——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第七十六話:白い結衣

 

 葉山との会談を前に、八幡は一人、冬の静寂の中に身を置いていた。

葉山に会い、今後の対策を練る。

 それが今の八幡にとっての最優先タスクだった。サッカー部の練習が終わるまでにはまだ間がある。彼はグラウンドを一望できる古びたベンチに腰を下ろし、時間を潰すことにした。

 日はとうに落ち、空気の鋭さは増していく。だが、フル稼働で演算を続ける電子頭脳が加熱しやすい八幡にとっては、この肌を刺すような寒さはむしろ心地よい冷却剤だった。

 

(……こういう時にキメるマッ缶は、また格別なんだよな)

 

 喉の渇きを覚え、昇降口付近の自販機へと足を向ける。ボタンを押そうと指を伸ばしたその時、横から伸びてきた手に「はしっ」と手首を掴まれた。

 

「これ、よかったら。……葉山くんの分もあるから」

 

 視線を落とすと、そこにはもこもことした猫の手ミトンに包まれた、二本のマッ缶があった。

 結衣からの誕生日プレゼントを大切そうに使う、雪ノ下雪乃だった。

 

「悪い。助かる」

 

 エイトマンのボディを持つ八幡にとって、この程度の寒さで凍えることはない。だが、雪乃から手渡された缶の熱は、鋼の身体の奥深くまで沁み入るような、確かな温かさを伴っていた。

 

「あとは俺が葉山から話を聞いとく。……もう帰っていいぞ」

「でも、貴方に任せきりというのは、何か……」

「仕事だ。気にすんな」

 

 軽い調子で、いつもの事務的なトーンで答える。すると、雪乃はふっと、硬い氷が溶けるような柔らかな微笑みを浮かべた。

 

「似合わないセリフね」

「まったくだな」

「……でも、貴方は一度やると言ったら最後まで、きちんとやり遂げるわ。そこのところは、私もわかっているから」

「……おう」

 

 そこまで真っ直ぐに、一点の曇りもない信頼を告げられてしまうと、流石の八幡も居心地の悪さに鼻の頭を掻くしかない。

 

「だから、後はよろしくね」

「……ああ。任せとけ」

 

 雪ノ下雪乃からそう頼まれることは、八幡にとって決して悪い気はしないものだった。彼の中に刻まれた根源的なプロトコルは、今も静かに、けれど力強く拍動している。

 

『雪ノ下雪乃を助ける』

 

 由比ヶ浜結衣から託され、八幡の中で昇華された、何よりも重いプログラム。

 

(……じゃ、気合い入れてやりますかね)

 

 八幡は一度、冷たい手で自らの頬を強く叩いた。

 彼は自らのタスク──葉山の対峙へと、意識を切り替えた。

 

 

──

 

 葉山を求めてグラウンドへ足を運んだ八幡だったが、そこにはオレンジ色のビブスが躍る喧騒があるばかりだった。

 練習は最終局面に差し掛かっているようで、数分もしないうちに解散の号令がかかるだろう。八幡は雪乃から渡されたマッ缶のプルタブを引き、まだ熱を保った褐色の液体を喉に流し込んだ。

 だが、どれだけ目を凝らしても、その中心にいるべき「太陽」の姿が見当たらない。

 

「あんれー? ヒキタニくんじゃん。どしたん、こんな時間に?」

 

 近くでボールを片付けていた戸部が、調子のいい声を上げながら近寄ってきた。気さくに振られた手に対し、八幡も最小限の動作で応える。

 

「葉山は?」

「隼人くん? ……あー、今ちょっと取り込み中でさ」

「今はいないんだな?」

「いや、いないっつーか。いるけどいたっつーか? まぁ、そんな感じ?」

 

 相変わらず中身のない、それでいて何かを隠そうとする時の特有の歯切れの悪さ。八幡は内心で舌打ちし、今日はハズレだったかと踵を返した。

 

「いないんじゃしょうがねえな。帰るわ」

「……あっ! ちょっと、ヒキタニくん!」

 

 背後から戸部の焦ったような声が聞こえる。駐輪場の方へ向かうのが、彼らにとってよほど不味い状況なのだろうか。

 

(……反応が一つ、いや、二つか。誰か話してんな)

 

 八幡は歩みを止めず、網膜センサーの遠隔スキャン機能を起動した。校舎の長い影が落ちる駐輪場の隅。そこには、微かな熱源が二つ、重なり合うようにして佇んでいた。

 そのまま無機質に距離を詰めると、街灯の薄暗い光に照らされた葉山の姿が見えてくる。

「おい」と声をかけようとして、八幡の足が止まった。

 葉山の向かい側に立つ、もう一つの反応の正体。

 その華奢な背格好と、肩まで届く髪の揺れから、それが女子生徒であることは火を見るよりも明らかだった。

 八幡はエイトマンの隠密回路(ステルス・プロトコル)を即座に作動させ、音もなく後ずさって、二人の視界から自らの存在を消去した。

 八幡の聴覚センサーが、冷え切った空気をつんざくように二人の会話を拾い上げる。

 別に他人の恋路に興味などない。だが、これから葉山と交渉するにあたって、彼を縛る「現状」を把握しておくことは、エイトマンとしての情報収集において不可欠なプロセスだった。

 

「あの……。友達から聞いたんだけど、葉山くん、今付き合ってる人いるって本当?」

 

 濃紺のPコートを着た女子生徒は、凍える指先でコートの襟をきつく握りしめていた。その肩は、寒さのせいか、あるいは込み上げる感情のせいか、微かに震えている。

 

「いや、いないよ」

 

 葉山の声は、驚くほど平坦だった。優しく響きながらも、その実、相手との間に分厚い防弾ガラスを隔てているかのような、絶対的な拒絶の響き。

 

「じゃあ、私と……」

「ごめん。今はそういうこと、あまり考えられないから」

 

 それきり、会話は途絶えた。

 重苦しい沈黙が駐輪場を支配する。互いに言葉が詰まっていることは、姿を見ずとも八幡には容易に理解できた。

 

(……前のディスティニーランドでも、似たような光景を見たな)

 

 あの時、一色いろはが葉山に玉砕した一幕。

 負けるとわかっていても、あるいは「勝負にすらならない」と予感していても、それでも勝負に出る。女という生き物は、自分の想像以上に強いのかもしれなかった。少なくとも、リスクを最小限に抑えて逃げ回る自分には、到底真似できない芸当だ。

 やがて、小さなすすり泣きと共に、女子生徒が逃げるように去っていく。

 その後ろ姿を、葉山は追うこともなく、ただ静かに見送っていた。

 

「…………はぁ」

 

 長く、長く、肺の底にある毒をすべて吐き出すかのような溜息。

 それが何度目のことなのか、彼自身にももうわからないだろう。それもこれも、校内に蔓延る無責任な噂と、彼に押し付けられた「王子様」という役割の代償だ。

 八幡は、気配を殺したままゆっくりと歩を進めた。

 砂利を踏む音に、葉山がピクリと肩を揺らし、こちらへと顔を向けた。

 葉山は笑った。

 そこには、隠し事を見つけられた羞恥も、冷たい夜気への困惑もなかった。ただ、使い古された舞台装置を片付ける役者のような、空虚な諦念だけが漂っている。

 

「変なところを見られちゃったな」

「いや、いい。むしろ本題に入りやすい」

 

 八幡は歩みを止めず、懐から二本目のマッ缶を取り出して放り投げた。葉山はそれを淀みのない動作でキャッチし、温かな缶の感触を確かめるように掌で転がす。

 

「話がある。大体は予想がつくだろ」

「あの噂のことか」

「ああ。おまえ、その件はどうするつもりだ?」

 

 事務的な問いかけに、葉山は一度視線をグラウンドの夜闇へと投げた。

 

「俺は、放っておくしかないと思っているよ。変に手出しすると、余計に拗れるからな。……それは、君だって分かっているはずだ」

「経験談か?」

 

 八幡の冷ややかな声に、葉山は一瞬だけ苦々しく顔を顰めた。

 無駄な会話は必要ない。葉山が「静観」という消極的最適解を選ぶことは、最初から計算済みだった。八幡自身も、以前の自分ならそれで事足りると考えただろう。

 だが、今は違う。放っておくことで、取り返しのつかない「実害」が、奉仕部の周辺にまで染み出し始めているのだ。

 雪乃の沈黙、結衣の揺らぎ、そして三浦の焦燥。

 

「俺は、今の状況が気に入らねえ。俺たちを雛壇に並べて楽しんでる連中がいると思うと、虫唾が走るんだわ」

 

 ──お前はどうなんだ。

 

 言外にそう突きつける。葉山隼人が一言、明確な拒絶なり肯定なりを発すれば、この歪な均衡は容易に崩れる。最短距離の解決策が目の前に転がっている以上、八幡にそれを見逃す選択肢はなかった。たとえそれが、葉山の望まぬ「道具」としての役割であったとしても。

 冷徹なエイトマンの意思が、そこには必要だった。

 

「……やっぱり、彼女が絡むと、君は怖いな」

 

 葉山の言う「彼女」とは、雪乃のことだろう。

 文化祭、生徒会選挙、そして今。比企谷八幡がその全出力を解放する時、その中心には常に彼女の存在があった。だが、あの時と今とでは、演算の前提が少しだけ違う。

 

「……雪ノ下だけじゃねえよ。今回は、いろいろとあるんだよ」

「俺は、雪ノ下さんだとは一言も言ってないんだけどな」

「……ちっ」

 

 こんにゃろう、意図的な誘導か。

 八幡は改めて確信する。やっぱり、自分はこの男が死ぬほど大嫌いだ。

 そして同時に、向こうも同じ感情を抱いているだろうという、奇妙なほどに強固な信頼感だけが、冬の夜風の中で静かに共鳴していた。

 

「時々思うんだ。……俺にも、君のようになりふり構わない強さがあればなって」

 

「……いきなりなんだよ」

 

 葉山は先ほど見せた『諦め』の笑みを湛えたまま、どこか遠くを見つめるように静かに語り出した。八幡にとって、その感傷は至極どうでもいいノイズに過ぎない。だが、先にこちらから対話を求めた以上、相手のターンを完結させるのがエイトマンとしての最低限の「筋」だと判断した。

 

「こんな状況でも、俺は静観することしかできないし、それ以外するつもりもない。昔、それで取り返しのつかないことになったからな。……だけど、それでも。あの頃の俺に、君のような……泥を被ってでも現状を壊せる力があればと……」

 

 そこまで言って、葉山は八幡の方へ真っ直ぐに向き直った。

 

「そう考える自分が、嫌で仕方ないんだ。君に負けている、劣っていると、自覚してしまうからな」

「おまえ……俺を舐めてんのか」

 

 ここで初めて、八幡の声に冷徹な計算ではない、剥き出しの苛立ちが混じった。

 

「俺におまえほどの発言力と影響力があれば、今回の問題なんてとっくに解決してるんだよ。おまえには、最初からそういう『持てる者の力』があるんだ。……俺には、そんなものはない」

 

 それは、鋼の身体と最高の電子頭脳を持つエイトマンであっても、決して埋めることのできない人間的な『質』の差。

 望めば、白日の下で雪ノ下雪乃の側に居られる「光」の存在。その可能性を持つ葉山への、八幡の無自覚な嫉妬と、決して手が届かないことへの憧憬。

 葉山に向き合うたびに、それを思い知らされる。

 永遠の時間を生き、いずれ彼女たちの元から去るしかない機械の自分とは違う、共にあるべき「人間」としての資格。

 

 

だからこそ、八幡はこの学校という箱庭の中の、有限な『今』という時間を、何よりも守りたかった。

 

「おまえが思ってるほど、周りの連中は待てるわけじゃない。我慢強くもねえよ」

「……ああ、そうだな」

 

 葉山もまた、八幡の射抜くような眼差しに何かを感じ取ったのか、噛み締めるように言葉を絞り出した。

 

「本当に拙くなったら、俺も動く。だから……」

「わかった。それを聞けただけでもありがたい」

 

 八幡はそれ以上の言葉を拒むように、踵を返した。

 

「比企谷」

 

 背後から、葉山の呼び止める声が夜の駐輪場に響いた。

 

「なんだよ」

 

 八幡は振り返らずに答えた。葉山と正対していると、自分の内側にある醜い部分や、機械の体では埋められない欠落を次々と突きつけられるような気がして、一刻も早くこの場を離れたかった。

 

「結衣のことは、どうするつもりなんだ」

 

 それは、葉山隼人による静かな、けれど逃れられない確認だった。

 比企谷八幡という異分子が、彼女たちの平穏なカーストに及ぼしている影響。それをどう取るのかと、問われているようでもあった。

 

「……由比ヶ浜は、俺と一緒に見られて迷惑してる。取るべき方法は、距離を置くくらいしかないだろ」

 

 雪乃や葉山と同様に、由比ヶ浜結衣という少女の持つ輝き、その人気の高さは言うまでもない。本来なら、日陰を這いずる自分とは決して釣り合わないほど、高い場所にあるものなのだ。

 目立つ存在だからこそ、ほんの少しの異変であっても、周囲の嫉妬や羨望、あるいは失望や嘲笑の対象になりやすい。

 

「これ以上、あいつの負担にはなりたくない」

 

 そんな、息苦しい世評に晒される彼女の重荷にだけは、なりたくなかった。

 

 何より──。比企谷八幡は、由比ヶ浜結衣という存在に、嫌われたくなかった。

 

 それが、エイトマンとしての論理回路の裏側に隠された、もっとも泥臭く、人間らしい本音だった。

 

「そうか……。でも、君が思うほど、彼女は君のことを負担だと感じていないと思うけどな」

「そこまで自惚れちゃいねえよ。……俺は、俺のやり方であいつらの『普通』を守る。それだけだ」

 

 たとえ彼女がそう思っていたとしても、それに甘えることは、鋼鉄のプロトコルが許さない。彼女を「普通」の世界に留めておくことこそが、自分に課された使命だと信じて疑わなかった。

 八幡の硬い、鋼鉄のような決意は、常に彼女たちの『日常』を守るためにあった。

 それが、時として誰かを絶望的な孤独に追い込み、傷つけることになるとしても。

 まだ未熟な精神性しか持ち合わせていない八幡には、自らの「正解」が結衣の「地獄」を加速させていることに、気づく術はなかったのだ。

 

 

──

 

 

 夜の街をふらふらと、まるで実体のない影が揺蕩うように歩む少女がいた。

 

 街明かりに照らされる脚の白さは、夜の闇の中でハッとするほどに美しく際立っている。しかし、その足取りはどこか危うく、今にも崩れ落ちそうな脆さを孕んでいた。

 どこか虚ろな瞳をした少女。由比ヶ浜結衣は、目的地など持たぬまま、ただノイズに導かれるように街中を彷徨っていた。

 

(あたし、さっき……なんで……)

 

 結衣の思考は、深い霧の向こう側にあるようにぼんやりとしていた。

 相模南の『思考』が泥のように頭に流れ込んできた瞬間。それに対する耐え難い苛立ちを、ただ無意識に『ぶつけた』。その結果として砕け散った窓ガラス。血を流し、恐怖に蹲るクラスメイト。

 その凄惨な光景を目の当たりにして、自分は確かに──気付かぬうちに『嗤って』いた。

 

 邪魔なものは、すべて壊してしまえという声が聞こえた。

『私』が消してあげると言った。聞き慣れた、けれど知らない、自分の声。

 

(あたしの中に、あたしがいる……)

 

 そんな荒唐無稽な考えが、今の結衣には驚くほど自然に受け入れられた。あるいは、これこそが自分の剥き出しの本心なのだろうか。自分を汚そうとする者、自分の居場所を脅かす者を、この手で『排除』してやりたいと願う、心の底に沈んでいた獣の顕現。

 結衣には、もうそれを判断する術がなかった。

 

「……ねえ、お姉さん。一人? ちょっと遊ばない?」

 

 気付けば、数人の男たちに囲まれていた。

 下卑た笑みを浮かべ、粘つくような視線で自分の胸や脚を舐めるように見てくる男たち。ふらふらと歩きすぎたせいで、いつの間にか人通りの絶えた裏路地まで来てしまったらしい。

 結衣は、それをどこか他人事のように眺めていた。不思議と危機感は湧いてこない。酷く現実味の薄い、白昼夢を見ているかのような感覚。

 

(ああ……そっか。これ、夢かぁ)

 

 ──夢なら、何が起こってもふしぎじゃないよね。

 

「……な、なんだよ、その目は」

胸に触れようと手を伸ばした一人の男。結衣は、ただ静かに、その男の顔に指を向けた。

 

「──っ!?」

 

 男の体がビクンと跳ね、喉を掻きむしりながら苦しみ出す。その痙攣する動きが、まるで壊れた玩具のようで面白いと思った。結衣は、空中で指をくるりと回してみる。

 

「ぎ、がっ、あぁああ!!」

 

 重力に従わない不可視の力に振り回され、男は壁に叩きつけられた。鈍い音。それを見た周りの男たちが、一瞬で顔を蒼白にする。

 そこにあったのは、先ほどまでの卑猥な欲望ではない。

 

『恐怖』

 

 相模南と同じ、自分という「異物」を恐れる純粋な戦慄。

 

 ──ああ、いいね、その顔。

 

「あはは……っ」

 

 楽しい。心の底から、そう思った。

 暗がりに映える、『紅い瞳』。

 静かに輝きを放つ、『白い服』。

 そして、月光を浴びて妖しく揺れる──『白い髪』。

 

 ほら、こんなに簡単。

 

『白い結衣』は、地面に這いつくばる男たちの中心で、氷のような微笑を浮かべた。

 

 

──

 

 

 翌朝、教室の喧騒の中に、ぽっかりと不自然な空白が生まれていた。

 

 由比ヶ浜結衣が、学校を休んだ。

 

 ショートホームルームで告げられた「体調不良」という事務的な知らせを聞いた瞬間、八幡の脳裏には昨日まで有り余る元気を隠そうともしなかった、あの眩しい笑顔が浮かんだ。

 

(あいつ、風邪とかひくんだな……っていかんいかん。これじゃまるで、あいつが風邪と無縁のアホみたいじゃねえか)

 

 失礼極まりない考えを即座に脳内ハードディスクからデリートする。確かに結衣は時折「アホの子」的な振る舞いを見せるが、それは彼女のコミュニケーションにおける潤滑油のようなものだ。鋼鉄のボディを持つ自分とは違い、彼女は繊細な生身の少女なのだと、改めて自分に言い聞かせる。

 だが、そうなると一つの懸念が浮上する。

 今日の奉仕部は、雪乃と二人きりということになる。

 

(……一応、雪ノ下にもすぐ伝えた方がいいよな)

 

 昨日、葉山と対面したあとの報告も兼ねて、早めに状況を共有すべきだ。そう判断してスマートフォンを取り出そうとした八幡の手が、不意に止まった。

 

(…………そういえば、俺。あいつと連絡先交換してねえわ)

 

 いくつもの「事件」を共に乗り越え、ある種の運命共同体のような意識ですらいたというのに、自分たちの間には「LINEを交換する」という、現代高校生における基礎的な通信プロトコルすら確立されていなかった。

 

(……LINE。やるか。今更すぎるけど、流石に不便だわな)

 

 窓の外、どんよりと垂れ込めた冬の雲を見上げながら、八幡はそんな場違いなコミュニケーション論を巡らせていた。

 その先に、結衣の身に起きている「致命的なバグ」が待ち受けているとも知らずに。

 

 

 

──

 

 

 怖い怖いこわいこわいこわい。

 助けて、たすけて、たすけて!!!

 

 結衣は布団の海に深く潜り込み、震える肩を抱きしめながら、ただひたすらに怯え続けていた。

 夢だと思いたかった。昨日、あの暗い路地で起きたことは、全部たちの悪い白昼夢であってほしかった。

 けれど、現実は無慈悲だった。

 我に返った瞬間の、あの凍りつくような静寂。自分の指先が、確かに誰かの絶望を「造り出した」という確かな感触。

 何より、それを『楽しい』と感じてしまった心の色が、今も網膜の裏側に焼き付いて離れない。

 

「ちがう! あたし、楽しくなんかない!!」

 

 結衣は喉が裂けるような声で、その事実を必死に否定した。

 

『楽しかったでしょ?』

 

 けれど、否定の声はすぐさま、甘い毒のような『肯定』にすり替わる。

 

「ちがう、ちがうよ! そんなんじゃない!!」

 

 ふと、部屋の隅にある姿見に目をやった。

 『あたし』が笑っていた。

 桃色の髪を乱し、涙に濡れた顔をしながら、口元だけが三日月のように吊り上がっている。

 

「やめて!!」

 

 逃げるように視線を窓へと転じる。

『白いあたし』が、窓ガラスの向こう側で嗤っていた。

 光を反射する白い髪、血のように紅い瞳。それは、間違いなく自分自身の形をしていた。

 

「いやあああ!!」

 

 結衣はその場に崩れ落ち、頭を抱えて蹲った。心が、どろりとした黒い澱みに侵食されていく感覚が、はっきりと伝わってくる。

 

 敵意を向けるのが、こんなに気持ちいい。

 悪意を振り撒くことが、こんなに面白い。

 他人を、あの「ゴミ」みたいな連中を壊すことが、こんなにも──。

 

『なんで、ずっとがまんしていたの?』

 

 頭蓋の内側で、鈴を転がすような声が響く。

 

『こんなにきもちがいいのに。ねえ、結衣?』

 

 また、自分の意思に反して、口が勝手に動いた。

 

「あなたがやったんでしょ!? あたし、こんなことイヤだよ!」

『そうやっていつもいい子ぶって、我慢して……それで、何かいいことでもあった?』

 

 窓の中の「白いあたし」が、憐れむように、あるいは馬鹿にするように結衣を見つめる。

 

『せっかくちょっとずつ、自分の気持ちに素直になるようにしてきたのに。結局怖くて、一歩も前に進めない。だから、いつも一番欲しいものが手に入らない……』

 

 その存在は、結衣の心の柔らかい場所を的確に突き刺した。

 

『あなたの人生、いつも誰かに奪われっぱなし。そんなの、もう我慢できないでしょ?』

『だから、私があなたの代わりに、他人から奪ってあげるの。あなたが幸せになれるように……』

 

 窓に映る『白いあたし』は、まるで幼子に言い聞かせる慈母のように、どこまでも優しく囁いた。その姿が、一瞬だけ母の面影と重なって見えたのは、自分でもどうかしていると思った。

 

「あなたは、誰なの……。なんで、あたしにこんなことをさせるの」

 

 震える声で、目の前の境界線に問いかける。

 

 

『私はあなた。結衣の味方で、結衣の敵を壊すために生まれた──』

『私はユイ。あなただけのユイ』

 

 

 ユイは、窓の向こうから這い出すようにして、結衣に覆いかぶさった。

 溶け合うように、心の中にユイが滑り込んでくる。氷のように冷たく、けれど熱を孕んだ異物が、結衣の魂と一つになった。

 

 ビクン、と身体が跳ねる。

 

 視界がチカチカと明滅し、酸欠のように口がパクパクと開閉する。

 ふと顔を上げて窓を見ると、そこにはもう、白い影など居なかった。

 

 コンコン。

 

 ドアが叩かれる。サブレの散歩から戻ってきた母の、温かな気配。

 

「結衣、ただいま。体の調子はどう?」

 

 ドアが開き、母が心配そうな顔で覗き込んできた。

 

「──うん、平気だよ。ママ」

 

 顔を上げた結衣は、いつものように穏やかに、けれどどこか完璧すぎるほどの微笑みを浮かべていた。

 

 

 今は、驚くほど気分が良い。

 

 

 世界を覆っていたノイズは消え、ただ「幸せ」を奪い取るための、明確な論理だけが彼女の胸の中に満ちていた。

 

 




長かったけどようやくここまで書けました。
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