——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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けっこう溜まったので一挙に投稿します。


第八十八話:全ての始まり

 

「以上の通り、明日から二週間、本校は臨時休校措置をとることが決定した。各自、不要不急の外出は控え、自宅で家庭学習に励むように」

 

 仮設校舎に設けられたF組の臨時教室。校舎の半壊、そして校庭の破壊という、およそ高校で起きるはずのない大事故を経て告げられた平塚先生の言葉に、教室は俄かにざわめき立った。だが、それも彼女の鋭い一喝によってすぐに静まり返る。

 当然、直近に控えていたマラソン大会は中止。さらに、奉仕部が実質的に受け持っていた『打ち上げ会』の企画も、この大混乱で有耶無耶になりかけていた。噂によれば、中止を聞いたどこかの一年坊の生徒会長が「そんなのありえないですー!」と悲鳴をあげたとか何とか耳にしたそうだが、八幡には全くもって預かり知れない話だった。

 同時に、これまでクラス内に根深く蔓延していた、八幡と由比ヶ浜に関する不穏な噂話も、学校崩壊という超弩級の大事件の前には完全に吹き飛んでいた。事故の事後処理のドタバタと、二週間という物理的な時間は、くだらない噂を綺麗に霧散させるには十分すぎる猶予だ。思わぬところで頭痛の種が消え去りそうな現実に、八幡としては少々複雑な心境だった。

 ホームルームが終わり、めいめいが帰り支度を始める。

 カバンに教科書を詰め込みながら、八幡はふと胸に引っかかるものを覚えていた。

 

 あまりにも怒涛の死闘が続きすぎたせいで完全に失念しかけていたが──雪ノ下雪乃はどうしているだろうか。

 

 昨日は学校を休んでいたが、今日はどうしているのか。

 八幡は電子頭脳の遠隔操作(インターフェース・リンク)でポケットの中のスマホを直接操作し、彼女の連絡先にラインを送った。

 放課後になって、ようやく短いバイブレーションとともに返信が届く。

 画面を開くと、体調が優れず、自宅でずっと安静にしていたという文字が並んでいた。寒さの厳しい日々が続いているから、その煽りでも受けたのだろう。ともかく、今日は危険極まりない一日だった。彼女が学校に来ていなかったことに、八幡は心底ホッとしていた。

 

 だが、続いて送られてきたラインの文字を読んだ瞬間、八幡の手が止まった。

 

『学校が大変なことになっていると聞いて、あなたたちのことが心配で……いてもたってもいられなくなって、今、学校に来てしまったの』

 

 文字の向こうにある彼女の独断専行っぷりに、八幡は呆れと驚きが入り混じった溜息を吐いた。思い立ったら、自分がどんな状況であろうと迷わず真っ直ぐ突っ走る。その頑なな姿勢には、相変わらず兜を脱ぐ思いだった。

 しかし、画面上の無機質な文字だけのやりとりでは、今の八幡にはどうしても物足りなかった。

 

 彼女の声を、なぜか無性に、聴きたかった。

 

『今から電話していいか』

 

 商用システムを介さず、頭脳からダイレクトにパケットを飛ばして送信すると、思ったよりも遥かに早く『ええ、構わないわ』と了解の返事を受信した。通話画面を立ち上げ、スマホを耳に当てる。数回のコール音の後、静かなノイズを挟んで、一日ぶりに聴く雪乃の声が八幡の鼓膜に届いた。

 

「もしもし……」

「あなたから電話してくるなんて、珍しいこともあるのね」

 

 電話越しの彼女の声は、いつもの冷徹さの裏に、どこか確かな暖かさを感じさせる聲音だった。その声を聴いた瞬間、八幡はスマホを握りしめる自らの指先が、僅かに小刻みに震えていることに気がついた。

 

「まあ、色々とな……」

 

 応じる八幡は、自分の声が震えそうになるのを必死で堪えていた。

 

 ──生きて、もう一度彼女の声を聴くことができた。

 

 それは、つい数時間前まで生と死の完全な狭間を彷徨い、五体を分断されながらも湧き上がった、八幡の電子頭脳の底からの強烈な「渇望」がもたらしたものだった。あのまま黒い魔王の手によって完全に破壊されていれば、二度と彼女の声を聴くことも、その存在を認識することもなかった。その冷酷な現実が、今さらになって八幡の心胆の底を鋭く冷え込ませていた。

 

「……今日の部活、どうすんだ?」

 

 何気なさを装って尋ねる。建前はただの確認だったが、本心は全く異なる。本当は、今すぐにでも会いたかった。雪乃の顔をこの目で見て、自分が生きて日常へ帰ってこられたという、確固たる証左が欲しかったのだ。

 人前でなければ、今すぐにでも身体を抑えてうずくまりたいほどの衝動に襲われていると、まるでその願いが届いたかのような言葉が返ってきた。

 

「今回の件も含めて、今後のことについて少し話し合いたいから……部室に来てくれるかしら」

 

 八幡にとって、今最も欲しいと思っていた言葉を彼女が口にしてくれた。その言葉に「わかった」と短く返事をして通話を切ると、八幡は這い出すようにして教室を後にした。

 

 

──

 

 

 部室の前に着くと、そこにはすでに由比ヶ浜結衣の姿があった。

 

「あ、ヒッキー……。やっはろー……」

 

 いつもより幾分かトーンの低い、控えめな声で結衣が挨拶を返してくる。八幡が短く挨拶を返し、「先に入らないのか?」と尋ねると、結衣は少し躊躇うようにはにかみながら言った。

 

「ううん。今日はね、ヒッキーと一緒に入りたいな、って」

 

 彼女なりに、ユイとしての暴走や先ほどまでの激動を乗り越え、心境を一転させて日常の一歩を踏み出したいという気持ちがあるのだろう。八幡は「わかった」とだけ軽く返事をして、部室の扉を開けた。

 

 扉の向こうでは、すでに紅茶の用意を終えた雪乃が、いつものように静かに文庫本を読んでいた。その何一つ変わらない見慣れた光景を目の当たりにして、八幡は内心で深い安堵の息を吐く。

 

「ゆきのん、やっはろー!」

「ええ。……今日は二人一緒なのね、珍しいじゃない」

 

 少し驚いたように美しい目を細める雪乃に、「まあ、ちょっとな」と言葉を濁しながら、八幡は自分の席に着いた。

 やっとの思いで守り抜いた日常の光景。八幡はそれを余すところなく記憶に留めようと、静かに目を凝らした。──もし、何か一つでも選択を誤っていたならば。この次は、もうここに来ることすらできなかったかもしれない。

 結衣は今頃ここにいなかったかもしれないし、自分という存在がこの世界から永遠に消滅していたかもしれない。常に薄氷の上を歩くような危うさを綱渡りで乗り越え、ようやく辿り着いた、あまりにも脆い場所だった。

 平穏への深い安堵と、それを一瞬で失うかもしれないという喪失の恐怖。相反する二つの感情を胸に抱きながら、八幡が椅子に深く腰掛けたその時、彼の複合センサーが廊下の向こうから近づいてくる足音と息遣いを捉えた。

 

 最近すっかり聴き慣れてしまった、あの一色いろはのドタバタとした足音だ。また何か面倒な厄介事でも持って、泣きついてくるのだろう。だが、今の八幡には、その鬱陶しいはずの面倒事さえも、何物にも代えがたい貴重な平穏の象徴だと考えることができた。

 ふと横を向くと、紅茶を淹れる雪乃の横顔が視界に入る。病み上がりとは思えないほど血色が良く、変わらない白磁のような白い肌。八幡は胸を締め付けられるような感覚を覚えて、ふっと目を逸らした.

 

(……ごめん、雪ノ下。まだ、言えない──)

 

 結衣にエイトマンとしての正体を知られ、川崎や平塚先生にも真実が知られた。最悪の戦いを経て、少しずつ自分の正体を受け入れてくれる者が増えてきたということは実感できている。

だが、それでも、彼女にだけは絶対に言えなかった。彼女にだけは、自分が人間ではないという事実を知られたくなかった。

 

 以前から、ずっと脳内の片隅にうずくまっていた不条理な問いが、再び八幡の思考を過る。

 

 機械の自分が、人間である彼女を──。

 あるいは、人間である彼女が、機械である自分を──。

 

 そこまで考えた瞬間、八幡はエラーを起こしそうになる思考を強制的にシャットダウンし、今目の前にある平穏を享受することに意識を切り替えた。だが、胸の奥底に溜まっていく割り切れない思いは、消えない澱のように重く、深く沈んでいった。

 

 

──

 

 二週間の家庭学習という名のお休みが決まった八幡だったが、その初日は「平穏」とは程遠い朝から始まった。

 休校が決まった当初、自宅では妹の小町から容赦のない愚痴の弾幕を浴びせられた。

「受験間近で必死に勉強してる小町の前で貪るお休みは、さぞかし美味しいでしょうねぇ?」だとか、「お兄ちゃん、休みがあってもどうせ友達いなくて死ぬほど暇なはずなのに、なんでこんな時に休むの?」などという、ぐうの音も出ない恨みつらみ。まあ、ほとんど事実なので否定のしようもなかったのだが。

 しかし、これから自分がどこへ向かうのかを小町が知ったら、それこそいよいよ驚愕して勉強どころではなくなるだろう。

 

「はちまん様、いってらっしゃいだにゃん」

 

 お馴染みのネコ型配膳ロボットが、液晶画面に愛らしい表情を浮かべながら電子音声を発する。

 

「おう。小町のこと、頼んだぞ」

 

 ベラの頭を軽く叩いてから玄関の扉を開ける。すると、のどかな住宅街には全く似つかわしくない、獰猛な排気音を響かせるお馴染みのスポーツカーが佇んでいた。

 助手席側のウインドウがウィーンと開き、サングラスをかけた平塚静が顔を覗かせる。

 

「おはよう、比企谷。時間通りだな」

 

 今日は、再び平塚と共に警視庁へと赴く、約束の日だった。

 

「まさか、また君と一緒に警察のお世話になる日が来るとはなぁ……」

 

 助手席に乗り込んだ八幡に対し、平塚がハンドルを握りながら呑気な調子で話しかけてくる。

 別に悪いことをして連行されるわけではないのでどうということはないのだが、やはり警察、それも警視庁本部などという場所は、一般の高校生がそう何度も行くところではないと八幡は溜息をつく。

 今日、二人が警視庁へと赴く目的。それは、現地で合流する谷博士も交え、警察の上層部に対して『エイトマン』という超存在に関する詳細な説明と、今後の対策を講じるための極秘の会議であった。

 警視庁の地下駐車場に滑り込んだ平塚先生のスポーツカーが、低い排気音を響かせて停車した。助手席から八幡が降り立つと、そこには予想だにしない見知った顔が二つ、並んで待っていた。

 昨日の総武高校崩壊事件の中心にいた、由比ヶ浜結衣と川崎沙希だ。

 

「……由比ヶ浜はともかく、なんで川崎までここにいるんだ?」

 

 怪訝そうに眉をひそめる八幡に対し、沙希は腕を組んだまま、鋭い視線を真っ直ぐに突き刺してきた。

 

「あんたさ、私が何回あの変な事件に巻き込まれて、そのたびにあんたと顔合わせてると思ってんの? ……もう今さら、私だけ無関係なんて言わせないから」

「あ、いや、それはそうなんだけどな……」

 

 彼女の放つ男前な気迫と正論に、八幡は思わず一歩たじろいだ。そのまま二人の目がじっと重なり、数秒の妙な沈黙が流れる。やがて、耐えかねたように互いにフイと気まずそうに目を逸らした。

 その様子を横で見ていた平塚先生が、面白そうに口元を歪める。

 

「ふむ、どうやら比企谷は、川崎の前ではとことん頭が上がらないようだな」

「え、ちょっと、平塚先生……?」

 

 八幡が焦るのを他所に、今度は結衣が小さく笑いながら横から口を挟んできた。

 

「うんうん、サキちゃんってヒッキーのこと嫌いじゃないっぽいもんねー」

「なっ……! ち、違うから! あんた何言ってんのよ、変なこと言うな!」

 

 沙希は顔を真っ赤にして猛烈に否定し、結衣の手をポカポカと叩いた。

 

(俺は川崎だけじゃなくて大体の女性の前で頭が上がらないんだけどな、今それを言っても虚しいだけだな)

 

 内心でそう判断し、静かにこの場を受け流すことにした。

 話がこれ以上逸れる前に、平塚先生がコホンとわざとらしい咳払いをして空気を引き締める。

 

「よし、それじゃあ行こうか。待たせるのも悪いからな」

 

 先生の促しに一同は頷き、警視庁の重厚な庁舎へと足を進めた。

 受付での厳重な身元確認と手続きを済ませ、ロビーのソファーでしばらく待っていると、案内役として一人の男が歩み寄ってきた。

 昨日も国道16号の戦場に駆けつけ、田中課長に付き従っていたあの私服刑事──羽佐間だった。

 

「待たせてすまない。案内するよ」

 

 一通り平塚先生や結衣、沙希と挨拶を交わした羽佐間刑事は、最後に八幡の前へと進み出ると、その精悍な顔に爽やかな笑みを浮かべて右手を差し出してきた。

 

「昨日は本当に世話になったな。……また会いたかったよ、比企谷くん」

 

 敵の猛攻を間近で見た上で、なお自分を『比企谷八幡』という一人の人間として扱い、真っ直ぐに感謝を述べるその器の大きさに、八幡は(警視庁の刑事ともなるとやっぱり貫禄が違うな)と圧倒されながら、その手をしっかりと握り返した。

 

「……どうも。こちらこそ、お世話になりました」

 

 挨拶を終え、彼に案内された小会議室の重厚なドアを開けると、室内ではすでに田中課長と谷博士が何やら真剣な表情で話し込んでいた。

 田中課長は八幡の姿を認めるなり、パッと表情を明るくした。

 

「おお、よく来たな比企谷くん! どうだ、身体の調子は!?」

 

 歩み寄ってきた田中課長に、バシッと豪快に背中を叩かれる。

 

「うおっ……。まあ、それなりですね。動く分には問題ないです」

 

 突然の衝撃に小さくうめきつつも、八幡はいい加減この人たちの距離感に慣れてきたのか、当たり障りなく言葉を返した。しかし、その様子を後ろで見ていた結衣と沙希が、まるで得体の知れない変な生き物を見るかのような目を八幡に向けてきた。

 

「……ねえサキサキ。なんかさ、ヒッキーが裏で怪しい取引でもしてる悪人みたいに見えない?」

「わかる。第一印象の悪さも手伝って、完全に犯罪組織の協力者か何かの面構えよね、あれ。あとサキサキ言うな」

「いや、悪いことしてねえし、別に怪しい仲でもねえからな?」

 

 ひそひそ声のつもりだろうが、強化された八幡の聴覚には丸聞こえだった。めんどくさそうに振り返って弁明する八幡の姿を見ながら、平塚先生は楽しそうに口元を歪める。

 

「まあ気にするな、比企谷。これも日頃の行いと、お前のその死んだ魚の目のせいだ」

「先生までそっち側ですか……」

 

 早くも訪れた精神的な疲労に、八幡は深くげんなりと肩を落とすのだった。

 全員が席に着いたのを見届け、羽佐間刑事が壁のスイッチを操作して部屋の照明を落とした。同時に、前方にある大型スクリーンに鮮烈な光が灯り、静かに、しかし極めて重苦しい会議が始まった。

 スクリーン前に立った谷博士が、手元のコンソールを厳かに叩く。画面に映し出されたのは、エイトマンの精密な内部構造全体図(ブループリント)だった。

 

「ひゃあ……」

「これ、が……」

 

 流線型の美しい超合金装甲の奥に潜む、緻密に編み込まれた人工筋肉の網、鈍い光を放つ超小型原子炉、そして複雑怪奇な電子頭脳のネットワーク。その人知を超えた超科学の塊を目の当たりにし、結衣と沙希、そして平塚先生や羽佐間刑事までもが思わず息を呑んだ。

 八幡だけは、自分の解剖図を白日の下に晒されているようで居心地が悪く、つまらなそうにそっぽを向いていた。

 

「さて、皆が集まったところで、今回は我が最高傑作である『エイトマン』の基本構造、そして彼が作られるに至った背景について説明しておこう」

 

 谷博士は静かに語り始める。その声には、単なる技術的な解説に留まらない、歴史の重みが宿っていた。

 

「エイトマンという奇跡のマシナリーが生み出された背景には、かつての世界情勢が深く、そして血生臭く関わっている。……全ての始まりは1957年10月4日だ」

 

 博士がキーを叩くと、スクリーンには古いモノクロの記録映像が映し出された。激しい火花と爆音を上げて、夜空へと打ち上げられる一基のロケット。

 

「ソビエト連邦による、人類史上初の人工衛星『スプートニク1号』の打ち上げ成功。これを機に、米ソを中心とした冷戦下の大国間で、熾烈な宇宙開発競争の火蓋が切って落とされた。最初の人工衛星、最初の有人宇宙飛行……あらゆる面でソ連に先手を取られ続けたアメリカの受けた衝撃──通称『スプートニク・ショック』は、彼らの国家としてのプライドを粉々に打ち砕くほど絶大なものだった」

 

 世界を二分した冷戦という言葉に、沙希や結衣は神妙な面持ちでスクリーンを見つめている。

 

「遅れを取り戻すため、当時のアメリカ政府は、それまで陸・海・空軍でバラバラに進行していた宇宙開発計画を一本に統合する新機関を創設した。……それこそが、現在も名高いアメリカ航空宇宙局、通称『NASA』だ」

 

 博士の説明とともに、画面は青い球体の地球から、不気味に赤く輝く不毛の惑星へと切り替わった。

 

「1969年、アポロ計画による月面着陸を成し遂げ、一矢を報いたNASAが、次の目的に隣の赤い惑星『火星』を選ぶのは必然だった。1970年代から、彼らは本格的な火星探査計画をスタートさせた。……しかし」

 

 谷博士はそこで一度言葉を切り、深い溜息のようにつぶやいた。

 

「それから半世紀が過ぎた今なお、人類の有人火星着陸は机上の空論、あるいは壮大な計画書の段階に終結している。現時点の人類の技術力でそれを実現するには、あまりにも乗り越えるべき宇宙の障害が、多すぎるのだ」

 

 スクリーンには、火星の過酷な環境データ、猛烈な宇宙放射線、そして超長期の宇宙飛行が人間の肉体にもたらす致命的なリスクの数々が、淡々と羅列されていった。

 地球から火星へ航行するための膨大なエネルギー問題もさることながら、それ以上に乗組員の生命維持、そして火星の過酷な環境下での超長期にわたる作業を可能とするシステムの構築など、課題は山積みだった。結果として、人類はせいぜい無人の探査ロボットを現地へ派遣し、その映像や地質データを回収するだけに留まっていた。

 

「だが、それら全ての生命維持に関する問題を、根底からクリアーする理論が存在した。……それが、私が提唱した『マシナリー理論』だ」

 

 博士がコンソールを叩くと、スクリーンには複雑な精神転写式の数式と、エイトマンのプロトタイプと思わしき設計思想が映し出された。

 脳をはじめとする重要臓器を生身のまま残した従来のサイボーグ技術では、結局のところ重厚な生命維持装置が必要となり、そのスペースや定期メンテナンスに時間と労力を割かれ、現地で十分な作業を行うことができない。それでは、本当の意味での問題解決にはならないのだ。

 

「なら、最初から宇宙開発用に特化した『機械の身体』に、人間の精神そのものを移植した、ロボットを超えるスーパーロボットを作成したとしたらどうだ?」

 

 それこそがエイトマンの真髄。呼吸も食事も一切必要とせず、真空の宇宙空間や超高放射線下でも常人の千倍の能力を発揮する、現代科学を遥かに超越した理論。それが『マシナリー理論』の全容であった。

 

「しかし──」

 

 谷博士はそこで一度言葉を切り、深く重い溜息をついた。

 

「ここにいる田中課長と比企谷くん、私、そして川崎くんはもう知っていることだが……私は数年前、この研究成果を持ってアメリカから日本へ亡命した。理由は一つ。私のマシナリー理論の『兵器利用』が決定されたからだ」

 

 谷博士が無念そうに、奥歯を噛み締めながら言う。八幡はその話をすでに知っていた。沙希も、かつて対峙したケンと谷博士の深い確執から、なんとなくアメリカで起こった出来事の全貌を察し、神妙に目を伏せた。

 

 博士が純粋な夢として提唱した理論は、彼が属していた超大国にとっては、単なる宇宙開発の範疇にとどまらなくなっていたのだ。

 

「当時、NASAの極秘部門に所属していた私は、スーパーロボット計画『No.08』と名付けられたプランを進めていた。だが、そこに至るまでの世界情勢は迷走を極めていた」

 

 博士の言葉とともに、スクリーンには1990年代から現代に至るまでの、世界各国の凄惨な紛争や戦争の記録映像が冷徹に映し出されていく。

 1990年、そして2000年代を過ぎ、2020年代に入ってもなお、アメリカという超大国は戦争という根深い宿痾を治すことができなかった。常にどこかで血が流れ、新たな強力な兵器が求められる時代が果てしなく続いていた。

 

 そんな中、人間を遥かに超越した、絶対に死なない『機械の超人』を生み出すという博士の理論は、戦争を欲する者たちからすれば、喉から手が出るほど欲しい正真正銘の「夢の軍事理論」に見えたに違いない。

 

「後に『超人兵士計画』と呼ばれることになる計画の先駆けとして利用される直前、私は脱走した。研究資料のすべてをサーバーから消去・廃棄し、完成間近だった『08』の素体とともに、遠く離れた日本へと逃げ延びたのだ」

 

 谷博士はそこまで言うと、ふっと寂しげに、しかし確かな温かさを湛えた笑みを浮かべた。

 

「──そして、私はそこで、比企谷八幡という少年と出会ったのだ」

 

 谷博士の静かで、どこか運命的な響きを帯びた視線が、小会議室の端に座る八幡へと真っ直ぐに向けられた。

 

 

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