——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第八十話:動き出す歯車

 

 朝日が差し込むリビングで、八幡は習慣的にマックスコーヒーのプルタブを引き抜いた。喉を焼くような甘ったるさが、スリープモードから強制的に再起動された脳を叩き起こす。

 ボディ各所の駆動系チェック。関節部のトルク、人工筋肉の反応速度、そして電子頭脳の同期率。異常なし。

 八幡は食パンを二枚トースターに突っ込み、赤く染まっていく電熱線をぼうっと眺めていた。

 

『はちまん様、電子脳波レベルが低下してるにゃ。もっとシャキッとするにゃ』

「わかってるよ、ベラ。……朝は低血圧なんだよ」

 

 うぃぃんと駆動音がフローリングを鳴らす音と共に、サポートメカのベラが近寄ってきた。トレイには丁寧に盛り付けられたおかずが載っている。一番下の段では、愛猫のカマクラが丸まって寝息を立てていた。

 八幡はソーセージを一つつまみ喰いし、それをコーヒーで流し込む。いつもと変わらない、比企谷家の朝だ。もうすぐ、受験勉強で夜更かししていた小町が、眠そうな目を擦りながら起きてくる時間。

 今日もこのまま、何事もなく終わってくれればいい。そう願う反面、電子頭脳の一部が冷徹な警告を発し続けていた。

 

(……終わりそうもねぇな。学校という公衆の面前で、カラスを使って相模を襲撃してくるような連中だ。いつ、どこで、誰が、俺たちの日常を壊しにくるかわかったもんじゃねえ)

 

 八幡は確信に近い予感を抱いていた。今回の敵は、これまでのロボット兵器のような外部からの侵略ではない。自分たちの、すぐ隣。手の届く距離に潜んでいるのではないか。

 その可能性を考慮し、昨晩のうちに谷博士といくつかの『対抗策』を講じてはみたが。

 

(思い過ごしなら、それに越したことはないんだけどな……)

 

 重いため息を吐き、椅子に深く腰掛けた。

 

「お兄ちゃん、おはよー……。ごはんの匂いで目がさめたよ……」

「おう、おはよう。小町」

『おはようございますにゃ。こまち様。目玉焼きは半熟にしてありますにゃ』

 

 欠伸をしながら現れた妹の姿を見て、八幡は一瞬だけ、戦うエイトマンから「比企谷八幡」という日常の役割に戻った。だが、その背中に忍び寄る「白い影」の予感だけは、どうしても拭い去ることができなかった。

 

 

──

 

 校門をくぐり、いつもの見慣れたはずの校舎を歩く。だが、教室の扉に手をかける直前、八幡の指先がピタリと止まった。

 

(……なんだ、この感覚。空気が……重い?)

 

 八幡の空間認識センサーが、教室内の微妙な「歪み」を捉えていた。物理的な障害物はない。だが、そこには電子的なノイズとも、生物的な殺気とも違う、説明のつかない違和感が渦巻いている。

 慎重に扉を開け、教室に足を踏み入れる。

 そこには、いつも通りの光景があった。始業前の喧騒、談笑するグループ、スマホを弄る面々。何も変わりはない。……はずだった。

 聴覚センサーを最大出力まで研ぎ澄まし、飛び交う会話の内容をスキャンする。その瞬間、八幡の背筋に氷のような戦慄が走った。

 

(噂が……消えてる?)

 

 昨日まで、あれほど執拗にクラス中を席巻していた噂話、そして八幡への蔑みの視線。その全てが、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗さっぱり消え去っている。ゴシップの鮮度が一日で失われるなど、この閉鎖的なコミュニティではあり得ない。それは「沈静化」ではなく「抹消」と呼ぶべき不自然さだった。

 

「ヒッキー、やっはろー!」

 

 その不気味な静寂を切り裂くように、明るい声が教室に響き渡った。

声の主は、窓際でいつも通りの、春の陽だまりのような笑顔を浮かべて立っている由比ヶ浜結衣だった。

 昨日のように、他人に勘違いされるようなタイミングで話しかけてくる彼女に、八幡は辟易するところだ。だが、今の八幡が感じた違和感は、それどころではなかった。

 

(……おい、おかしいだろ)

 

 八幡は周囲を見渡す。由比ヶ浜がこれほど大きな声で、クラスの「底辺」であるはずの自分に話しかけているのだ。噂話を好む面々がこちらを伺い、ヒソヒソと揶揄の声を上げるのが「日常」の光景。

 だが、誰も見ない。

 葉山も、三浦も、あろうことか昨日襲撃されたばかりの相模ですら、八幡と結衣を視界に入れていないかのように、淡々と自分たちの雑談を続けている。

 まるで、二人だけがこの世界から切り取られ、誰にも認識されていない透明な存在になったかのように。

 クラス中の誰もが、八幡と結衣の存在を意に介していない。

 

(……流石に何かがおかしい。こいつら、俺たちのこと、見てないっていうか……認識してない?)

 

 八幡は警戒レベルを最大に引き上げる。教室内になんらかの精神干渉波、もしくは幻覚剤の類が蔓延している可能性を考慮し、環境センサーを駆動させる。だが、どこにも異常は検知されない。数値の上では、この教室は完全に正常だ。

 その矛盾が、八幡の焦燥を募らせる。論理回路が、目の前の現実を処理しきれない。

 

「ヒッキー、どうしたの? 難しい顔して」

 

 不意にかけられた結衣の声で、八幡は我に返った。声をかけた結衣は、一歩近づき、何事もないように穏やかな目を八幡に向けている。

 

「……いや。由比ヶ浜、おまえ……何かおかしいと思わないか? 周りの奴ら、俺たちのこと、見てないだろ」

 

 たった一日で、世界が作り変えられたかのようなこの変貌。彼女はそれをどう認識しているのか。八幡は不安を感じながら尋ねた。

 

「えー? そうかなぁ。……ヒッキー、考えすぎだよ。こんなの、普通じゃん」

 

 結衣はにこにこと、いつもの柔らかな笑顔を絶やさず、さも当然のように言いのけた。その迷いのない肯定が、八幡には何よりも異様に映った。

 八幡の疑問を他所に、結衣はスッと距離を詰めた。昨日の朝のように。

 彼女は八幡の肩にそっと手を乗せ、その肢体を預けるように寄り添ってくる。クラスの連中が、八幡と結衣を認識さえしていない空間で、二人の距離が一気に縮まる。

 彼女の柔らかな唇が、そっと八幡の耳元に添えられた。

 

「あたしとヒッキーが仲良くすることなんて、普通のことだよ?」

 

 囁かれた言葉の音が、鼓膜を、そして八幡の電子頭脳の深層部へ……何らの抵抗もなく、沁み渡るように浸透した。その瞬間、八幡の思考回路が、一瞬だけ機能を停止した。

 視界の端が白く爆ぜ、脳内を支配していた論理回路が、ぐらりと根底から揺らぐ。だが、その不快な感覚を、直後に押し寄せた圧倒的な多幸感が瞬時に上書きした。

 そこはかとなく甘く、ゆったりとした安らぎ。それは電子的な麻薬のように、八幡の神経系を隅々まで侵食していく。心地よい結衣の言葉の「波」が、八幡の身体中を駆け巡り、あらゆる警戒プロトコルを無効化していく。

 

「……そう、だな。普通だよな。……俺と、お前が」

 

 八幡は無意識のうちに、自らの肩に置かれた結衣の手を握っていた。熱を帯びた、吸い付くように柔らかく、温かい手。もっとこの温もりを感じたい。もっと深く、彼女に触れていたい。

 八幡は抗いがたい衝動に突き動かされ、結衣の細い腕を掴むと、ぐいとその肢体を引き寄せた。結衣はちょうど八幡の膝の上に跨るような格好で、その身体を彼に預けてくる。

 教室のど真ん中で、二人の距離が零になる。互いの吐息が、体温が、生々しく混ざり合う。

 それでも、周囲の人間は誰一人として、二人を見ようとしなかった。野次を飛ばす者も、軽蔑の視線を送る者もいない。まるでこれが宇宙の真理であるかのように、クラスの全員がその光景を「無」として受け流している。

 

「ヒッキー……っ」

 

 結衣の息が、熱を帯びて荒くなる。

 膝から伝わる彼女の肉の感触。柔らかく、弾力があり、生命の熱に満ちている。ロボットであるはずの八幡のセンサーは、その生々しさを不快感ではなく、極上の愉悦として処理していた。

 

「ずっと……こうしたかったの。こうやって、ヒッキーを抱きしめたかったの……っ」

 

 結衣が八幡の胸に顔を埋めた。

 異常だ。こんなことはあり得ない。頭の片隅で、誰かが警告を叫んでいる。だが、その声は霧の向こう側へと遠ざかり、意識はただ、目の前の甘美な現実へと沈み込んでいく。

 

「ヒッキー、お願い……」

 

 顔を上げた結衣の瞳は、潤み、頬は桃色に上気していた。

 切なげな想いを秘めたその瞳から、一筋の涙が溢れる。彼女は震える声で、最後の、そして最も強力な呪文を紡いだ。

 

「──抱いて」

 

 縋り付くような、哀願の言葉。

 とん、とその身体が完全に八幡に預けられる。八幡の意識は、底なしの愛の深淵へと、ゆっくりと堕ちていった。

 結衣の柔らかな吐息と、波打つ心臓の鼓動が、八幡の思考回路をゆっくりと、確実に侵食していく。

 量子計算に基づいた高度なAIが、今や結衣の意志と同期し、『彼女を望め』『このまま同期を実行しろ』と不可視の命令を演算し続けていた。エイトマンの鋼鉄のボディそのものが、彼女の体温を求め、彼女を欲して軋みを上げる。

 結衣が身体を捩るたびに、制服越しに伝わる脚と胸のラインが、柔らかな曲線を描いて歪む。それを認識するたび、八幡は自分を「比企谷八幡」として繋ぎ止めていた精神の装甲を、一枚ずつ、自らの手で剥がし取っていくような感覚に陥った。

 

(──このまま、一つになってしまえば……)

 

 どれほど心地よいだろうか。どれほどの甘美を、この閉ざされた認識の檻の中で、彼女と共有できるだろうか。

 他人の視線も、正しい倫理も、昨日までの苦悩も、すべてはこの多幸感の海に沈めてしまえばいい。

 八幡は、結衣の誘いに導かれるまま、彼女の背にゆっくりと手を回した。細い腰を引き寄せ、その身体を力強く抱きしめようと、指先に力を込め──

 

『気をしっかり持て! エイトマン!!』

 

 鼓膜を突き破るような、老人の稲妻のごとき一喝。

 それは谷博士の、何物にも代えがたい「現実」の声だった。

 

「────っっ!?」

 

 八幡の思考回路を覆っていたピンク色の霧が、その一音で粉々に砕け散る。

 強制的に再起動(リブート)された電子頭脳が、爆発的な勢いで論理ログを吐き出した。目の前の多幸感は「精神干渉」であり、膝の上の温もりは「攻撃」であるという冷徹な計算結果が、視界を警告の赤色で塗り潰していく。

 突き飛ばしたのか、あるいはただ反射的に跳ね除けたのか。それを判別するだけの余裕は、八幡の回路には1ミリも残されていなかった。

 

「……はぁ、はぁ……っ」

 

 激しい駆動音を立てながら、八幡は目の前で呆然と床に座り込む結衣から、強制的に距離を置いた。数秒前まで全身を包んでいたあの熱っぽい多幸感が、今は猛毒のように不快で、恐ろしい。

 

「ヒッキー……。どうして……?」

 

 結衣が縋るような、今にも泣き出しそうな瞳で八幡を見上げる。以前の八幡であれば、その視線に射抜かれ、再び迷いの泥濘に沈んでいたかもしれない。だが、今の八幡は違う。電子頭脳の深層で、昨日実装したばかりのセキュリティ・ログが激しく明滅していた。

 

(……間違いない。この波形、このパターン。……お前だったのか)

 

 八幡は冷徹な眼差しで、目の前の少女を見据える。それが「脅威」であるという計算結果は、もはや疑いようのない事実として確定していた。

 

「由比ヶ浜。おまえ……まさか、なんて顔でこっちを見てるんだ」

 

 敵は必ず、近いうちに自分に接触してくる。そう確信していたからこそ、昨日、谷博士に無理を言って『ある機能』を依頼したのだ。

 自分の精神回路に何かしらの接触があった場合、それを即座に検知し、侵入を逆探知するためのIDS(侵入検知システム)。

 エイトマンのボディは無敵でも、その核にある精神――「比企谷八幡」という意識は、あまりにも脆い。だからこそ、八幡は己の心を『釣り餌』として差し出した。相手の干渉をあえて受け入れ、その瞬間に敵の身元を特定する。

 

「まさかな……こんなに早く引っかかるとは思わなかった。……お前が、そうだったなんてな」

 

 八幡の声から温度が消える。

 それは、友人を呼ぶ声ではなく、正体不明の怪物を追い詰める、鋼鉄の守護者の声だった。

 

「──なあ、由比ヶ浜。いい加減、その顔はやめろよ」

 

 冷静さを取り戻した八幡の視線の先。

 そこには、扇情的に制服を着崩し、床に座り込んだままの由比ヶ浜結衣がいた。彼女は、数秒前までの泣き出しそうな「少女」の表情をあっさりと脱ぎ捨てると、くすりと、妖艶な笑みを浮かべた。

 

 その瞳には、かつてのような陽だまりの温かさなど微塵もなかった。

 そこにあるのは、すべてを焼き尽くし、独占しようとする、魔女の執着だけだった。

 

「あーあ、やっぱりダメだったかぁ」

 

 頬をうっすらと紅く染めた結衣が、まるでイタズラを見つけられた子どものように、てへ、と舌を出して笑った。

 はだけた胸元、乱れた制服。その無邪気な仕草と、そこから放たれる妖艶な色香が混ざり合い、教室内には異様な、そしてどこか生理的な嫌悪感を催すようなアンバランスな空気が充満していく。

 

「あのまま任せてくれたら、いっぱい気持ちよくしてあげたのになー」

「……だからって教室のど真ん中で始めようとすんじゃねぇよ、エロヶ浜。文字通り頭の中が真っ白になったぞ」

「ひどっ! エ、エロじゃないし。ヒッキーのへたれ!」

 

 唇を尖らせて膨れてみせる結衣。交わされる言葉だけを聞けば、それはいつもの奉仕部、いつもの放課後のやり取りそのものだった。

 だが、八幡の背中には、流すはずのない冷や汗がべったりと張り付いているような感覚があった。対面しているだけで、センサーが「生存本能」を刺激する警告音を鳴らし続けている。

 

『比企谷くん、気をつけろ。結衣くんから放射されている精神波動による空間の歪み……この数値は異常だ』

 

 脳内に、谷博士の切迫した通信が響く。

 

『わかっています。ここ最近の学校内での異常事態……相模への襲撃も、俺への干渉も、全部こいつの仕業だったということですね』

 

 エイトマンとしての冷徹なデータ解析結果。それが、目の前の少女――由比ヶ浜結衣が、人類を脅かす『敵』であることを、残酷なまでに確定させていた。

 

「ねえ、ヒッキー。そんなに怖い顔しないでよ」

 

 結衣が、一歩、また一歩と近づいてくる。

 その足取りは軽く、それでいて周囲の物質すべてを捻じ曲げるような、圧倒的な質量を伴っていた。

 

「それで、これもおまえの仕業ってか?」

 

 八幡は、何事もないかのように談笑を続けるクラスメイトたちを見渡しながら、静かに問いかけた。

 

「ね、凄いでしょ? みんなあたしたちに気づいていない。ううん、正確には『気づかないのが普通』だって、みんなの頭が勘違いしちゃってるんだよ」

 

 結衣はすぐ側にいた三浦の頭を、まるでお気に入りのぬいぐるみを愛でるように無造作に撫でた。三浦は自分の髪が他人に触れられていることさえ認識せず、虚空を見つめたまま「それでさー」と会話を続けている。

 そのあまりに冒涜的な光景に、八幡の電子頭脳は激しい拒絶反応を示した。

 

「おまえ、いつから『そう』なっていた?」

「うーん、クリスマスの辺りからかなー? なんでこうなったのか、あたしもよく覚えてないんだけどね」

 

 結衣は指を顎にあてて、「うむむ」と可愛らしく首を傾げる。

 

「でも、そんなことどうでもいいじゃん! これがあれば、いっぱい楽しいことができるんだよ! それだけじゃない。イヤなことも辛いことも、全部まとめてゴミ箱に捨てることだってできる。もう、ガマンしなくてもいいんだよ?」

 

 結衣がぱっと向き直ると、その顔に満開の笑顔が花開いた。

 

「ヒッキーも、ゆきのんも……あたしたち三人で、ずっと楽しくいられる力を手に入れたんだよ。もう少しで、それが叶ったんだけどな」

 

 残念そうに、結衣はポツリと呟いた。

 

「もう少しで、ヒッキーをあたしのものにできたのに」

 

 八幡の目に映る結衣は、万能の力を手に入れた無垢な幼女そのものだった。だが、その背後に渦巻く思念の嵐は、都市一つを容易く狂気へと叩き落とせるほどの、洒落にならない脅威を秘めていた。

 それはもはや、青春の延長線上で語れるような「冗談」では済まされないものだった。

 

「……おまえが、こういうことをする奴だとは思ってなかったんだけどな」

「あれ? もしかしてガッカリしちゃった?」

 

 首を傾げて覗き込んでくる結衣に、八幡は視線を逸らさずに答えた。

 

「いや……なんとなくだが、らしくねぇなって思っただけだ」

 

 八幡の脳内では、演算回路が激しく火花を散らしていた。由比ヶ浜結衣という、およそ戦いとは無縁だったはずの少女が、なぜこれほどの力に目覚めたのか。動物を操り、集団の認識を歪め、そして今まさに、自分を精神から支配しようとしている。

 何より、彼女は誰かを傷つけたり、力でねじ伏せたりすることなど、最も嫌う性質の人間だったはずだ。

 

「こんなの全然、おまえらしくねぇよ」

 

 偽りのない、八幡の本音だった。その言葉が、彼女の救いになると信じていたのかもしれない。

 

「──……」

 

 その瞬間、結衣の顔から、まるで消しゴムで消されたかのように感情の色が失われた。

 先ほどまでの妖艶な笑みも、無邪気な仕草も、すべてが凍りつく。

 

「……あたしらしいって、なに?」

 

 その声は、深海の底から響くように冷たく、重い。

 それは、少女が「由比ヶ浜結衣」という記号の裏側で、ずっと、ずっと抱え続けてきた劣等感の噴出だった。

 

「……由比ヶ浜?」

「ヒッキーのいうあたしらしいって、何?」

 

 結衣の声が、低く強張っていく。それは、親愛なる友に向ける声ではなく、自身の魂を削り出すような痛みを伴っていた。

 

「やさしくて、周りに気づかいが出来て、空気が読めて……。それで、いつも損してる不器用なあたし? わがままなんて言わない、みんながイヤな思いをしないようにヘラヘラして、みんなの都合よく譲ってばかりのあたし……?」

 

 俯いた彼女の唇が小刻みに震え、紡がれる言葉には、隠しきれない『哀しみ』が毒のように混ざり込んでいく。

 

「由比ヶ浜、俺は──」

 

 そんなこと、思っていない。そう否定したかった。

 しかし、八幡の論理回路は非情な事実を突きつける。自分自身もまた、彼女を『優しいやつ』という枠に当てはめ、無意識のうちにその役割を押し付けていたのではないか。

「優しさ」という名の呪縛で彼女の心を縛り付け、都合のいい聖女として扱っていたのではなかったか。

 

「──ちがうよ、ヒッキー。あたしはそんなんじゃない」

 

 八幡の思考を見透かしたかのように、結衣がガバッと顔を上げた。その瞳は、もはや迷いも光も映さない、純粋な決意に満ちていた。

 

「あたしは、やさしくなんてない。もっとズルくて、わがままで、欲張りなんだよ。……だから、全部欲しいの」

 

 結衣の瞳の色が、深い哀しみから、禍々しい輝きへと変質していく。

 

「ヒッキーの心も、ゆきのんの心も、一つも残してなんかやらない。諦めてなんかやらない。……だからあたしは、全部自分のものにするよ」

 

 一歩、彼女が踏み出す。その瞬間、床がミシリと軋んだ。

 

 ──どんな手を使ってでも。

 

 彼女の瞳が紅く、鮮血のように輝き始めた。それは、少女が「由比ヶ浜結衣」という仮面を完全に砕き、愛という名の深淵に住まう魔女へと成り果てた瞬間だった。

 八幡の電子頭脳が、かつてない強度の警告信号を全回路に発信した。

 視界が真っ赤なエラーログで埋め尽くされ、脳を直接万力で締め付けられるような激痛が走る。

 

「っ……が、あ……!」

 

 八幡が呻き声を上げるのと同時だった。

 今まで平然と談笑していたクラスメイトたちが、糸の切れた人形のように、次々に机や床へ倒れ伏した。彼らの精神が、結衣から放たれたあまりに強大すぎる思念の余波に耐えきれなかったのだ。

 

「──やめろ! 由比ヶ浜!」

 

 八幡の叫びなど、今の彼女には心地よい羽音程度にしか届かない。

 結衣が瞳の輝きを強めるたび、教室の窓ガラスにピキピキと無数の亀裂が走り、耐えきれなくなった一部のガラスが爆散した。

 常軌を逸した『思念波』が、指向性を持って八幡を貫こうとするのをセンサーがキャッチする。

 それは八幡の目には、実体化した無数の「白い手」のように見えた。一斉に伸び、八幡の鋼鉄の身体を、その内側にある心ごと引き摺り出そうと襲いかかる。

 八幡はすぐさま精神防衛プロトコルを最大出力で起動した。

 バチバチと火花を散らすような音を立て、電子頭脳の外殻で結衣の強制干渉を弾き返す。だが、その衝撃は凄まじく、八幡の足元の床が重圧で陥没した。

 

「ヒッキー、ガマンしても痛いだけだよ? 諦めた方がいいよ……。はやく、楽になろうよ?」

 

 微笑みながら語りかける結衣。対して、膝を突き、肩で荒い息を吐きながら抵抗を続ける八幡。

 凄まじい干渉だ。結衣の強烈な思念は、ドリルが金属を穿つように、八幡の思考の防壁をこじ開けようと攻撃し続けている。

 このままでは、遠からず完全に支配(ジャック)される。

 

『比企谷くん、そこに留まるのは危険だ! 精神防壁が限界を超えれば電子頭脳が焼き切れる。一旦距離を置いて態勢を立て直せ!』

 

 谷博士の切迫した通信。

 八幡は歯を食いしばりながら、先ほどの衝撃で割れた窓へと視線を向けた。

 

「了解……! この場から、離脱する!」

 

 全身の運動回路が火を噴き、加速装置を起動する。

 八幡は弾丸のような速度で、粉砕された窓から校舎の外へと飛び出した。

 

「……逃がさないよ? ヒッキー」

 

 取り残された教室で、結衣は楽しそうに、そして愛おしそうに口の端を吊り上げた。

 

──捕まえてあげる。

 

 




大型連休中にいくつか投稿予定です。
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