——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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これで魔女エスパー編もとい、第六章は終わりです。


第八十五話:しあわせの叫び

 

 また、ここか……。

 

 気がつくと、エイトマンの冷たい鋼鉄の感触は消え失せ、見慣れた比企谷八幡の姿へと戻っていた。

 だとしたら、ここは現実の世界ではない。自身の精神が揺蕩(たゆた)う、深層意識の領域なのだと八幡は直感的に理解する。

 かつてケンの補助制御脳にアクセスした時のように、他人の精神世界に入り込むのは初めての経験ではなかったが、いつまで経っても慣れるものではないと八幡は内心で毒づいた。ここは間違いなく、由比ヶ浜結衣の精神世界だった。

 しかし、そこに広がっていたのは、いつもの彼女の明るさからは想像もつかない、どこまでも陰鬱な灰色の世界だった。

 その中心。

 色を失った灰色の大地に、ぽつんと佇む存在がいた。

 由比ヶ浜結衣は、現実のあらゆる物事から逃げるように深く顔を伏せ、膝を抱えて小さくうずくまっていた。

 

「……由比ヶ浜」

 

 ここにいたのか、と八幡は静かに声をかける。

 その声に、結衣の身体がぴくりと微かに震えた。だが、それ以上の返事は返ってこない。

 八幡はうずくまる彼女を目の前にして、どう言葉をかけるべきか、にわかに立ち尽くした。

 ソフィアの実験、ユイというもう一つの人格の暴走、そして現実世界の過酷な真実に打ちのめされ、ここに逃げることでしか自らの心を保てなかった少女に対して、一体どんな言葉をかければ彼女の心に届くというのか。

 

 ──だが、ひどく都合のいい思い上がりかもしれないが、八幡はある一つの可能性に思い当たっていた。

 

 もしかしたら、彼女は誰にも見つからない場所へ逃げたわけではないのかもしれない。

 こうして此処に居るということは……。

 本当は自分に、見つけてもらえる事を望んでいたのではないか、と。

 それは、八幡自身も痛いほど心当たりがあることだった。

 逃避や隠遁、心を閉ざして殻に閉じこもるという行為は、裏を返せば「誰かに自分を見つけ出してほしい」という、不器用で悲痛なメッセージにもなり得る。

 結衣は残酷な現実から逃れるために深層意識へと逃げ込み、心を閉じてユイに表層を明け渡してしまった。だが、こうして彼女の深層へと足を踏み入れたことで、八幡にはなんとなくだが理解できた。

 

 結衣はまだ、すべての心を完全に閉ざしてしまったわけではないのだということを。

 

 沈黙が、音もなく灰色の世界を包み込んでいく。

 八幡は意を決して、一歩、また一歩と結衣の元へ近づいて行った。

 

「こないでよ……」

 

 不意に、膝を抱えたままの結衣が、ポツリと拒絶の言葉を呟いた。

 その声の低さに八幡は一瞬だけ歩みを止めたが、迷いを振り払うように再び足を動かし、ついにうずくまる結衣のすぐ側までたどり着いた。

 確かに拒絶の言葉は口にされた。だが、こうして目の前まで近づいても、彼女はこれ以上どこかへ逃げ出そうとはしなかった。その姿は、まだ自分の話を聞く余地を残してくれているように思えた。

 

「由比ヶ浜、俺、今から勝手に喋るから」

 

 だから、八幡は告げた。

 自分が何を考えているのか、彼女に何を伝えたかったのか。言葉にして伝えるにはあまりにも重く、大きすぎる出来事ばかりだったが、それでも今は、たとえどれほど不器用であっても、自分の言葉で一つ一つ語る必要があると確信していた。

 灰色の静寂が広がる世界で、八幡は静かに話し始めた。

 

「まず、今まで俺に起きたすべてのことを、お前に黙っていたことを謝らせてくれ。……すまなかった」

 

 ぽつりぽつりと紡がれる八幡の声は、いつもより少し低く、どこか震えていた。

 

「それから、いつの間にか俺の正体を知られてしまっていて……それでも、変わらずに俺と接してくれたこと、本当に感謝してる。ありがとな」

 

 結衣が知ってしまった通り、あの日の真実を八幡は包み隠さず口にする。あの日、サブレを庇って車に轢かれ、一度完全に命を失ったこと。そして、完全な機械の身体となって生き永らえていること。

 

「奉仕部にお前が入って、しばらくしたある日、偶然お前があの事故の原因だってことを知った。……正直に言う。一時は、お前との関係を拒絶しそうになった。自分の死の原因であるお前との繋がりを、すべて断ち切ってしまおうとしたんだ」

 

 膝を抱える結衣の背中が、一瞬だけびくりと大きく跳ね上がった。八幡は自らの醜い葛藤を誤魔化すことなく、曝け出すように言葉を重ねる。

 

「でもな……憎いとか嫌いとか、どうしてもそんな気持ちにはなれなかった。それどころか、一度お前を拒絶して酷いことを言ってしまった自分のことを、ずっと、死ぬほど後悔した」

 

 八幡は一歩、結衣の隣へと腰を落とした。目線を同じ高さに合わせ、けれど無理にその顔を覗き込もうとはせず、灰色の空を見上げながら独白を続ける。

 

「デーモン博士の手からお前を助け出した次の日、俺はお前に謝ったよな。……あの謝罪の、本当の理由を今から言う」

 

 八幡は自嘲気味に、けれどこの上なく真摯に言葉を絞り出した。

 

「お前があの事故の加害者側だからとか、そんな大層な理由じゃない。……ただの俺の我儘だ。由比ヶ浜結衣っていう一人の女の子に、嫌われたくないって……心底そう思っちまったからだ」

 

 八幡の飾らない、泥臭い本音の独白が、灰色の閉ざされた世界に優しく響き渡っていった。

 

「──最初はさ、大嫌いだったんだよ、お前のこと」

 

 灰色の静寂が広がる深層意識の世界で、八幡のどこかぶっきらぼうな声が静かに転がった。

 

「自分とは全く関わりのない、リア充側のスクールカースト上位にいるお前の存在が、鬱陶しくてしょうがなかったんだ。そんな陽キャの権化みたいなやつが、奉仕部に相談に来るなんて何の冗談だとも思っていたしな」

 

 膝を抱えて丸まっている結衣の指先が、かすかにピクリと動く。八幡は自嘲気味に息を吐き出し、言葉を続けた。

 

「だけど、それは全部、俺の勝手な思い込みだった。自分が一番嫌だと感じていたはずの『レッテル貼り』を、俺自身が由比ヶ浜、お前に向けてやってたんだよ。お前が他人の顔色や周囲の空気に誰よりも敏感で、それですごく繊細な心を持ってるなんて、当時の俺は思いもしなかった」

 

 八幡は少しだけ言葉を詰め、恥ずかしさを誤魔化すように視線を泳がせる。

 

「そんなお前が、俺の思いもよらない一面を持っていることが、いつの間にか……何故か好意的に思えたんだ。雪ノ下と仲良くしようと空回りしながら頑張る姿は微笑ましかったし、たまにウザかったけど、決して悪い気分じゃなかった」

 

 灰色の空を見つめながら、八幡は自分の心が外へと開かれていった足跡を辿る。

 

「俺が偏見で周囲を見ているってことに気づくきっかけをくれたのは、他でもないお前だ。お前がいたから、あのカースト上位の葉山のグループにだって、それ相応の思いや悩みがあるってことを知れた。陽キャには陽キャの悩みがあり、それに触れて、少しは理解出来るようになったんだよ」

 

 八幡は一歩、うずくまる結衣の側へと近づいた。

 

「もし、俺に『外の世界』というものがあるならば、そこに目を向けるようになったのは、全部お前のおかげだ。……それは俺だけじゃない。雪ノ下だってそうだ。あいつが内向的な世界から外に目を向けるようになったのも、お前が奉仕部にいてくれたからなんだよ」

 

 だから、と八幡は独白の芯に強い熱を込める。

 

「俺がお前にどれだけ助けられたかを考えればさ。あの日、あのまま死んで終わりだったより、エイトマンになって、こうしてお前に会えたことの方がずっといいって、本気で考えることができた。だから……俺が死んだことは、もうそれほど気にしちゃいないんだ」

 

「……だから、今の俺はお前に嫌われたくないって思ってる」

 

 八幡がそう語り終えた時。

 

「でも……っ……」

 

 頑なに顔を伏せていた結衣が、震える声を絞り出すようにして、ゆっくりと口を開いた。

 結衣の肩が、激しく上下に揺れ始める。

 

「ヒッキーが死んじゃったのは、あたしのせい……っ。あたしがバカだったから、あたしのせいでヒッキーは人間じゃなくなっちゃった……! ずっと、誰にも言えなくて、小町ちゃんにも……っ。あたしが、ヒッキーの普通の生活を、全部、壊しちゃったんだ……!!」

 

 大粒の涙が、色を失った灰色の大地に次々と吸い込まれていく。

 頭を抱えて震える結衣の姿を、八幡は黙って見つめていた。彼女がどれほど重い罪悪感をその小さな背中に背負い込んできたのか、そのすべてを拒絶せず、ただ静かに受け止める。

 そして、再びゆっくりと口を開いた。

 

「確かに、お前のせいで俺はとんでもない身体になった。その事実は消せねえよ。……でもな、最近はこの身体ともそれなりに折り合いをつけられるようになってきたんだ。それまで本当に、色々とありすぎたからな。お前ならわかるだろ? この一年、死ぬかと思うようなこともたくさんあったけど……」

 

 八幡は少しだけ言葉を区切り、自らのメモリー──電子頭脳の記憶領域へと意識を向けた。

 

「決して、それだけじゃないんだ」

 

 自分と同じ機械の怪物たちとの死闘の日々。様々な悪意と対峙する日々。そんな過酷な現実が確かにあった。だが、それ以上に八幡のメモリーに深く刻まれた日々は、物理的に色褪せることなく、永遠の輝きを持って記録に残っていた。

 

「小町以外で、女子と夏祭りに行ったのはお前が初めてだった。あと、色々な理由をつけてお前と買い物に行くたびに、服や髪を整えるのは……まぁ、割と面白かった。お前との何気ねえ会話が楽しいって、俺は本気で思えたんだよ」

 

 結衣は、比企谷八幡の普通の生活が壊れたと泣く。だが、八幡にとっての「普通の生活」は、他ならぬ結衣が隣にいてくれたからこそ、形を変えて今もずっと続いていた。

 自身の死という最悪の結果から生み出された結衣との繋がり。それは、死という冷厳な事実すらも打ち消すほど、八幡の心に温かな灯りを灯し続けていた。

 

「俺は、お前とは……もっと話をしたいと思っている。そして、それはこんな灰色がかった世界じゃなくてさ」

 

 八幡は喉に詰まりそうになる言葉を、必死に、けれどはっきりと紡ぎ出す。

 

「奉仕部のあの部室で……今はちょっと寒いけど、雪ノ下が淹れてくれた茶でも飲みながら、ゆっくり話がしたいんだよ」

 

 言いながら、八幡は自分の顔がみっともなく真っ赤に沸騰しているのを自覚していた。だが、これが偽らざる本心だった。単純に、結衣ともっと話がしたかった。彼女との関わりを、ここで消してしまいたくはなかった。

 

 ──結衣と過ごした毎日は、紛れもない『本物』であったから。

 

 精神世界のはずなのに、冷や汗が止まらなかった。

 自分にしてはいくら何でも格好をつけすぎではないだろうか。紡いだ言葉の気恥ずかしさが時間差で押し寄せ、八幡は居ても立ってもいられなくなり、逃げるようにその場から立ち上がった。

 だが、不意に背後からグイと引っ張られる感触に、八幡は足を止めざるを得なかった。

 振り返り、視線を落とす。結衣の小さく震える手が、八幡の制服の裾をぎゅっと掴んでいた。

 

「でも、あたしもう、普通の人間じゃないんだよ……?」

 

 結衣は顔を伏せたまま、消え入りそうな声で呟いた。

 

「いっぱい人を傷つけた。今も表の世界で、取り返しのつかないことをやってる……。今のあたしに、もう一人のあたしを止めるなんてできないよ」

 

 裾を掴む彼女の手は、弱々しく、哀れなほどに震えていた。

 ソフィアによって与えられた超能力という名の魔力。それに魅入られ、己の欲望の赴くままに力を奮い、破壊の限りを尽くしているもう一人の自分──ユイ。すべては、現実の痛みに耐えかねて引きこもってしまった、自分の弱い心が招いたことなのだと、彼女の背中が悲痛に訴えていた。

 

「お前全部の責任ってわけじゃねえよ」

 

 八幡は自嘲気味に目を伏せた。

 もっと早く、彼女の抱えていた歪みに気づいてやるべきだったのだ。彼女を無惨な死の淵へと追いやり、この絶望の底へと突き落とした原因の一端は、間違いなく自分にもある。

 

「だが、まだ全部が終わったわけじゃない」

 

 八幡はゆっくりと腰を落とし、裾を掴んでいた結衣のその小さな手を、今度は自分の手でしっかりと握りしめた。冷え切った彼女の指先に、八幡の確かな体温が伝わっていく。

 

「お前がダメだと諦めても、俺が……なんとかする。……だから、もう一度立ち上がってくれないか」

 

 差し伸べた手はもう離さない。八幡は結衣の目を真っ直ぐに見据え、はっきりとそう告げた。

 まだ、ここからすべてを解決できるチャンスは残されている。だが、肝心の結衣自身が『救われたい』『助かりたい』と願わなければ、八幡がいくら手を伸ばしても、その光が彼女の深層に届くことはない。

 握りしめる手に、ぐっと力が籠る。

 すでに手は取った。あとは結衣自身が、救われることを諦めない気持ちをもう一度持つことができれば、この冷たい灰色の世界から抜け出すことができるはずだった。

 

「ここに来るまで、ずいぶん遅くなっちまったけど……」

 

 八幡は言葉を噛み締めるように、一言一言を彼女の心へと届ける。

 

「もう一度、俺と一緒に来てくれ。由比ヶ浜」

 

 再び、しんと静まり返った沈黙が世界を包み込んでいく。結衣は激しく波打つ呼吸を少しずつ整えながら、八幡に握られた自分の手をじっと見つめていた。

 どれほどの時間が流れただろうか。

 

「……一つだけ、聞いていい?」

 

 長い沈黙の果てに、結衣がポツリと、掠れた声をこぼした。その瞳はまだ伏せられたままで、八幡の顔を見ることはない。

 

「ヒッキーにとって、あたしってなに?」

 

 灰色の世界の中心で、彼女の震える問いかけだけが、静かに響き渡った。

それは、結衣がこれまで何度も聞こうとして、そのたびに「ズルい言葉だから」と心の奥底に閉じ込めてきた問いだった。

 なぜなら、その質問はあまりにも自分勝手で、卑怯な言葉だと分かっていたから。

 口にしてしまえば、告げられた相手──八幡の心を特定の関係に限定させてしまうか、あるいは致命的な否定の言葉を突きつけられることになる。どちらにせよ、その答えを聞き届ける勇気が、今までの結衣にはどうしても持てなかった。

だが、自分の心に土足で踏み込んできた彼の言葉が、魂の最深部で繋がってしまった今、結衣はもう「逃避」という選択肢が残されていないことに気づいていた。

 世界から、そして八幡から目を背け、逃げ続けた結果としてこの深層意識の底まで辿り着いた。これ以上逃げる場所など、この世界のどこにも存在しない。そして八幡は、そんな最果ての場所まで自分を追いかけてきた。そうして、本当の気持ちを全部告げたのだ。

 

 しかし、まだ一番肝心なことを聞いていない。

 

 だからこそ、結衣は逃げるのをやめ、その問いを口にした。

言葉に詰まるだろう。結衣がそう思ったその問いへの答えは、しかし、予想よりも遥かに早く返ってきた。

 

「……怒るなよ……」

 

 前置きする八幡の声は、照れ隠しのように少しだけぶっきらぼうだった。

比企谷八幡にとっての、由比ヶ浜結衣という存在。

 最近、そのことについて考えることがあまりにも多かった。新学期早々から付き合っているだのなんだのと周囲から噂を流され、そして、今回のこの凄惨な事件。

 それらすべての出来事は、今まで八幡が曖昧に濁し、漠然と目を背け続けていた結衣に対する答えを、明確に整理する決定的なきっかけとなっていた。

 もうこれ以上、自分自身の心から目を背けることはできなかった。

 だからこそ、今、彼女から突きつけられた問いかけに、八幡はまっすぐ正面から答える。

 

「俺は、お前のことが好きだった」

 

 灰色の世界を揺るがすように放たれた、偽りのない、たった一つの回答。

 

「────嘘」

 

 結衣は、縋るような目をほんの少しだけ動かし、小さく首を振った。

 

「嘘じゃねえよ」

「嘘だよ……。だって、ヒッキーは……ヒッキーの本当に好きな人は……っ」

 

 結衣の心に駆け巡るのは、自分のかけがえのない親友である一人の少女の姿だった。

 比企谷八幡が本当に心を奪われ、その魂を捧げる相手は、この世で一人しかいない。そんなことは、誰よりも自分が一番よく分かりきっていた。だから、これはきっと、傷ついた自分を救うために彼が用意してくれた、優しい嘘のはずだった。

 

 ──でも。

 

(嘘じゃない……。ヒッキー、本当に、嘘をついてない……)

 

 気づいてしまう。だって、ここは他でもない、由比ヶ浜結衣の心の中そのものなのだから。

 ユイの力によって構築されたこの最深部において、比企谷八幡が心にもない偽りの言葉を口にすることなど、システム的にも感情的にも絶対に不可能なのだ。ここで響いた彼の声には、一切のノイズが混ざっていなかった。

 

「好きだった」という、未来へ一歩進むために区切りをつけた過去形。それでも、確かに自分のことを特別に想い、愛おしんでくれていたという、あまりにも純粋で、あまりにも誠実なその事実。

 

「あ……、っ……」

 

 頑なに閉ざされていた灰色の世界に、ぽつぽつと本当の光が差し込んでいく。

結衣の目から、溢れんばかりの涙が、今度は後悔や絶望ではなく、「涙が出るほど嬉しい」というあまりにも温かな感情とともに、ボロボロと零れ落ちた。

 

「──泣くなよ、お前……」

 

 灰色の世界に、八幡の珍しく困ったような、ひどく慌てた声が響いた。

 その声に、結衣はゆっくりと膝の間から顔を持ち上げた。目元を真っ赤に腫らし、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、精一杯引き攣った顔で笑顔を作ろうと頑張る。その健気で、けれどあまりにも不格好な姿に、八幡は申し訳なさを覚えつつも、思わず少しだけ目元を緩めた。

 

「泣かしたの、ヒッキーのせいでしょ……」

「言わせたの、お前のせいだろうが……。こんな所で、言うつもりなかったのにな……」

 

 八幡はバツが悪そうにガシガシと頭をかきむしり、完全にそっぽを向いてしまった。だが、その耳の裏まで真っ赤に染まっているのが丸見えで、結衣は胸の奥を激しく締め付けられながらも、泣きながら小さく吹き出してしまった。

 

(あぁ……やっぱり、ヒッキーだ。私の大好きな、ヒッキーだ……)

 

 けれど、結衣は同時に、切ないほどの真実に気づいてしまう。

 自分を「好きだった」と言ってくれた彼の言葉に、嘘は一切ない。けれど、彼が彼女──雪ノ下雪乃に対して抱いている特別な想いは、きっとこの世のどんな『言葉』を使っても表現できない性質のものなのだ。言葉に表せてしまう自分への感情とは、根本的に違う場所にある、名前のない絆。

 世界中をどれだけ探しても、彼が雪乃を想う心を喩える言葉は見つからない。機械の身体になろうとも、その不器用でへそ曲がりな魂のあり方は、どこまでも比企谷八幡という存在そのものだった。

 

 でも、だからこそ、結衣は笑って、自分の持てる言葉のすべてを彼に差し出そうと思えた。

 

「あたしも、ヒッキーのことが──」

 

 言葉に表せてしまう想いだからこそ、今、この綺麗な言葉で伝えたかった。

 

「ヒッキーが、好き」

 

 すとん、と胸の仕えが落ちるような感覚とともに、結衣は最高の告白を灰色の世界に残した。

 八幡は静かに目を細め、握っていた手にそっと力を込める。

 

「……立てるか?」

「うん」

 

 結衣は力強く頷き、今度は自分の方から、彼の大きな手をしっかりと握り返した。

 

「もう、大丈夫なのか?」

 

 手を握りしめたまま、八幡が心配そうに結衣の顔を覗き込んできた。

 

「なんとか、ね」

 

 結衣はふんわりと微笑んでみせる。かつてのような、弾けるような明るさや元気はまだそこにはない。けれど、重ねた手のひらから以前よりもずっと確かな暖かさが伝わってくるのは、彼女の心が本当の温もりを取り戻したからだろう。

 気がつけば、二人を囲んでいた果てしない灰色の世界が、ほんの少しだけ鮮やかに色付き始めていた。

 

「でも……もう少しだけ、このまま手を握っていてほしいかも」

「……しょうがねぇな」

 

 八幡はぶつぶつと言いながらも、繋いだ手に優しく、けれど力強く力を込めてくれる。たったそれだけのことなのに、結衣の胸の奥には、冷たい現実へと立ち向かうための勇気が、不思議なほどに湧き上がってきた。

 

「これから、この場所を壊す。お前を元の場所に連れて戻して、表の人格から、あのユイってやつを消滅させる」

 

 八幡の淡々とした、しかし絶対の信頼をおける説明を聞きながら、結衣は静かに頷いた。

 もう、恐れなど何もなかった。彼がこうして、ずっと隣で手を握ってくれているのだから。

 

「やめ、ろ……」

 

 だから、自分たちの背後から不穏な声がかけられた時も、結衣は取り乱すことなく自然とそれを受け入れることができた。

 

「やめろ……!!」

「ユイ……」

 

 振り返った結衣の視線の先。そこには、顔を醜く激しく歪ませ、肩で荒い息を繰り返しながら叫ぶ『もう一人の自分』が立っていた。

 

「おまえ、わかっているのか? 全部なくなるんだぞ!?」

 

 ユイは狂ったように声を震わせ、激しい拒絶を露わにしながら結衣を指差した。

 

「せっかく手に入れた超能力が! 人間を超えた力が! 全部なくなるんだぞ!? また……何も出来ないちっぽけな存在に戻るんだぞ!?」

 

 その瞳から大粒の涙を流しながら、ユイは狂気的な叫びを灰色の世界に響かせる。

 

「雪ノ下雪乃なんか遥かに及びもつかない場所に、私たちはやっとたどり着いたのに! また全部失ってもいいのか!? おまえは!?」

 

 息を荒げて捲し立てるユイの姿を、結衣はただ悲しげに見つめていた。

 罵倒し、縋り付くように叫ぶ目の前の少女──それは紛れもない自分自身の心の欠片だった。由比ヶ浜結衣という一人の女の子が、現実の奉仕部で、日常の中で、無意識のうちにずっと押さえ込んでいた『本物の気持ち』そのものだった。

 

「知っている……知っているんだぞ!」

 

 ユイは頭を抱え、さらに声を荒げる。

 

「私はお前だ。お前のことは私が一番よく知っている……。お前はいつも周囲の顔色を伺ってばかりだったじゃないか! ごっこ遊びでいつもなりたい役になれない! えらそうな奴に席を譲って、ひだまりからコソコソ惨めに影に引っ込んでた! いつもいつもいつも! 我慢してばっかりじゃないか!? そうやって貴重な人生の時間をすりへらし、せっかく見つけたすきな男まで他人にゆずって……!」

「……あたしに、勇気が無かったから」

 

 結衣は静かに目を伏せ、その痛切な指摘を真っ直ぐに受け止めた。

 

「そうだ! お前がいつまでたっても、他人を押しのけてでもしあわせになろうとしないから! だから私が、お前のかわりにやろうとしたんじゃないか! なぜ、じゃまを、し、た、の……」

 

 ユイの身体が、内側から激しく刻み込まれたフォノン・メーザーのダメージに耐えかねて、がくんと崩れ落ちた。真っ白な光のノイズが、その四肢を苛烈に侵食していく。

 

「あたしは、しあわせになりたい……。しあわせに、なりたい! なのに、どうして、いちばんしあわせになれないの……。せっかく、ヒッ、キー……すき、って、いえ、たのに……」

 

 その姿はあまりにも痛々しく、悲しい由比ヶ浜結衣の願いの残骸だった。白く輝く粒子となって、足元からさらさらと崩壊していくユイ。

 結衣は繋いでいた八幡の手を一度緩め、その背中を振り返った。

 

「ヒッキー……」

「ああ……行ってこい」

 

 八幡は短く、けれどどこまでも優しい声で頷いた。

 結衣は、消えゆくもう一人の自分、愛おしい自分のエゴを引き取るために、崩壊していく白いユイの元へと真っ直ぐに駆け寄っていった。

結衣は、眩い光の粒子に包まれながら崩れていく、真っ白なユイを強く抱きしめた。

 

「やだ……しにたくない。きえたく、ない……」

 

 結衣の腕の中で、ユイはまるで迷子の子どものように泣きじゃくりながら、自らの消滅を恐れて怯えていた。その姿に、結衣の目からも大粒の涙が溢れ出す。

 

「消えないよ。あなたは、あたしなんでしょ?」

 

 二人は互いを抱きしめ合ったまま、激しく泣いていた。他人の顔色を伺い、自分の「しあわせ」を求め続けて歪んでしまった心が、鋭い痛みとなって結衣の胸を刺し貫く。

 

「あたし、ちょっとガマンしすぎちゃったんだよね……。だから、あなたをこんな目に遭わせちゃったんだよね。ごめんね。あたしなのに、あたしのことを一番大事に出来なくて……。あなたに、ずっと気づいてあげられなくて」

 

 自分の本当の気持ちに気づくということは、自分自身に目を向けること、そして自分と真っ直ぐに向き合うことに他ならない。

 ユイという名の肥大化した本心──苦しみ、叫び、しあわせを渇望していた自分自身の心を目の当たりにしたことで、結衣はようやく、本当の意味で自分の心と向き合うことが出来たのだ。

 

「あたしたちは、ずっと一緒だよ。これからも、ずっと……」

 

 結衣の腕の中で、光の侵食は容赦なく進んでいく。結衣の優しい言葉を受け入れたユイは、どこか安らかな、けれど切ない表情を浮かべた。

 

「──ずっと、いっ、しょ……に……」

 

 それが、ユイが遺した最後の言葉だった。

 結衣の腕の中から、愛おしい自分のエゴが綺麗に溶けるようにして消えていく。それと同時に、あまりにも眩い純白の光が、あの陰鬱だった灰色の世界を、優しく、すべて包み込んでいった。

 

 

──

 

 

 先ほどまでの凄まじい竜巻が、まるで幻であったかのように跡形もなく消え去った環状道路の上。

 エイトマンは、元の姿に戻って穏やかに意識を失っている結衣を横抱きにしながら、静かに佇んでいた。

 ソフィアの人造デバイスによって結衣を支配していた脳内の特定機能は、フォノン・メーザーの精密照射によって完全に破壊されていた。

 驚くべきことに、脳そのものへの損傷はゼロ。医療データが示しているのは、まさに奇跡としか言いようのない完璧な結果だった。

 

 ──いや、これは決して奇跡などではないのかもしれない。

 

 あの灰色の世界を完全に内側から破壊できたのは、他ならぬ結衣自身が八幡の言葉を受け入れ、その精神を自ら解き放つことを決めたからだった。もし、彼女があのまま頑なに自意識の檻へと引きこもり続けていれば、いくらエイトマンの力をもってしても、彼女を無傷で救い出すことはできなかっただろう。

 

「──う、う……」

 

 エイトマンの腕の中で、結衣が小さく呻き声を上げた。どうやら意識の覚醒が近いらしい。

 エイトマンは、すぐ側で難を逃れ、事の顛末を呆然と見守っていた先ほどの刑事へと歩み寄った。そして、横抱きにしていた結衣の身体を、壊れ物を扱うようにそっと差し出す。

 

「もう大丈夫です。彼女の保護をお願いします」

 

 刑事は一瞬だけびくりと身を強張らせたが、すぐに落ち着きを取り戻し、結衣の身体をしっかりと受け止めた。

 

「君は……その体は、大丈夫なのか?」

 

 刑事は、今もなお時折バチバチと青白い火花を散らし、激しいノイズを上げているエイトマンのボディをひどく気にかけているようだった。至近距離で受けた『サイコブレイク』の破壊の爪痕は、想像以上に深い。

 

「大丈夫です。慣れてますから」

 

 エイトマンは、剥き出しになった内部フレームの隙間から、ボロボロになった顔に不器用な苦笑を浮かべた。

 刑事に結衣を託したエイトマンは、静かに自身の内部システムへと意識を向け、冷静に各部機能の異常チェックを開始した。

 

(……ダメージコントロール、開始)

 

 内蔵された小型原子炉や駆動系は、先ほどユイから受けた精神衝撃波『サイコブレイク』の余波により、いくつかの危険な異常数値を弾き出している。だが、幸いにも致命的な暴走に至る危険はない。電子頭脳の損傷も、奇跡的に免れていた。

 しかし、出力を限界ギリギリで保っているプロセッサは、今や焼き切れんばかりの異常な熱を帯びている。

 

(……クソ熱いな。はやくマッ缶飲んで冷やさねぇとな……)

 

 この場は後続の警察に任せ、まずは一刻も早く研究所に戻って谷博士にメンテナンスを頼むべきだ。そこまで思考を巡らせた、その瞬間だった。

 

『──警告。高速飛行物体が接近中。まもなく到着します』

 

 脳内の視界に、真っ赤なアラートが文字通り割り込んできた。

 

(──何!?)

 

 高速飛行物体。すなわち、空からの接近。

 エイトマンはすぐさま、全センサーの指向性を上空の雲へと向けた。しかし、通常なら真っ先に引っかかるはずの、ジェットの轟音やプロペラの駆動音といった音が、レーダーには一切ノイズすら引っかからない。驚くべきことに、それは完全な「無音」を保ったまま、こちらへと急速に肉薄していた。

 

 それは、最初は曇天の空に穿たれた、ただの「黒い点」に過ぎなかった。

 だが、物理法則を無視したような超高速で距離が縮まるにつれ、その歪なシルエットが、はっきりと現実の視界へと現れていく。

 

「……うぅ……?」

 

 刑事にしっかりと抱えられたまま、結衣がゆっくりと意識を取り戻した。

 薄く開けられた彼女の瞳に最初に飛び込んできたのは、自分を命懸けで救ってくれた存在──全身の装甲が剥がれ、内部フレームを露出させながらバチバチと火花を散らす、ボロボロのエイトマンの姿だった。

そして、結衣は彼がただ事ではない鋭い視線で睨みつけている、遥か上空を見上げる。

 

 そこには、音もなく静かに滞空する、異様な存在が佇んでいた。

 

 頭からつま先まで、周囲の光のすべてを吸い込むかのような、禍々しく巨大な黒い身体。

 生物としての意思や感情が一切感じられない、無機質で冷徹な両眼。

 そして何よりも、見る者の魂を圧搾するかのような絶望感を与えていたのは、その頭部から天に向かって誇らしげに生え渡る、一対の巨大な角だった。

 

「──あく、ま……?」

 

 その圧倒的で不吉なプレッシャーに、意識を取り戻したばかりの結衣の唇が、震えながら恐怖の言葉を零す。

 それは、まさしく古の神話からそのまま現代へと這い出てきたような、『魔王』の具現そのものだった。

 

 

 

 





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