重い瞼が開くと、そこは見慣れた自室の天井……ではなかった。
鼻を突くのは、カビと薬品が混じったような冷たい空気。
視界に映るのは、無機質なコンクリートの壁と、頼りなく明滅する薄暗い照明だけ。
そして何より、身体が動かない。
「……っ!?」
仰向けの状態で、俺の手足は革製のベルトでベッドに強固に拘束されていた。
身動ぎするたびに、ギチギチと革が鳴く音が静寂に響く中、混乱する頭で記憶の糸を手繰り寄せる。
確か、夕食を取っている最中だったよな……レティシアに声をかけようとした瞬間、意識が途切れて……。
「おーい! 誰かいないかー!? ヒルデちゃーん!」
近くにいるかもしれないと思って声を張り上げてみるが、返事はない。
ただ、自分の声が虚しく反響するだけだ。
「……またその名前を呼んで」
だが、数拍の間を空けて、誰かの声が俺の鼓膜を揺らした。
それはよく知っている、背筋が凍りつくほどに冷ややかな声だった。
「でも、残念ながらあの女ならここにはいないですわよ……お兄様?」
闇の中から音もなく姿を現したのは、妹のレティシアだった。
身にまとっているのは、身体のラインが透けて見えるほどに薄いシルクのネグリジェ一枚。
透き通るような肌、金の糸を紡いだような髪。
まるで西洋人形のように愛らしい見た目をしているのに、何故か背筋が凍りつく悍ましさを感じてしまう。
「レ、レティシア……? これはどうなってるんだ……? 悪ふざけは程々にしないと――」
「悪ふざけ? 心外ですわね」
彼女はゆらりと近づくと、拘束された俺の身体に躊躇なく跨ってきた。
太腿に感じる彼女の体温と柔らかさに、俺の心拍数が跳ね上がる。
「だって、お兄様が悪いんですから……」
彼女は俺の胸板に手を這わせ、うっとりとした表情で指を滑らせる。
「あの氷女だけじゃ飽き足らず……また新しい女まで連れ込んで……他の女たちとばかり過ごして、ちっとも私との時間を取ってくれないんですから……」
「わ、わわ、悪かった! ちゃんとお前も構うから! ほ、ほら……前にも言ったろ? 一段落ついたら何でも言うこと聞いてやるって!? な!? ちゃんと覚えてるから!」
「抵抗しても無駄ですわよ。ほら、力を抜いてください……お兄様……」
その得も知れぬ威圧感に恐れ慄き、なんとか諌めようとするがまるで会話が成立していない。
妹の整った顔が、徐々に近づいてくる。
艶のある声、甘い香り、そして狂気を孕んだ瞳。
まずい。これは、本当にまずい展開だ。
「やめろーッ! お前のことは愛しているが、近親はダメだー! ライン家が滅ぶー!」
様々な危機に対して絶叫した直後――
「んっ……」
レティシアが熱っぽい吐息を漏らしたと同時に、プスッ……と何かが刺さった。
刺した。ではなく、刺さった。
俺の腕に、無機質に輝く細い注射針が。
「……えっ?」
彼女の手には、いつの間にか大きなシリンジが握られていた。
ピストンがゆっくりと引き上げられ、俺の血管からやや黒みがかった赤色の液体が吸い上げられていく。
「どゆこと……?」
予想外の事態に、俺は間抜けな声を上げて固まった。
レティシアは恍惚とした表情のまま、手際よく十分な量の血液を採取すると、満足げにシリンジを保存容器に収めた。
「ふぅ……とりあえず、これだけあれば十分ですわね」
彼女は何事もなかったかのようにベッドから降りると、テキパキと俺の拘束ベルトを解き始めた。
先程までの妖艶な雰囲気は霧散し、今は優秀な看護師のような手際だ。
「え? 何? どういうこと? 採血? そのためだけにこんな大掛かりなことを?」
「だって、お兄様ったら、こうでもしないと昔から注射器を見ただけで泣き叫んで大暴れするではありませんか」
どんだけヘタレだったんだよ。原作のクラウス・フォン・ラインなる男は。
内心で、かつてのこの身体の持ち主に盛大なツッコミを入れた。
そうして自由になった手首をさすりながら、改めて妹に問いかける。
「……で、何のための採血だったんだ?」
まさか、自分の血を混ぜてスープを作ったり、黒魔術的な儀式に使うつもりじゃないだろうな。
そんな俺の懸念を追認するかのように、レティシアはグルッとホラー映画のような挙動で振り返った。
「『U.S.E.R.』を作ってますの」
「は? U.S.E.R.を……作る?」
その予想を斜め上に超えた言葉に眉を顰める。
「だって、お兄様ってば……あの二人の女にかまけてずっと私に構ってくれないんですもの……それはあの泥棒猫たちが『U.S.E.R.』だからなのでしょう?」
光の浮かんでいない瞳で俺の顔を見据えながら、彼女は淡々とした口調で続けていく。
「希少な『U.S.E.R.』という玩具……お兄様が夢中になるのも無理もありませんわ。だから私、こう考えましたの。いっそ……もっと、増やしてしまえばいいって」
彼女は保存容器に入った俺の血を、愛おしそうに頬ずりする。
「希少性がなくなれば、あの女たちの価値は暴落します。その価値を路傍の石ころ程度まで下げてしまえば……お兄様はまた、私だけを見てくださるようになるに違いありません」
「そ、そのために……俺の血を……?」
「ええ。U.S.E.R.であるお兄様の遺伝子情報と、非U.S.E.R.である人間のデータを比較・サンプリングして、その能力が『どこ』から生み出されるのかを特定できれば……人為的に資質を植え付けることも、あるいは『除去』することも可能ではないかと思いまして」
口角を三日月状に上げた笑みを浮かべながら、妹が狂気じみた言葉を述べている。
汎ゆる感情が複合した衝撃に、声が出ない。
動機は不純極まりない。嫉妬と独占欲の塊だ。
だが、その発想は天才的と言わざるを得なかった。
U.S.E.R.を『探す』のではなく、『作る』。
もちろん、言葉で表すほど簡単ではないだろう。
宇宙の根源へのアクセスが可能な人間の存在は、現在の科学を以てしても多くの謎に包まれている。
だが、研究する価値は高い。高すぎる。
もし、それが実現できれば、俺が想像していたよりも遥かに強大なヴァルキュリアの軍団が生み出せる。
そして、この妹であればそれをやってのけそうなまでの狂気を確かに感じていた。
「本当は生きた脳に電極を刺して、星源力と脳神経パルスの相互作用を測定したいんですけどね……」
すっ……と彼女の冷たい指先が、俺のこめかみを愛撫する。
「くれぐれも……私にそこまでさせないようにしてくださいね? お兄様♡」
「は、はは……」
その本気なのか冗談なのか判別のつきづらい言葉に、乾いた笑みが漏れ出る。
とりあえず、スケジュールを再調整して妹との時間をもう少し増やしておこうと思った。
***
――翌日、ヴァルキュリア開発工廠のミーティングルーム。
一足先に席についていた俺のもとに、ライラをはじめとした開発チームのメンバーが集まってくる。
その中には、少し顔色の悪い俺を心配そうに見るヒルデやセリアの姿もあった。
「ういーっす! おっはー! あれ? 領主くん、なんか顔色悪くない? 徹夜でゲームでもした?」
いつものように作業着を着崩し、軽い調子で挨拶をしてくるライラ。
その底抜けに明るいギャルのノリに、俺は不覚にも安堵のため息を漏らしてしまった。
「……ライラ」
「ん~?」
「お前って、最初は変な女だと思ったけど……この中だとかなり『まとも』寄りの人間だったんだな」
「はあ? ナニソレ、なんか失礼じゃない!?」
ライラは頬を膨らませて抗議するが、俺の言葉は心からの本音だ。
冷徹な血の守護者。依存気質の王女。脳解剖を示唆する愛が重すぎる妹。
今俺の周囲にいる女性陣において、ただの『陽気なギャル』である彼女がどれだけ癒やしか、骨身に沁みて理解できた。
「それよりも全員揃ったみたいだし、そろそろ始めるとするか」
俺は居住まいを正し、領主としての仮面を被り直す。
全員の視線が俺に集まるのを確認し、俺は静かに宣言した。
「これより作戦会議を始める。議題は……『要塞ファフニールの攻略』についてだ」