——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
ユイちゃんが強すぎてこれどうやって倒せばいいのかなって考えてた。
ユイの周囲を超高速で旋回しながら、エイトマンは幾度となく鉄拳を叩き込もうとしていた。しかし、そのすべてが紙一重で、まるで最初から軌道を知られていたかのように虚空を切らされる。
(おかしい。いくらテレポートや超能力があるとはいえ、マッハ5の移動をここまで完璧に見切れるはずがない……)
エイトマンの電子頭脳が、違和感を猛烈なスピードで演算する。その時、彼の記憶の引き出しから、かつて平塚が熱っぽく語っていた古いアニメ『スクライド』のワンシーンが呼び起こされた。
高速移動する相手に対し、その挙動を視覚ではなく「思考の先読み」によってすべて回避するキャラクター。
(そうか。こいつ、俺のメインフレームから漏れ出る電気信号を直接読み取ってやがるんだ。動こうとする『意志』そのものを……)
正体が分かれば、対策は打てる。
エイトマンはすぐさま、電子頭脳の思考プロセスを意図的にパージし、行動の直前まで「何も考えない」という空白の状態を維持した。ただ、肉体の駆動系だけを完全にオートマチックで稼働させる。
「あら?」
ユイが、感心したように細い眉を上げた。エイトマンの踏み込みから、先ほどまで拾えていた「思考のノイズ」が完全に消失したからだ。
「少しは頭が回るみたいね。私のテレパシーを警戒して、思考を空っぽにしたわけ。──でも、そんな単純な反射だけの動きじゃ、私に決定打は与えられないわよ?」
「……フン、その通りだよ」
ユイの指摘に、エイトマンは鉄の仮面の下で不敵に拘束を解いた。
「だがな、お前が相手にしているのは、ただの機械だ。機械ならではの戦い方ってやつを、今から見せてやる」
(右腕で、顎を狙う──)
ユイのテレパシーが、エイトマンのメインフレームから漏れ出た電気信号を正確にハッキングした。先ほど思考を空っぽにされたとはいえ、攻撃の瞬間には必ず微弱な電流が走る。ユイは勝利を確信し、余裕の笑みを浮かべて身をかわそうとした。
しかし、彼女の視界に猛烈な速度で迫ったのは、銀色に輝く「左腕」だった。
「なっ……!?」
直撃の寸前、ユイは悲鳴を上げながら空間を跳躍し、十メートル後方へとテレポートした。間一髪で拳を避けたものの、その移動先の空間の出口には、すでに一対の赤い眼光が待ち構えていた。
「バカな!? 私のテレパシーを外したというの!?」
驚愕に目を見開くユイに対し、エイトマンは冷徹な機械音で告げる。
「機械ってのはな、自身のプログラムとは完全に『逆の行動』を出力パラメーターに設定できるんだ。右へ行くとメインフレームに思わせながら、物理的な駆動系には左への信号を送る。お前が読んでいたのは、俺が意図的に流した偽の電流だ」
思考と行動の完全な乖離。どれだけ心を読もうとも、出力される肉体の動きが真逆であれば、テレパシーなど何の意味もなさない。
ユイは咄嗟にサイコキネシスのパワーを右手に凝縮し、目の前のエイトマンへとかざした。
エイトマンの表面上の思考回路は「左へ回避する」と叫んでいる。ユイはその読み通り、左側の空間へ向けて全出力の衝撃波を集中させた。
だが、エイトマンの身体は、またしてもその読みを裏切り、真逆の右側へと滑り込むように避けた。
「右と思えば左に、左と思えば右に。……言葉通り、お前の目はもう俺の動きを捉えちゃいない」
会話の最中、エイトマンは思考のノイズを一切介さず、オートマチックの戦闘プログラムのみで前腕部のプラズマシューターを発射した。
完全に裏をかかれたユイは、青白いプラズマの弾丸が眼前に迫るのを見て、激しい戦慄とともに再度テレポートによる超空間への退避を試みた。しかし、その移動先にすら、すでに超高速移動を開始したエイトマンの影が、ぴったりと重なるように現れていた。
エイトマンの拳が、ユイのテレポート先を寸分の狂いもなく強襲する。
エイトマンはただ無闇に攻撃を仕掛けていたわけではなかった。戦闘が始まったその瞬間から、電子頭脳の超高速演算能力のすべてを注ぎ込み、ユイが使うテレポートの『原理』を解析し続けていたのだ。
時空を歪める際の微細なエネルギーの指向性、座標軸計算の癖、そして次元の壁を転移する瞬間に生じるわずかな時間差(タイムラグ)。そのすべてをデータ化し、未来位置の確率演算を完了させていた。
完璧に背後を捉えた──そう確信した一撃だった。
しかし、ユイは生物としての生存本能を極限まで爆発させ、計算上の限界をさらに超えた再度のテレポートを敢行した。エイトマンの拳は、あと数ミリというところで虚空を切り裂く。
大きく距離をとった高架道路の端に、ユイが再び姿を現した。
その呼吸は激しく乱れ、白磁のような額には大粒の冷や汗が流れ落ちている。紅い瞳には、初めて明確な焦燥と「恐怖」の色が宿っていた。
だが、対するエイトマンの肉体もまた、限界を迎えていた。
マッハ5を超える超音速移動と、テレポート解析のための超高速演算を連続使用した代償は重い。メインフレームの温度は臨界点を突破し、警告ログが視界を赤く染め上げていく。電子頭脳の稼働時間は、もう残りわずかだった。
「はぁ……、はぁ……っ、やるじゃない、お人形さんのくせに……」
「お前こそ……、化け物じみた執念だな……」
互いに限界が見え始め、次の激突がすべてを決する──そう直感した刹那。
ウゥゥゥゥゥン────ッ!!!
緊迫した空気を切り裂くように、けたたましいサイレンの音が鳴り響いた。
環状道路での凄まじい激突を聞きつけ、現場に雪崩れ込んできたのは千葉県警のパトカー群だった。
赤色灯が歪んだアスファルトを真っ赤に照らし出す。そこはすでに、二人の超人によって地形が変わるほどに破壊し尽くされた凄惨な戦場跡だった。
事前に警視庁捜査一課の田中課長から「現場の超常存在には深追いをせず、包囲に留めろ」との厳重な通達が入っていたはずだった。だが、目の前で繰り広げられる都心部の破壊行為を、現場の警官たちが見過ごせるはずもなかった。
「動くな! 警視庁および千葉県警だ! 両者とも直ちに戦闘を停止し、投降しなさい!」
拡声器を持った刑事が、防盾を構えた警官隊の先頭から鋭い声を張り上げる。
「来るな! 巻き込まれる、早く下がれ!」
エイトマンが拡声器の声に向けて叫ぶが、それは遅すぎた。
彼の赤いレンズが、高架上で立ち尽くす白い少女の口元が、歪に釣り上がるのを捉える。ユイはその顔を、狂気の愉悦へと染め上げていた。
「あははは! 面白い玩具が向こうからやってきた!」
ユイが哄笑と共に、警官隊へ手を向ける。
直後、異変が起きた。
後方に待機していたはずの数台のパトカーが、突如として猛烈な排気音を響かせて急発進したのだ。バックヤードを守っていたはずの鉄塊が、逃げ惑う警官たちを容赦なく蹴散らし、防盾の列へと突っ込んでいく。
「な、何をやってる! 止まれ! 中の者は正気か!?」
刑事が怒声をあげるが、フロントガラス越しに見えるパトカー内部の警官たちは、誰もが虚ろで、支離滅裂な言葉を喚き散らしながらハンドルを滅茶苦茶に回していた。
「あはははは! 撃て撃て! 殺し合っちゃえ!」
さらに、一人の警官が狂ったように顔を歪めながら、制式拳銃を味方に向けて乱射し始めた。銃声が響き渡るたびに、現場は瞬く間にパニックへと陥っていく。
「由比ヶ浜……お前、警官たちの精神を……!」
「そうよ! この子たちの脳を直接弄ってあげたの。ほら、人間同士の殺し合いって、最高に綺麗な花火でしょう?」
ユイは高架の上で狂喜の笑い声をあげ、自らが引き起こした凄惨な狂乱を、心底楽しそうに享受していた。
「やめろ、由比ヶ浜! 洗脳を解け!」
飛び交う警官たちの銃弾が、エイトマンの特殊合金のボディを激しく叩く。金属音を響かせながらも、八幡は必死にユイへと向かって叫び続けた。だが、狂乱の渦中にいるユイがその声に耳を傾けるはずもなかった。
「怪物め……っ! 死ね!」
錯乱した警官たちの中で、奇跡的に洗脳を免れていた一人の刑事が、恐怖のあまり我を忘れて叫んだ。彼は腰を抜かしながらも、高架の上で哄笑をあげるユイに向けて必死に拳銃の引き金を引いた。
パァン、パァンと、乾いた銃声が響く。
しかし、放たれた鉛の弾丸は、ユイの目前で目に見えない壁に阻まれたかのようにピタリと停止した。弾丸は空中に静止したまま、その場でおぞましく回転を始める。
「ふーん……。じゃあ、お返しね?」
ユイが冷酷に指先を弾いた。
静止していた弾丸は凄まじい速度で逆流し、恐怖に目を見開く刑事の眉間へと真っ直ぐに撃ち返された。
「しまっ──!」
刑事の命が吹き飛ぶ、その直前。エイトマンの身体は思考よりも先に動いていた。超高速移動の残光を引き裂き、彼は刑事の前にその鋼鉄の身体を捩じ込んだ。
ギィン! ギィィン!
激しい火花とともに、数発の跳弾音が環状道路に鳴り響く。なんとか間に合い、刑事の命を救うことには成功した。
しかし──その瞬間、エイトマンの全センサーが最大級の警告を発した。
刑事を庇うために完全に無防備となったその背後。ユイの紅い瞳が、獲物を仕留める獣のように爛々と輝いていた。
「あははっ、隙だらけ!」
ユイの両手から、極限まで圧縮されたサイコキネシスの破壊奔流──『サイコショック』が放たれた。空間そのものを圧殺するような不可視の衝撃波が、エイトマンの背中を真に捉える。
ドゴォォォンッ!!!
「が、は……っ!?」
背部の装甲が激しくひしゃげ、内部の駆動系から狂ったような青白い火花が飛び散る。エイトマンの巨体は凄まじい勢いで吹き飛ばされ、アスファルトを深く、長く抉りながら地上へと叩きつけられた。
『警告。背部メインフレーム大破。出力40%低下。冷却機能に致命的な不具合が発生──』
視界を真っ赤に染め上げる警告ログを、エイトマンは力任せに思考の隅へと追いやった。バチバチと激しい火花を散らし、軋む関節を強引に駆動させながら、彼は歪んだアスファルトを踏み締めてどうにか立ち上がる。
そんな満身創痍のサイボーグへ向けて、ユイが空中を滑るようにゆっくりと歩み寄ってきた。その顔には、勝利を確信した者の余裕と、冷徹な蔑みが浮かんでいる。
「あーあ、本当に無様ね。そんな有象無象を庇って、自ら勝つ見込みを捨てるなんて。やっぱり、あなたは『本物の超人』なんかじゃない。ただの、出来損ないの機械人形よ」
ユイの指先が、再び不穏な光を帯び始める。
(クソッ……、このままじゃ本当にやられる。どうすれば……!)
敗北の二文字が電子頭脳に過った、その瞬間だった。
『比企谷くん! 聞こえるかね、谷だ!』
ノイズ混じりの秘匿回線から、谷博士の切迫した声が直接脳内に響いた。
『今まで君が送ってくれた戦闘データを、こちらのメインフレームで緊急解析した。……見つかったぞ! 彼女の超能力の源泉が!』
「博士……!? 源泉って、由比ヶ浜の脳じゃないのか?」
『脳は脳だが、普通ではない。彼女の前頭葉の裏側だ。透視機能の出力を最大にしてスキャンしてみたまえ』
エイトマンは言われるがままに、視覚センサーの透視モードを最大へと引き上げ、ユイの頭部へと焦点を合わせた。
幾重ものデジタルフィルターが脳の断層を透過していく。そして──エイトマンは「それ」を発見した。
(これは……細胞じゃない。有機組織に完璧に擬態しているが……明らかな、人造の『機能(デバイス)』だ……!)
一見すると通常の脳細胞に見えるよう、極めて有機的に構成された未知のパーツ。並の医療検査やスキャンでは、絶対に発見することなど不可能な禁忌の生体インプラント。ソフィアが結衣の脳に施したという「細工」の正体こそこれだった。
『そうだ。かつてのナチスの遺産を引き継いだ魔女計画の完成形……未使用領域を強制駆動させるための『人造アンテナ』だ。ユイという人格の暴走を止め、由比ヶ浜くんを救うには、その機能を直接破壊して停止させるしかない』
「破壊するって……、どうやって! 外側から物理的に頭を殴れとでも言うのか!?」
『いや、それでは彼女の命に関わる。それを可能にするのは、君に搭載されたマシナリー同士の通信用装備──『フォノン・メーザー(音響量子レーザー)』だ。その高周波を、彼女の脳内のデバイスへ直接ピンポイントで収束照射する。それ以外に手段は無い』
博士の言葉に、エイトマンの電子頭脳が即座にリスクの計算結果を弾き出した。視界に表示されたのは、最悪の確率を示す真っ赤なエラーコードだった。
「……博士、正気か? フォノン・メーザーは本来、電子機器の通信を想定した機能だぞ。そんなものを人間の頭部にまともに照射してみろ。一歩間違えれば、デバイスごと由比ヶ浜の脳まで綺麗に消し飛びかねない……」
それは、少女の命を文字通り秤にかける、あまりにも危険すぎる諸刃の剣だった。フォノン・メーザーによる重要機能への直接照射──エイトマンにとって、それは初めての試みではない。かつてケン・ヴァレリーの補助制御脳を破壊した際、同様の手法で精密射撃を成功させている。
だが、今回はワケが違う。相手の脳内に埋め込まれているのは人造物でも、それを包むのは由比ヶ浜結衣という生身の少女の頭脳なのだ。ミリ単位の狂い、数ヘルツの出力過誤、あるいはほんの一瞬の照射時間のズレ。そのどれか一つでも起きれば、結衣の脳細胞ごとすべてを焼き尽くし、決定的な脳死をもたらすという、あまりにも大きすぎるリスクを抱えた手段だった。
しかし同時に、エイトマンの冷徹な電子頭脳は瞬時に理解していた。
今のユイの暴走を、彼女を『殺さずに』止める方法は、これ以外に存在しない。
(由比ヶ浜結衣を支配する人造の機能を直接破壊し、彼女の心を救い出す……!)
その最も効率的なアプローチを導き出すため、メインフレームが過熱を始める。
しかし、現実は非情だった。深刻なダメージを負ったこの身体で、ユイの放つ凶悪なサイコキネシスやサイコショックの猛攻を潜り抜け、さらにはあらゆる物理干渉を遮断するフォース・シールドの絶対防御を突破して、脳へピンポイントにアクセスするなど至難の業。左腕を切り離して遠隔操作するような奇策も、二度目は通用しないだろう。
だが、エイトマンは思考を止めない。演算能力をフル回転させ、絶望的な数式を書き換え続ける。ただ一瞬、その絶対防御に「隙」を生み出すための回答を求めて。
(提示しろ……! 由比ヶ浜を助けるための、ただ一つの正解を……!!)
秒間数兆回に昇る演算回路が、メインフレームの臨界点で青白い火花を散らす。すべては『由比ヶ浜結衣』ただ一人のために。いまのエイトマンは、かつて雪ノ下雪乃のために己の全機能を限界突破させた、あの時と同等──いや、それを遥かに凌駕するほどの狂気的な執念と力を発揮しようとしていた。
──そして。
電子頭脳の最深部で、すべてのパズルが噛み合う。演算が、完了した。
全機能を解放し、由比ヶ浜結衣を必ず助け出す。
エイトマンの執念が生み出した渾身の逆転ロジックが、ついに鉄の身体に火を噴かせた。
『
電子頭脳の無機質なコードが走った瞬間、エイトマンの脚部が爆発したかのように火花を散らした。
ドォォンッ! と空間を震わせる爆音とともに、彼の身体は一気に超音速の壁を突破する。背後の装甲から軋む悲鳴を上げながらも、エイトマンは再び銀色の流星となり、高架上のユイの周囲を猛烈な速度で旋回し始めた。
「あら、まだそんな元気があるなんてね。でも、またワンパターンの加速? 学習能力のないお人形さんには、本当にがっかりだわ」
ユイは冷たい嘲笑を浮かべ、旋回する銀色の軌跡を紅い瞳で追おうとする。だが、その嘲笑に対して、大気を引き裂く駆動音の隙間からエイトマンの通信音声が返ってきた。
「……たとえワンパターンでもな、極限まで突き詰めりゃあ……バカにはできねえもんだ!」
マッハ5を軽々と超え、スピードはさらに跳ね上がる。マッハ7、マッハ10──。
そして、エイトマンの肉体はついに禁断の領域、最高速マッハ15へと到達した。
ギィィィィィィンと空気を無理やり引き裂く、鼓膜を圧するような金属的音響が響き渡る。もはや視認することすら不可能な速度で、銀色の壁と化したエイトマンの旋回は止まらない。流石にその異常すぎる速度と、一向に攻撃を仕掛けてこない奇妙な挙動に、ユイの表情からも余裕が消え、不審の色が混じりはじめる。
(何を企んでいるの……? 攻撃もしてこないで、ただ回っているだけなんて──)
だが、ユイがそう思考した瞬間、彼女の周囲の気圧に劇的な変化が現れた。
マッハ15という狂気の極超音速回転。それが周囲の大気を強引に巻き込み、凄まじい上昇気流を生み出していたのだ。異常なまでに発達した空気の流れは、見る間に凶悪な『渦』を形成し、周囲の瓦礫を巻き込みながら、高架道路の真ん中に巨大な『竜巻』となって出現した。
激しい暴風が吹き荒れる渦の中心で、ユイは吹き飛ばされないよう超能力を誇示し、その場に平然と留まってみせる。そして、髪を激しくなびかせながら、狂ったように笑った。
「これがあなたの切り札!? 馬鹿馬鹿しい! この程度の竜巻、テレポートを使えば容易に脱出できるわ!」
ユイは嘲笑を浮かべ、即座に空間を跳躍しようとした。
しかし。次の瞬間、彼女は自身の肉体に、これまで経験したことのない奇妙な違和感を覚える。
(……な、に……? 体が……重い……?)
続いて、激しい目眩がユイの脳髄を襲った。視界がぐにゃりと歪み、繊細な精神集中を必要とするテレポートの発動が、強制的に中断される。
ユイはまだ気づいていなかった。自分がすでに、エイトマンがその命を賭して張り巡らせた、科学という名の『罠』に完全に囚われていることに。
(まさか……、そんな……っ!)
気づいた時には、すべてが手遅れだった。
思うように息が吸えない。肺が引きちぎられるような感覚と同時に、割れるような頭痛、そして激しい吐き気がユイを襲った。
超音速を遥かに超えたマッハ15の超高速旋回。それが生み出した猛烈な上昇気流は、渦の中心にある大気を強制的に吸い上げていた。急激な気圧低下によって体積あたりの酸素量が極限まで薄くなり、その領域は地上にいながらにしてデスゾーンと化していたのだ。
ユイの生身の肉体は、今、急激かつ深刻な『高山病』の症状に陥っていた。
「は……っ、あ、ガ、ゲホッ……!!」
あまりの息苦しさに、ユイは喉を掻きむしりながらうめき声をあげた。
如何に無敵を誇るフォース・フィールドであっても、それは外界からの物理攻撃やエネルギーを遮断する壁に過ぎない。生身の生物である以上、生きるために必要な「酸素」そのものの供給を封じられては、どんな超能力も形を成さなかった。
「テ、レポ……ー……っ」
たまらずこの空間からの離脱を試みようとするが、それすらも叶わない。ほんのわずかな時空の座標計算を行うための方程式が、酸欠によって混濁していく脳内では霧散してしまうのだ。空気の牢獄に囚われた破壊の天使から、すべての自由が奪われていく。
そして、ついにユイが力なくアスファルトへと膝を着いた。
鉄壁の魔女に生じた、千載一遇の「一瞬の隙」。
嵐を生み出す特異点から見下ろすエイトマンの紅い双眸が、その瞬間を完全に捉えていた。
「由比ヶ浜ァアアッ!!!」
大気を引き裂く咆哮とともに、エイトマンは自らが全霊を懸けて作り上げた極超音速の竜巻から飛び出した。
酸欠と低気圧の檻によってアスファルトに膝を着くユイ。その無防備な両肩を、エイトマンは上空からの慣性を乗せて強固に掴み取った。
間髪入れず、額の電子レンズを彼女の額……脳内デバイスへ焦点を合わせる。
だが、発射される寸前のフォノン・メーザーを感知し、ユイが血の涙を流さんばかりに紅い瞳を見開いて睨み返してきた。
「死ね!! エイトマン!!!」
絶対の窮地に陥ったユイが、その生存本能のすべてを最大増幅させて放った不可視の波動──。
全方位を圧殺する精神衝撃波『サイコブレイク』が、至近距離から直接エイトマンのボディに叩き込まれた。
バリバリバリバリィッ!!!
全身を内側から粉々に粉砕せんと、凶悪な波動がエイトマンの内部回路を駆け巡る。特殊合金の装甲が歪み、制御を失った青白い火花が四肢から激しく噴き出した。メインフレームが破壊の衝撃に悲鳴を上げる。
しかし──エイトマンは、彼女の肩にかけた両手を、指一本たりとも離さなかった。
(たとえ、このまま粉微塵に砕け散ろうが……二度と離すかよ……!)
エイトマン……比企谷八幡が、由比ヶ浜結衣というたった一人の存在を救いたいと心から願う時、その胸に宿る執念は、破壊の権化である超能力の出力すらも遥かに凌駕していた。
決して砕かれない鋼鉄の魂。
激しい火花と衝撃の渦中で、エイトマンの額に内蔵された通信用装備が臨界出力を迎える。
次の瞬間、エイトマンの額から放たれた不可視の音響量子波──フォノン・メーザーの閃光が、ユイの額を真っ直ぐ、正確無比に射抜いた。
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