——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
雪乃のこれまでの人生には、常に『諦観』という名の影が付きまとっていた。
自分の将来、進路、あるいは明日何を着るかといった些細な選択ですら、母から与えられた「自由」という名の檻に阻まれていた。何をもって自由に行動するべきか、その基準さえ持たぬまま過ごしてきた結果、彼女は不自由を姉に押し付けてきた負い目に苛まれ、自分を遥かに上回る能力を持つ陽乃を恐れ、遠ざけることでしか自分を保てなかった。
だが、高校2年生になってからのこの一年間。
奉仕部という場所で、比企谷八幡と由比ヶ浜結衣という異物と共に過ごした日々が、彼女の閉ざされた世界を強引にこじ開けた。
後悔も、諦めも、すべては自身の行動の結果に過ぎない。
それらに至るまでの過程を恐れずに挑むこと。たとえその先に失敗が待っていたとしても、自分の意志で足を踏み出すこと。それこそが、雪乃にとって最も欠けていた、そして最も必要としていた『自由』だったのだ。
八幡と結衣と、時に協力し、時に反発し、時に敵対し――。
泥臭く、美しくない感情をぶつけ合った果てに、彼女はようやくその真実に気づくことができた。
「私はもう、何もしないという自由は選ばないわ」
雪乃の声は、かつてのような冷たさではなく、確かな熱を帯びて部室に響いた。
「自分の意志で考えて、納得して、後悔することも諦めることもしたい。……それが、私の進みたい道なの」
それは、誰かに用意されたレールの上を歩くことの拒絶であり、雪ノ下雪乃が自らの人生を自分自身の手に取り戻した、宣戦布告ともいえる決意だった。
八幡の胸中は、複雑な演算が絡み合う回路のように、いくつもの感情が火花を散らしていた。
雪乃が自らの自由性に気付き、己を確立しようとしている。その姿は、かつて彼女を縛っていた「正しさ」という名の呪縛を脱ぎ捨て、本来の尊さや気高さを取り戻したように見えた。
八幡の電子頭脳は、かつて夏祭りの夜に陽乃の前で導き出した『回答』を再生する。あの時、雪乃の自立を予感して紡いだ言葉が、今、目の前で現実の形となって結実しようとしていた。
その場に共にいた結衣も、八幡と同じ記憶に辿り着いたのだろう。彼女は何も言わず、ただ静かに、確認するように八幡の横顔を覗き込んできた。
雪乃がその比類なき能力と才能を開花させ、ここではない広い世界に進出していく。
それ自体は、八幡にとって素直に喜ばしいことだった。誰よりも近くで彼女の心の機微に触れ、その秘められた力を目撃してきたからこそ、その旅立ちを誇らしくさえ思う。
だが同時に、残酷なまでの確信が八幡の胸を突く。
「終わりの日」が、確実に、そしてすぐそこまで来ているという事実だ。
彼女はもう、奉仕部という止まり木を必要としていない。八幡や結衣の差し出す手を借りずとも、自分の足で荒野を歩んでいけるようになったのだ。それはすなわち、八幡の中に最優先事項として刻まれていた『雪ノ下雪乃を守る』というプロトコルが、その全工程を完了し、役割を終えることを意味していた。
「……そうか。良かったじゃねぇか。やる事が見つかってさ」
八幡は、どこか遠くを見るような、それでいてひどく静かな声で告げた。
自分自身では無機質な反応を返したつもりだったが、その表情は、彼が無意識に抑え込んでいた慈しみや安堵が漏れ出したかのような、驚くほど優しく、柔らかいものだった。
それは、役目を果たした守護者が、去り際に一度だけ見せる、寂しげな微笑みでもあった。
「それがゆきのんのお願いなら、あたしは全力で応援するよ」
──結衣はいつも通り、花が綻ぶような笑顔で答えた。けれど、この時の彼女には、雪乃が言葉の裏に隠した『もう一つの本心』が手に取るようにわかっていた。
願いは、一つであるとは限らない。
それは結衣自身が、この数ヶ月で一番よく理解してしまったことだった。だからわかってしまう。親友が「進路」や「将来」という高潔な言葉を使って、一体何を心の奥底に封じ込めようとしているのか。
(……不器用だなぁ、ゆきのん)
テレパシーのような超能力を使うまでもない。かつてのように雪乃の純粋で清らかな心に触れることは、結衣にとって今でも最も好ましく、心地よい体験だった。
けれど、彼女はあまりにも不器用すぎて、見ていられない。
夢? 進路? 願い?
そんなものは、結衣から見れば、本質から目を逸らすための『代替品』でしかなかった。
彼女が本当に、魂を削りながら望んでいるものはただ一つ。
『比企谷八幡と共に在ること』
彼と同じ道を歩むこと。
彼の側に居ること。
彼と愛を育むこと。
それらを決して表に出そうとしない不器用さが、なんとも可愛らしく、愛おしく、微笑ましく――。
――そして、反吐が出るほどに愚かしい。
望めば全てが手に入る位置にいるのに。彼は彼女からの拒絶を恐れても、彼女からの願いを拒否することなど絶対にできないのだから。
愛情も、親愛も、未来も。何もかも望める特等席に居座りながら、彼女は未だに自分の心を「正しさ」で誤魔化している。
それが雪ノ下雪乃の美しさであり、そして、たった一つの致命的な誤り。
(……そんな誤り、『私』は容赦しないよ)
結衣の瞳の奥で、もう一人の自分が冷酷に囁く。
『私』は全てを手に入れる。あなたが美学のために目を瞑るものを、恐怖のために目を背けるものを、余す所なく、奪い尽くす。
(でも、安心して?)
何もかも失って、空っぽになったあなたを、最後にあたしが抱きしめてあげるから。
だって、ゆきのんは――『あたし』の、世界で一番大切で、大好きな友だちなんだから。
「うん、絶対大丈夫だよ! ゆきのんなら!」
結衣は雪乃の手をギュッと握りしめた。その温もりは本物で、けれどその奥底には、親友を奈落へ突き落としてでも独占しようとする、歪な愛が脈打っていた。
──
雪乃は近いうちに、現在の一人暮らしの部屋を整理して、実家に帰るつもりなのだという。
雪乃がなぜ、高校生という身空で一人暮らしをしていたのか。その正確な理由は、八幡にも、そしておそらく結衣にも語られることはなかった。家族からの逃避、あるいは自立への試行錯誤――その予想はある程度できても、確信に至ることはない。そして、これからもそれをあえて訊くことはないだろうと八幡は思う。
かつての一人暮らしが家族からの「逃げ」であったのなら、今、実家に戻るという選択は、彼女が正面から雪ノ下家という巨大な壁に向き合う覚悟を決めた証左である。それについていちいち言葉を重ねるのは、野暮というものだった。
もっとも、あの陽乃であれば、この状況を嬉々として利用し、雪乃を弄り倒すであろうことは、容易に想像できた。
「姉さんも、部屋を片付ける件でよく来るようになったの。大抵、お酒を呑んでだらしなくしているけれど……」
「ウザ絡みしてきて、めんどくさそうな光景が手に取るように目に浮かぶな……」
八幡が苦笑混じりに零すと、雪乃も自嘲気味な笑みを浮かべた。彼女が姉の話題で、あんなに刺々しかった以前とは違い、困った身内を語るように笑う。その変化が、八幡には酷く新鮮に映った。
「今夜もたぶん、うちで酔い潰れると思うわ。いい加減片付けが進まなくて、怒りたくなるのだけれど」
「あ! 片付けが大変なら、あたしがゆきのんちに手伝いに行くよ! 荷造りとか楽しそうだし!」
結衣が身を乗り出して提案する。
「……いいのかしら? 貴方にも予定があるでしょうに」
「いいって全然! むしろ手伝わせてほしいの! あたし、片付けとか好きだし!」
「でも……」
いいからいいから! と、いつになく強引な押しを見せる結衣に、雪乃はついに根負けしたように折れた。
八幡はその光景を眺めながら、ふと胸の奥に冷たい風が吹き抜けるのを感じた。
自分にはもう、これ以上、彼女の力になれる領域は残されていない。そう判断してしまった自分。
それが、ほんの少しだけ寂しかった。
「……お願い、してもいいかしら」
「うん! もちろん!」
結衣が居れば、部屋の片付けも荷造りも滞りなく進むだろう。こういうパーソナルなジョブは、気の置けない同性同士が最も気楽で効率的だ。それが論理的な結論であるはずなのに。
「ありがとう……」
結衣のあまりにも真っ直ぐで、一点の曇りもない笑顔が眩しかったのか。雪乃は照れたように口早に礼を言い、恥ずかしそうに視線を窓の外へと外した。
奉仕部という名の閉じた世界から、彼女たちは確実に、次のステージへと歩を進めようとしていた。
──
雪乃が手帳を閉じ、ふうと小さな溜息を吐いた。その表情には、長年自分を縛り付けてきた「檻」から抜け出すための、清々しい決意が滲んでいる。
「じゃあ、今日は手伝いがてら、あたしがゆきのんの部屋に泊まりに行くね。なんかワクワクしちゃう!」
結衣が弾むような声で言い、八幡の方を振り返る。
八幡としては、現状クラスに蔓延る噂をどうにか対処したいと考えていた時期だった。今、不用意に自分が結衣と接触を増やすよりは、彼女が雪乃の元に身を寄せている方が安全だろうと判断する。
「噂の件が無ければ、比企谷くんも私の部屋に招きたかったのだけれど。……姉さんも会いたがっていたし」
「いいよ。おまえの姉ちゃんと話すのは、正直すげー体力いるしな……。マッ缶3本分くらい削られる」
「あはは。でも、陽乃さんとまともに会話できるのって、ゆきのんとヒッキーくらいだから。二人がいた方が、あたしは気楽かなぁ」
あはは、と明るく笑う結衣。
八幡は、女子の部屋という最高難易度の潜入タスクを回避できたことに、内心で深く安堵していた。
その後、奉仕部としての今後の方針が決まった。
まずは件の噂をなんとか解消すること。そしてマラソン大会の打ち上げを無事に終わらせ、ひと段落したところで、雪乃が進もうとしている「進路」への具体的な願いに取り組む。
「じゃ、俺そろそろ帰るわ」
「そうね。それじゃあ行きましょうか、由比ヶ浜さん」
「うん!」
その日はそこで解散となった。
八幡は、今日の結衣がやけに自分の近くに寄り添っていたことについて、あえて聴くことはしなかった。部室ではいつも通り雪乃に近い席に座っていたし、今朝の過剰な接触も、自分のセンサーが過敏になりすぎた勘違いなのではないか。そう結論づけた。
(今まで勘違いが高じて痛い目に遭い続けた人生だったからな……。特に女子関連はトラウマもんばっかりだし)
今日の藤沢からの告白で、中学時代に折本かおりへ告白して玉砕し、翌日にはそれがクラス中に広まっていたという最悪の黒歴史がフラッシュバックする。
胸の中の原子炉が、キュルキュルと嫌な音を立てて痛んだ。
カバンをぶらぶらと揺らし、帰りにマックスコーヒーでも買おうと自販機へ向かう。
「ねえ……ちょっと」
だから。
背後から、まったく予想もしていなかった人物に呼び止められるとは、この時の八幡には到底予測できるはずもなかった。
相模南。
かつて文化祭で散々手を焼き、その後はほぼ絶縁状態にあったはずの彼女が、顔を蒼白にして八幡の前に立っていた。
「……」
「……」
呼び止められたものの、八幡は即座にリアクションを返すことができなかった。
いや、不可能だった。このタイミングで、この場所で、相模南という存在が自分に接触してくる可能性など、彼の演算回路の中では限りなくゼロに等しいイレギュラーだったからだ。
そのせいで、八幡の思考は一時的にフリーズした。相変わらず対人関係プログラムにバグが多すぎると、自嘲気味に自律神経をリセットする。
「ねえ、無視しないでよ……」
「……あ、ああ。悪い。なんか用でもあるのか」
相模が震える声で沈黙を破り、ようやく会話のログが動き始めた。
彼女は落ち着きなく周囲を見渡している。あからさまに人に見られることを避けている――いや、その挙動の不自然さは、もはや「警戒」という言葉の方がしっくりきた。周囲に誰もいないことを確認すると、彼女は決死の覚悟で口を開いた。
「ヒキタニ、あんた……ゆいちゃんと付き合ってるんでしょ?」
「はあっ?」
予想外の人物から放たれた、今日何度目かもわからないデマの再放送。
「とぼけんな……。彼氏なら、なんとかしてよ。じゃないと、怖くて、うち……っ」
八幡の答えを待たず、相模は次々と言葉をまくし立てる。重ねていくうちに彼女の顔色は目に見えて悪くなり、額には脂汗が浮かんでいる。
(……不自然な呼吸と発汗。表情解析では、精神的負担による極度の緊張状態。これは……)
普段の彼女のように、隙があれば不用意にマウントを取ろうとする不遜さは微塵もない。
そこにあるのは、ただ純粋な──『恐怖』だ。
「別に、俺と由比ヶ浜は付き合ってなんかいねえけど。なんか都合の悪いことでもあったのか?」
「……それは」
相模が言葉に詰まる。何かを思い出したようで、その手は目に見えてブルブルと震え始めた。その怯え方はただの噂への不快感などではないことが直感で理解できた。
「ここじゃ話しづらいことなら、場所を変えるぞ。コーヒーでも飲むか?」
流石に様子がおかしい。とりあえず温かいものでも飲ませてから落ち着かせるべきだと、八幡は自販機の方へ歩き出した。
「……う、うん。そうする」
相模も八幡が対話の意思を見せたことで、幾分か表情を和らげたようだった。そのまま八幡の後を追従しようとして──。
ヒュンッ
二人の間のわずかな隙間を、鋭い「黒い影」が横切った。
「うあっ!?」
「──っ」
相模は、鼓膜を打つ風切り音に悲鳴を上げ、そのまま後ろに倒れ込んだ。
八幡もまた、眼前の空間をコンマ数秒でサーチする。横切ったその物体の質量、速度、軌道。それは明らかに、生物としての本能を超えた「狙い」を持っていた。
「……あれは」
向かいの校舎の手すりに降り立ったそれは、この時期の街中では珍しくもない、一羽のカラスだった。
カラスは羽を休めながらも、首を奇妙な角度に傾け、じっとこちらを見据えている。その漆黒の瞳は、まるで監視カメラのように無機質で、冷徹な光を湛えていた。
「び、びっくりした……。なんだ、カラスじゃん。急におどかさないでよ」
尻餅をついた相模が、制服のスカートを払いながら立ち上がった。
安堵からか、少しだけ声にトゲが戻る。彼女は腰をさすりながら、再び八幡の元へ歩み寄ろうとし──。
「ギャーーーーッ!」
カラスが、鼓膜を劈くような音量で吠えた。
その鳴き声は、単なる鳥のさえずりではない。明確な敵意と『威嚇』の色がこもった、死を告げる号砲のようだった。
「……な、なんなの、一体」
「おまえ、カラスに石でも投げて恨みでも買ったのか」
八幡は、冗談めかした問いを投げながらも、周囲の音響センサーを最大出力まで引き上げる。
空気の振動が、おかしい。
「はあ!? そんなことするわけないし! 第一、カラス一羽に何ができるって――」
相模が苛立ちを露わにしながらカラスの方へ視線を戻した瞬間、彼女の言葉は凍りついたように途絶えた。
「……じゃあ、なんで『あいつら』は、あんなに怒ってるんだ?」
八幡の低い問いかけに応じるように、夕闇に染まり始めた校舎の影から、次々と漆黒の翼が染み出してきた。
一羽、三羽、十羽……。
気づけば、手すりという手すり、屋上の縁、そして電柱の天辺。視界に入るあらゆる高所に、夥しい数のカラスが隙間なく止まっていた。
「ギャアアア!」「ギャッ!」「ギギッ!」
耳障りな鳴き声が、歪な輪唱となって四方から突き刺さる。
それはもはや自然界の風景ではない。
黒い波が、静かに、けれど確実に二人を――いや、相模南を『包囲』していた。
「あ……あ……」
相模の顔から血の気が一気に引いていくのを、八幡は至近距離で確認した。彼女の瞳には、かつて文化祭で浴びた蔑みの視線よりも、もっと根源的で容赦のない「破滅」が映り込んでいる。
「喋るな。あと動くな……」
八幡は、震える相模に最低限の指示を飛ばした。
不用意な音や動作が、この張り詰めた緊張の糸を断ち切るトリガーになる。それにしても、この光景は異常だ。夥しい数のカラスたちが、一羽として八幡の方を見ようとはしない。
(……ターゲットを相模南に固定しているのか?)
試しに、八幡がカラスの群れに向かって手を振ってみるが、彼らはピクリとも動じない。漆黒の瞳は、まるで磁石に吸い寄せられるように、ひたすら相模の細い喉元や瞳を捉え続けている。
カラスの嘴は、人間の頭骨にヒビを入れるほど鋭利だ。さらに、彼らは驚くほど高い知能で、標的の急所を的確に突く術を知っている。これだけの数が一斉に襲いかかれば、彼女の命は数分と持たないだろう。
八幡の電子頭脳が、生存のための最適解をミリ秒単位で弾き出す。
「相模、俺が合図したら目を瞑って屈め。念のため、頭を両手でしっかり抱えとけ」
「……っ!」
相模はいよいよ泣き出しそうな、顔面蒼白の表情で頷いた。震える膝が、今にも崩れ落ちそうだ。
「よし……。じゃあ、いくぞ」
八幡は一度肺の中の空気を吐き出し、周囲の「熱源」の動きをスキャンした。
カラスたちが、一斉に翼を半開きにし、前傾姿勢をとる。攻撃開始のシグナルだ。
「──よし、屈め!」
「────っっ!!」
相模が息を呑み、地面に丸まった瞬間。
夕闇を切り裂くような羽音と共に、空を覆い尽くしていた漆黒のカーテンが、一斉に相模南を塗り潰しに降り注いだ。
バササササササッ! と、鼓膜を激しく叩く無数の羽音。
黒い竜巻に飲み込まれる寸前
──八幡の聴覚センサーは、遠く離れた場所から響く、聞き慣れた少女の穏やかな鼻歌を微かにキャッチしていた。
(……この声、どこかで……)
聴覚センサーが捉えた微かなメロディに一瞬の空白が生じるが、即座に戦闘プロトコルがそれを上書きした。八幡は背後の相模を守るように位置取り、超音速移動装置のスイッチを叩き込む。
カラスの羽音と相模の悲鳴が混ざり合う中、八幡の思考は極限まで加速する。
周囲の空間が、飴細工のように引き延ばされる。
数千分の一秒の世界。滞空するカラスの群れは、まるで黒い彫像のように空中に静止していた。一羽ずつ叩き落とすことも可能だが、この物量相手では埒が明かない。
八幡は両腕の換装パーツを「指向性電流波(プラズマ・シューター)」へと切り替える。相模南という守るべき対象が足元にいる以上、広範囲への無差別放電は許されない。ミリ単位の精密な射線計算が、八幡の電子頭脳で弾き出される。
「鳥獣保護法に引っかからねぇだろうな……これ」
ババババババババババ!!
静止した世界の中で、八幡の両腕が残像すら残さぬ速度で火を噴いた。
放たれるプラズマの束は、相模に迫るカラスたちを正確に、そして冷酷に撃ち抜いていく。それはもはや、超高難易度のシューティングゲームを完璧なプログラムでトレースしているかのようだった。
(……おかしい。これほど統率された襲撃、野生動物には不可能だ。何者かが『指揮(リード)』している)
電撃を続けながら、八幡は視覚センサーを「電波探知モード」へと切り替えた。
カラスたちの脳波を外部から強制的に上書きしている、不自然な波形。
八幡はそのノイズの糸を逆探知(バックトラック)し、黒幕の居場所を突き止めるべく、遠視モードのフォーカスを絞り込んだ。
八幡の視覚センサーが、カラスたちの脳波を狂わせる異常な高周波を捉える。
(思った通りだ。この襲撃は人為的に作られたものだ。……なんらかの指向性発信機か、あるいは……)
波形の終着点――発信元を特定すべく、八幡は遠視モードの解像度を極限まで引き上げた。レンズが駆動音を立てて絞られ、夕闇に沈む旧校舎の屋上を拡大していく。
そこに、その『存在』は居た。
建物の縁に、不自然なほど際立つ「白」が佇んでいる。
纏う服も、風にたなびく髪も、すべてが色を失ったかのように真っ白だ。しかし、その双眸だけは、沈みゆく太陽を呪うように、禍々しく、紅く発光していた。
(……女?)
なぜそう確信したのか、八幡にも説明はつかなかった。ただ、エイトマンとしての全センサーが、そこにいるのが「女性」であることを告げていた。それだけではない。そのシルエット、立ち姿に、八幡の記憶回路が強烈な既視感(デジャヴ)を訴えかけてくる。
(どこかで……。いや、まさか……)
さらなる詳細情報を得ようと、センサーを画像補正モードに切り替えた、その瞬間だった。
──────ッ!
全身の装甲を貫くような、凄まじい悪寒が駆け巡った。
機械の体であり、恐怖という感情をデータとして処理するはずの自分が、根源的な『震え』を感じている。それは、蛇に睨まれた蛙のように、生物としての生存本能が「勝てない」と絶叫しているかのような感覚だった。
(なんだ、これは……。電子頭脳が、怯えてるのか?)
あり得ない。だが、事実として八幡の駆動核(コア)は、致命的なエラーを回避しようと激しく明滅していた。
そして、あの紅い双眸は、間違いなくこちらを――比企谷八幡を、正面から見据えていた。
その時だ。
「カラスが……」
足元で蹲っていた相模が、掠れた声を出した。
先ほどまで殺気立って襲いかかっていたカラスたちが、潮が引くように一斉に空へと舞い上がり、屋上の影へと去って行く。
(勘付かれたのか? それとも、俺と直接やり合う意思は無いと……?)
狙いはあくまで相模南の「排除」。邪魔が入ったから一時撤退した、ということなのだろうか。明確な確証は持てなかったが、ひとまず危機が去ったことだけは確かだった。
「……ど、どうなったの? なんか静かになったけど」
相模が恐る恐る頭を上げ、周囲を窺う。
「とりあえず、もう大丈夫らしい。立てるか」
制服に付いた羽毛や埃を払いながら、八幡はカラスたちが消えた方向を、そしてあの「白い影」がいた場所を鋭く睨みつけた。屋上には、もう何もいなかった。
――どうやら、マジでとんでもない敵が現れたらしいな。
八幡の胸の奥で、戦いの火蓋が切られた音がした。
エイトマンとして、守るべき日常のために再び牙を剥く時が、刻一刻と近づいていた。
感想、評価をお願いします