憧れは止められねえんだ。
人里の安寧を背に、男の足は自然と北西へと向いていた。
目的地は無縁塚。外の世界の「落とし物」が結界の隙間から流れ着く、死と隣り合わせの境界の地。
生者の気配を拒絶するかのような紫の霧が立ち込める中、背筋を凍らせるような冷気が肌を刺す。時折、木々の隙間からこちらを覗く異形の視線や、不気味に蠢く影に喉を鳴らし、文字通り命を削る思いで枯れ葉の積もった地面を這いずり回った。
死の臭いと、カビの生えた紙の臭いが混ざり合う。
指先が泥に汚れ、服が木の枝に裂かれようとも、その情熱が足を止めさせることはなかった。
数時間の捜索の末、男は抱えきれないほどの「外来本」を掘り出した。
そこには、昨夜の三冊を凌駕する毒々しい色彩の表紙や、刺激的な惹句が踊っている。
ボロボロになりながらも人里へと帰り着いた男は、隠れ潜むようにして戦利品を確認した。
『けーね先生とネクストヒストリー』
『満月の夜に……歴史から消されたい』
『昏睡caved! 野獣と化した先生』
中身をパラパラと捲れば、そこには細密な挿絵と共に、幻想郷の歴史家が口にすれば卒倒しかねないようなシチュエーションがこれでもかと詰め込まれていた。
特に『昏睡caved! 野獣と化した先生』に関しては、彼女の「半獣」という性質にこれでもかと踏み込んだ、危険すぎる内容だ。
泥だらけの体で、男は不敵な笑みを浮かべる。
これらを再び彼女の前に差し出した時、あの理知的な顔は一体どう歪むのか。
あるいは、完全に歴史の闇へと「隠されて」しまうのか。
寺子屋の灯火が、遠くで再び揺れ始めている。
昨夜よりも重い、しかし期待に満ちた足取りで、男は再び夜の寺子屋へと向かう。
夜の静寂を切り裂くように、再び寺子屋の戸を叩く。
中から聞こえてきたのは、明らかに動揺を含んだ、椅子を派手に引く音だった。
「……誰だ! 言ったはずだ、夜の寺子屋には来るなと……!」
現れた慧音の顔は、昨夜よりも心なしかやつれている。
その手には、昨日没収されたはずの本が一冊握られていた。彼女はそれを背後に隠すようにしながら、泥だらけでボロボロの男の姿を見て、目を見開いた。
「君、その格好は……! 泥に塗れて、一体どこを彷徨ってきたというのだ」
呆れと心配が混じった声を上げる彼女の前に、男は新たな一冊を差し出した。
あえて、けーね先生をモデルに扱った本ではない。そのタイトルは……
『かぐもこチュッチュ本』。
その余りにも軽薄なタイトルに、慧音の顔から一瞬にして血の気が引く。
「かぐ……もこ……? 輝夜と、妹紅だと……?」
彼女は震える手で、その本を受け取った。
昨日までは「自分」のことだったからこそ、羞恥が勝っていた。だが、今度は自分の親友である藤原妹紅と、その宿敵である蓬莱山輝夜の名が記されている。
慧音は無言でページを捲り始めた。
最初はタイトルへの嫌悪感から険しい表情をしていたが、読み進めるうちに、彼女の瞳に宿る色が熱を帯びていく。
「……これは」
殺し合い、憎しみ合い、その果てに訪れる、永遠を生きる者同士の残酷で、それでいてあまりに純粋な情愛。
歴史家として、そして妹紅の理解者として、彼女はその物語が持つ、恐ろしいほどの「真実味」に当てられていた。
「……ふざけた題名だと思っていた。だが、この感情の機微、二人の間に流れる救いようのない愛憎……。外の世界の者は、これほどまでに彼女たちの本質を……」
慧音の指が、物語の佳境――二人が肌を重ね、互いの存在を確認し合う「濡れ場」のページで止まる。
静まり返った室内で、慧音の荒い呼吸の音だけが響く。
彼女の顔は、もはや真っ赤を通り越して、熱でも出しているかのように上気していた。
だが、その視線は本から離れない。食い入るように、一文字一文字を、一線を越えた描写の細部までを、歴史の断片を拾い集めるかのような真剣さで追っている。
「……教育者として、看過できない。非常に、非常に不純だ。不純だが……」
慧音は本を抱きしめるように胸元に寄せ、震える声で絞り出した。
「妹紅が……妹紅がこのような顔をして笑うなど……私は……聞いていないぞ……」
彼女はよろよろと机に手をつき、そのまま椅子に崩れ落ちた。
手元には昨日没収した自分の本、そして今、新たに魂を揺さぶる親友の本。
慧音の理性という名の防波堤が、外来本の荒波に飲み込まれ、今にも決壊しようとしていた。
「外来本は……読む価値があるかもしれませぬ」
何かに満たされたような男が、したり顔でうなずいて言う。
「今宵はこれにて、しからば御免!」
妙なテンションで慧音に本を預けると、風のように消え去った。
「あ、待て……! 行くな、まだこの描写についての見解を……!」
慧音の呼び止める声が背後に響いたが、男は闇に紛れる忍びの如く、その場を音もなく離脱した。
寺子屋の中では、上白沢慧音が立ち尽くしている。
片手には、自分との不適切な関係を妄想した「不名誉な歴史」。
もう片方の手には、親友と宿敵のあまりに濃密で、しかし否定しきれない真理を突いた、「禁断の記録」。
彼女は、泥だらけで消えた男の足跡と、手元に残された本を交互に見つめた。
夜風が吹き込み、パタパタとページがめくれる。そこには、月明かりの下で絡み合う二人の影が、耽美な筆致で描かれていた。
「読む価値……だと? 歴史を預かるこの私が、あのような荒唐無稽な……不純な……」
言いかけ、彼女は自嘲するように小さく笑った。
その目は、もはや昨日のような拒絶の色を失っている。代わりに宿っているのは、禁じられた知識を求めてしまう学究の徒の、あるいは一人の女性としての、抗いがたい熱だった。
「……ああ、そうだ。価値があるかどうか、私が最後まで見届けねばならん。これは、里の守護者としての、そう、責務だ」
自分に言い聞かせる声は、先ほどよりもずっと掠れている。
慧音は震える指先で、丁寧に戸締まりを確かめ、閂をかけた。
そして、行灯の芯を太くし、再び机に向かう。
机上に並ぶ、外来本の数々。
彼女は深く、深く椅子に身を沈めると、親友の「秘め事」が記されたページへと、再び意識を沈めていった。
翌朝、人里の住人たちは、寺子屋の窓が明け方まで明るかったこと、そして翌日の慧音先生が、何故か妹紅の顔を見るなり真っ赤になって逃げ出したことを、不思議そうに語り合うことになるだろう。
人里の広場、茶屋の軒先。
いつも通りの昼下がりの風景の中に、上白沢慧音と藤原妹紅の姿があった。
普段なら、理知的な慧音とぶっきらぼうな妹紅が並ぶ姿は、この里の日常における「信頼」の象徴のような光景だ。しかし、今日の二人の間には、何とも形容しがたい奇妙な空気が漂っていた。
男は物陰から、さりげなくその様子を観察していた。
妹紅はいつも通り、ポケットに手を突っ込みながら、少し退屈そうに空を仰いでいる。
「……でさ、慧音。さっきから聞いてるか? 迷いの竹林の奥で、またあの阿呆が……」
「……っ!」
妹紅が「あの阿呆(輝夜)」の名を口にしようとした瞬間、隣にいた慧音が、まるで熱湯を浴びせられたかのように肩を跳ねさせた。
「ど、どうしたんだよ。急に大声出して」
「い、いや……何でもない。何でもないんだ、妹紅。続けてくれ。その……『輝夜』がどうしたと?」
慧音は「輝夜」という名を口にする際、わずかに舌がもつれ、視線をあちこちへと彷徨わせた。彼女の脳裏には、昨夜読み耽ったあの本の、月明かりの下での「絡み合い」の描写が、鮮明な挿絵と共にフラッシュバックしているに違いない。
「ああ、だから、あいつがまた変な罠を……おい、慧音。お前、顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」
妹紅が心配そうに顔を覗き込み、その額に手を伸ばそうとする。
その瞬間、慧音は目に見えて狼狽し、バタバタと後ずさりした。
「さ、触るな! いや、触らないでくれ! 今の私には……刺激が強すぎる……!」
「はあ? 刺激? 何言ってんだお前」
妹紅は怪訝そうに眉をひそめる。
慧音は必死に顔を伏せ、手元にあるはずのない「本」を抱きしめるような動作を無意識に取っていた。彼女の理知的な横顔は、今や完全に、禁断の知識に毒された者のそれである。
「すまない、妹紅。今日は少し……歴史の編纂が立て込んでいてな。頭が、その、非常に不純……いや、不安定なのだ!」
慧音はそう言い捨てると、逃げるように寺子屋の方へと歩き出した。
残された妹紅は、呆然とその後ろ姿を見送り、後頭部をガリガリと掻く。
「なんだあいつ……。変なもんでも食ったのか?」
妹紅の独り言が空虚に響く。
慧音の足取りは、いつもの堂々としたものではなく、どこか浮ついていた。
そして、その視線が、ふと物陰に潜むあなたと一瞬だけ重なる。
彼女の瞳には、「お前のせいだぞ」という激しい非難と、それ以上に「続きはどうなったんだ」という、抗い難い飢餓感が入り混じっていた。
慧音が立ち去った後で、妹紅が男に気づく。
男は妹紅に向けて、音もなく深く、丁重な黙礼を捧げた。
それは、尊き「関係性」を壊さぬよう、ただの観測者として身を引く者の厳かな礼。
妹紅は怪訝そうに眉を寄せ、こちらをじろりと睨みつける。
「なんだ……? お前、さっきからそこにいたのか。妙に殊勝な態度だな」
白く長い髪を揺らし、彼女は鼻を鳴らした。
「慧音の奴、あんなに慌てて……。まあいい、あいつが変なものにあてられたのなら、後で様子を見に行ってやるさ」
彼女は背を向け、迷いの竹林の方へと歩き出す。
その背中は、何も知らないがゆえの無垢な力強さに満ちていた。
その背中を追う視線は送らず、ただ「尊い……」という無言の祈りだけをその場に残す。
一方。
寺子屋に逃げ帰った慧音は、閉ざされた扉の裏で、激しく上下する鼓膜の音を聞いていた。
「妹紅の……妹紅の手が……」
自分の額に伸びてきた、あのアツい掌。
以前なら親友の温もりとしか感じなかったそれが、今の彼女には、本の中で輝夜の肌をなぞり、翻弄していた「情欲の象徴」としてしか認識できない。
慧音はふらふらと机に向かった。
そこには、隠された一冊の本。
彼女は震える手で、再びそれを開き、昨夜何度も読み返したはずのページを見つめる。
「不純だ。不潔だ。歴史の冒涜だ……」
そう呪文のように唱えながら、彼女の指先は愛おしそうに、本の中の妹紅の横顔をなぞっていた。
もはや、昨日の凛々しい「ハクタク」の面影はどこにもない。
そこにいるのは、外来の劇薬によって、親友を直視することすらできなくなった、一人の哀れで熱心な「読者」であった。
ふと、慧音は窓の外を、昨夜に男が消えていった闇の方向を見つめる。
「……あいつは。あの拾い主は、今夜も来るのだろうか」
拒絶すべきだと心は叫んでいる。
だが、彼女の指は、次のページをめくる準備を既に終えていた。
深淵を覗く時、深淵を覗いているのだ