——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第七十五話:声

 

 来客のために新たに淹れられた紅茶の香りが、部室の静まり返った空気を微かに揺らしていた。しかし、立ち上る温かな湯気とは裏腹に、室内の温度は一段階下がったかのような錯覚を覚える。事も無げに、けれどどこか刺々しい手つきで茶器を扱う雪乃の所作が、そう感じさせているのかもしれない。

 雪乃は三浦と海老名の前に、湯気の立つ紙コップを静かに置くと、スッと背筋を伸ばして居住まいを正した。

 

「……で。なにか、というのは?」

 

 余裕を崩さない雪乃の問いかけに、三浦がムッとしたように身を乗り出す。

 

「噂のこと、知らないわけ?」

「ああ、そのこと……」

 

 雪乃はふっと、全てを見透かしたような、あるいは心底うんざりしたような溜息を吐いた。さらりと肩から落ちた長い黒髪を指先で払うと、三浦へ射抜くような眼光を向ける。

 

「親同士が知人で、昔からの知り合い。だから、新年の挨拶で顔を合わせただけよ。貴女が勘繰るような関係は一切ないわ」

「うん。あたしも、たまたまその場に居合わせたってだけだし」

 

 雪乃はただ事実のみを羅列したと言わんばかりに淡々と言い切り、結衣もそれに困り顔の苦笑いで続いた。

 実際のところ、それが全てだ。一月二日、正月の喧騒の中で偶然出くわしてしまったという事故。問題は、そのあまりに素っ気ない「事実」を、三浦がどう咀嚼するかだった。

 

「ふーん……」

 

 三浦は真偽を見極めるように瞳を細め、じっと二人の顔を見つめていたが、不意に視線を滑らせて八幡を捉えた。

 

「ヒキオもそーなん?」

「ああ」

 

 嘘ではない。比企谷八幡という個体もまた、あの場にいた不純物の一つに過ぎない。淡々と肯定するが、なぜ自分にまで話を振るのか、その真意を掴みかねて八幡は眉を潜めた。

 

「……ヒキオと結衣がどーのって話は、とりあえず置いとくけど」

 

 ジロリと三浦に睨まれ、八幡はふと、修学旅行の夜にコンビニの中で投げつけられた言葉を思い出していた。

 

『結衣を泣かしたら、コロすから』

 

 三浦優美子なりの、不器用で、けれど誰よりも真っ直ぐな結衣への気遣い。この場の誰よりも、結衣という存在が傷つくことを恐れているのは、他ならぬ彼女だった。

 

「その件については、俺がなんとかする。お前にまで心配かける気はねぇよ」

 

 だから、八幡は三浦の瞳を真っ向から見据えて言い切った。

 

『由比ヶ浜結衣を悲しませることはしない』

 

 それはエイトマンとしての論理回路を通した結論ではなく、比企谷八幡としての、剥き出しの誓約だった。

 

「……それなら、いいけど」

 

 八幡の断固とした発言に気圧されたのか、三浦は毒気を抜かれたように視線を逸らし、一応の納得を示したようだった。

 

「……隼人についてなんだけどさ」

 

 三浦はポツリポツリと、重い口を開いて自分の心中を吐露し始めた。

 

「今まで、見たことなかったから。あんな隼人……。怒ってるような、不機嫌なの。初めてだった……」

 

 三浦は居心地悪そうに、巻き上げた金髪の毛先を指でくるくると弄びながら、ぶつぶつと小声で続けた。その一幕を思い出したのか、結衣があははと困ったような苦笑いを浮かべる。

 

「あ〜……。あれはちょっとびっくりしたけど……。でも、ないない、ほんとないから!」

「うん。結衣はほんとにないと思う」

「だよね~」

 

 三浦が即座に、確信を持って頷くと、隣で海老名が楽しげににっこりと微笑んだ。結衣は「あたしだけ扱いひどくない!?」と言いたげな、照れ隠しの困り笑いを浮かべる。一方、雪乃は少々不満げに、その綺麗な唇をわずかに尖らせた。

 

「……私もないのだけれど」

 

 その抗議にも似た言葉に、三浦は気まずげにまた髪を指で巻き、ぶつぶつと独り言のように呟いた。

 

「わかったし、それはもういいけど。……でも、そういう噂が出るのも、それに対してなんもしないってのも、フツーに腹立つ。なんか、無責任じゃん」

 

 吐き捨てられた言葉には、明確な意思が伴っていた。三浦はちらりと八幡の方を見ると、ひどく面倒そうな溜息を吐く。

 

「……だかんさ。ちゃんとしてくんない? んだけ」

 

 言い捨てると、三浦はぷいっと顔を逸らした。それで話は終わりと言わんばかりに、気だるげに足を組み替えると、また無意識に指先で髪を巻く。

 八幡は三浦の言葉の裏側にある「重み」を理解していた。一番近くにいながら、何もできないもどかしさは想像以上に堪えるものなのだろう。ましてや、その沈黙の裏に葉山隼人と雪ノ下雪乃の過去が絡んでいるのだとしたら、彼女の疎外感は計り知れない。

 

「隼人くんは気にしてない風だったけどさ。でも、結衣とか雪乃さんとか、ちょっとは困惑してるわけじゃん? 優美子ママ的には、そこが気になってるんだよね」

「海老名。誰がママだし」

 

 海老名がからかうように三浦の頬を指でつつくと、三浦はペしっとその手を払った。しかし、海老名は雑にあしらわれても「にまー」と不敵な笑みを崩さない。

 

「でも、心配してるんでしょ?」

 

 じっと温かな視線を注がれ、三浦は「うっ」と言葉を詰まらせた。

 

「それは……まあ、心配っていうか。気には、なる……」

「そっか……。優美子が気にしてくれるの、……ちょっと嬉しい」

 

 切れ切れに絞り出された三浦の声は、普段の傲慢な女王のそれよりずっと幼く響き、応える結衣の声はいつになく慈愛に満ちていた。

 

「なにそれ……」

 

 改まって感謝されたことが耐え難く恥ずかしかったのか、三浦は顔を真っ赤にして逸らすと、激しく毛先を弄り始めた。その、あまりにも分かりやすい所作に、雪乃がふっと、磁器のような白い頬を緩めて笑みをこぼした。

 そのわずかな吐息の音を聞きつけて、三浦がキッと雪乃を睨む。だが、その視線には先ほどまでの鋭利な毒はなく、ただの照れ隠しの威嚇にしか見えなかった。

 

「つまり、話をまとめると。……その噂を、なんとかしろってことでいいのか?」

「は? どうにかしろっつーか……」

 

 三浦がぎろりと八幡を睨みつける。その瞳の奥には、自分では届かない場所へ手を伸ばしてほしいという、悲痛なまでの依頼が宿っていた。

 八幡は軽く咳払いをし、三浦の射抜くような視線から逃れるようにして、いかにも事務的な言葉を口にした。

 

「わかってる。事態の収拾を図るよう善処する。……それでいいか?」

「うーん……。まあ、でもそういうことかな」

 

 海老名さんはまだ何か言いたげな、微妙なニュアンスを含んだ表情を浮かべていたが、それでも一応は頷いてくれた。そのレンズの奥の瞳には、どこか諦めにも似た色が滲んでいる。

 言葉をこねくり回して煙に巻いた形にはなったが、三浦たちとの間でとりあえずの共通見解は得られた。消極的ながらも、事態の解決、ないしは解消に向けて何らかの対応をするということだ。

 しかし、何か具体的な手立てが瞬時に浮かんでいるわけではない。

 風説の流布という現象に対して、特効薬のような手段はそうそう存在しないのだ。不特定多数の好奇心や無責任な関心を根絶することなど不可能だし、古来より「人の口に戸は立てられない」と言われる通りである。

 それは、当事者である雪乃も結衣も痛いほど理解しているようだった。

 

「あたしも、なんとかできればなーとは思うけど……」

「この手の問題は、連中が興味を失うのを待つしかないものね」

 

 結衣がうーんと困惑混じりの溜息を漏らし、雪乃が難しい顔で同意する。特に雪乃の言葉には、過去の経験に裏打ちされたような、重苦しい実感がこもりすぎていた。

 

「まあ、そうだな……」

 

 人の噂も七十五日、ではないが、話題の鮮度が落ちて「終わったコンテンツ」になるまでは沈黙を貫き、それ以上の燃料を与えずに延焼を避ける。それが炎上案件における鉄則であり、セオリーだ。下手に弁明や情報を出せば、それがまた新たな火種となって燃え広がることもある。

 

「……一度、現時点で可能な対策を整理するぞ」

 

 八幡は手元のメモ帳を取り出すと、ペン先を走らせた。カリカリと、現在の状況に対する策を書き留めていく。

 現実的な案と不可能な案を具体的に書き出す。

 

「一番現実的なのは、何もしねえことだ。噂なんてほっとけばそのうち収まる。問題は、収まるまでの間がひたすらウザったいってことだ。かといって、噂の大元を締め上げるなんてのは現実的じゃねえし、一度広まったものの収拾をつかせるなんてのは土台無理な話だ」

 

 ペン先を止め、八幡は羅列した項目を指し示した。

 

「そうね。噂を広めた本人を問い詰めたり締め上げたりしたところで、今度は『被害者面』をして問題を大きくするだけだものね」

「うん、雪ノ下さんの『経験談』は置いとくとして……」

 

 雪乃の口ぶりから察するに、実際に締め上げた経験があるのだろう。怖いなぁ、ゆきのん……。

 結衣と海老名さんは引き攣った笑顔を浮かべ、三浦に至ってはプルプルと肩を縮こませて怯えている有様だ。

 

「……生徒会選挙の時もそうだったが。俺を含めた一色陣営は、一色の女子からの悪評を改善するのは早々に諦めて、あくまで『いい噂』を強調して学校中に流布するように改ざんした。認識の改ざんからの、洗脳って流れだな」

「うわ……ヒッキー……。そんなことやってたんだ……」

「どうりであの頃、一色さんの悪評に伴って、やたらと都合のいい噂も耳にするようになったわけね。中々小賢しいことをしていたのね、サギ谷くん」

 

 ドン引きしている二人からの冷たい視線を浴びて、八幡は一瞬たじろいだ。海老名さんは笑顔が固まっており、三浦に至っては「最低なものを見る目」でこちらを凝視している。

「雪ノ下陣営に本気で勝つには、そうする必要があったんだから仕方ねえだろ。それに、ここじゃ言えないヤバい橋をいくつも渡ってきたんだ……」

 

 あの激戦の日々を思い浮かべ、遠い目になる八幡。相変わらず女子たちの視線は氷点下だが、今は瑣末なことだ。彼は思考を現実に引き戻す。

 

「一度流れた噂がどうしようもねえなら、何か『別の噂』で上書きして誤魔化すことはできる」

「なにか、あてはあるの?」

 

 雪乃の問いに、八幡は正々堂々と答えた。

 

「ない」

「……」

 

 雪乃は呆れた溜息を吐き、結衣は力なく苦笑する。

 

「だが、何をするにしても、噂の中心である葉山と話をする必要がある。……後でサッカー部に寄ってみるわ」

 

 時計を見ながら、葉山と対面して直接対策を練る提案をする八幡。

 それを見た海老名さんが何を思ったのか、じゅるりとよだれを啜ったのは……見なかったことにしようと、彼は固く心に決めるのだった。

 

 

──

 

「とりあえず、サッカー部に行ってくるわ」

 

 八幡はそう言い残し、翻る制服の裾とともに部室を後にした。

 その背中を見送った後、残された女子たちもそれぞれの帰路につくべく解散する。

 結衣は一人、冬の夕暮れが差し込む廊下を歩きながら、今日起きた出来事を反芻していた。

 自分と雪乃、そして八幡。

 奉仕部という場所で積み上げてきた、壊れやすくて、けれどかけがえのない平穏な日々。それが「噂」という、実体も根拠もない不確かなものに翻弄されているという事実に、結衣は思わず眉を顰めた。

 

(どうして、こうなっちゃうのかな……)

 

 生徒会選挙という大きな荒波を越え、バラバラになりかけた自分たちがようやく一つにまとまった。去年のクリスマス、そして新年。あの温かな時間は、間違いなく「本物」への階段を一段ずつ登っている実感があったはずだった。

 それなのに今、再び目に見えない得体の知れない「何か」によって、その全てがぐちゃぐちゃに掻き回されようとしている。

 

「どうして……」

 

 結衣の心に浮かんだ切実な疑問は、本人も気づかぬうちに、掠れた声となって唇から零れ落ちていた。

 

 ──ねえ、聞いた? F組の由比ヶ浜さん。

 ──うん、葉山くんと、あと……ひき……なんだっけ?

 ──二人同時にとか、ありえなくない?

 ──やっぱり、見た目通り遊んでるよね。アレ。

 

「……うるさいな」

 

 誰もいないはずの廊下に、不快な囁きがこびりついているような気がした。

 耳を塞ぎたくなるような悪意の残響。それを振り払うように角を曲がった瞬間、正面から一人の女子生徒が姿を現した。

 

「あ、ゆいちゃんだ」

 

 同じクラスの相模南だった。彼女もまた下校の支度を済ませたようで、鞄を肩にかけ、帰路につこうとしているところだった。

 

「あ、さがみん……」

「今から帰るのー?」

「う、うん! 部活終わったし、これから帰るところ……」

 

 普段の彼女なら、この程度の挨拶は造作もなかったはずだ。いつもの「外用の仮面」を器用に貼り付け、明るく、自然に振る舞えたはずだった。

 

 けれど、周囲から聞こえてくる歪なノイズのせいで、今の結衣にはうまく笑うことができなかった。頬の筋肉が強張り、視線が泳いでしまう。

 

「そう、じゃねー」

「うん、じゃあね」

 

 相模が深入りせず、あっさりと会話を切り上げてくれたのは、今の結衣にとっては救いだった。彼女の背中が遠ざかっていくのを見送りながら、結衣は胸の内で小さく安堵の溜息を吐く。

 

 ──うまくやったよな、コイツ。

 

 不意に、またあの「声」が鼓膜を打った。

 

 きっと気のせいだ。疲れが出ているだけなんだ。

 結衣は必死に自分を納得させ、現実から目を逸らすように足早に歩き出した。

 

 ──遊んでるようで、そうじゃないフリして、やっぱり遊んでんじゃん。

 

 なんのことだろう。結衣はその声の意味がわからなかった。

 けれど、そこに込められた湿り気を帯びた嫌な熱だけは、肌を刺すように理解できた。去っていく相模の後ろ姿をぼんやりと見送りながら、結衣の思考は泥濘に沈んでいく。

 

 ──三浦から隙を狙って葉山くんを取ろうとして、しかもヒキタニまで狙うなんてね。いつもバカなフリしてるのに、ズルいこと考えてるんだ。

 

 そんなこと、考えてない。

 自分は葉山隼人と、そんな噂になるような関係じゃない。

 あたしはただ、比企谷八幡……彼と一緒に居たいだけ。

 彼の隣に、彼の側に、ずっと居たいだけ。

 それだけなのに、どうしてこんな風に言われなきゃいけないの。

 

 ──ヒキタニがちょっといい噂立ったから、速攻で手を出すなんて。

 

 あたしは、彼をそんな「都合のいい道具」みたいに見ていない。

 ヒッキーがどれだけ頑張って、どれだけ傷ついてきたか。それを知らないから、そんなことが言えるんだ。

 

 ──前から、そうやって隙を狙ってたんだろうな。ほんと最悪。

 

 やめてよ……。なんで、そんなこと言うの?

 何も、知らないくせに……。

 

 あたしが、ヒッキーが、ゆきのんが、どれだけ必死にこの場所を守ってきたか。

 

 何も、知らないくせに!

 

(勝手なこと……言うなッ!!)

 

 視界が真っ白に染まり、胸の奥でせき止めていた「何か」が、轟音を立てて決壊した。

 

 ピシッ……!!

 

 結衣が射抜くように見つめていた相模の、ちょうど真横にある窓ガラスが、悲鳴のような嫌な音を立てた。

 逃げ場を失った結衣の感情が、一筋の鋭い亀裂となって透明な境界線を走る。

 

「え……?」

 

 相模が驚愕に目を見開いて振り返った、その直後だった。

 

 ガシャアアァァンッ!!!

 

 夕暮れの廊下に、鼓膜を劈くような破砕音が響き渡る。

耐えきれなくなった窓ガラスが、無数の光の礫となって爆散した。

 飛び散る硝子の破片が夕日を反射し、残酷なまでに美しくきらめきながら床に降り注ぐ。

 相模の短い悲鳴と、硝子が床を叩く乾いた音。

 その中心で、結衣は自らの内側から溢れ出した「暴力的なまでの拒絶」の正体に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 ガラスの破片が降り注ぐ中、相模南がその場に頽(くずお)れた。結衣は一瞬、自分の指先が熱を帯びたような錯覚に陥り、呆然とその光景を見つめていたが、すぐさま我に返って駆け寄った。

 

「さがみん! だ、だいじょうぶ!?」

「ゆ、ゆいちゃん……」

 

 相模は顔を覆っていた腕を解き、震える手を見つめた。鋭い硝子の破片が掠めたのか、白い肌から鮮やかな赤が滲み出し、床にポタポタと滴り落ちていく。大事には至らなかったようだが、その出血を見て結衣は胸を撫で下ろした。

 

(よかった……。ひどい怪我じゃなくて、本当によかった……)

 

 

『死ねばよかったのに』

 

 

 ザーーーーーーーーーーーッ!!

 

 突如、脳内を凄まじい砂嵐のようなノイズが駆け抜けた。

 鼓膜の奥で、正体不明の悪意がハウリングを起こす。

 

「──っ!」

 

 結衣は思わず、割れるような頭を両手で押さえた。視界が激しく明滅し、平衡感覚が奪われる。

 

「ゆいちゃん? どうしたの?」

 

 相模の不安げな声に、結衣は無理やり意識を浮上させた。額に冷や汗を浮かべながら、必死に「外用の仮面」を貼り付ける。

 

「あ……。ご、ごめん! なんでもないよ。そ、そうだ、血!! 血が出てるよさがみん! 早く保健室行かなきゃ!」

「う、うん」

「ガラス、なんで割れちゃったんだろ……。さがみん、まだどっかに破片とか刺さってない? ちゃんと診てもらわないと……」

 

 

『切り刻んでやろうか』

 

 

 まただ。誰かの『声』が聞こえる。

 目の前で怯える相模ではない。廊下の向こうで噂話を撒き散らす不快な連中でもない。

 この低く、湿り気を帯びた、それでいて弾むような歓喜を含んだ声は──。

 

「ゆ、ゆいちゃん……。うちは、もう、だいじょぶだから。ね? だから、そんな顔しないで……」

 

 相模南が、蛇に睨まれた蛙のように小刻みに震えている。

 何故だろうか。自分は彼女を心配しているのに。彼女の怪我を、痛みを、取り除いてあげたいと思っているのに。なぜ彼女は、今にも泣き出しそうな目で後退りしているんだろう。

 

「さがみん、本当にだいじょうぶ? あたし、手伝うから……」

「──コロシテアゲル?」

 

 結衣の思考が、一瞬だけ真っ白に漂白された。

 

「……あれ?」

 

 なんで、今、心の中に浮かんだドロドロとした声が、そのまま自分の口から出ているんだろう。

 

 ……ああ、そっか。

 

 さっきからずっと聞こえていた、あの嫌なノイズ。どこかで聞いたことがある声だと思っていたけれど。

 

(……あたしの声だったんだ。なんで、気づかなかったんだろう)

 

 あまりにも楽しそうに囁くから、てっきり別の誰かだと思い込んでいた。

 

「ひ……っ、ひいぃっ!!」

 

 相模南は、まるで地獄の底から這い出してきた化け物でも見たかのような悲鳴を上げ、転びそうな勢いで廊下の向こうへと駆け去っていった。

 一筋の血の跡を、夕暮れの床に残したまま。

 

 

──

 

 静寂が戻った。

 相模の悲鳴が遠ざかり、放課後の廊下には耳を刺すような沈黙だけが居座っている。

 窓があったはずの場所からは、刺すような冬の冷気が遠慮なく入り込み、結衣の熱を帯びた頬を撫でていく。

 床に散らばった無数の硝子の破片が、風に煽られてカタカタと乾いた音を立てて揺れた。

 相模が残していった血の跡が、夕闇の差し込む光を受けて、ルビーのようにキラキラと、残酷なまでに美しく輝いている。

 結衣は、その輝きに誘われるように、足元に落ちた大きな硝子の破片を覗き込んだ。

 

「あ……」

 

 そこに映っていたのは、桃色の髪をなびかせた、いつもの自分。

 見慣れた制服を着て、いつものようにそこに佇んでいる、由比ヶ浜結衣。

 

 ──けれど。

 

 破片の中の自分は、夕映えよりも深く、昏い「紅」の瞳を宿していた。

 それは理性の光を塗り潰し、ただ純粋な破壊衝動だけを湛えた、獣の眼(まなこ)。

 何より。

 鏡の中の自分は、頬を上気させ、耳元まで裂けんばかりの満面の笑みを浮かべていた。

 恐怖に震える相模を、壊れゆく日常を、心底楽しそうに、愛おしそうに見つめている。

 

 ああ、そっか。

 たぶん、最初からずっと、笑っていたんだ。

 

 噂を流す連中への怒りも、自分を汚そうとする悪意への拒絶も。

 全部、この「紅」が歓喜に震えるための餌に過ぎなかった。

 邪魔なものは、全部壊してしまえばいい。

 彼と、彼女と、あたし。

 

 その三人の場所を汚す「ゴミ」は、全部『私』が消してあげる。

 

 頭の中に響く声から逃げるように、両手で耳を抑え込む。しかし、内から沸き上がる歓喜が顔を歪ませ、体を震わせる。

 結衣のくぐもった笑い声が、誰もいない廊下に反響し、冷たい空気の中に溶けていく。

 

 割れた硝子に、さらに深く、深く微笑んだ。

 

 

 




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