——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第七十七話:変化する環境

 

 放課後の奉仕部室。沈み始めた夕日が窓から差し込み、雪乃が丁寧に淹れた紅茶の琥珀色を、より深く、濃く染め上げていた。

 

「……これでよし、と」

 

 雪乃がスマートフォンの画面をタップし、机の上に置いた。

 八幡のポケットの中で、無機質な着信音が短く鳴る。端末を確認すると、『雪ノ下雪乃があなたをグループに招待しました』という、今更ながらもどこか非現実的な通知が表示されていた。

 

「一応、連絡網としての体裁を整えておいたわ。……彼女はまだ欠席しているけれど、体調が戻ったら招待することにしましょう」

「ああ。そうだな。悪ぃ、手間かけさせた」

「別に、手間というほどのことではないわ。これからは事務的な連絡をいちいち口頭で確認する必要もなくなりますし、効率的でしょう?」

 

 雪乃はそう淡々と言い放つが、その指先はどこか所在なげにカップの縁をなぞっている。

彼女なりに、不在の結衣を案じ、この「居場所」を維持しようとする不器用な歩み寄りに違いなかった。

 

「……それから。比企谷くん、由比ヶ浜さん」

雪乃が、八幡の目を真っ直ぐに見つめて言葉を継ぐ。

「彼女が戻ったら、少し……。いえ、貴方たち二人に、聞いてもらいたい『ある話』があるの。私の、個人的な話なのだけれど」

「……話?」

 

 八幡のセンサーが、雪乃の声に含まれた微かな震えと、覚悟のような熱量を検知する。いつになく神妙なその切り出しに、八幡が問い返そうとしたその時、スマートフォンのバイブレーションが再び部室の静寂を揺らした。

 通知画面に表示されたのは、待ち望んでいた名前。

 

『やっはろー!(^o^) 体調もうバッチリだよ!☆ 明日からまた学校行くから、よろしくねっ!o(^▽^)o』

 

 デコ文字や絵文字で過剰に飾られた、いかにも彼女らしい賑やかなメッセージ。

そのあまりの「いつも通り」さに、八幡の胸の内にあった澱のような不安が、一時的に霧散していく。

 

「……明日、来るってよ」

「そう、よかったわね。……本当に、お騒がせな人だわ」

 

 雪乃もまた、画面越しに安堵の溜息を吐き、薄く微笑んだ。

 

 

──

 

 

 翌朝。教室に足を踏み入れると、昨日までと変わらぬ淀んだ空気が八幡を迎えた。耳を澄ませずとも、エイトマンの聴覚センサーは、あちこちから漏れ出る「噂」の断片をノイズとして拾い上げる。

八幡はそれらを意識的にシャットアウトし、自席について文庫本を開いた。周囲との距離を置き、嵐が過ぎ去るのを待つ。それが導き出した最適解だったはずだ。

しかし、その静寂は、軽やかな足音と共に唐突に破られた。

 

「ヒッキー、やっはろー!」

 

 弾けるような声。教室の入り口から、結衣が真っ直ぐに、迷いのない足取りで歩み寄ってくる。クラス中の視線が、まるで物理的な熱量を伴うかのように彼女に集中した。

 

「お、おう。……由比ヶ浜。具合、もういいのか」

「ん! もーバッチリだよ!」

 

 結衣は八幡の返答を待たず、その横にぴたりと寄り添った。

ただ隣に立つのではない。触れ合うほどに身体を寄せ、覗き込むように顔を近づける。朝の冷たい空気に混じって、彼女特有の甘く優しい香りが八幡の嗅覚センサーを強烈に刺激した。

 

「……おい、近い。近すぎるだろ」

「えー? そうかなぁ」

 

 結衣はいたずらっぽく微笑むと、さらに一歩、踏み込んできた。八幡の肩に彼女の柔らかな重みが加わる。

 クラス中が、息を呑むような静寂に包まれた。今まで、結衣がこれほど公然と、しかも「カーストの最底辺」であるはずの八幡に対して無防備な親愛を見せたことなど一度もなかったからだ。

 

(……おい、どうしたんだよ。距離を置くどころか、燃料投下してどうすんだ)

 

 八幡の内部プロトコルが激しく警告を鳴らす。だが、結衣の瞳に宿る光は、いつになく澄んでいて、それでいて底の知れない深淵のような静謐さを湛えていた。

 

「ヒッキー。あたし、もう我慢しないことにしたんだ。……誰が何を言っても、ね?」

 

 囁くような声。その言葉の意味を八幡が処理しきる前に、彼女は満足そうに微笑んで自分の席へと向かっていった。

 クラス全体の困惑が、さざなみのように広がっていく。嫉妬、疑念、嘲笑──。

 そんな負の感情が渦巻く教室の中で、ただ一人。

 相模南だけが、ガタガタと音を立てて震える手で机を掴み、化け物でも見るかのような恐怖の眼差しを結衣に向けていた。

 

 

──

 

 

 体育の時間は、来たるマラソン大会に向けた合同授業だった。

 グラウンドには冬の乾いた風が吹き荒れ、砂埃が舞っている。八幡は材木座の「ぬふふ、この我の脚力が火を吹く時が来たようだな……」という戯言を聞き流しながら、準備運動をこなしていた。

 屈伸をしながら、八幡の背面センサーが不快なノイズを検知する。

 視線の先、数人の男子生徒が集まって、こちらを指差しながら小声で嘲笑を浮かべていた。聴覚センサーの感度を上げると、案の定、標的は自分だった。

 

「マジでありえねーだろ。なんでヒキタニなんかに由比ヶ浜さんがさ……」

「昨日まで休んでたのも、実はあいつと何かあったんじゃね?」

 

 その集団の中には、以前、結衣に告白して玉砕した覚えのある男子の姿もあった。

 今朝の結衣の強行軍とも言える親愛アピールが、校内の劣等感に火をつけたらしい。自分への陰口など、摩耗した鋼鉄の皮膚には傷一つ付かないが、問題は結衣だ。彼女への執拗なアプローチや、無責任な憶測が加速することを、八幡は危惧していた。

 

「スタート!」

 

 教師の合図と共に、八幡は「我の背中を見ておくがいい!」と豪語して三歩で息を切らした材木座を置き去りにし、淡々と走り出した。

 体育の授業でフルパワーを出すわけにはいかない。エイトマンの出力設定を最小限の「省電力モード」に固定し、周囲に紛れる速度を維持する。

走りながら、八幡の演算回路は今朝の結衣を反芻していた。

 

(まだ熱でもあるんじゃねえのか、あいつ)

 

 あの不自然なまでの距離の詰め方。なにかおかしいものを感じる。エイトマンのセンスは確実に結衣の不自然さを捉えていた。

 今にしても、結衣は病み上がりのはずだ。本来なら見学を勧めるべきだったが、彼女は「平気だよ」と笑って女子の列に加わっていた。本番のマラソン大会まで持つのだろうか。

 そんなことを考えながら周回を重ねていると、いつの間にか設定したゴール地点に到達していた。

 ふぅ、と熱を帯びた電子頭脳を外気で冷やしながら、ベンチで暇を潰していると──。

 

「おい、大丈夫か!?」

「保健室! 誰か先生呼んでこい!」

 

 グラウンドの隅で、突然、慌ただしい喧騒が巻き起こった。

 何事かと思い、八幡が視線を向ける。そこでは一人の男子生徒が地面に蹲り、苦悶の表情を浮かべていた。

 八幡が即座に遠視モードで生徒の体をスキャンする。

 

「足を挫いた……? いや、それだけじゃないぞ、これ……」

 

 運ばれていく生徒の顔を見て、八幡は無意識に目を細めた。

それは、先ほどまでベンチ付近で結衣への未練を八幡への殺意に変えていた、あの男子生徒だった。

 転倒した際に手をつき、そこから脚の骨にまで異常が波及したらしい。不自然な角度で固定された彼の姿に、八幡は言い知れない不安を感じた。

 

──

 

 放課後。冬の夕暮れが部室の窓を朱色に焼き、立ち上る紅茶の湯気が、いつになく重苦しく感じられた。

 

「……あの後、結局そいつ、病院送りになったらしいな。脚の骨にヒビが入ってたとかで、当分は松葉杖だそうだ」

 

 八幡は、体育の時間に起きた「事故」の顛末を、事務的に二人に共有した。部室の静寂の中に、カチャリとティーカップがソーサーに当たる乾いた音が響く。

 

「冬場は筋肉が強張るから、怪我をしやすいとはいうけれど。その人は、よほど運がなかったのね」

 

 雪乃は冷静に紅茶を一口含み、その切れ長の瞳を八幡に向けた。

 

「普段、運動とは無縁のひきこもりくんも、足元には気をつけた方がいいわよ。貴方の場合は、運動不足で足がもつれたなんて、笑えない喜劇になりかねないもの」

「安心しろ。俺の脚力はもつれたくらいじゃどうこうならんから」

 

 雪乃の相変わらずの毒舌に、八幡は肩をすくめて応えた。

 だが、そのやり取りの横で、結衣は窓の外をぼんやりと見つめながら、他人事のように呟いた。

 

「なんだか、大変だねー」

 

 その一言に、八幡の内部センサーが微かな「不協和音」を検知した。

 以前の由比ヶ浜結衣なら、「えっ、大丈夫かな!?」「お見舞いとか行った方がいいのかな」と、お節介なほどの同情を見せていたはずだ。今の彼女の反応には、まるで道端に落ちている石ころでも眺めるような、薄気味悪いほどの「無関心」が透けて見えた。

 その時、部室のドアが勢いよく開いた。

 

「お疲れ様でーす! 先輩、決まりましたよ!」

 

 現れたのは、奉仕部の「天敵」こと一色いろはだった。

 以前、八幡が候補に挙げていたマラソン大会の打ち上げ会場が決まったのだという。

 

「折本かおりさんがバイトしてるお店なんですけど、あそこなら融通効くみたいで。……ただ、当日はかなり人手が足りないらしくて、奉仕部の皆さん、ホールとか裏方のお手伝い、お願いできますか?」

 

 ちゃっかりと自分たちの労働力を見積もりに組み込む後輩に、雪乃は呆れた溜息を吐いたが、「……まあ、そのくらいなら、構わないわ」と了承した。

 

「やった! さすが雪乃先輩、話がわかるー。……あ、それと」

 

 いろはは用件を済ませると、不意に八幡の方を向いた。

 そこにあるのは、いつもの小悪魔的な微笑ではない。どこか神妙で、それでいて値踏みするような、じとっとした粘つくような視線。

 

「……なんだよ、その目は」

「いえ……。先輩、最近ちょっと、鼻の下伸ばしすぎじゃないですか? っていうか……」

 

 いろはの視線は、八幡の隣で、無表情に微笑を浮かべる結衣へと向けられる。

 一色いろはという少女が持つ、特有の「嗅覚」。彼女が掴んでいる情報網と、女子特有の直感が、奉仕部の中心で静かに、けれど確実に膨張している「何か」の気配を、鋭く察知していた。

 

「……なんだよ。用があるなら手短にしろ」

「ちょっとお借りしますねー」

 

 八幡の問いかけを無視して、いろはは雪乃と結衣に愛想笑いを振りまくと、八幡の袖を掴んで強引に廊下まで引っ張り出した。

 訝しげに眉を寄せる雪乃と、開いた扉の隙間から無言でじっとこちらを見つめる結衣。その二人の視線が背中に刺さり、八幡の背面センサーは警告音を鳴らし続けていた。

 

「おい、いきなりどうしたんだよ。あの二人に聞かれちゃまずい話か?」

「あー……まあ、聞かれるといろいろ面倒なのはありますね」

 

 いろはは少しうんざりした顔で、改めて八幡の顔をまじまじと見上げた。

 

「おめでとうございます、先輩。一年の子が、駐輪場で二人きりで話があるそうですよー」

「ああ?」

「はいはい、ぱちぱちー」

 

 やる気なさげにパチパチと手を叩き、棒読みで締めくくるいろは。だが、その言葉の中で『二人きり』という部分をやけに強調しているのが、八幡には引っかかった。

 話を整理すると、どうやらいろはがわざわざ仲介を買って出るほど、その「一年の子」とやらは八幡に切実な用があるらしい。

 

「なんでわざわざそんなこと……。どうせ大した用じゃねえだろ。面倒だから行かねえぞ」

「あ、そういうの今は無しでお願いします」

 

 部室に戻ろうとする八幡の前に回り込み、いろはは満面の笑みで立ちはだかった。絶対に逃がさないという、底知れない気迫がその笑顔の裏側に透けて見える。

 

「先輩も知ってるとは思いますけど、生徒会の書記の子、いるじゃないですか。おさげでメガネの子ですよ」

「……あー」

 

 八幡の人物データベースが、生徒会メンバーの一人を即座にピックアップした。

 名前は藤沢、だったか。クリスマス合同イベントの準備期間中、資料の整理で一言二言話した覚えがある。地味だが仕事は丁寧な、そんな印象の少女だ。

 

「先輩、前にも言いましたけど、一年の間で先輩って結構人気があるんですよ。その件って言えば、もうわかりますよね?」

「マジか。悪質なヤラセとかじゃねーだろうな? どっきりカメラ的な」

「私、そういうことやってるほどヒマじゃないです」

 

 どこか突き放したような、けれど確信に満ちたいろはの口調。

 八幡も理解していた。遊び半分の「告白ごっこ」なら、この賢い後輩がわざわざ自分の時間を割いてまで加担するはずがない。

 由比ヶ浜結衣との噂が流れたことで、皮肉にも八幡への注目度が跳ね上がった。それは、今まで静かに潜んでいた「別の誰か」の好意を、表面化させる十分な引き金となってしまったのだ。

 

「先輩の妖しい空気に騙される哀れな子が、まさか私の周りに現れるとは思ってませんでしたが……」

 

 顎に指をあて、「ふむ」と深く頷いてみせるいろはを無視し、八幡は加速する電子頭脳をフル回転させて今後のタスク処理をシミュレートした。

ありえない可能性だと思っていた。だが、もしそれが「告白」であれ「相談」であれ、一人の人間が勇気を振り絞って自分を呼び出したという事実は重い。エイトマンの論理回路がどう結論づけようと、比企谷八幡という個体は、そういう不器用な誠実さを無視できるほど、機能に徹しきることはできなかった。

 

「……わかった。今から行く」

「了解です」

「その代わり──」

 

 言いかけた八幡の言葉を遮るように、いろはは指をピンと一本立てて、小悪魔的な、けれどどこか頼もしい笑みを浮かべた。

 

「わかってますよ。お二人には適当に、いい感じに言っておきますから」

 

 どうやら、部室に残された雪乃と結衣へのアフターフォローについては、既に織り込み済みだったらしい。この後輩の回し回りの良さには、時折、計算機としての自分すら追い抜かれるような感覚を覚える。

 

「……悪いな。助かる」

 

 短く礼を告げると、八幡は背を向け、カツカツと足音を響かせて駐輪場への最短ルートを突き進んだ。

 背後から、いろはのやる気のない溜息が聞こえた気がしたが、今の八幡にはそれを振り返る余裕はなかった。

 網膜ディスプレイに表示される現在時刻と、駐輪場までの距離。

 そして、自分を待っているであろう「藤沢」という少女のデータ。

 八幡は冷たい廊下の空気を切り裂きながら、逃げ場のない「対峙」へと自らの覚悟を固定した。

 

 

──

 

 

 カツカツと早足で去っていく八幡の背中を見送りながら、いろはは深く、重い溜息を吐き出した。

 

「……なんで、こんなことしてるのかなー、私」

 

 八幡に対して密かに憎からず想っている身としては、他人の恋路に上手く使われることに思うところは大いにある。実際、こうして身近な人間の評価が上がり、他人の好意に晒される八幡を見るのは、ある種の優越感と共に、胸を掻きむしりたくなるような焦燥感を覚えてしまう。

 

 ──別に、付き合ってるわけでもないのに。

 

 あの捻くれ者の先輩の目には、たった一人──あるいは二人の少女しか映っていない。そんなことはここ最近までの関わりで十分すぎるほど知っている。

 

「……フラれちゃえ。ばーかばーか」

 

 それが、これから告白される先輩に向けたものか、勇気を出した一年生に向けたものか。彼女自身にも判然としない呪詛を吐き捨て、いろはは部室への扉に手をかけた。二人にどう説明するか、脳内で言い訳のパターンを高速で組み立てる。

 

「ひゅいっ!?」

 

 扉を開けた瞬間、いろはの口から情けない悲鳴が漏れた。

 目の前に、まるで精密な彫像のようにスンと立ちはだかる二人の姿──雪乃と結衣があったからだ。

 

「一色さん。あなた、比企谷くんに何を吹き込んだのかしら」

 

 雪乃の瞳は、絶対零度の冷気を放つ氷の刃のように鋭い。

 

「すなおに言った方がいいと思うよー、いろはちゃん」

 

 隣に立つ結衣の声は柔らかいが、その背後には逃げ道を塞ぐような、形容しがたい「圧」が渦巻いている。

 

「あ、あはは……。そんなに怖い顔しないでくださいよー」

 

 思わず後ずさるいろは。

 

「ヒッキーになんの用だったの?」

 

 結衣の、笑っているようで瞳の奥が笑っていない問いかけに、いろはの背筋に冷たいものが走る。

 

「えっと、その、生徒会の子とちょっと野暮用というか……仕事の話? みたいな?」

 

 咄嗟に出た言葉は嘘ではないが、真実でもない。だが、いろはの目は泳ぎ、その動揺は隠しようもなかった。

 

「嘘をつくなら、もう少しマシな嘘をついた方が身のためよ?」

 

 雪乃の一喝が飛ぶ。そもそも、この「雪ノ下雪乃」という少女に小細工が通用しないことなど、いろはは身に沁みて分かっているのだ。

 いろはは観念したように、ぎゅっと目を瞑った。

 

「……駐輪場です。一年生の女の子が、先輩を呼び出したんですー!」

 

 その告白が、部室の空気を一瞬で凍りつかせた。

 

 

──

 

 八幡が駐輪場に到着すると、そこには既に「おさげとメガネ」が特徴的な、地味ながらも清潔感のある少女――生徒会書記の藤沢沙和子が佇んでいた。

 八幡の姿を網膜センサーが捉えるのとほぼ同時に、彼女もまた八幡に気づいた。藤沢の顔は、一瞬にして夕焼けよりも赤く染まり、その指先は制服のスカートを白くなるほど強く握りしめている。

 八幡の表情解析機能は、彼女の顔に浮かぶ緊張、羞恥、そして並々ならぬ覚悟を瞬時に読み取った。

 

(……本気、かよ)

 

 これがもし、「告白ごっこ」や「罰ゲーム」といった類のものなら、適当な理屈を並べてあしらうこともできた。だが、眼前の少女が発する熱量と震えは、そんな甘い幻想を無慈悲に打ち砕いた。

 

「あの、急に呼び出してすみません」

 

 沈黙に耐えかねたのか、藤沢の方から声を絞り出した。八幡にとっては、自ら切り出す手間が省けた形だが、その声の震えが胸にチクリと刺さる。

 

「……クリスマスイベント以来だな」

「はい。比企谷先輩には、その件では大変お世話になりました」

「ああ、うん。こっちこそ、どうも……」

 

 交わされる言葉は、まるで仕事の引き継ぎでもしているかのように事務的だ。しかし、「比企谷先輩」と呼ばれるたびに、八幡は不覚にも胸の奥が微かに疼くのを感じていた。いろはに呼ばれる「先輩」とは違う、真っ直ぐな敬意を孕んだ響き。

 

(……いかん。現実逃避してんじゃねえぞ、俺)

 

 心中で首を振り、加熱し始めた電子頭脳を冷却する。

 

「それで。俺に、何か用でもあるのか」

 

 本題を促す八幡の問いに、藤沢は一度深く深呼吸をした。冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み、意を決して八幡を真っ向から見据える。

 

「比企谷先輩は、由比ヶ浜先輩と……付き合っているんですか?」

 

 やはり、その話だった。八幡の予測は、コンマ数秒の狂いもなく的中した。

 

「いや、付き合っていない」

「……それなら……っ」

 

 つい先日、ちょうどこの場所で、似たような会話を耳にしたことを思い出す。あの時、葉山隼人はどんな気持ちで拒絶の言葉を紡いでいたのだろうか。

 

「私と、交際してくれませんか?」

 

 少女の全霊を込めた問いかけに対し、言葉を紡ぐ瞬間。八幡は初めて、葉山が抱えていたであろうあの「重圧」の本質を、はっきりと理解した。

 

「ごめん、俺は────」

 

 拒絶の言葉を口にする八幡の声は、自分でも驚くほど低く、そしてひどく枯れていた。

 

 

 

──

 

 

「ごめんなさいっ……!」

 

 藤沢沙和子は、絞り出すような声を残して、弾かれたように背を向けて駆け出していった。

 八幡は、そのおさげ髪が夕闇の中に消えていくのを、ただぼうっと立ち尽くして見送っていた。

 彼女への答えなど、最初から一つしか用意していなかった。そのはずなのに、胸の奥底から言いようのないドロりとした感情が込み上げてくる。

 それは、真っ直ぐな好意を無慈悲に踏みにじったという罪悪感と、誰かに選ばれる資格などないと思い込んでいる自分への嫌悪感が複雑にハッシュされた、得体の知れない薄暗い熱だった。

 

(……好意を拒絶するってのが、こうも自分を削るタスクだとはな)

 

 今までの人生、誰かを拒絶する機会など、自分には無縁のものだと思っていた。

 

 だが、現実は違った。

 

 一人の少女の勇気を、期待を、未来を、たった数秒の言葉で叩き切るという行為。それは敵を論理で粉砕するのとは全く別の、不快な熱量を伴った「暴力」に他ならない。

 

(葉山隼人は……いつも、こんな感情を抱えて笑ってたのかよ)

 

 常に注がれる無数の視線と、その裏側にある無数の拒絶。あの完璧な王子様が抱えていた摩耗の一端を、八幡は今、自分自身の痛みとして学習していた。

 そして、由比ヶ浜結衣も。

 最近の彼女が見せるあの歪なまでの献身は、もしかすると、こうした「他人の悪意や好意」というノイズから自分を守るための、防衛反応だったのだろうか。

 八幡は、己の足元がぐらつくような、奇妙な浮遊感を覚えた。

 電子頭脳はエラーコードを吐き出し続け、鋼鉄の身体は不自然な重圧に軋んでいる。

 今すぐこの場に、頭を抱えて蹲りたい。

 けれど、八幡は震える拳を強く握り込み、冷たいコンクリートを蹴って部室へと歩き出した。

 

 その背中を、冬の風が容赦なく切り裂いていった。

 

 そんな駐輪場から少し離れた校舎の壁際。かつて八幡が、葉山と女子生徒のやり取りを偶然耳にしてしまったその場所に、今は三つの人影があった。

 

「あのー、先輩方。こういうのって、あまり良くないと思うんですけど……」

 

 げんなりとした顔の一色いろはが、至極真っ当な正論を口にした。実際、その通りである。何が悲しくて、知人の告白シーン、それも自分が仲介した直後の生々しい破局を盗み見なければならないのか。

 

「一色さん、勘違いしないで。これは、あの男が藤沢さん……だったかしら? あの子にいかがわしい事をしないか、奉仕部部長として取り締まる必要性を感じた結果の行動よ。そう、決して出歯亀などではないわ」

 

 雪乃は冷徹な目を維持しようと努めているが、その視線は落ち着きなく泳ぎ、指先は制服のスカートを硬く握りしめている。

 

「そうだよ? ヒッキーがあの子にひどいこと言わないか心配で来てるだけなんだから。ヒッキーが気になるとか、そういうんじゃないから」

 

 結衣もまた、表面上は平静を保って微笑んでいた。だが、その瞳の奥にあるはずの光は、どろりと濁った沈黙に支配されている。

 

「ハイハイ、わかりやすいですねー、お二人とも」

 

 一見、もっともらしい理屈を並べる二人だったが、いろはの目から見れば動揺は一目瞭然だった。

 

(……この二人をここまで取り乱させるとは、改めてあの先輩、どうしようもなく罪深い男だな)

 

 ある意味では、あの葉山隼人よりもタチが悪い。葉山は最初から「手の届かない王子様」として拒絶するが、比企谷八幡という男は、うっかり手が届きそうな距離にいながら、その実、誰の手も取ろうとしない。

 そして、そんな救いようのない男に惹かれてしまった自分も、人のことは言えないのだといろはは自嘲した。

 駐輪場から、泣きながら駆けていく藤沢の姿が確認できる。どうやら、全てが終わったようだ。

 

「ほら、もう戻りますよ。先輩に見つかっちゃいますから」

 

 いろはに促され、三人は気配を殺したまま、逃げるように部室へと戻っていった。その足取りは、誰一人として軽やかではなかった。

 

 

──

 

 

 八幡が重い足取りで部室の扉を開けると、そこには既に三人の姿があった。

 

 部室の中には、どこか落ち着かない空気が漂っていた。雪乃と結衣は、不自然なほど丁寧に淹れられた紅茶を前に座り、いろはは窓際で所在なげにスマートフォンを眺めている。

 

「……おう、戻ったぞ」

「……おかえりなさい、比企谷くん。随分と長かったわね」

 

 雪乃が、わずかに視線を逸らしながらカップを口に運ぶ。その指先が微かに震えているのを、八幡の網膜センサーは見逃さなかった。結衣もまた、「ヒッキー、お疲れさまー」といつもの調子で声をかけるが、その笑顔はどこか張り付いたような平坦さを帯びている。

 

「じゃ、私はそろそろ帰りますねー」

 

 いろはが打ち上げの件を改めて念押しし、逃げるように部室を後にすると、室内には再び沈黙が訪れた。

 

「……それで。比企谷くん、由比ヶ浜さん」

 

 雪乃が、昨日LINEで予告していた『聞いてほしい話』を切り出した。彼女の瞳には、先ほどまでの動揺とは異なる、静かな覚悟の光が宿っている。

 

「以前、私の誕生日プレゼントを二人で探してくれた日があったわね。……あの後、私は久しぶりに実家に戻り、母と、そして姉さんと話し合ってきたの」

 

 かつての雪乃であれば、母親という絶対的な存在を前にすれば身がすくみ、まともな対話など不可能だっただろう。しかし、八幡や結衣との関わりの中で、彼女は自らの足で立つための「自己肯定感」を、少しずつ積み上げてきた。

 

「今の私があるのは、貴方たちが居てくれたから。そのことに、改めて感謝させて」

 

 雪乃はそう言って、二人を真っ直ぐに見つめた。

 

「話というのは、私の進路のことよ。……私は、雪ノ下家の事業を、そして父の背中を追うことに決めたわ。母の望む形ではなく、私自身の意志として、あの家が背負っているものと向き合いたい」

 

 雪ノ下家の事業である建設業と、県議会議員である父親の仕事、その両方と関わる道を進みたいと、家族の前で話したこと。

 それは、雪ノ下家の「重責」に屈するのではなく、自らの意志でその「責任」を引き受けるという宣言だった。

 

「だから……私はもう、逃げない。この学校を卒業した後も、私は私の信じる道を進むつもりよ」

 

 雪乃の言葉は、夕闇の迫る部室に凛として響いた。

 

 八幡はその言葉を、鋼鉄の身体の奥深くで受け止める。

 自らの進むべき道を明確にした雪乃と、内なる変異を抱えながら微笑む結衣。そして、誰かを拒絶した痛みを抱える自分。

 

 奉仕部という名のモラトリアムが、終わりの鐘に向かって加速し始めているのを、八幡は痛いほどに感じていた。

 




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