——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第八話:демон(悪魔)

 

千葉市立総武高校には「職場見学」なるプログラムが存在する。各人の希望を募り、それをもとに社会の歯車としての実感を養わせるという、ゆとり教育的なイベントだ。

 

「平塚先生、希望は『谷製作所』です」

「……至って普通の町工場だな。君のことだ、もっと捻り倒した屁理屈を書いてくるかと思っていたが」

 

 進路指導室で、教員生活の半分を八幡の更生に費やしているのではないかと危惧される平塚静が、意外そうに資料を捲った。八幡は死んだ魚の目を向けたまま、無機質な声で答える。

 

「俺だって学習しますよ。本音を隠すのは社会人の基本でしょう。……まあ、本心を言えば自宅を見学したいんですが」

「目を腐らせながらそんなことを言うな。やはり殴って直すしかないか。テレビも人間も、昔は叩けば直ったものだ」

「今のテレビは薄型ですからね、殴るところがありませんよ。先生、やはり年の差を感じますねえ?」

 

「……っ! おっといけない、その手には乗らんぞ」

 

ふふんとドヤ顔で胸を張る独身美人の教師を適当にあしらいつつ、八幡は奉仕部の部室へと向かった。

 

奉仕部の部室に入って暫くたった後のことだ。

由比ヶ浜結衣からの、スパム紛いのデコ絵文字満載のメールに若干引きながら、八幡が電子頭脳のフィルタ設定をいじっていた時、部室のドアが開いた。

 現れたのは、我がクラスの上位カースト筆頭、葉山隼人だ。

 

「ここに来れば、悩みを解決してくれるって聞いたんだけど」

 

 葉山の放つ爽やかなオーラは、八幡の視覚センサーには高出力のLED照明のように映る。戸塚といいこいつといい、いるだけで空間が光に満ちていく。周りの連中も、誘蛾灯に集まる感覚で惹かれるのだろう。いや、八幡からすれば年中無休のコンビニの灯りに近い。

 

「遅い時間に悪い。結衣もみんなもこの後予定とかあったらまた改めるけど」

 

葉山の配慮に、由比ヶ浜はいつか見た「上位カースト用」の薄っぺらい笑顔を浮かべて応じた。リア充を維持するコストは、八幡の演算によれば相当に高い。

 

「それよかなんか用があるんじゃねえの?」

 

 八幡が促すと、葉山はおもむろに携帯電話を取り出した。画面には、現代版不幸の手紙とも言える「チェーンメール」が映し出されていた。内容は葉山の取り巻きに対する陰湿な誹謗中傷。八幡の超感覚は、画面を見ずとも飛び交うパケットから、その醜い文字列を瞬時に復元していた。

 

「止めたいんだよね。でも、犯人探しがしたいわけじゃないんだ。丸く収める方法を知りたい。頼めるかな?」

 

 雪ノ下が事態の収拾を図ろうと口を開きかけた瞬間、八幡は冷たく言い放った。

 

「俺はパスな」

 

 部室に沈黙が流れる。雪ノ下は驚きに目を見開き、由比ヶ浜は慌てて彼を嗜めた。だが、八幡の電子頭脳(ロジック)は揺るがない。

 

「奉仕部(ここ)は何でも屋じゃねえんだろ? 由比ヶ浜や戸塚のように自己の変革を促すってんなら分かるけどよ、犯人探しなんて全然自己変革と関係ないだろうが。わざわざ藪に手を突っ込んで蛇に咬まれるような真似はしねえよ。じゃあな」

 

そう言い捨てて、八幡は部室を後にした。

 

──

 

 学校を出て独り歩く八幡の胸中には、制御しきれない苛立ちが渦巻いていた。その原因は葉山ではない。あんな子供染みた依頼に、奉仕部の指針を見失いかけた雪ノ下雪乃に対してだった。

 

(俺も、自分の理想を彼女に押し付けているだけなんだろうな……)

 

 電子頭脳に浮かぶのは、かつて彼女に突きつけた「正論を押し付けている」という言葉。それは今、ブーメランのように自分自身のメインメモリを書き換えていく。

 イライラを鎮めるべく、八幡は鞄からマックスコーヒーを取り出した。

 感情の昂ぶりによって過熱した論理回路を鎮めるには、この暴力的な糖分による冷却が不可欠だ。プルタブを引き、一気に飲み干すと、首筋の排熱スリットから微かに白い蒸気が立ち上った。

 その時、彼の内部受信機が着信を告げた。由比ヶ浜からのメールだった。

 

『犯人探ししてその人をじこへんかくするから戻ってきて!』

 

八幡は自嘲気味に口角を上げた。由比ヶ浜らしい、論理を無視した直球のメッセージ。

 

『明日からにしような』

 

強化プラスチックの指で手短に返信し、八幡は夕闇に沈みゆく街へと歩き出した。

 

 

──

 

 

後日、八幡はメンテナンスを兼ねて谷製作所を訪れていた。

 

「それで、その葉山くんが誰とも組まないことで一件落着したのか」

「一人抜けただけで他人をけなしあうんですよ? おっかない」

 

 昨日の部室での一件を報告すると、谷博士は「最近の若者の考えることはよくわからんな」と、どこか遠い目をして笑った。

 

「それで、職場見学は私の所に来るんだったかな?」

「……あー、それなんですけどね」

 

 八幡は気まずそうに視線を逸らした。当初は戸塚、そして葉山との三人で博士の製作所へ行く予定だった。だが、八幡は葉山隼人という男の「誘蛾灯」としての性能を甘く見ていた。彼が行く場所には、カースト上位の人間たちが挙って付いていくと言い出し、結局、大人数を収容できない町工場は候補から外され、行き先は葉山に合わせた大手メーカーへと変更されたのだ。

 

「そんな……わし、せっかく比企谷君以外の人と話できるかと思ってたのに……」

 

露骨に肩を落とす博士を見て、八幡は胸が痛んだ。よく考えればこの人も、天才ゆえに孤独な「ぼっち」なのだ。

 

「それで行き先は……ああ、この電子機器メーカーならよく知っているよ。わしも本社によく挨拶しに行ったこともある」

「本当ですか。やっぱり博士ってすごい人なんですね」

「日本の電子機器は非常に丁寧に作られているからね。参考になったよ。……ただ」

 

 博士の表情から温和な色が消え、科学者としての鋭い影が差した。

背後の古い回路図が落とす影が、彼の顔を半分に割った。

 

「わしの他にもその会社を視察していた一団がいたんだが、その中に一人……見てはいけないものを見てしまったような、そんな気味の悪い男がいてね。確かロシアの科学者だったか。知能指数だけならわしをも凌駕するだろう。だが、彼の瞳には『未来』ではなく、効率的に生命を刈り取るための『方程式』しか映っていなかった……」

 

 博士の声が、わずかに震える。

 

「兵器開発における彼は、もはや科学者ではない。……血も涙もない、冷徹な独裁者そのものだったよ」

 

 その言葉は、八幡の電子頭脳の深層に、まだ見ぬ強敵の存在を予感させるログとして刻み込まれた。

 

 

──

 

 

 週が明け、中間試験が迫っていた。

 だが、八幡にとって試験勉強など、マッハ2で走ることに比べれば止まっているに等しい作業だ。試験範囲のデータ化は、わずか十分足らずで完了した。電子頭脳(ブレイン)に直接インデックスされた知識は、忘れることさえ不可能である。

 

(他人が必死に暗記に励んでいる間にネットサーフィン……最高じゃないか、ふはは)

 

自室で優越感に浸りながらブラウザをスクロールさせていると、不穏な見出しが目に留まった。

 

『国際犯罪シンジケート“黒い蝶”……首謀者Dr.ユレーは依然として行方不明……』

 

テロ、銀行強盗、企業の汚職。世界中で、そして日本国内でも、組織的かつ高度な技術を用いた犯罪が急増している。八幡は眉をひそめた。警察や自衛隊の処理能力を超えた「悪意」が、確実に社会の底を侵食している。

 

「おにいちゃーん、暇なら勉強教えてよー」

 

 妹の小町が、参考書を抱えて転がり込んできた。

 

「またか? お前、あれほど地道にやれって言っただろうが」

 

 ぼやきながらも、八幡は小町の隣に座る。リビングのテレビでは、華々しいニュースが流れていた。

 

『泉博士が大学チームとの共同研究により、ついに巨大電子頭脳を完成させました。近日、試運転を……』

「わー、この大学って有名な所じゃん。お兄ちゃん頭いいから目指せば?」

「俺は私立文系狙ってるからいいの。ほら、テレビ見てないでさっさとやる」

 

 小町を促しつつ、八幡はテレビ画面に映る巨大なマシンの筐体を凝視した。それは果たして、谷博士の言う「平和利用」の範疇に収まるものなのだろうか。

 

『アメリカ政府が近日、重大発表があるとのこと。CIA内部での動きが……』

 

テレビから流れる速報は、どれもが「一つの結末」に向かっているような、不気味な連動性を見せていた。

 

世界を覆おうとする巨大な悪意の網。その糸が、千葉の片隅に住む一人のサイボーグ高校生の周囲にも、音もなく張り巡らされつつあった。

 

──

 

この時期になると、進学を希望する生徒たちは予備校の資料集めに奔走し始める。比企谷八幡もまた、志望校の資料を手に取っていた。しかし、彼の基準は偏差値だけではない。エイトマンとしての活動拠点、そして超高速移動に伴う熱負荷を逃がしやすい排熱効率。そんな特殊な条件が、電子頭脳(ブレイン)によってシミュレートされていた。

 ある日の放課後、八幡がふらりと立ち寄ったファミレスには、見慣れた光景があった。雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣が、戸塚彩加を交えて勉強会を開いていたのだ。八幡は手に持ったマックスコーヒーを無造作に掲げ、店員への黙認を強いるような厚かましさでその席に加わった。

 

「それでは次の問題。地理から出題、千葉の名産品を二つ答えなさい」

 

 雪ノ下が厳格な教師のように問いかけると、由比ヶ浜が自信なげに指を立てた。

 

「えっと、味噌ピーと茹でピー?」

「落花生しかねえのかよ、千葉には」

 

 反射的に投げられた八幡の言葉に、由比ヶ浜は肩を跳ねさせた。

 

「うわあ! ……なんだ、ヒッキーか。いきなり変な人に話しかけられたのかと思った……」

 

 八幡の電子頭脳に刻まれた深い郷土愛は、状況を顧みないツッコミとして出力されていた。

 

「八幡! 八幡も勉強会に呼ばれてたんだね!」

 

 戸塚が花が咲くような笑顔で迎える。その純粋な輝きに、八幡の視覚センサーは幸福な過負荷(オーバーロード)を記録した。しかし、現実のログは残酷だ。雪ノ下は本から目を上げ、氷点下の視線を八幡に投げた。

 

「比企谷君、あなたは呼んでいないのだけれど。何か用かしら?」

「……知ってるよ、そのくらい」

 

 無慈悲な正論に、八幡の論理回路は微かな火花を散らす。

 

「あ、お兄ちゃんだ」

 

 聞き慣れた声が背後から響いた。そこには小町と、クラスメートの川崎大志が立っていた。

 小町の話によれば、大志は姉である川崎沙希の変貌に悩んでいるという。八幡の保護プログラムは、小町に近付く大志に対して「10万キロワットの電撃」という物騒な選択肢を一瞬で演算したが、妹の懇願には抗えなかった。

 

「お兄ちゃんも話聞いたげてよ。困ったことがあったら言えって言ってたし」

「……まずはご家族でよく話し合ってからでも遅くはないと思うぞ」

 

 八幡が至極全うな回避策を提案するが、大志のバイタルデータは限界に近い悲鳴を上げていた。

 

「……もうお兄さんしか頼れる人がいなくて」

「貴様に兄と呼ばれる筋合いはない」

 

 冷たく突き放しながらも、八幡は自らのメインメモリに「川崎沙希」という名前を登録した。

 

川崎沙希の更生任務

 

その後、雪ノ下たちに小町を紹介した流れで、奉仕部は正式に川崎沙希の更生を受け持つことになった。小町が由比ヶ浜に向けるどこか疑り深い視線を、八幡のセンサーは捉えていたが、その真意までは解析できなかった。

 大志の説明によれば、沙希は高校二年生になってから帰宅が極端に遅くなり、午前五時を回ることもあるという。

 

「うちは両親共働きで、下に弟と妹もいるから……。子供も多いんで、暮らし的にいっぱいいっぱいなんです」

 

 大志の語る家庭事情は、八幡のデータベースに「深夜労働」や「不健全な交流」といった不穏な予測フラグを次々と立てさせた。しかし、その場の空気を最も重く沈めたのは、雪ノ下が漏らした一言だった。

 

「家庭の事情、ね……。どこの家にもあるものね」

 

 雪ノ下の横顔は、これまでにないほど深く、暗い影を落としていた。その瞳は目の前の依頼者ではなく、自分自身の内側に広がる、抗いようのない何らかの「重圧」を凝視しているようだった。

 

「あの人は、私たちとはどこか違う……。才能とかそんなものじゃなくて、もっと『分類的』に……」

 

 雪ノ下が、誰に聞かせるでもなく独白のように零す。その脳裏に浮かんでいるのは、彼女の人生を常に先回りし、支配し、冷徹に観察し続ける「ある存在」の影だった。

 

「ゆきのん?」

 

 由比ヶ浜が心配そうに覗き込むと、雪ノ下はハッと我に返った。

 

「……! なんでもないわ。比企谷君、あなたのその死んだ魚の目が、少しは新鮮に見える方法を演算し直していただけよ」

「そいつはご苦労なこった。賞味期限切れのデータは破棄してくれ」

 

 八幡は平静を装ったが、雪ノ下が「人間とは別の分類」という言葉を口にしたことに、無視できない戦慄を覚えていた。彼女にそこまで言わしめる存在。それは、八幡のような異端をも暴き立ててしまうのではないかという、生存本能に近い警戒ログが電子頭脳(ブレイン)に点滅した。

 

潜入:エンジェル・ラダー

 

その後、アニマルセラピーやナンパスポットの調査など、迷走に近い試行錯誤を繰り返したが、事態は好転しなかった。同行した平塚静が、結婚の話題で自爆し、精神的致命傷を負って退場するというアクシデントも発生した。

 そして今、八幡は海浜幕張駅前の、空を刺すような尖ったモニュメントの前に立っていた。

 目的地は、ホテル・ロイヤルオークラの最上階に位置する高級バー『エンジェル・ラダー——天使の階(きざはし)』。

 

八幡は、慣れない薄手のジャケットに身を包んでいた。

 

(……なぜか、ダブルのコートが無性に着たくなったんだがな)

 

なぜだか分からないが、この鋼鉄の体には重厚なコートが似合うような気がしてならない。メインメモリの隅にある名もなき既視感(デジャヴ)がそう囁いたが、「暑苦しいからやめろ」という小町の辛辣かつ論理的な制止により却下された。

 最上階へと向かうエレベーターの鏡の中で、八幡は自分の無機質な瞳を見つめる。

 マッハ2で空を駆ける体も、今は鉄の箱の中に閉じじ込められ、重力に従って静かに上昇していく。

 

 バーの重厚な扉が開くと、そこには千葉の夜景を一望できる贅沢な空間が広がっていた。視覚センサーの感度を夜間潜入モードに切り替え、八幡はターゲットを検索する。

 暗がりの奥。カウンターの端に、高校生には不釣り合いな、しかし完成された孤高を纏った少女が座っていた。

 

 川崎沙希。

 

彼女が手にしているのは、酒ではない。ノンアルコールのカクテルだ。

 八幡の電子頭脳は、即座に彼女の周囲の状況を解析した。不適切な交際も、犯罪への加担も、そこには見当たらない。電磁波スキャナーが捉えたのは、レジ付近の通信ログと、彼女が身に着けているホテルの従業員用バッジの微かな共振だった。

 

(……ただの深夜バイト、か)

 

 家計を助けるため、年齢を偽り、文字通り身を削って働く一人の少女。

 比企谷八幡——エイトマンにとって、それは10万キロワットの力で粉砕できるような悪意ではなかった。むしろ、そのひたむきな「人間らしさ」こそが、今の彼には最も眩しく、そして解決困難な問題に思えた。

 夜景を背に、八幡はジャケットの襟を正し、彼女の座るカウンターへとゆっくり歩き出した。

バーの重厚な扉の向こう側、そこには非日常の静寂があった。

 由比ヶ浜結衣は、首回りが大きく開いた深紅のドレスに身を包んでいた。流麗なラインを描くそのフォルムは、まるで夜の海を泳ぐ人魚のようだった。

 

「な、なんかピアノの発表会みたいになってるんだけど……」

「せめて結婚式ぐらいは言えないの?」

 

 落ち着かない様子の由比ヶ浜に声をかけたのは、漆黒のドレスを纏った雪ノ下雪乃だった。滑らかな光沢を放つ生地が、彼女の処女雪のような白い肌を鮮烈に引き立てている。

 

「だ、だってこんな服着たのはじめてだもん。ていうか、マジゆきのん何者!?」

「大袈裟ね。たまに機会があるから持っているだけよ。……さあ、行きましょうか」

 

 二人の少女が放つ圧倒的な「華」は、バーの空気を一変させた。八幡はジャケットの襟を正し、彼女たちの数歩後ろを歩く。視覚センサーは、カウンターの端で凍り付いたようにこちらを見つめるターゲットを捉えていた。

 

「探したわ、川崎沙希さん」

 雪ノ下が真っ向から話を切り出すと、川崎の顔色が劇的に変わった。

「雪ノ下……。それに由比ヶ浜か。……隣の男も、総武の人間?」

 

 八幡の存在を「その他」として処理する川崎の言葉に、八幡は心の中で微かな火花を散らした。

 

(……ナチュラルに俺のデータが欠落してやがる。まぁ、隠密活動には好都合だがな)

 

 沙希は観念したように息を吐き、カウンターの向こうでボトルを手に取った。

 

「そっか、バレちゃったか。……何か飲む?」

「私はペリエを」

「あ、あたしも同じのを!」

「俺はMAXコー……」

「彼には辛口のジンジャーエールを」

 

 雪ノ下の容赦ない注文変更に、八幡は冷却用の糖分を奪われた絶望を感じた。

 

「それで、何しに来たのさ? まさかそんなのとデートってわけじゃないんでしょ?」

 

 沙希が八幡を顎で指すと、八幡は冷めたジンジャーエールの瓶を眺めながら言った。

 

「そんなんじゃねえよ。最近帰るのが遅いって、弟が心配していたぞ。……あと、ジンジャーはいいからMAXコーヒーを頼む」

「わざわざそんなこと言いに来たの? ご苦労さま。見ず知らずのあんたに言われたくらいで、私がやめると思ってんの?」

「別に。やめたくなきゃ好きにすれば?」

 

八幡の突き放したような返しに、雪ノ下と由比ヶ浜が息を呑むのが分かった。しかし、八幡の電子頭脳(ブレイン)は冷静に状況をスキャンしていた。沙希は年齢を詐称して働いてはいるが、その労働態度は真面目そのものだ。そこに「悪意」はない。ただの切実な生活があるだけだ。

 

「……意外だね。てっきり辞めろとでも言うかと思った」

 川崎が鋭い視線で八幡を射抜く。その威圧感は、一般人なら後退りするレベルだったが、鋼鉄の体を持つ八幡にとっては、バイタルデータに微かなノイズが走る程度でしかない。

「お前の弟が言ってたよ。姉ちゃんが不良になっちまったってな」

「大志が……余計なことを」

「……姉貴想いのいい弟じゃねえか。なんで黙ってるんだ?」

「それこそ、あんたには関係ないわ」

 

 視線が火花を散らす。

 雪ノ下は冷静に時計を確認した。

 

「十時四十分……。シンデレラならあと少し猶予があったけれど、あなたの魔法はここで解けたみたいね。十八歳未満の深夜労働。法という名の理屈は、あなたの続行を許さないわ」

 

 雪ノ下の言葉は正論だった。しかし、それは沙希の胸に突き刺さる「冷たい刃」でしかない。由比ヶ浜が懸命に言葉を紡ぐが、家計のために身を削る沙希の「意地」という名の装甲を貫くことはできなかった。

 

「……金に困ったことのない人間が、あれこれ言うもんじゃない」

 

 八幡は雪ノ下の言葉を遮った。

 

「どういう意味かしら、比企谷君」

「庶民の悩みは女王様には理解できねえよ。今回の件は、お前の理屈じゃ解決できない地雷だ」

 

 雪ノ下の冷徹な正論でも、由比ヶ浜の拙い優しさでも届かない領域。

 八幡は席を立ち、二人に向かって言った。

 

「帰るぞ」

 

──

 

 駅前で二人と別れた後、八幡はジャケットを脱ぎ捨て、超高速移動(マッハ2)の残像を残して再びホテルへと戻った。

 MAXコーヒーの補給により、冷却システムは万全だ。

 閉店準備を終えたバーの裏口。八幡は一人で沙希を待っていた。

 

「……何? 帰ったんじゃないの?」

「お前と二人きりで話そうと思ってな。……学費、稼いでるんだろ?」

 沙希の動きが止まった。

「……なんで、分かったの」

「大志から家の状況は聞いた。借金がないなら、残る理由はそれくらいだ」

 

 八幡は、沙希が大志を想うがゆえに抱え込んだ矛盾を、淡々と、しかし容赦なく指摘していった。大志が抱いている「姉へのあらぬ疑念」までをも引き合いに出した際、沙希は逆上した。

 

「な……っ! あたしが、売春なんて……!」

「お前は男心ってやつが分かってない! お前みたいなのが夜な夜な朝帰りして、ホテルなんて名前の店から連絡があれば、中坊ならエロい想像をするに決まってるだろ!」

 

────それを言ったのはちょっと拙かったかもしれない

 

 

 顔を真っ赤にした沙希が、割れた瓶を持って荒い息を吐く。普通なら命の危険を感じる場面だが、八幡の装甲には傷一つ付かない。

 

「……ごめんなさい、比企谷……」

 

沙希の口から出た名前に、八幡は微かに驚いた。彼女は、最初から自分の名前を憶えていたのだ。

 

 

──

 

 

 夜道を二人で歩く。結局、沙希はバイトを切り上げ、家族と話し合うことを決めた。

 

「……さっきは茶化したがな、あいつは俺の妹にまで相談したんだ。それほど追い詰められてたってことだ。家族なら、最初から話し合うべきだったんだよ」

「……分かってた。本当は無駄な足掻きだって。それでも……」

「お人好しなんだな、お前も」

 

 不器用で、家族想いの少女。八幡の電子頭脳は、彼女の横顔に「嫌いじゃない」という非論理的なタグを貼り付けた。

 沙希を家まで送り届けた後、八幡は静かな夜の街を一人歩く。事件は解決した。奉仕部としての任務も完了だ。

 

だが、その背後に、通常の人間には決して感知できない「音」が響いた。

 

「おい、いたぞ」

 

 暗がりの奥、コンテナの影から二人の男が現れた。その瞳には、人間的な感情が欠落している。

 

「ちょうどいい、さっきのあれで釣るか」

 

 男たちの視線の先にあるのは、帰路を急ぐ八幡の背中。

 そして、彼らの手には、鈍色に輝くデバイスが握られていた。

 

──

 

 

沙希を送り届けた帰り道、八幡は川崎姉弟のこれからに思いを馳せていた。あの二人は今頃、どんな言葉を交わしているのだろうか。

 八幡はあえて、給付型奨学金(スカラシップ)の具体的な話はしなかった。冷静に情報を精査すれば、自ずと導き出せる答えだからだ。沙希がその正解に辿り着けなかったのは、彼女が優しすぎるがゆえに、自分一人という閉鎖回路の中で問題を完結させてしまったからに他ならない。

 

「話し合えば、少しはマシになるだろ……」

 

 独りごちる声が夜風に消える。思えば、まともな人生相談など初めてだったかもしれない。電子頭脳(ブレイン)の演算リソースを対人コミュニケーションに全振りした代償か、八幡はひどく疲弊していた。

 

(ぶっちゃけ、疲れすぎる……。こんな任務は二度と御免だ)

 

 そう結論づけ、マックスコーヒーの空き缶を握りしめた、その時だった。

 

――乾いた破裂音が、夜の静寂を切り裂いた。

 パン! パン!

 

 通常の聴覚なら「爆竹か何かか」と聞き流す程度の微かな音。しかし、八幡の高性能集音センサーは、それが火薬の燃焼に伴う特有の音響パターン――「銃声」であることを瞬時に特定した。

 

「……!!」

 

 音源は、つい先ほど川崎沙希と別れた方角。

八幡は即座に超視覚モードを起動。遮蔽物を透過し、赤外線と電磁波を合成した擬似映像が脳内に展開される。数キロ先、曲がり角の路地裏。

 そこには、手足から鮮血を流し、力なく地面に伏せる少女の姿があった。

 川崎沙希。

 彼女を、感情の欠落した瞳を持つ男たちが、無造作に黒いバンの車内へと放り込もうとしていた。

 

「ッ……!!」

 

 八幡の内部で、一つのスイッチが切り替わる。

 もはや「比企谷八幡」という擬態を維持するためのリミッターは不要だった。

 カチッ、という機械的な駆動音。

 一瞬のうちに、ジャケットを羽織った少年の姿が変貌を遂げる。

 生身の人間を模した外装の下で、ハイマンガン・スチールのフレームが重厚な光を放つ。全身の流体筋肉(アクチュエーター)が10万キロワットの出力を受け入れ、駆動音が高周波の唸りへと変わる。

 

 ――鋼鉄の超音速戦士、8幡(エイトマン)。

 

 彼が踏み出した一歩は、超科学的な制御の下にあった。

 ブンッ!

 姿が掻き消える。

 

 汎用速度マッハ2.4

 

本来ならば地上付近での超音速移動は凄まじい衝撃波(ソニックブーム)を伴い、周囲の建物の窓ガラスを粉砕し、鼓膜を破る惨劇を引き起こす。しかし、谷博士が開発した超科学的流体力学制御――大気を分子レベルで整流し、機体の周囲に真空の層を形成する技術により、八幡の移動は完全に「無影響」だった。

 

揺れる街路樹の葉さえも、彼が通り過ぎたことに気づかない。夜の街を、ただ一条の透明な風が突き抜けた。

 

黒いバンが急発進し、逃走を図る。車内では、男たちが冷徹な手つきでデバイスを操作していた。

 

「サンプル回収完了。これより離脱――」

 

男の言葉は、物理的な法則を無視した事象によって遮られた。

 時速100キロを超えるバンのフロントガラスの向こう側、道路のど真ん中に、突如としてエイトマンは直立した姿で現れた。

 キィィィィィィィィン!

 エイトマンが掲げた右手が、バンのバンパーに触れる。

 凄まじい衝撃。だが、周囲には一切の爆風も破片も飛ばない。流体力学制御が、衝突のエネルギーさえもその場に封じ込めたのだ。バンのボンネットは一瞬で飴細工のようにひしゃげ、エンジンブロックが内部で粉砕される。だが、立ち塞がったエイトマンは、微動だにしていなかった。

 

「……川崎を、返してもらおうか」

 

 エイトマンの合成音声が、冷たく、重く響く。

 男たちは極めて冷静だった。

 物理法則を無視して現れた鋼鉄の怪異を前にしても、彼らは慌てる素振りすら見せない。ただ、ミッションの障害となるイレギュラーを排除すべき手順(ルーチン)に従い、窓から銃口を向けた。

 事務的な精密さで引き金が引かれる。

 

パン! パン! パン! パン!

 

続け様に放たれた複数の弾丸。だが、マッハ2の知覚世界において、大気中を切り裂く鉛の塊は、粘り気のある水の中をゆっくりと漂う無力な小石に過ぎなかった。

 エイトマンは視線を動かすことすらしない。

 彼の右手が、視認不可能な速度で虚空を泳いだ。

 カチ、カチ、カチ――と、鋼鉄の指先が硬質な物体を捕らえる音が重なる。

 

 次の瞬間、エイトマンは握っていた拳を静かに開いた。

 

彼の掌からパラパラと転がり落ちたのは、発射されたはずのすべての弾丸だった。変形一つせず、まるでもともとそこにあったかのように、エイトマンの「技巧」によって完璧に静止させられ、掴み取られた鉛の粒。

 それを見ても、男たちに感情の色は見えなかった。

 驚愕も、焦燥も、死への恐怖すらない。ただ、次の方策を練るためのデータ入力を待つ端末のような無機質さ。その非人間的な静寂に、エイトマンの電子脳は微かな違和感ログを生成した。

 

「……どうやら、言葉で解決するフェーズは終わったようだな」

 

 一歩、エイトマンが踏み出す。

 エイトマンの電子頭脳は、目の前の敵を「武装した危険な誘拐犯」と定義し、制圧のための最短ルートを演算していた。

 

(ターゲット:武装誘拐犯。脅威度判定……ああ、わざわざ計算するまでもねえな。周辺への被害は最小限に。最適解は――あっちが先に人間を辞めたような撃ち方をしてきたんだ。こっちも遠慮なく、神経(システム)ごと黙らせる)

 

一人の男が深くかがみ込む。その動作に合わせ、男の膝関節が異様な音を立てて展開された。装甲化されたその中から、鈍色に光る小型弾頭が姿を現す。

 

 シュッ!

 

 ミサイルが発射された。それと同時に、エイトマンの姿もまた、その場から掻き消える。

 発射されたミサイルは、あたかも生きているかのようにうねり、見えない何かを追跡するように夜空をのたうち回る。

 

 キイイイイイイイイィイイイイイイイイイイイン!!

 

 激しい高音が止まらない。男たちの周りを駆け巡るかのようにミサイルは飛ぶ。それを、さらに上回る超音速の残像が翻弄していた。

 そして、その音を聞く者が、もう一人いた。

 意識の混濁の中で、バンに連れ込まれた沙希は微かに瞳を開いた。

 

「(何……? 何なの? この音……?)」

 

やがて、追い切れなかったミサイルが推進剤を使い切り、慣性のままに減速を始める。地面に着弾し、周囲を爆ぜさせると思われた、その瞬間だった。

 

 ッキィン!

 

虚空から姿を見せた影が、物理法則をあざ笑う速度で天高くミサイルを蹴り上げた。

 

ドゴォオオオオオオオ!!!

 

爆風が夜空を焼き、炎が蹴り上げた者を赤く照らし出す。どこまでも冷たい目をしたエイトマンが、そこに存在した。

 

 男たちが次々と機関銃を放つ。しかし、加速《アクセラレーション》を起動したエイトマンには、その一弾すら掠ることさえない。八幡は極めて冷静な思考で男たちを観察していた。部分的なサイボーグ手術を受けている彼らを相手にするなら、素手では多少の時間がかかると判断を下す。

 

「――8マンナイフ、展開」

 

 シャキン! という音と共に、エイトマンの両前腕部からハイマンガン・スチールのブレードが飛び出した。

 

 そのまま、――マッハ2.4へと加速する。一条の銀光となり、男たちの間を音もなく通り抜けた。

 マッハ2.4の世界では、空気に触れる音すらも消失する。

 エイトマンの視界に映るのは、彫像のように固まった男たちと、空中に停止した機関銃の薬莢。その静止した時間の中で、銀の刃が冷徹に、かつ精密に「武装」だけを切り離していく。

 加速を終え、エイトマンが男たちの背後で足を止めた。

 刹那、遅れてやってきた衝撃波が周囲の空気を震わせる。

 ガラン、ガシャン! と、男たちの身体からあらゆる武装ユニットが音を立てて剥がれ落ちた。エイトマンの精密な一閃は、肉体を傷つけることなく、機械化されたパーツの接合部のみを完膚なきまでに断ち切っていたのだ。

 

 切断面から壊死防止用の潤滑剤が飛び散り、男たちはその場に崩れ落ちた。もはや無機質な表情を維持できず、一様に苦痛に顔を歪ませる。

戦場に静寂が戻った。燃え上がるミサイルの炎が、鋼鉄の身体に冷たく反射している。

 

「……おい、お前たちは何だ? 誰の差し金だ」

 

 エイトマン――比企谷八幡は、冷徹な合成音声で問いかけた。電子頭脳が男たちの生体反応をスキャンし、情報の引き出しを開始しようとした、その時だった。

 

「!」

 

 センサーが鋭い警告を発する。

 目の前で膝をついていた男の額に、突如として一本の細い穴が開いた。銃声はない。熱源反応も極小。だが、男は一瞬で絶命し、糸が切れた人形のように地面に突っ伏した。

 

 ブーーン……という、耳障りな高周波の回転音が頭上から降り注ぐ。

 

「なんだ、あれは……?」

 

 見上げれば、夜の闇に紛れるようにして、球状の物体が宙に浮かんでいた。それはまるで巨大な眼球のようにエイトマンを一瞥すると、追跡をあざ笑うかのような速度で闇の向こうへと吸い込まれ、消失した。

 

「……」

 

不気味な残響が脳裏をかすめるが、今はそれを追う時ではない。八幡にとっての最優先事項(プライオリティ)は、川崎沙希の安否だった。

 停止したバンに歩み寄り、無造作にスライドドアを開く。車内には、猿轡を噛まされ、太いロープでがんじがらめに縛られた沙希の姿があった。

 

「むぐ……? うう!?」

 恐怖に怯え、必死に身を捩る沙希。その目に映るのは、炎を背負って立つ異形の鋼鉄戦士だ。八幡は彼女の前に膝をつき、威圧感を与えないよう声を落とした。

 

「安心しろ。助けに来た」

 

 前腕からナイフを滑り込ませ、瞬時にロープを断ち切る。猿轡を外してやると、彼女は激しく咽せ込みながら、涙の溜まった瞳で救助者を見上げてきた。

 

「あ、あんた……?」

 

 その声には、戸惑いと、どこか確信に近い驚きが混じっていた。だが、八幡はそれに応えるつもりはなかった。遠くから警察のサイレンが近づいてくるのが、高性能集音センサーに捉えられている。

 

「これに懲りたら、夜はうろつくな。……ここはもうすぐ警察が来る」

 

 背を向け、歩き出す。

 

「ま、待ってよ!?」

 

 沙希が必死に声を上げる。彼女の呼びかけを背中で受け流しながら、八幡は加速の準備に入った。ここで「比企谷八幡」としての正体が露呈すれば、谷博士のメンテナンスすら受けられなくなる。

 

「な、名前……っ! 名前を教えて!」

 

 最後に絞り出された彼女の問いに、八幡は足を止めることなく、ただ一言だけを夜の空気に残した。

 

「……エイトマン」

 

 ブン、という空気を切り裂く微かな音。

 

 キィィィィィィィィン!!

 

 次の瞬間、高周波の唸りとともに、鋼鉄の影は一条の光となって視界から消失した。

 後に残された沙希には、何が起きたのか理解できなかった。

 怪しい男たちに拉致され、本気で死を覚悟した極限状態。そこに、風のように現れ、自分を当然のように救い去った存在。

 

「エイト、マン……」

 

 漫画やテレビの中でしか見たことがないヒーローが、今、目の前の現実を塗り替えて去っていった。

 夜空に立ち昇るミサイルの煙と、去り際に見たあの冷たく、けれどどこか寂しげな瞳。

 

 川崎沙希は、地面に座り込んだまま、その名前を反芻した。

 なぜだろうか。この名前だけは、一生忘れることができない。そんな確信が、震える彼女の胸に深く刻まれていた。

 

 

──

 

 

 

事件現場から遠く離れた、遮光カーテンに閉ざされた一室。

 無数のモニターが青白く発光する中、一人の老人が狂気を孕んだ笑みを浮かべていた。

 

「ふん、やはり屑に手を加えても所詮屑鉄にしかならなかったか」

 

 モニターに映し出されているのは、先ほど球体ドローンが捉えたエイトマンの戦闘記録だ。マッハ2.4での精密解体、ミサイルの迎撃。その人間離れした挙動を、老人は舐めるように凝視する。

 

「だが……それにしてもなんと素晴らしい性能か……! わざわざロシアからやって来た甲斐があったというもの!」

 

 老人が傍らのレバーを引くと、周囲を浮遊していた複数の球体ドローンが、一斉に耳障りな回転音を立てて整列した。

 

「ヴァレリーめ……アメリカの無能どもは誤魔化せても、この私の目は誤魔化せんぞ!!」

 

 老人の叫びに呼応するように、影の中から大柄な男が姿を現した。その身体は男たちのそれよりもさらに高度に機械化され、不気味な熱気を放っている。

 

「さあ、もっとその性能を試させてもらうぞ……エイトマン!!」

 

 部屋に響き渡る高笑い。

 ハハハハハハハハハハハハ…………!

 その不気味な笑い声は、深夜の静寂に吸い込まれていった。比企谷八幡の平穏な「自称・ボッチ生活」を根底から破壊する、真の敵の胎動であった。

 

 

──

 

 

 

数日後、職場見学の日。

 海浜幕張駅の改札を抜けた先にあるのは、国内有数の大手電子機器メーカーだった。八幡は、戸塚や葉山、そして便乗したその他大勢の生徒たちと共に、その広大な敷地に足を踏み入れていた。

 そこは単なる社屋や研究施設ではなく、近隣に開放された最新鋭のミュージアムも併設されていた。全面を取り囲む巨大なスクリーンシアターなど、アミューズメント性を兼ね備えた展示に、多くの生徒たちが歓声を上げている。

 だが、八幡だけは別の意味でその場に釘付けになっていた。

 

「……」

 

 展示されている精密なメカニズム。歯車やアクチュエーターが「うぉんうぉん」と唸りを上げて動く様子を眺めていると、電子頭脳が共鳴するかのように微かな高揚感を弾き出す。自分の身体を構成する技術の、いわば遠い親戚たちがそこにいた。

 ふと、昨日学校で見かけた川崎沙希の姿が脳裏をかすめる。

 結局、彼女はバイトを辞めた。大志や親にすべてを話して、こっぴどく怒られたらしい。そしてスカラシップの件にようやく気づいた彼女は、顔を赤らめながら八幡に感謝の言葉を伝えてきた。

 

 驚くべきは、彼女の「平穏」だった。

 

 あんな事件に巻き込まれ、本気で死を覚悟したというのに、彼女は何事もなかったかのように学校へ現れた。それどころか、心なしか物腰が以前より柔らかくなった気さえする。

 

「何か良いことでもあったのか?」

 

 昨日の放課後、なんとなくそう尋ねた八幡に、彼女は少しだけ口角を上げて答えた。

 

「別に? ただ、毎日通ってたら、また会えるかもしれないから」

「……誰に?」

「ヒーローにさ」

 

 その言葉の裏にある、彼女だけの小さな希望。八幡は、自分がその「ヒーロー」であるという事実を胸の奥に封じ込めたまま、複雑な冷却負荷を感じていた。

 

「比企谷、ここに来ていたのか」

 

 聞き慣れた声に振り向くと、そこには平塚静が立っていた。

 

「先生、見回りっすか?」

「まあ、そんなところだ」

 

 そう答える彼女の視線は、生徒ではなく、無機質な機械の展示へと注がれていた。

 

「ふう……日本の技術力はすごいな。……私が生きてるうちに、ガンダム作られるかなあ」

 

(先生、今まさにあんたの目の前にアンドロイド・Vがいるんですけど)

 

 八幡は心の中で毒づく。エイトマンはサイボーグではない。電子頭脳を搭載した完全なロボットだ。童心に帰っている先生を置いて次の展示へ進もうとした時

 

――人相の悪い、初老の男性が目に留まった。

 

 周囲に不審な物体の気配はない。だが、その男が放つ威圧感は異常だった。どこか人間離れした無機質な立ち居振る舞いは、八幡のセンサーに鋭い警戒アラートを鳴らさせた。

 

「ふん、くだらん」

 

 老人が吐き捨てるように言った。

 

「この日本という国の人間は愚かだ。せっかくの優れた技術を、こんな子供だましに使うとはな……。君もそうは思わんかね?」

 

 突然振られた言葉に、八幡は一瞬戸惑った。

 

「あー、でもこれはこれで世の中の役に立ってるわけでして……」

「だから他国から舐められるのだよ。自国の安全すら碌に守れないで平和利用とは笑わせる」

「……じゃあ、あなたは兵器が平和を作ると?」

 

 八幡の問いに、老人は「ククッ……」と喉を鳴らして笑った。

 

「否定はしないがね。完全なる平和は、完全なる力によって保たれる。我が祖国ロシアも、そしてアメリカもそれを証明してきた。文字通り、力によってな」

 

 老人の瞳に、狂気の光が宿る。

 

「まあ、こんなものが作られる時代はもうすぐ終わる。世界は、より完全な力と技術によって管理されるのだ」

「……あなた、外国から来たんですか?」

 

 八幡が核心に触れる問いを発した瞬間、老人は紳士的な所作で一礼した。

 

「んん? ああ、いけない。自己紹介がまだだったね」

 

 老人は不敵な笑みを浮かべ、その名を告げた。

 

「私はナイト・デーモン。科学者さ」

 

 この日から、比企谷八幡の日常は急速に崩壊していくことになる。

 狂科学者の機械兵。

 超大国の尖兵。

 幽幻の黒死蝶。

 人を弄ぶ人口知能。

 

 そして、人類を超えた人類。

 

 今まで関わらずに済んできた、知りもしなかった世界の真実が、鋼鉄の牙を剥いて彼に襲いかかる。

 

 そう。

 比企谷八幡の青春は、鈍い鋼鉄の色をしており、同時に、拭い去れない血に塗られていた。

 




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