——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第七十九話:扉の前で

 

「あっぶなぁ……」

 

 ガタゴトと揺れる電車の中、結衣は茜色に染まった車窓の向こうを見つめながら、小さく独り言を漏らした。

 

「由比ヶ浜さん、どうかしたの?」

 

 隣に座っていた雪乃が、その様子を怪訝に思って話しかける。結衣は一瞬だけ肩を震わせたが、すぐにいつもの、ふわりとした笑顔を貼り付けた。

 

「ううん。なんか、今日はカラスが多いなあって思って」

「……そうかしら?」

 

 雪乃も結衣に続いて外の景色を覗き込む。沈みゆく夕陽に照らされた二人の横顔は、車内の誰しもが目を奪われるほどに、神々しく、そしてどこか儚い美しさを放っていた。

 

「カラスがなくから帰りましょーって感じかな?」

 

 両手でパタパタと翼の真似をしてみせる結衣。その無邪気な仕草に、雪乃の唇からも、くすりと微かな笑みがこぼれた。

 ──今のは、本当に危なかった。

 再び窓の外へと視線を戻した結衣の脳内では、冷徹な演算と反省が繰り返されていた。

 もう少しで、彼――比企谷八幡の鋭敏すぎるセンサーに、本体の意識を特定されるところだった。

『白い私』――結衣の中に眠る、もう一つの意識の塊を幽体として飛ばし、その目を通じて世界を見る。そんな人知を超えた芸当も、今の結衣にとっては呼吸をするより容易いことだった。機械の体を持つ八幡の異常なまでの勘の良さに気づかれないよう、遠く離れた場所から「私」の目を通じて「あたし」が観測する。この無敵の優越感。

 けれど、彼に近づく「ゴミ」のような存在を認識した瞬間、結衣の内側でどす黒い怒りが弾けた。

 

(……ヒッキーに触れようとするなんて)

 

 反射的に近くにいたカラスたちの脳をハックし、ゴミを排除しようとしたのは、少しだけ感情が先走りすぎたかもしれない。けれど、結衣にとってそれは、正当な「掃除」に過ぎなかった。

 

(……でも、仕方ないよね)

 

 電車の窓に映る自分の顔を、結衣は冷めた目で見つめた。

今日はずっと、胸の奥がザワついていた。一年生の藤沢という少女が、あろうことか彼に告白した。そのイレギュラーが、結衣の神経を苛立たしく逆撫でしていた。

 あのくらいのストレス発散は、きっと正当な報酬だ。でなければ、この沸騰しそうな独占欲を抑え込むことなんてできない。

 それにしても――。

 結衣は膝の上で、ぎゅっとスカートの裾を掴んだ。

 あれだけのカラスを操り、相模南というゴミの「穴」という穴から、引き摺り出してやろうと思ったのに。

 

(……ヒッキーは、あの子を庇い続けたんだ)

 

 エイトマンとしての力を使い、盾となって他人を守る彼の姿。

 それはあまりにも鮮烈で、凛々しく、そして残酷なほどに優しかった。

その美しさに見惚れてしまったから、結衣は「視線」を切り離すタイミングを一瞬、誤りそうになったのだ。

 

「……っ」

 

 夕陽のせいだけではない熱が、結衣の頬を紅く染める。

 どんなに離れていても、彼が「視線」の主を探そうと空を睨むたび、結衣の心臓は歓喜に跳ねた。比企谷八幡という男の全神経が、自分(白い私)を捉えようと躍起になっている。その事実だけで、背筋が痺れるほどの悦びが全身を駆け巡る。

 

「ふふっ……」

「……由比ヶ浜さん? 本当に大丈夫?」

 

 不意に漏れた上機嫌な笑い声に、雪乃が心配そうに顔を覗き込んできた。

 

「うん、大丈夫! ちょっとね、今日の夜ご飯、何食べようかなーって考えてただけ!」

 

 結衣は満面の笑みで答えた。

 獲物を目の前にした捕食者のような、あまりにも純粋で、空っぽな笑顔で。

 

 

──

 

 

「カラスが一斉に個人を襲う。それ自体は起こり得る現象ではあるが、ここまでの規模はそうそう無いな」

 

 谷製作所の地下に隠された秘密ラボ。八幡が持ち帰った戦闘記録データを解析しながら、谷博士はモニター越しに冷静な見解を述べた。

 八幡はあの後、極度のパニックに陥った相模をなんとか落ち着かせ、家まで送り届けた。彼女は怯えて八幡の服を掴んで離そうとしなかったが、八幡の直感プログラムは『このまま自分と一緒にいる方が、彼女をより大きな危険に晒す』という警告を鳴らし続けていた。その「センス」に従い、彼は彼女を切り離し、この場へと赴いたのだ。

 

「そして、君が最後に記録したこの白い影。やはりこれがカラスたちを操っていた首謀者と見て間違いないだろう」

「博士。ロボットにしろ人間にしろ、動物を……それもあの数を意のままに操ることなんて、本当に可能なんですか」

 

 八幡の至極当然な疑問に、博士はコンソールを叩きながら答える。

 

「現代の科学力、ハードウェアの制御では不可能に近い。だが、生物の世界には例がある。宿主の脳を支配し、行動を制限する寄生虫のようにな。今回のケースは、その支配を『電磁波』、あるいは『精神波』による遠隔操作で行っていると考えられる」

 

 ディスプレイには、八幡が受信した異常な波形が、生物の神経系に致命的な影響を与えるというシミュレーション結果が出ていた。

 

「まるで、超能力ですね。次の敵はオカルトですか」

 

 八幡がやれやれと首を振る。機械の体を持つ自分も大概だが、幽霊や超能力といった非科学的な存在は、エイトマンの論理回路でも測りかねるものだった。

 

「比企谷くん、人の未知の領域を引き出す研究は、現在でも軍事や医療の裏側で進められている。それが精神的であれ肉体的なものであってもだ。もし、なんらかの方法でその領域に踏み込んだ者がいるとしたら……」

 

 博士は瞳を鋭く光らせた。

 

「仮に、その存在を『超越者(エスパー)』と仮定するべきだろう」

「……エスパー、ですか」

 

 その響きに、八幡の鋼鉄の身体がかすかに軋んだ。自分の電子頭脳さえ、その視線一つで恐怖に陥れた存在。相手は、物理的な装甲など意味を成さない精神の深淵を操る怪物だ。

 

「比企谷くんは引き続き、身の回りの異変を警戒してくれ。私は過去の超能力研究に関する極秘資料を洗ってみる。……何件か、心当たりがある」

「わかりました。よろしくお願いします」

 

 椅子から立ち上がり、ラボを後にしようとした八幡は、重い足取りを止めて博士に向き直った。

 

「どうかしたかね?」

「博士。──頼みたいことがあります」

 

 その八幡の瞳には、かつてないほどに暗く、強い覚悟の光が宿っていた。

 

 

──

 

 

 雪乃のマンションのドアを開けた瞬間、冷たい静寂ではなく、鼻を突く芳醇な果実酒の香りが二人を迎え入れた。

 

「雪乃ちゃんおかえりー! あ、ガハマちゃんもいっしょなんだ」

 

 リビングのソファに深く身を沈め、すでに「出来上がって」いた陽乃が、千鳥足で雪乃に飛びつこうとする。雪乃はそれを、まるで汚物でも避けるような手つきで冷淡に制した。

 

「姉さん……もう飲んでいたの?」

 

 雪乃の呆れ果てた視線の先、テーブルの上には既に息絶えたシャンパンやワインの瓶が、戦利品のように並んでいた。

 

「おじゃましますー。陽乃さんお久しぶりです! お酒、結構いっちゃってますね?」

 

 そんな修羅場とも言える酔態を意に介さず、結衣はいつもの、ふわりとした春風のような笑顔で挨拶を返した。

 

「ガハマちゃんこんばんは! うん、だってね? かわいい雪乃ちゃんがやっと、やっと決心してくれたんだもの。お姉ちゃん嬉しくて、もういっぱい飲んじゃいたい気分なんだよねー」

 

 クリスタルグラスを危うい手つきで弄びながら、陽乃は可愛らしくしゃっくりを一つ。

 

「いい加減、荷造りがちっとも進まないわ。邪魔だから帰って欲しいのだけれど」

 

 雪乃の氷のような一喝にも、陽乃は「雪乃ちゃんが冷たーい!」と幼子のように結衣へ縋り付くだけだ。結衣は鼻をくすぐる強いアルコールの匂いに一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに「よしよし」と陽乃の頭を優しく撫でた。

 

「あまり姉さんを甘やかさないで。癖になるから」

 

 ため息を吐く雪乃に、結衣は「あはは」と困ったような苦笑いを浮かべる。平和な、あるいは奉仕部で見慣れた光景。

 しかし、その空気は陽乃の次の一言で一変した。

 

「……あとは比企谷くんが居てくれれば、最高だったのになー」

 

 不意に投げ込まれたその名前に、雪乃の思考が停止したのが分かった。すぐさま顔を朱に染め、「なぜここで彼の名前が出るの」と、詰め寄る声がわずかに上擦る。

 

「だって、あの子は雪乃ちゃんのものじゃない? そろそろくっついてくれると、お姉ちゃんも安心できるんだよね」

 

 先ほどまでの泥酔が嘘のような、透き通った声だった。

 

『雪乃のもの』。

 

 その言葉が、あえて鋭い針のように強調されていたのは、果たして酒のせいだったのだろうか。

 それを聞いた結衣の顔から、一瞬だけ一切の表情が剥落した。感情が死に絶えた、石造りのような静寂。だが、次の瞬間には、元の柔らかな「由比ヶ浜結衣」の仮面が完璧に修復されていた。

 

「何言ってるの……。相当酔いが回っているようね、姉さん」

 

 雪乃は顔を赤くしたまま、片手で額を押さえて視線を逸らした。そんな妹を愉悦に満ちた目で見つめていた陽乃が、不意に視線をスライドさせ、結衣の瞳を正面から捉える。

 

「冗談じゃないよー。……ね? ガハマちゃん」

 

 すっと細められた、三日月のような眼光。

 くすりと毒を孕んだ笑みは、結衣の目には底の見えない奈落のように映った。

 結衣は表面上、微笑みを絶やさなかった。

 ただ、胸の奥底で、泥のように濁った不快な熱が、ドロドロと広まっていくのを、確かな感触として受け止めていた。

 

 陽乃は「ちょっとコンビニでつまみ買ってくるねー」と、千鳥足のまま上機嫌にリビングを後にした。

 残された二人は、どこから手をつけようかと荷造りの段取りを話し合う。雪乃は「空き箱やゴミ袋の準備があるから」と、一旦奥の部屋へ姿を消した。

 一人リビングに取り残された結衣は、静かになった部屋を見渡した。

 そこは、雪乃らしく無駄なものが一切ない、清潔で凛とした空気が流れる空間だった。けれど、部屋の片隅――ベッドの枕元だけが、賑やかに彩られている。

 

(……あ、パンさん)

 

 ぬいぐるみや猫グッズ。雪乃にとって大切であろうものたちが、そこにはひっそりと、けれど大切そうに身を寄せ合っていた。思わずパンダのぬいぐるみに手を伸ばす。その中に一際、周囲とは異なる「重さ」を纏った個体があった。

 浅葱色の羽織を着た、ご当地もののパンさん。

 修学旅行の時に買ったものだろうか。そのぬいぐるみだけが、他のどれとも違う、生々しい『温もり』を放っている。結衣は吸い寄せられるように、その温もりに指を触れた。

 

 その瞬間、視界が白く爆ぜた。

 

 ──────ッ!

 心に直接、他人の記憶が流し込まれる。

 

 ──視界の端で揺れる、精一杯の勇気を振り絞った、震えるような瞳。

 ──不器用な手つきで差し出される、小さな包み。

 

 脳裏に再生されるのは、比企谷八幡が、雪ノ下雪乃にこのぬいぐるみを渡した時の光景だった。

 それは、彼女が覚醒した『力』の一つ――サイコメトリー。物に残った思念を読み取る力。

 ぬいぐるみに宿った強烈な残留思念。そこから溢れ出したのは、八幡の、雪乃に対するあまりにも愚直で、捻くれていて……けれど誰よりも彼女を慈しむ、祈りにも似た感情だった。

 それを受け取った雪乃の、期待、不安、そして言葉にならない歓喜。

 二人の心が通じ合い、魂の間に架け橋がかかった一瞬の火花が、結衣の心に直接突き刺さる。

 

(……なに、これ。……きれい、すぎるよ)

 

 なんて透き通った、純粋な想いなんだろう。

 自分の胸の内に渦巻く黒い執着とは正反対の、汚れなき共鳴。

 結衣は、いつの間にか自らの頬を伝う涙に気づいた。眩しすぎる輝きに、心が焼かれそうになる。

 これ以上、触れてはいけない。

 そう思って涙を拭いながら手を離そうとした時、ぬいぐるみの裏側に隠されるようにして置かれていた、一袋のビニールを見つけてしまった。

 

 ──それに、触れるな。

 

 心の中の『私』が、危険を察知して激しく叫ぶ。

 けれど、結衣の手は止まらなかった。黒くて四角く、平べったい袋。どこかで見覚えのあるそれを、声を無視して引き抜く。

 中から滑り落ちたのは、一枚の記念写真だった。

 かつて結衣も家族と撮ったことがある、アトラクションの最後で撮影される大切な記録。

 そこには、見慣れた二人が写っていた。

 驚きに目を見開いた、どこか滑稽で、けれど確かな生を謳歌する彼。

そして、その彼にしがみつくようにして体を縮め、目を瞑り、彼の服の裾をぎゅっと――壊れものを扱うように――握りしめる彼女。

 その瞬間、写真から溢れ出した思念は、先ほどとは比較にならない激流となって結衣を飲み込んだ。

 

 ──二人の心が、明確に『ある感情』へと重なり合い、深い場所へと堕ちていった瞬間。

 

 結衣は震える手で、そっと写真を元の場所に戻した。

 見なかったことには、できなかった。

 忘れることは、不可能だった。

 それを「無かった」ことにするには、二人の想いはあまりにも、はっきりと結実しすぎていた。

 

 わかっていた。最初から。

 本当はずっと、うすうす気付いていたのだ。

 

 自分が入り込む隙間なんて、この世界のどこにもないこと。

 二人の間には、誰にも踏み込めないほど高い、けれど透明な境界線が引かれていること。

 何度もその扉の前に立ち、ノックしようとして手を止め、諦め、ただ隙間から漏れ出る光を覗き見ることしかできなかった。

 それでも。

 自分が彼を想う気持ちに偽りはなく、それだけは彼女にも負けないと、胸を張って言えるはずだった。

 

「……っ、ふ、ぅ……」

 

 なのに、どうして。

 どうして今、あたしの心はこんなにも醜い感情で溢れ返っているんだろう。

 写真とぬいぐるみを通じて、彼らの「本物」に触れてしまった。

 自分の抱いていた想いが、あんなに透き通った二人の共鳴に比べて、どれほど泥のように薄汚れているか。それをまざまざと見せつけられた気分だった。

 いつから、こんなに歪んでしまったのだろう。

 彼を好きになったばかりの頃の気持ちは、もっと、ずっと、きれいで、純粋で、美しかったはずなのに。いつの間にか、あたしは彼を「愛すること」よりも「奪うこと」に必死になっていた。

 

 ──やめろ、それ以上考えるな。

 

 心の奥底で、『(ユイ)』が冷たく、鋭く叫ぶ。

 幸せだけを考えろ。

 他人を傷つけても、親友を裏切っても、すべてを奪い尽くしてでも。

 そうでなければ、あたしは――。

 わかっていても、張り裂けそうな胸の痛みが止まらない。

『あたし』の心に閉じ込めた良心が、鍵を開けてと必死に内側を叩き続けている。

 けれど、その声は二人がいる部屋の重い扉に遮られ、誰にも届くことはない。

 結衣は、泣き出しそうな自分を押し殺すように、自らの肩を強く抱きしめた。

ラグジュアリーな雪乃の部屋で、豪華な調度品に囲まれているというのに。

 

「……あたしは、一人ぼっちだ」

 

 ポツリと溢れた独り言は、清潔な部屋の空気に溶けて消えた。

 温もりを知れば知るほど、自らの冷たさが浮き彫りになる。

 

「……っ」

 

 自身の熱を帯びた頭を両手で強く押さえた。視界の隅、雪乃が大切にしていた思い出の数々が、鋭いナイフとなって彼女の心を切り裂いていく。

 あたしが本当に欲しいものは、いつだって自分以外の誰かが持っている。

 必死に、爪が剥がれるほど手を伸ばしても遠ざかり、ようやく指先に触れて掴んだと思っても、それは指の隙間から砂のようにこぼれ落ちていく。

 そんなあたしの無様な姿を他所に、彼女は……雪ノ下雪乃は、呼吸をするようにすべてを手に入れていく。

 

 奉仕部という名の居場所。

 自らの足で歩き出す未来。

 そして……比企谷八幡という一人の男の、深い、あまりにも深い愛情。

 

(最後はみんな同じ。雪乃ちゃんに嫉妬して、憎んで、彼女を拒絶して排斥し始める)

 

 いつか、あの薄氷のような笑みを浮かべた陽乃が言った言葉が、今は耳元で叫ぶ怒号のように響いていた。あの時は「そんなことない」と笑えたはずなのに、今はその呪いが、自分自身の血液を黒く染め上げていくのがわかる。

 

 ──アイツサエイナケレバ。

 

「ちがう、違う……!」

 

 結衣は必死に頭を振った。

 彼女は、あたしの一番大切な「親友」だ。あたしのために怒ってくれて、あたしのために泣いてくれた、かけがえのない女の子なんだ。

それなのに、どうして。

 どうして、あたしの脳裏には今、彼女を『コロシタイホドニクイ』という衝動が渦巻いているの?

 

(コロシテシマエバイイ。ソウスレバ、ゼンブあたしのモノ)

 

「うるさい……! そんなこと、ありえない、ありえるはずがない!」

 

 結衣は声を殺して叫び、心に浮かぶ影を必死に否定した。

 結衣の善性が、崩れゆく砂の城を必死に支えようとしていた。けれど、脳裏に焼き付いた「二人の写真」から放たれる幸福の残響が、残酷なまでに彼女の理性を削り取っていく。

 

 大切な友だち。

 大好きな親友。

 

 その言葉を唱えるたびに、心の奥底にある『私』が、クスクスと気味の悪い笑い声を上げていた。

 暗い視界の裏側で、『私』が動いた。

 まぶたの裏に映し出されるのは、あまりにも無惨で、けれど酷く甘美なビジョンだった。

 雪乃のあの白く細い首に、自分の指をかける姿。抵抗する力さえ奪い、恐怖に染まるその瞳を間近で眺めながら、ゆっくりと、楽しそうに力を込める。

 

(やめて……。そんなこと、あたしは望んでいない……っ)

 

 否定すればするほど、ビジョンは鮮明さを増していく。

 

『私』が指を一振りすれば、彼女の体中の骨がガラス細工のように砕け、真っ白な肌の上に鮮血の花が咲き誇る。

 

「そんなこと、できるわけない……。ありえない。考えるな、考えるな!」

 

 頭を抱え、床にうずくまる。けれど、心の奥底から響く声は、かつてないほどに力強く、そして傲慢だった。

 

 ──イマノあたしニハ、ソレガデキル。

 ──ジャマモノハ、ケシテシマエバイイ。

 

 結衣の心が、激しく軋みを上げる。最後の一線を越えようとする衝動を、必死の思いで踏みとどまる。もし、今この線を越えてしまえば、もう二度と元には戻れない。それだけは、許されることではないはずだった。

 

 ──いまさら、何を善人ぶってるの?

 

 不意に、はっきりとした「声」が鼓膜を震わせた。それは自分自身の声でありながら、完全に自分を突き放した冷徹な響き。

 

 『あたし』の想いを穢した薄汚いゴミを。

 『彼』だけに許されるこの体に、欲望のまま犯そうとしたケダモノどもを。

 身勝手な嫉妬で『彼』に悪意を向けた屑たちを。

 

 ──容赦なく傷つけて、叩きのめし、絶望させたのは誰?

 

『魔女』の、否。超越者としての力を得た『ユイ』の囁きが、肺の奥まで侵食してくる。

 

 ──いまさら、何を恐れることがあるの?

 ──あなたはもう、その力で『掃除』を始めているじゃない。

 

 結衣は震える瞳を見開いた。

 否定したかった。けれど、相模を襲ったカラスたちのあの冷酷な羽音を、自分の一部が「心地よい」と感じていた事実は、もはや隠しようがなかった。

結衣に囁く魔女の声は、もはや警告ではなく、甘美な悪夢となって彼女の心に極上の毒を流し込む。

 

(……今のあなたの『力』を使えば、心を操ることなんて、呼吸をするより簡単なのよ)

 

 脳裏に映し出されるのは、おぞましくも完璧な救済の風景。

 雪乃の凛とした精神に潜り込み、その高潔な自尊心を薄汚れた欲望で塗り潰す。彼女を徹底的に辱め、その心を粉々に砕いてしまえばいい。

 周囲に漂う人間の思いさえ変容させ、心無い言葉の凶器で八幡を追い詰め、彼をこの世界で独りきりにしてしまえばいい。

 そして、犯され尽くし、壊れきった彼と彼女を、あたしの温もりで包んであげるの。

 

 あたしだけが、二人を癒し、愛してあげればいい。

 

 ──簡単なことじゃない。

 ──そんなこと、できない……っ。

 

 魔女の声は常に最悪で、それでいて極上の陶酔を伴う幻覚を網膜に焼き付ける。

『壊れた彼女』の側で、聖母のように微笑む自分。

『壊れた彼』を胸に抱き、慈しむように微笑む自分。

 

 ──全てを手に入れた、自分。

 

 あまりにも異常で、歪んでいて、けれど今の結衣にとっては何よりも望ましい世界がそこには広がっていた。

 結衣は頭を抱えて激しく震えた。そんなつもりはなかった。ただ、三人で笑っていたかっただけなのに。

 けれど、授かった力が強くなればなるほど、その力は「由比ヶ浜結衣」という存在を、根こそぎ塗り替えようとする。

 結衣は、もう既に知っている。自分の中の『魔女』が狂おしく笑う時、自分もまた……。

 

 バタバタと、廊下から足音が近づいてくる。

 

 もうすぐ、彼女が戻ってくる。

 笑顔で迎えよう。いつものように。大好きな「ゆきのん」の親友として。

 カチャリ、と扉が開く音が室内に響き渡る。

 

「お待たせ。ダンボール、これだけあれば足りるかしら」

「うん、十分だよ、ゆきのん!」

 

 扉が開くと同時に、結衣は弾かれたように顔を上げた。

 その表情には、先ほどまでの葛藤も、黒い涙の跡も、一欠片も残されていない。

 太陽のように明るく、一点の曇りもない完璧な笑顔を、結衣は雪乃へと向けた。

 その瞳の奥で、紅い魔女が冷たく笑い声を上げていることなど、雪乃が気づくはずもなかった。

 

 

──

 

 意識の輪郭が、熱を持った泥の中に溶けていく。

 片付けを終えた後、雪乃の部屋に敷いた布団で眠りについた結衣を待っていたのは、安らかな眠りではなかった。混濁する意識の澱の中で、彼女はかろうじて、消えかかった最後の一片の「自分」を抱きしめていた。

 沈んでいく意識は、毒を含んだ蜜のように心地よく、同時に逃れられない悪夢のような思念に支配されている。

 覚醒していても、眠りについても、この地獄からは逃げられない。

 目を開ければ、雪乃へのどす黒い嫉妬が心を焼き、目を閉じれば、八幡を犯し尽くす全能の幻想が脳を浸食する。

 

(……もう、限界だよ)

 

 鏡の中にいた『魔女』が、結衣の輪郭を内側から塗り替えていく。

 意識が完全に消失する直前、夢と現実の曖昧な狭間で、結衣は最後の一滴の勇気を振り絞った。

 

「助けて……ヒッキー……」

 

 熱を帯びた吐息と共に漏れたその声は、静まり返った部屋の空気にさえ、振動を伝えることなく消えた。

 暗黒に沈んでいく意識が発したその言葉は、誰に届くこともなく、深淵の底へと吸い込まれていく。

 次に目覚めた時、自分は、一体誰になっているのだろう。

 絶望に濡れた思考の火が、ふっと消える。

 結衣の心は、一切の光を拒絶する、深い、深い暗闇に覆い尽くされた。

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