深い夜の帳が下りた人里。
その一角にある寺子屋には、微かに灯火が揺れている。
昼間の喧騒は嘘のように静まり返り、聞こえるのは時折鳴る虫の音と、紙をめくる微かな音だけだった。
上白沢慧音は、机の上に積み上げられた歴史書の山と向き合っている。
使い込まれた筆を置き、彼女は一つ大きな息を吐くと、凝り固まった肩を解すようにゆっくりと首を回した。傍らに置かれた茶器からは、とうに熱の引いた茶が静かに水面を揺らしている。
彼女の瞳は、机上の書物を見つめながらも、その意識はここではないどこか――編纂されるべき「歴史」の奔流へと向けられていた。
ふと、寺子屋の入り口の方から、夜風に混じって微かな気配が届く。
慧音は静かに顔を上げ、戸口の方へと視線を走らせた。
青い帽子が揺れ、彼女の理知的な表情にわずかな光が差し込む。
「……こんな夜更けに、珍しい客人もいたものだ」
独り言のように呟き、彼女は背筋を正した。
歴史を食い、歴史を作る半獣の守護者は、静かにその人物を待った。
戸を叩く音が聞こえる。
静かな声で許可を出すと、男がひとり入ってきた。
「夜分遅くに申し訳ありません。実は、このような本を拾いまして」
男の差し出した本の題名が目にとまる。
『けーね先生と内緒の放課後授』
『けーね先生と秘密の個人授業』
『けーね先生と極秘の卒業旅行』
寺子屋の静寂の中に、場違いな響きを持つ書名が三つ。
男がわざわざ声に出して淡々と読み上げた。
「わたしは、まだ中を読んではおりませんが……」
男は言葉をつけ加えるが、果たして慧音の耳に届いてるかどうか。
慧音は最初、教え子の忘れ物か、あるいは整理し忘れた古い資料かという程度の認識で視線を向けた。しかし、その耳に届いた言葉の羅列に、わずかに眉が跳ね上がる。
「放課後……個人授業……卒業旅行……」
反芻するように呟き、彼女はその三冊の表紙へと視線を落とした。
いずれの題名にも、親しみを持って呼ばれる自分の愛称が含まれている。そして、それらに添えられた「内緒」「秘密」「極秘」という、およそ公教育の場には似つかわしくない不穏な修飾語。
慧音の表情から、先ほどまでの穏やかな理知性が、急速に冷徹な教育者のそれへと置き換わっていく。
彼女は机から立ち上がると、一歩、また一歩と、その本を差し出す手元へと近づいた。
青い衣服が衣擦れの音を立て、寺子屋の空気がぴりりと引き締まる。
彼女はそれらの本を手に取ることはせず、ただ鋭い眼光でその装丁を射抜くように見つめた。
「……ほう。中身は見ていない、と言ったか」
低く、落ち着いた声。だが、その奥には隠しきれない威圧感が宿っている。
慧音はゆっくりと顔を上げ、相手の目をじっと見据えた。
「その言葉、信じたいところだが……。一体どこで、誰がこのようなものを流布させているのか。歴史を編纂する者として、見過ごせる内容ではなさそうだな」
彼女の背後で、揺れる灯火が壁に大きな影を落とす。
その影は一瞬、角を持つ巨大な半獣の形に歪んだようにも見えた。
「まずはその本、こちらで預からせてもらおう。内容を確認し、もしこれが私の名誉、あるいは里の風紀を乱す類のものであった場合……」
慧音は言葉を切り、静かに、だが力強く机を指先で叩いた。
「誰が書いたのか、洗いざらい白状してもらうことになるぞ」
「ステイ! けーね先生ステイ! 私は本当に拾っただけです! さとり妖怪の前で誓ってもいい! 本の題名にはものすごく心ひかれましたが、決して……!」
必死に弁明するその声に、慧音の眉間の皺が一段と深くなる。
彼女は机に置いた指先を離すと、腕を組み、冷ややかな視線を維持したまま一歩踏み込んだ。
「さとり妖怪の前で誓う、か。心を読む者の名を出すとは、よほどの覚悟と見える。だが……」
慧音はふっと目を細めた。
相手の口から漏れた「題名にはものすごく心ひかれた」という言葉を、彼女の耳は聞き逃さなかった。寺子屋の中に、逃げ場のない圧迫感がじりじりと満ちていく。
「心ひかれた、とは正直なことだ。その好奇心自体は否定しないが……時と場合、そして対象というものがあるだろう」
彼女は視線を再び机の上の三冊へと戻した。
夜風が入り口から吹き込み、行灯の炎を大きく揺らす。壁に映る彼女の影が、ゆらりと不気味に伸びた。
「拾った場所はどこだ。魔法の森か、それとも貸本屋の周辺か。……あるいは、あの白黒の魔法使いか、天狗の仕業か」
慧音は溜息をつくように言葉を吐き出すと、ゆっくりと右手を本の上にかざした。
その手は、歴史を隠し、あるいは曝け出す力を持つ者の手だ。
「中身を見ていないという君の言葉を、今は信じておこう。だが、このまま君に持たせておくわけにはいかない。これは里の歴史に……いや、私の尊厳に関わる問題だ」
彼女は本を一冊、指先で引き寄せた。
「今から私が検分する。君はそこで、これをどこで拾ったのか、詳しく思い出しながら待っているがいい」
慧音の指が、一冊目の表紙――『けーね先生と内緒の放課後授』の端にかかる。
彼女の表情は崩れないが、本を開こうとするその指先は、心なしか微かに強張っているようにも見えた。
男がおずおずと申し出る。
「あの~、差し支えなければ、内容を教えてくださると……。不穏なタイトルに思えて、案外普通の内容かもしれませんし? 外来本でしょうかね。」
慧音は本を開こうとしていた手を止め、怪訝そうに視線を向けた。
その瞳には、教育者としての厳格さと、未知の事態に対する警戒心が混ざり合っている。
「内容を教えろ、だと……?」
彼女は呆れたように低く呟いた。
寺子屋の静寂の中、彼女が本の1ページ目に指をかけ、ゆっくりと捲る。紙が擦れる乾いた音が、妙に大きく響いた。
「外来本……。確かに、この装丁と紙の質感、幻想郷で一般的に流通しているものとは毛色が違うようだが」
慧音は1冊目、『内緒の放課後授』の序文に目を通し始めた。
読み進めるにつれ、彼女の端正な顔立ちが、微かな困惑と、説明のつかない不快感に染まっていく。
彼女の視線は行を追うごとに鋭くなり、ついにはページをめくる指に力がこもって、紙が僅かにたわんだ。
「……ふん。内容は、案の定だ。私が寺子屋で、ある特定の教え子に対し、通常の授業とは異なる……極めて個人的、かつ、教育的範疇を逸脱した指導を行うという、妄想に満ちた物語のようだな」
慧音はふいと顔を背け、本を閉じた。
その頬は、怒りからか、あるいは別の感情からか、夜の闇の中でも分かるほどに赤らんでいる。
「普通の内容などでは断じてない。これは……歴史の歪み、あるいは人間の業が産み落とした『害悪』だ。外の世界には、これほどまでに破廉恥な空想を形にする文化があるというのか」
彼女は吐き捨てるように言うと、残りの二冊を、まるで汚物でも見るかのような目つきで睨みつけた。
「2冊目、3冊目も推して知るべし、だろう。卒業旅行だと? 私が人里を離れ、教え子と二人きりで……。そのような不祥事、歴史のどこを探しても存在しないし、させてはならない」
慧音は本を固く握りしめ、再び相手を真っ向から見据えた。
「これを読みたがるなど、正気の沙汰ではないぞ。君も、外来の毒に当てられたのではないか?」
男は慌てふためいたように首を振り言葉を返す。
「いいえ、はい、そのようなことはまったくけっして。あ、本はそちらにお渡しします。
また何かあったら参りますので! それでは失礼バイナラ」
慌てて身を翻し、逃げるように寺子屋を去ろうとするその背中に、慧音の鋭い声が突き刺さった。
「待て、逃げるな! ……バイナラとは何だ、その妙な挨拶は!」
呼び止める声には、まだ教育者としての厳しさが多分に含まれている。しかし、追いかけて捕らえるまでの気力は、手元の三冊の「害毒」によって削がれているようだった。
慧音は、差し出されたまま机に残された本を、壊れ物を扱うかのような、あるいは危険な呪具を扱うかのような手つきで一箇所にまとめた。
去りゆく足音が遠ざかる中、彼女は誰もいなくなった寺子屋で、ぽつりと独り言を漏らす。
「全く、とんだ災難だ……。拾っただけ、と言いながら、あの未練のありそうな顔。教育が足りんのではないか?」
彼女は再び椅子に腰を下ろしたが、先ほどまで向き合っていた真面目な歴史書に意識を戻すことができない。
手元にある三冊。その表紙に踊る「けーね先生」という文字が、行灯の光に照らされて嫌に主張している。
「内緒の……放課後……」
慧音は周囲に誰もいないことを今一度確認するように、ぐるりと室内を見渡した。
そして、ためらいがちに、しかし抗いがたい知的好奇心と、歴史の真偽を確かめるという義務感に突き動かされ、先ほど閉じた本に再び指をかけた。
「……内容を、より精査せねばならん。あくまで、再発防止と、外来文化の汚染調査のためだ。決して、興味があるわけではない」
自分自身に言い聞かせるような呟きは、夜風にさらわれて消えた。
静まり返った寺子屋で、ページをめくる音だけが、先ほどよりも慎重に、そして心なしか速く響き始めた。
「戻ってコッソリ覗きたい気持ちはあるが、バレた時の命の危険が危ない危険。ここは翌日に様子を見る程度にとどめておこう」
男はひとりごちると、歩みをすすめる。
夜の静寂が寺子屋を包み込み、男の足音だけが夜道に遠ざかっていく。
背後を一度だけ振り返ると、寺子屋の窓に映る慧音の影は、動かぬまま一点を見つめているようだった。あの「害毒」の精査は、おそらく夜が明けるまで続くのだろう。
翌朝。
人里はいつも通りの活気を取り戻し、寺子屋からは子供たちの元気な読経の声が聞こえてくる。
男はさりげない風を装い、寺子屋の様子を伺いに向かった。
授業の合間の休憩時間。
教室から出てきた慧音の姿は、いつもの凛とした、非の打ち所がない教育者のものだった。だが、その表情を詳しく観察すれば、異変は明白だった。
彼女の瞳の隈は、昨夜よりも心なしか濃い。
そして、教え子の一人が「けーね先生!」と駆け寄った瞬間、彼女はびくりと肩を震わせ、過剰なほどに背筋を伸ばした。
「……な、なんだ。質問か? それとも……いや、普通に質問だな。よし、聞こう。放課後ではなく、今ここで聞こうじゃないか」
早口でまくしたてる彼女の言葉は、どこか落ち着きがない。
彼女は教え子の頭を撫でようとして、ふと自分の掌を見つめ、何かを思い出したように慌てて手を引っ込めた。
ふと、視線を感じたのか、慧音が男の方を向いた。
その瞬間、彼女の顔面は、昨夜の怒りによる赤みとはまた違う、より深く、複雑な色彩に染まる。
慧音は手に持っていた出席簿で口元を隠し、鋭い、しかしどこか泳いでいる視線を男に投げかけた。
「……昨日、拾ったというアレだがな。あれは、その……処分した。歴史の闇に葬り去ったのだ。二度と思い出すことも、口にすることも許さん。いいな?」
彼女の声は震えていた。
その「処分」が、物理的な焼却を意味するのか、あるいは彼女の脳内での封印を意味するのかは定かではない。
ただ、彼女が抱えた出席簿の端から、昨夜の本の端っこがハミ出ているのを、男は見逃さなかった。
慧音の鋭い視線に気圧されたように、何度も深く頷き、そのまま音も立てずにその場を離れた。
背中越しに、彼女が小さく「ふぅ……」と、張り詰めていた糸が切れたような溜息をつくのが聞こえた気がした。
男は人里の雑踏の中へと紛れ込みながら、胸の内で小さな、しかし消しがたい火が灯るのを感じた。
あの凛とした、歴史の守護者である彼女が見せた、動揺と困惑の混じった表情。そして、処分したと言いながらも手放せていなかった、あの本。
「もっと、外来本を探さねば……」
それは純粋な好奇心か、それとも禁忌に触れる背徳感か。
幻想郷の調和を保ち、歴史を正しく導くはずの慧音。彼女の「教育者」としての仮面が、外来の世界の突拍子もない空想によって、わずかに、だが確実に剥がれかけている。
次に見せるべきは、どのような物語だろうか。
放課後、秘密、極秘。
それらを超える「衝撃」を求めて、自然と足は、外来の品が流れ着くという場所へと向かいつつあった。
背後の寺子屋では、再び授業再開の鐘が鳴る。
その音はいつも通り規律正しいものだったが、教鞭を執る彼女の指先が、今もまだ昨夜の「毒」に疼いていることを、男だけが知っていた。
お約束や様式美、王道と言ったものに心ひかれるんだ。