——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第二章:マシーナリーズ・プレリュード
第九話:The Power of Seven


 

 夏休みを目前に控えたある日の朝。

比企谷八幡の「ブレックファースト」は、いつものようにマックスコーヒーの暴力的な甘さを回路に流し込むことから始まった。

 リビングのテレビから流れるニュースが、彼の電子頭脳(ブレイン)にノイズのような不快感を投げかける。

 

『――先日、米国国防総省が世界初の戦闘ロボット軍の設立を発表しました』

『現在、カメラがその姿を捉えています! 砂塵の向こう側に並ぶのは、十体ほどの鋼鉄の兵士でしょうか』

『ロボット導入により、紛争地域での人的被害を劇的に抑えられると期待されています。また、負傷兵に対するサイボーグ技術の転用も加速しており――』

 

 画面に映し出される、無機質な軍用ロボットの行進。八幡はそれを、ただ黙って見つめていた。

 

「お兄ちゃん、テレビにかじりついてどうしたの?」

 朝食を運んできた小町が、不思議そうに八幡の顔を覗き込む。

「……んー? ああ、別に。アメリカさんも景気がいいなと思ってな」

 

 生返事をしながら、八幡の脳裏には、自分を救った恩人である谷博士の姿が浮かんでいた。白髪に白髭を蓄えた、偏屈だが正義感の強いあの老人が、かつて怒りとともに言い放った言葉が今でも鮮明に響いている。

 

『科学技術は、戦争兵器の奴隷であってはならない』

 

 それは科学に携わる者としての、魂の叫びだった。

 だが、その願いを嘲笑うかのような別の声が、同時に記憶の底から這い上がってくる。海浜幕張の職場見学で遭遇した、あの初老の科学者――ナイト・デーモンの歪んだ笑みだ。

 

『完全なる平和は、完全なる力によって保たれる』

 

 当然のように言い放ったあの顔には、言い知れぬ悪意と、兵器に対する異常なまでの好奇心が渦巻いていた。

 

「なーんか、嫌な予感がすんだよな……」

 

 八幡の独り言は、マックスコーヒーの空き缶を置く金属音にかき消された。

 彼の高性能なセンサーは、日常の裏側で確実に何かが軋み、壊れ始めている音を捉えていた。平和を謳うロボット軍。ロシアから来た科学者。そして、自分という存在。

 それらが一つの線で繋がった時、平穏な青春という名の擬態は、音を立てて崩壊するに違いなかった。

 

──

 

 学校へ着いても、八幡の胸中に去来する不安は消えなかった。

 部室の扉を開けると、そこにはいつものように雪ノ下雪乃が座っていたが、その手にあるのは文庫本ではなく、最新の技術動向を伝える科学雑誌だった。

 

「比企谷君、あなたも今朝のニュースを見たかしら?」

 

 雪ノ下は顔を上げずに問いかけた。

 

「ああ。アメリカのロボット兵士だろ。流行りのハイテクってやつか」

「流行り、で済めばいいのだけれど。谷製作所の名前が、あの一件の裏で囁かれているという噂があるわ。……もちろん、出所不明のネットの書き込みに過ぎないけれど」

 

 雪ノ下の鋭い視線が八幡を射抜く。

 八幡は首筋の排熱スリットが微かに開くのを感じた。谷博士が軍事利用に加担するなどあり得ない。だが、デーモン博士のような存在が、博士の技術を、あるいは「エイトマン」のデータを狙っているとしたら話は別だ。

 

「……ま、俺たち高校生が心配したところでどうにもならねえよ。職場見学も終わったし、あとは夏休みをいかにボッチで満喫するかを演算するだけだ」

 おどけて見せる八幡だったが、彼の内部メモリには、今朝見た「十体のロボット」のシルエットが焼き付いていた。

 それらは、まるで何かを待っているかのように、静かに、そして冷酷に立っていたのだから。

 

──

 

「お兄ちゃんってさー、夏休みに誰かと遊ぶ予定とかある?」

 

リビングに響く小町の声に、八幡はマックスコーヒーを口に運ぶ手を止めた。

 

「お前、分かってて聞いてるなら相当性格悪いぞ……。小町ポイント大幅減点だ」

「えー、でも最近は雪乃さんや結衣さんと仲良くなってるじゃん。奉仕部だっけ?」

 

仲良く、だと?

 八幡は心の中で自嘲した。小町の目は節穴だ。俺とあいつらは、あくまで同じ部活という閉鎖回路に閉じ込められた構成員に過ぎない。友達なんていう、生ぬるく、かつ脆弱なプロトコルで繋がっているわけではないのだ。

 

「そんなこと言っちゃって。ほんとはどっちがタイプなの? 小町的には、しっかり者の雪乃さんなら安心してゴミいちゃんを任せられるけどー、結衣さんみたいな尽くすタイプもなかなか……」

「ねーよ。少なくともあいつらに、そんな気持ちは一ミリも存在しねえ」

 

 断言する。あの雪ノ下雪乃が、比企谷八幡という腐った、あるいは鋼鉄に置き換わった存在に好意を持つなど、万に一つもあり得ない。

 では、由比ヶ浜は……?

 

「……」

 

 改めて演算しようとして、八幡は思考のデッドロックに陥った。

 そういえば、あいつはなぜ俺と普通に喋っているのだ。事故を経て再登校した初日に、マックスコーヒーを奢られた程度の希薄な接点しかないはずだ。それなのに、なぜあんなにも距離を詰めてくるのか。

 

「……お兄ちゃん、もしかしてまだ気づいてなかったりする?」

 

 小町が、呆れたような、あるいは哀れむような視線を投げかけてくる。

 

「……何が」

「結衣さんってほら、例の『お菓子の人』だよ」

 

 おかしな人? そりゃあいつは単細胞で、そのくせヘタレな、確かにおかしな奴ではあるが。

 

「ちがう! バカ! お兄ちゃんが事故った時の!」

 

 小町の声が一段と大きくなる。

 

「あの時の犬の飼い主が、結衣さんなの!」

「ああ、そうなのか」

 

 八幡は、記憶の深層にある「あの日」のデータを検索した。

 舞い散る桜、飛び出した犬、そして迫り来るトラックの衝撃。鋼鉄の身体を手に入れる前の、脆弱な「比企谷八幡」が死んだ日。

 

「……え?」

 

 検索結果と現状が合致した瞬間、八幡の内部回路に火花が散った。

 マジか。

 

「おい、お前それ何で知って……つーかお菓子って何?」

「お兄ちゃんが入院してる間に、家に菓子折り持ってきてくれたんだよ」

「そーいうことはちゃんとだな……って俺、菓子食ってないんですけど」

 

 もっとも、その時点ではもう菓子を摂取する必要などなくなっていたのだが、それでも目前の小悪魔がしでかしたことは腑に落ちない。

 いや、そんなことはどうでもいい。それより問題なのは。

 

(俺は、あいつが原因で――)

 

 死んだってのか……?

 検索結果と現状が合致した瞬間、八幡の内部回路に火花が散った。

 鋼鉄の身体を手に入れる前の、脆弱な「比企谷八幡」が物理的に消滅したあの日。舞い散る桜の中、飛び出した犬を追いかけてきた飼い主。

 

「でもさー、よかったよね。骨折ったおかげで結衣さんみたいな可愛い人と知り合えたんだから」

「……」

「お兄ちゃん? どしたの?」

「――あー、そうだな……」

 

 骨どころか、命まで折っている。

 本来なら、怒ってもいいはずだ。あの事故がなければ、自分は今頃、卑屈ではあっても温かい血の通った「人間」として、平穏なボッチ生活を謳歌していたはずなのだから。

 だが。

 何も思い浮かばない。

 怒りも、恨みも、電子頭脳が弾き出す感情のシミュレートには現れなかった。

 ただ、自分の身体を構成するハイマンガン・スチールの冷たさだけを、再認識させられるような感覚。

 八幡は無言で立ち上がり、登校の準備を始めた。

 

 放課後、奉仕部の部室。

 比企谷八幡の電子頭脳(ブレイン)は、今朝小町から聞かされた「パケット」の解析で飽和状態に陥っていた。

 目の前に座る由比ヶ浜結衣。彼女が放つポジティブなエネルギーが、今はノイズのように八幡のセンサーを刺激する。彼女が明るく振る舞えば振る舞うほど、八幡のメインメモリには「この女のせいで俺は死んだ」という冷徹な事実が点滅し続けた。

 

「それでね! 歴史の点が前より上がったんだよ! やっぱりゆきのんと一緒に勉強したからかな?」

「ふぅん」

 

 八幡の生返事は、もはや合成音声のテストパターンのように無機質だった。

 

「次のテスト期間の時はヒッキーも誘ってあげるから一緒にやろ?」

「うん」

「……んんっ! あともうすぐ夏休みだけどヒッキーって時間空いてる?」

「うん」

 

 会話が成立していない。雪ノ下雪乃が文庫本から視線を上げ、不審そうに八幡を凝視する。由比ヶ浜も、期待を込めた表情を次第に曇らせていった。

 

「ねぇ、ヒッキー話聞いてた!?」

「んぁ?」

「由比ヶ浜さん、この男は最初から生返事よ」

 

 雪ノ下が冷たく断じるが、八幡の視線は空中を漂う塵の軌跡を追うばかりだった。

 

「だよね!? ヒッキーひどい!! なんか今日変だよ!!」

「ん」

「ん、じゃない! ヒッキーのばか!」

 

 痺れを切らした由比ヶ浜が、手近にあった消しゴムを投げつけた。

 超音速移動装置(スーパーソニック・ムーブメント)を搭載した八幡にとって、放られた消しゴムは止まっているも同然だった。

 

 パシッ。

 

 視線すら向けず、八幡は二本の指で消しゴムを完璧に捕らえた。

 

「んな……」

「とぼけた顔してとんでもないことするわね、あなた……」

 

 雪ノ下の驚きも、由比ヶ浜の困惑も、今の八幡には遠い世界の出来事のように感じられた。由比ヶ浜が、もどかしげに八幡の腕へ手を伸ばす。袖に触れる寸前まで迫った彼女の指を――。

 

「……やめろよ」

 

 やんわりと、しかし鋼鉄のような確固たる拒絶を持って、八幡はその手を遮った。

 

「――っ!」

 

 一瞬、由比ヶ浜は信じられないものを見たという表情をし、次の瞬間、くしゃりと泣きそうな顔に歪んだ。

 その表情(データ)をスキャンした瞬間、八幡の胸中に激しい後悔が火花を散らす。なにをやってるんだ、俺は。

 

「あ……」

「……ごめん」

 

 先に謝罪したのは由比ヶ浜だった。

 違う。謝らなければならないのは、俺の方だ。俺が飛び出したから、お前は無事で、その代わりに俺は……。

 

「その、由比ヶ浜」

「……帰るね」

 

 由比ヶ浜は逃げるように部室を後にした。八幡は、自分の指先に残る彼女の体温の残滓を感知しながら、その背中をぼうっと見送ることしかできなかった。

 なぜあんな態度をとったのか。本当は、電子頭脳が答えを弾き出している。

 自分の死の原因が、すぐ隣で笑っていた少女だったという事実。それをどう処理し、どんな顔をして接すればいいのか、八幡には分からなかった。だから目を逸らし、境界線(パーソナルスペース)への侵入を拒んだのだ。

 

「あなた、今日はどうしたの?」

 

 雪ノ下の声には、珍しく苛立ちが混じっていた。

 

「別に」

「由比ヶ浜さんとなにかあったの?」

「別に」

「……会話する気がないのはわかったけれど、そのままの態度は癇に障るわね」

 

 雪ノ下の追及を「あそ」という二文字で切り捨てる。

 由比ヶ浜は、八幡がエイトマンになったことを知らない。ただの怪我で済んだと思っている。その無知が、そして自分の正体が、八幡をさらに孤独な暗渠へと追い込んでいく。

 

「重症ね……ここまで適当に返されたのは初めてだわ」

 雪ノ下は怒りを隠そうともせず、乱暴に本を閉じた。

「今日は終わりにするわ。帰ってもいいわよ。というより、帰りなさい」

「ん」

 

 八幡は椅子を引き、無言で立ち上がった。

 10万キロワットの出力を誇る自分の足が、今はひどく重く、地面にめり込みそうな感覚だった。

 

鞄を持ち上げて奉仕部の戸を開く。

 西日の眩しい色に染まった廊下が眼前に映り、八幡は思わず顔を顰めた。

 半ば追い出される形で出てきてしまったが、さて、これからどうしようか。

 

(……謝るべきなんだろうな)

 

 元々自分から犬を助けに入って轢かれたのだ。死んだっておかしくなかったのに飛び込んだのだ。完全に自業自得じゃないか。それなのに今更誰かのせいにしようとしている。

 

「情けない」

 

 八幡は呟いた。

 

「明日……そうだ、明日だ。明日謝ろう」

 

 それがいい。ケータイはあるが、こういう時にどんな文章を送ればいいのか、今の腐りきった演算回路では導き出せない。間違って変なことを書きそうだ。

 明日全部謝ろう。謝って、それですっぱり終わりにしよう。それが一番良いはずだ。

 

 一番、平和で――。

 

「……ん?」

 

 角を曲がると、廊下の奥に規格外の制服を着た大柄な男子生徒が立っていた。

 その体躯は、クラスのあの図体だけはでかい……名前なんだっけ、財津? 財前? いや、材木座か。とにかくあいつを優に上回り、無駄のないがっしりとした体格をしている。

 

(でかいな……二メートルくらいあるんじゃないか?)

 

 あれほどの巨体なら目立つはずだが、見たことがない。あんな奴学校にいたっけか……?

 男子生徒は廊下の奥でジッとこちらを見ている。まるで巨木のようにぴくりとも動かず、その生気のない顔で――。

 

「……восемь(ヴォースィミ)……」

「――!!」

 

 瞬間、男子生徒の姿が「消えた」。

 

 ドッ!!

 腹部に恐ろしいまでの衝撃が走り、八幡の身体がくの字に折れる。

 

「が……!?」

 

 腹に、男の手が「突き刺さって」いる。

 並みの人間ならその一撃で貫かれ絶命していただろう。八幡が耐えられたのは、この体を包むハイマンガン・スチールの装甲があったからに他ならない。

 それよりも聞き捨てならない言葉を、目の前の「怪物」は発した。

 восемь(ヴォースィミ)――ロシア語で「8番目」を意味する数字。

 

「……っ! なんだ、お前……!」

 

 ギシリと軋む腹に突き刺さる手を掴みながら、八幡は男を睨みつけた。

 鉄筋に触れたような感触。握る手に思わず力が入る。この時点で八幡の握力は100kgを超えているはずだが、怪物は変わらず生気のない目でこちらを見続けている。

 

「なんとか……言えっ!!」

 右の手刀を、怪物の左側頭部に叩きつける。

 手加減なしの一撃。成人男性の頭をスイカのように破壊し、ボウリングの球すら粉砕する威力。だが。

 

「……」

 

奴は、それを平然と受け止めていた。

 

「嘘だろ……」

 

 機械の体に、嫌な汗をかいたと錯覚した。

 

「восемь……Уничтожить(ウニシトージチ:破壊する)」

 

 映画の場面が切り替わるかのように、怪物がその本性を現した。

 そいつは一言でいうなら「無骨」だった。八幡の変身体とは違う、強靭な手足を持った巨体。血のように真っ赤な胸部装甲。

 八幡(エイトマン)が洗練されたスポーツカーなら、こいつは重装甲車だ。

 だが、根っこの部分では自分と同じ――血の通わない機械。

 

「……!!」

 

 思考よりも速く行動を起こす。奴から飛び退き、距離を開けるとともに加速装置を起動。一瞬のうちに音速に到達し、八幡の姿が虚空に消える。

 そして。

 

「……」

 

 変身を終えた「エイトマン」の姿がそこにあった。

 だが、ここは校舎の中。下手に暴れれば被害が拡大する。八幡が躊躇した、その刹那。

 

 ブォン!!

 

「――うおっ!?」

 

 いきなり殴りかかってきやがった。

 奴は無表情のまま次々と攻撃を仕掛ける。どれも大振りだが、空を切る音がただならぬ威力を表している。必死に避ける八幡に対し、奴はショートレンジの打撃に切り替えてきた。

 

(間に合わねえ――!!)

 

 避けたところに蹴撃が襲いかかる。咄嗟に腕をクロスさせガードするが――。

「ぶ、ぐおっ!!」

 ガードを突き破り、蹴りが顔面に直撃した。

 

 電子頭脳に警報が鳴り響く。

 

『危険危険危険危険危険危険危険』

 

 一撃で、最も硬い頭部装甲に亀裂が入った。奴の攻撃は、エイトマンを物理的に破壊できる出力を持っている。

 加速装置をフル稼働させ、一気に距離を取ろうとするが――!

 ――奴が、真横に並走してきた。

 

「な……」

 失念していた。奴も持っているのだ。自分と同じ「加速装置」を。

 気づいた時には遅かった。万力のような腕が八幡の右腕を掴む。

 

 次の瞬間、ブチブチとケーブルが断線する音を立て、奴は八幡の腕を紙細工のように「引き千切った」。

 

「があああああ――!!」

 

 加速中に急激にバランスを崩し、八幡は廊下を滑るように倒れ込んだ。摩擦熱がハイマンガン・スチールを焼き、凄まじい火花が散る。

 なんとか左手をついて立て直すと同時に、前方の闇を見据える。そこには、八幡の腕を無造作に持ち、冷たい電子の双眸でこちらを見つめる怪物の姿があった。

 

(……まずい。ぶっ壊される)

 

 その時、廊下のスピーカーから、聞き覚えのある不気味な声が響いた。

 

「どうだ08号。007(セブン)の力は」

 

 海浜幕張で出会った、あの狂科学者の声だった。

 剥き出しになった光ファイバーが火花を散らし、八幡の視覚センサーにノイズが走る。

 右腕があったはずの場所を左手で押さえ、彼は荒い息――冷却システムが限界に近い音を立てる。廊下には、引き千切られたばかりの自分の腕が、無機質な部品として転がっていた。

 廊下のスピーカーから、あの忌々しい老人の声が響く。ナイト・デーモン。海浜幕張で出会った、悪意の塊のような科学者だ。

 

「……ナイト、デーモン……!」

「いかにも。改めて挨拶しよう。私はナイト・デーモン。君の、いわば『兄弟』を連れてきたよ。そいつはアメリカの連中が開発して持て余していた失敗作でね。私が独自に、より『実戦的』に調整してやった」

 

 デーモンの解説に合わせるように、赤い装甲の怪物――007号が、ゆっくりと歩み寄ってくる。

「能力はシンプルだ。君と同程度の加速装置、そして君を圧倒するパワー。余計な機能も、無駄な思考回路も積んでいない。ただの暴力の塊だよ。……実験にはもってこいだと思わないかね?」

「実験、だと……? こんなところで、何をしやがる……!」

「何、単純なことだよ。この大規模建造物である高校を使って、007の『破壊数値』を測定させてもらう。この程度の校舎、007が本気を出せば数分で瓦礫の山だ。ついでに、かつての同級生たちの悲鳴もデータに取れれば最高だねぇ」

 

 スピーカーから聞こえる狂った笑い声。だが、その笑い声の裏側に、八幡の電子頭脳はもう一つの「真実」を演算していた。

 

「……いや、違うな。あんたの目的はそれだけじゃないだろ」

 

 八幡は痛みを堪え、ギロリとスピーカーを睨みつけた。

 

「007の調整なんてのは前座だ。あんたの真の狙いは……谷博士が作り上げた『エイトマン』の、本当の性能(スペック)を引き出すことだ。そうだろ?」

 

 一瞬、スピーカーの向こう側で笑い声が止まった。

 

「ククク……やはり察しが良いね、八番目(ヴォースィミ)。その通りだ。平和主義者の谷が、その最高傑作にどんなリミッターを設けているのか……それを外すには、絶望的な破壊と、大切なものを失う恐怖を与えるのが一番効率的だ。君が怒り、本気で007を殺そうとした時、初めてエイトマンの真価が暴かれる」

 

 八幡の脳裏に、部室に残してきた雪ノ下の険しい顔や、今しがた泣きそうな顔をさせた由比ヶ浜の姿が浮かぶ。彼女たちは、博士にとって「リミッターを外すための道具」に過ぎないというのだ。

 

「……ふざけんな」

 

 八幡の喉から、今までになく低く、冷たい声が漏れた。

 電子頭脳の論理回路が、生存本能よりも優先される「怒り」によって上書きされていく。10万キロワットのエネルギーが、右腕を失った不完全な回路に逆流し、機体全体が激しく震動を始めた。

 

「実験台なら、俺一人で十分だろ。……余計な連中を巻き込むんじゃねえよ」

 

 バチバチと右肩から火花を撒き散らしながら、八幡は立ち上がった。超音速移動装置の出力を、安全圏を超えた「レッドゾーン」へと叩き込む。

 

「ほう。片腕で立ち向かうというのか? 滑稽だね、八番目(ヴォースィミ)」

「滑稽で結構だよ。……ボッチってのは、守るもんが少ねえ分、それに対する執着は異常なんだよ」

 

 八幡の姿が、夕闇の廊下から完全に消失した。

 残されたのは、ソニックブームによって粉々に砕け散った窓ガラスの破片と、怒りに震える鋼鉄の咆哮だけだった。

 エイトマンとセブン。

 鋼鉄の兄弟による、放課後の死闘が幕を開ける。

同時に、二体の姿が廊下から消えた。

 

 超音速移動装置(スーパーソニック・ムーブメント)。そのスイッチを「レッドゾーン」まで叩き込んだ八幡の視界から、色彩が剥ぎ取られていく。

 世界は限りなく静止に近づき、音という概念はマッハの壁の向こう側へと置き去りにされた。

 

 超音速の世界は、限りなく無音。

 そこは、ミリ秒単位で更新される視覚データのみが真実となる、刹那の戦場だ。コンマ数秒の判断ミス、あるいはわずかな演算の遅れが、即座に

「死」という名の物理的破壊を招く。

 

「……ッ!!」

 

 八幡は、残された左腕を突き出し、007(セブン)の胸部へと鋭い掌打を放った。

 だが、その手応えは絶望的だった。ハイマンガン・スチールの拳が、重装甲車の前面装甲にぶつかったような鈍い衝撃。八幡の左腕が、反動で痺れるように震える。

 右腕を失った代償は、あまりに大きかった。

 攻撃のバリエーションは半減し、何より超音速移動における空気抵抗のバランスが極端に崩れている。機体は常に右側へと流されようとし、姿勢制御のために貴重な演算リソースが奪われていく。

 一方で、007の動きは対照的だった。

 そのスピードとパワーは、明らかにエイトマンの性能を一段階凌駕している。奴が踏み出すたびに、校舎の床が衝撃波に耐えきれず、クレーターのように弾け飛んだ。

 

 ドッ!!

 

 奴の巨大な拳が、八幡の横顔をかすめる。

 ただのストレート。ボクシングの基礎さえなっていない、力任せの殴打。

 だが、掠めただけで八幡の光学センサーはノイズを吐き、外装の強化プラスチックが粉々に吹き飛んだ。

 

(……パワーもスピードも、向こうが上か)

 

 八幡の電子頭脳が、冷徹な生存確率を弾き出す。

 007の戦い方は、極めてお粗末だ。技量など微塵もない。ただ、生まれ持った圧倒的なスペックを暴力として振るっているに過ぎない。

 しかし、だからこそ恐ろしい。

 一撃。たった一撃でもまともに喰らえば、八幡の機体は、比企谷八幡としての意識ごと、ただのスクラップに成り果てる。

 

「――――」

 

 007が無言のまま、猛烈な蹴撃を繰り出した。

 八幡は空中で左腕と足を交差させ、コンビネーションアタックによる防御と反撃を試みる。

 左足で奴の膝を弾き、生じた隙に左拳を叩き込む――はずだった。

 ガキン!!

 八幡の攻撃は、奴の装甲を凹ませることすら叶わない。

 逆に、奴の無造作な振るいにより、八幡の体はボールのように廊下の壁へと叩きつけられた。

 

「ぐ、あああ……っ!!」

 

 壁が崩落し、粉塵が舞う。

 たとえマッハ2で動こうと、この怪物から逃げ切ることはできない。

 デーモン博士が言った通りだ。これは実験(テスト)なのだ。

 圧倒的な「力」を前に、谷博士が八幡に施した「リミッター」がどこまで耐えられるか。あるいは、絶望の中で何が覚醒するのかを見定めるための。

 八幡は、瓦礫の中からゆっくりと立ち上がった。

 右肩から吹き出す火花が、青白い光を夕闇の廊下に撒き散らす。

 

(……技がないなら、こっちで作るまでだ)

 

 比企谷八幡の、ひねくれきった思考回路。

 正面から勝てない相手に、搦手(からめて)で立ち向かうのはボッチの専売特許だ。

 鋼鉄の少年は、欠けた右腕を晒したまま、再び超音速の闇へとその身を投じた。

 

その時、偶然あるいは必然ともいうべきか。

 二体の鋼鉄の巨神が撒き散らす衝撃波と、窓ガラスを粉砕する轟音が、部室に残っていた「日常」を呼び寄せてしまった。

 

「……何事かしら、この騒ぎ――」

 

 廊下に顔を出したのは、雪ノ下雪乃だった。

 だが、彼女が目にしたのは、慣れ親しんだ総武高校の風景ではなかった。瓦礫が舞い、火花が散り、空気が熱を帯びて歪む地獄絵図。そして、その中心で対峙する二体の、人間ならざるモノの姿。

 雪ノ下の瞳が、スローモーションのようにゆっくりと見開かれる。

 一方、007(セブン)の思考は極めて単純(シンプル)だった。任務は、エイトマンに真の性能を発揮させること。そのためには、目の前の人間を破壊することが最適解だと導き出した。

 

「――――」

 

 007が、雪ノ下に向かって猛然と突き進む。その動きに迷いはない。鋼鉄の拳が雪ノ下の華奢な体を砕こうと、マッハの速度で振り上げられる。

 

「やめろぉぉぉ!!」

 八幡が加速する。だが、電子頭脳が非情な計算結果を弾き出した。

 

『到達予測:間に合わない。対象(雪ノ下雪乃)の生存確率は0.02%以下です』

 

(ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな!!)

 

 八幡の胸中に、かつてない激しい焦燥が渦巻いた。

 

 まだ、何も失っていない。この歪で、居心地が悪くて、それでいてかけがえのない奉仕部の日常。雪ノ下が毒を吐き、由比ヶ浜が笑い、俺がマックスコーヒーを啜る。そんな当たり前の景色を、今ここで失うことへの、耐え難いほどの恐怖。

 

『警告:論理回路に致命的なエラーを検知』

『解析:未知の心理的負荷(焦燥・恐怖)による演算リソースの浪費。これは非論理的であり、機体維持に有害な「異常」です』

 

 電子頭脳の冷徹なアラートが視界に走る。システムは、八幡の「心」が生み出した必死の祈りを、ただのノイズ、排除すべきバグとして処理しようとしていた。

 

「異常だと……? ああそうだよ、俺の人生はいつだって異常だったよ!!」

 

 八幡の叫びは、音声スピーカーではなく電子頭脳の深淵で響いた。

 

(バグだってなんだっていい……。失ってたまるか……。こんなところで、あいつを終わらせてたまるかよ!!)

 

 電子頭脳の最深部、そこには谷博士が施した強固な壁があった。谷博士が施した強固な壁――人倫を守るための『第7リミッター』が重厚な鉄の扉のように立ちはだかる。エイトマンを制御下に置き、八幡の精神が「兵器」へと変質するのを防ぐための、冷徹な論理の牢獄。

 八幡は己の精神を剥き出しの拳に変え、その見えない障壁を、ありったけの意志を込めて叩きつけた。

 ガリ、と回路が悲鳴を上げる。バチバチと、脳内で火花が散る。

 システムが「異常」と断じるその焦燥こそが、今の八幡を突き動かす唯一のエネルギーだった。科学が「不可能」と定義する境界線を、人間としての執念が、恐怖を糧にした怒りが、境界線を力ずくでこじ開けていく。

 

(壊れろ……! 壊れろ! 壊れろぉぉぉぉぉ!!)

 

 一度、二度、三度。論理という名の装甲が、八幡の「守りたい」という剥き出しのエゴに叩かれる

 

(壊れろぉぉぉぉぉ!!)

 

 八幡の精神の咆哮が、電子頭脳の基幹システムを叩く。

 叩いて、叩いて、

 そして──

 

 ――ガギィィィン!

 

 脳内を埋め尽くしていた冷徹な警告音が、粉砕された鉄扉の音と共に消失した。比企谷八幡の「人間の意志」が、谷方位の作り上げた「機械の理」を暴力的に凌駕し、その扉を文字通り叩き壊した瞬間だった。

 

 論理が、意志に屈した。

 

 その瞬間、脳内の暗黒に封印されていた漆黒のゲートが、怒りの熱量で内側から爆ぜた。

 

『致命的なシステム損壊を検知。……回避不能。リミッター強制解除(オーバーライド)』

『警告:精神波(サイコパス)の急上昇を確認』

『第7リミッター、物理切断(カットオフ)』

『禁忌プロトコル:亡き息子の残響(エコー・オブ・ケン)、強制接続』

 

 八幡の視界が真紅に染まる。全身を巡る液体冷却材が沸騰し、背中の排熱シャッターが限界まで開放され、凄まじい蒸気が噴出した。

 谷博士が、エイトマンを「人間」に留めておくために設けていた最後の人倫という名の安全装置(セーフティ)が、比企谷八幡の「誰かを守りたい」というひねくれたエゴによって焼き切られたのだ。

 

『極超音速移動装置起動《ハイパーソニック・ムーブメント・スタート》』

 

 加速が限界を超えたその刹那、八幡は奇妙な感覚に包まれた。

 猛烈な圧力を持っていたはずの空気が、今はまるでぬるま湯のように、あるいは深い青色を湛えた水のように、緩やかに感じられる。

 

(なんだ、これ……。まるで空気の海をかき分けて行くかのような……)

 

 マッハ15の世界。完全な流体制御により、機体表面に摩擦熱すら発生させない究極の航法。雪ノ下の睫毛が微かに震えるその僅かな時間の中で、八幡だけが、その「空気の海」を優雅に泳いでいた。

 

 雪ノ下の睫毛が一度瞬くよりも短い、0.0001秒の刹那。

 

 007の拳が雪ノ下の鼻先に触れる寸前、八幡の左拳が奴の側頭部へと吸い込まれた。マッハ15の慣性エネルギーを乗せた、渾身の一撃。

 

 ドォォォォォォン!!

 

 爆音は、一拍遅れて響いた。007の巨体が、一瞬にして廊下の奥へと消し飛ばされる。

 静寂が戻る。

 雪ノ下の目の前には、右腕を失い、全身から青白いプラズマの残光を放つ「鋼鉄の男」が立っていた。

 究極の流体制御のおかげで、エイトマンとしての姿を保ったままだ。擬態用の皮膚は消失しておらず、そこにあるのは、凛とした気品を感じさせる青年の顔だった。

 

「……あ、……あな、たは……?」

 

 雪ノ下の震える声。彼女の瞳には、自分を救った見知らぬ「青年」への困惑と、圧倒的な存在への畏怖が混ざり合っていた。あまりの出来事に、彼女の明晰な頭脳ですら、目の前の青年がクラスメイト本人であるという結論を出すには至らない。

 

 八幡の電子頭脳が、正体が守られたことを告げる。だが、目の前の雪ノ下の、今までに見たこともないような「縋るような眼差し」を見て、八幡の論理回路に説明のつかないノイズが走った。

 

(……助かった、のか。俺も、あいつも。この性能(スペック)のおかげで、比企谷八幡としての日常を晒さずに済んだ……)

 

 八幡は無言のまま、残された左腕で顔を隠すようにして、再び超音速の領域へとその身を隠した。

 残されたのは、夕闇の廊下と、立ち尽くす雪ノ下雪乃、そして彼女の足元に転がった一本の、飲み干されたマックスコーヒーの空き缶だけだった。

 

──

 

 極超音速(ハイパーソニック)。

 

 それは現代軍事科学において最も到達困難であり、かつ最も切望されている聖域だ。

 推進システムの限界、機体制御の不安定さ、そして何より移動に伴う猛烈な熱と衝撃波の処理。世界中の国家が巨額の予算を投じてもなお、完全な制御には至っていないその領域を、比企谷八幡という一人の少年を依代(よりしろ)としたマシンは、いとも容易く、かつ完璧にクリアして見せた。

 

 ——総武高校から数キロ離れた、闇に紛れる移動指揮車両の中。

 大型モニターに映し出された、マッハ15という狂気じみた数値を、ナイト・デーモン博士は凝視していた。

 

「極超音速だと……? バカな、地表付近で、しかも周囲に一切の被害を出さずに……!」

 

 デーモンの声が震えていた。それは恐怖ではなく、圧倒的な「真理」を目撃した者の、魂の震えだった。

 

 モニターの中で、エイトマンは空気の壁を切り裂くのではなく、文字通り「手懐けて」いた。あのボディに備わった流体制御理論。空気の流れを自在に操り、自らを加速の渦へと昇華させるその設計は、かつてヴァレリーと呼ばれ、今は谷方位と名乗っているあの男の最高傑作であると確信した。

 

「素晴らしい……! 実に素晴らしいよ、谷博士!!」

 

 デーモンは狂ったように笑い声を上げた。

 究極の限界点において自らリミッターをこじ開け、兵器として一段階先に進んだエイトマン。それは完成された機械ではなく、極限状態において自己更新(アップデート)を繰り返す『進化する兵器』としての可能性。

 

 これだ。これこそが、私が追い求めていたものだ。

 デーモン博士は、生まれて初めて生き甲斐というものを感じていた。自らの想像を上回る天才と、その最高傑作。それを自らの科学技術で打ち破り、解体し、すべてを暴き出すこと。

 

「もっと見せてくれ、エイトマン! 君の限界がどこにあるのか、私の科学がどこまで通じるのか……実験したい、試したい、壊してみたい……っ!!」

 

 狂奔するデーモンの指が、キーボードの上を踊る。

 

 モニターには、校舎から離脱しようとするエイトマンの熱源反応。

 

「行け、スパイ・ボール! 一瞬も逃さず、あのマシンの挙動を記録しろ。データの欠落は許さない!」

 

 闇の中から、数十個の微細な浮遊観測機(スパイ・ボール)が射出された。それらは音もなく、夜の空気の海を泳ぎながら、満身創痍で谷製作所へと向かうエイトマンの後を追う。

 

 

──

 

 

「……あ、……あな、たは……?」

 

 雪ノ下の震える声。彼女の瞳には、自分を救った見知らぬ少年の貌(かお)への困惑と、圧倒的な存在への畏怖が混ざり合っていた。

 八幡の電子頭脳は、過熱(オーバーヒート)の警報で埋め尽くされていた。マッハ15という極限の加速。禁忌のプロトコル『亡き息子の残響』。それらがもたらした負荷は、強靭なハイマンガン・スチールの骨格さえも内側から融解させかねない熱量を帯びていた。

 

 返答する余裕すら、今の八幡にはない。

 彼は無言のまま、残された左腕で顔を隠すようにして、再び超音速の領域へとその身を隠した。

 だが、その加速に、かつての軽快さはなかった。

 右腕を失ったことによる重心の狂い。そして、冷却システムの限界を超えた熱気が、彼の意識――人間としての比企谷八幡の領域――を、じりじりと焼き焦がしていく。

 

(……くそ、マックスコーヒーを……飲む、余裕さえ……)

 

 視界が急速にノイズで埋め尽くされていく。

 校舎を離れ、人目を避けて飛び込んだ闇の中で、八幡の膝が不自然な金属音を立てて折れた。

 地面に叩きつけられる衝撃。だが、それを痛みとして処理する回路すら、今の彼には残っていない。

 電子頭脳の各セクターが、生存のための強制シャットダウンを次々と開始していく。

 

「……あ、あ…………」

 薄れゆく意識。

 深い、深い闇の底へと沈んでいく感覚の中で、八幡の脳裏に最後に浮かんだのは、デーモン博士の狂気でも、谷博士への感謝でもなかった。

 それは、あの時

 突き放し、傷つけてしまった少女の顔。

 部室で、今にも泣き出しそうに、それでも必死に彼を繋ぎ止めようとしていた――由比ヶ浜結衣の、あの泣き顔だった。

 

(……悪い、由比ヶ浜。……謝ろうと……思って、たんだ……けどな……)

 

 謝罪の言葉は、熱を帯びた電子の渦の中に消えた。

 比企谷八幡の意識は、完全な沈黙へと没した。

 静まり返った夜の闇。

 上空では、デーモン博士の放ったスパイ・ボールが、死んだように動かない鋼鉄の少年の姿を、無機質なレンズで捉え続けていた。

深い、深い闇の底へと沈んでいく比企谷八幡の意識。

 メインプロセッサが過熱により沈黙し、生存のための強制シャットダウンが完了しようとしたその瞬間、休止状態にあった「予備電子頭脳」が火を吹くように起動した。

 

『緊急事態:メインプロセッサの機能不全を検知』

『生存プロトコル:バックアップ回路へ移行』

『深層メモリより最終イメージを抽出……解析完了』

 

 停止寸前の八幡の脳裏に過っていたのは、謝りたいと願った少女、由比ヶ浜結衣の泣き顔だった。予備電子頭脳はそのイメージを「最優先の擬態目標」として誤認し、残された全エネルギーを注ぎ込んで分子配列の再構築を開始する。

 ――バチバチッ、と青白い火花が散る。

 闇の中に倒れていた鋼鉄の少年の輪郭が、陽炎のように揺らぎ、膨らみ、そして全く別の形へと収束していく。

 移動指揮車両の中で、その光景をスパイ・ボール越しに見ていたデーモン博士は、椅子から転げ落ちんばかりに身を乗り出した。

 

「な……っ、なんだと……!?」

 モニターに映し出されていたのは、ボロボロの比企谷八幡ではない。

 そこに横たわっていたのは、夜の闇に紛れるようなピンクの髪を乱し、苦悶の表情を浮かべる一人の少女――由比ヶ浜結衣の姿だった。

 

「比企谷八幡ではなかったのか……? いや、今の変身(メタモルフォーゼ)は一体なんだ。あのマシンには、物質の分子構造すら書き換える機能が備わっているというのか!」

 

デーモンは歯噛みした。彼はエイトマンの正体を比企谷八幡だと断定し、その日常を破壊するシミュレーションを終えていたのだ。だが、目の前の現実はそれを真っ向から否定している。この時点でのデーモン博士は、エイトマンが「あらゆる人間に、一瞬で、自由自在に変身できる」という、物理法則を無視した究極の隠蔽機能を持っていることをまだ知らない。

 

「状況が不確定すぎる。……ええい、マシンの回収は後だ! まずは損傷した007を確保する。あのマッハ15のデータを解析し、対策を練らねばならん!」

 

デーモンは忌々しげにスパイ・ボールの操作を切り替え、大破した007が突き刺さっているグラウンド方面へと車両を急がせた。

 しかし、彼が去った直後。

 無防備に横たわる「由比ヶ浜(八幡)」を捉えていた最後の一機のスパイ・ボールの前に、音もなく「影」が降り立った。

 それは、擬態皮膚を一切纏わない、鈍い銀色に輝くプロトタイプ・ボディ。

 エイトマンの原型であり、谷博士自らが、この非常事態のために自らの意識を転送して操る「もう一体の鋼鉄の男」だった。

 

「……私の最高傑作に、あまり不躾な視線を向けないでもらおうか、デーモン」

 

 プロトタイプ・ボディの無機質な眼光が、スパイ・ボールのレンズを真っ向から射抜く。

 谷博士の手がゆっくりと差し伸べられ、レンズ越しにデーモンを威圧するかのようにスパイ・ボールを握りつぶした。

 

 直後、モニターが砂嵐に変わる。

 谷博士は、意識を失ったまま少女の姿で眠る八幡を静かに抱き上げた。

 

「すまない、八幡くん。君にこれほどの荷を背負わせるつもりはなかったのだが……」

 

 博士は夜の風を切り、極超音速の残光を残して、自らの秘密研究所へと消えていった。

 




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