦優美子。

 彼女が何も思わないはずがない。自分たちの「居場所」の平穏を脅かす不透明な噂に、彼女が黙って耐え続けられるはずもなかった。

 

 沈黙が降りた部室で、三浦の瞳が、夕闇の中で鋭く光を反射した。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。