東方プロスペクト幻燈抄   作:パワーワード大好きおじさん

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おれたちの たたかいは これからだ!


03. けーね先生とソリッドブック その終

夜の帳が下りた寺子屋。

 

慧音は、昨夜までの「毒」に侵された熱を冷ますかのように、冷たい水を飲みながら机に向かっていた。

彼女の心は、妹紅への申し訳なさと、見たこともない外来文化への恐怖、そしてほんのわずかな期待で千々に乱れている。

 

そこへ、再び男が現れた。

 

昨夜のような泥まみれの怪しさはないが、その懐に忍ばせた「本」の存在感が、慧音の背筋を正させる。

 

「……また、来たか。今度は何を、私の『歴史』に付け加えようというのだ」

 

彼女の声には、拒絶と諦めが同居していた。

差し出された本を受け取る指先は、もはや躊躇いよりも、知識を求める渇望に忠実になっている。

 

 

『魔法少女ケモ☆けーね』

 

 

表紙を見た瞬間、慧音の動きが凍りついた。

そこには、いつもの理知的な衣服を脱ぎ捨て、フリフリのレースとリボン、そして不必要に強調された「獣の耳」と「尻尾」をあしらった、およそ現実の彼女からはかけ離れた姿の「自分」が描かれていた。

 

「……な、何だ。この……この破廉恥極まりない装束は!? 私がこのような姿で人里を駆け回るなど……!」

 

絶叫に近い呟きを漏らしながらも、彼女の目はページを捲ることを止めない。

物語の中では、「緑の巫女」や「ウサミミエイリアン」といった、どこかで見覚えのある不届き者たちが人里を脅かしている。

それに対し、魔法少女に変身した彼女が、正義の名の下に立ち向かう。

 

「ふむ……。新興宗教の弾圧……あやしい薬の密売阻止……。やっていることは、里の守護者として正しい、のか……?」

 

慧音の眉間の皺が、複雑な形に歪む。

だが、物語の後半に記された「魔法少女の掟」を目にした瞬間、彼女の顔面は今日一番の熱量で真っ赤に染まった。

 

 

『正体がバレたら、その相手と結婚しなければならない』。

 

 

「な……ッ! け、結婚!? 誰とだ、このウサギか? それとも、あの傲慢な巫女か!?」

 

慧音は本を叩きつけるように机に置き、そのまま両手で顔を覆った。

指の隙間から、ページに描かれた「変身シーン」の、不必要にキラキラした演出が目に飛び込んでくる。

 

「……なぜだ。なぜ外の者は、私にこれほどまでの受難を強いる。正体を知られてはならないという緊張感、そしてバレた際の、その……不条理な契約……」

 

彼女はフラフラと立ち上がり、天を仰いだ。

昨夜までの「愛憎劇」とは違う、純粋な、しかし破壊力抜群の「羞恥」が彼女の精神を削っていく。

 

「だが……。この物語の中の私は、里を守るために、この……ケモケモした服を……誇りを持って着ている……」

 

慧音は再び本を手に取った。

その目は、もはや羞恥を通り越し、ある種の悟りを開きかけている。

 

「……精査せねばならん。もし、万が一、幻想郷にこのような『魔法の掟』が流れ込んだ場合、里の守護者として対策を練らねばならないからな。断じて、この衣装に興味があるわけではないぞ!」

 

彼女は自分自身に言い聞かせると、行灯を自分の方へ引き寄せ、食い入るように続きを読み始めた。

その背中は、もはや一晩では読み終わらないことを予感させていた。

 

 

「幻想郷はすべてを受け入れる……それはそれは残酷なことですな。それではオサラバ!

オタッシャデー!」

 

 

「待て……! 『オタッシャデー』とは何だ! その奇怪な言語の由来を教え――」

 

慧音の呼び止めも虚しく、男は夜風に紛れて寺子屋を後にした。

背後でバタンと大きな音を立てて戸が閉まり、激しく閂が下ろされる音が響く。

 

静まり返った室内で、慧音は一人、机の上に広げられた「歴史」の山を見つめていた。

そこには、親友との濃密な愛憎劇、そして今、彼女の眼前で不敵に微笑む「フリフリ衣装の自分」が並んでいる。

 

「幻想郷は……すべてを受け入れる、か……」

 

彼女は、男が残した言葉を反芻した。

その残酷さを、今、彼女は身をもって知っている。

かつて編纂してきた真実の歴史の隣に、外来の妄想という名の「偽史」が、あまりにも鮮やかな極彩色で居座り始めているのだ。

 

慧音は震える指先で、魔法少女となった自分の挿絵をなぞった。

羞恥で心臓が早鐘を打っているが、ページをめくる速度は一段と増していく。

 

「……もし。もし、本当に正体がバレた相手と結婚せねばならんというのなら……」

 

彼女の脳裏に、不敵な笑みを浮かべる「緑の巫女」や「不老不死の親友」の姿が過る。

それは、本来の歴史には存在し得ない、しかし、一度知ってしまえば消すことのできない「可能性」という名の毒だった。

 

慧音はふっと、自嘲気味に口角を上げた。

理知的な守護者の仮面は、もう、どこにもない。

そこにいるのは、禁断の頁を捲る愉悦に魂を売り渡しかけている、一人の、あまりに人間臭い半獣だった。

 

「……続きを。続きを読まねば、対策が……歴史の修正が、できないではないか」

 

夜が更ける。

人里の灯りが一つ、また一つと消えていく中で、寺子屋の窓から漏れる光だけは、夜明けまで決して絶えることはなかった。

 

 

 

 

人里の薄暗い路地を駆けながら、男は己の掌を見つめてふと立ち止まる。

 

最初はただ、道端に落ちていた奇妙な装丁の本を「おや?」と思って拾い上げた、どこにでもいるただの里の住人だったはずだ。それがどうだ。今や妖怪の跋扈する無縁塚を死に物狂いで駆け抜け、歴史の守護者である慧音の追跡を「ニンジャ」の如き身のこなしで振り切り、闇に消える。

 

「……アイエエエ」

 

思わず口から漏れた奇妙な悲鳴に、自分自身で驚愕する。

外来本の劇薬に当てられたのは、慧音だけではなかったのだ。禁断の知識を求め、境界の地を彷徨ううちに、肉体と精神はいつの間にか幻想郷の常識から逸脱した「ナニカ」へと変質していた。

 

理知的な賢者を、妄想と羞恥の淵に叩き落とす快感。

百合の間に挟まることを潔しとせず、闇から観測するストイックな精神。

そして、去り際に響かせる謎の言葉――。

 

寺子屋から遠く離れた場所で、振り返る。

あそこで今もなお「ケモケモな自分」の活躍を、顔を真っ赤にしながら読み耽っている慧音のことを思うと、胸の奥から得体の知れない達成感が湧き上がってくる。

 

「これが……外来の力か」

 

手元に残った数冊の本。その重みは、もはや紙の束のそれではない。

歴史を歪め、人の……あるいは幻想郷の運命を狂わせる「魔導書」の重みだ。

 

夜風が、ボロボロになった衣服を揺らす。

男は、自分がかつてどのような「普通の人間」であったか、もはや思い出すことができない。

ただ、次なる「劇薬」を求めて、再び闇へと溶け込んでいく。

 

背後で揺れる人里の灯火が、今の男には、ひどく遠く、まぶしいものに感じられた。

 

 

 

 

午後の日差しが照りつける人里の広場。

 

男は人混みに紛れ、気配を完全に遮断してその様子を伺っていた。

もはや通常の里の住人には不可能な、地形に溶け込むような隠密行動である。

 

視線の先には、霧雨魔理沙と、どこか心ここにあらずといった様子の慧音が立っていた。

 

「おい慧音、さっきから聞いてるか? 香霖堂に変な外来の道具が入っててよ、こう、ピカピカ光る魔法の杖みたいな……」

魔理沙が身振り手振りで、昨日手に入れたらしいガラクタの話を熱心に続けている。

 

その時だった。

 

「……魔法……少女……」

 

慧音の口から、吐息のような、地鳴りのような微かな呟きが漏れた。

彼女の瞳は魔理沙を見ているようで、その実、網膜の裏側に焼き付いた「フリフリでケモケモな衣装を着て、ステッキを振り回す自分」の残像を追っている。

 

「あ? なんだって?」

 

「……いや。何でもない。魔法、少女……。そんなものが……この里に、本当に必要なのだろうか……」

 

慧音はうわごとのように繰り返すと、おもむろに自分の腕に巻かれた袖を、まるでレースの感触を確かめるかのように指先でなぞった。

その表情は、極度の羞恥に耐え忍ぶ者の苦悶と、一度知ってしまった「変身」という名の解放感に、じわじわと侵食されつつある。

 

「魔法使いならここにいるだろ? 少女かどうかはともかくな。なんだ、慧音も魔法に興味が出たのか?」

 

魔理沙がニヒッと笑い、慧音の背中をバシバシと叩く。

 

「ひゃうんっ!?」

 

慧音は、里の賢者らしからぬ奇声を発して飛び上がった。

 

「さ、触るな! 正体がバレたら……いや、バレていない! 私はまだ変身していない! 掟が、掟が発動してしまう……!」

 

「……掟? おい、しっかりしろ慧音。変なキノコでも食ったのか?」

 

呆れ果てる魔理沙を置き去りにし、慧音はフラフラとした足取りで、しかし、時折スカートの裾を翻すような魔法少女めいたターンを無意識に混ぜながら、寺子屋の方へと去っていった。

 

彼女の背中に、かつての厳格なハクタクの威厳はない。

あるのは、外来の劇薬によって「魔法少女の概念」を歴史に刻み込まれてしまった、一人の末期患者の背中だった。

 

男は物陰で、静かにその光景を網膜に焼き付ける。

里の守護者の理性が崩壊していく音は、ニンジャとなった男の耳には、この上なく甘美な音楽として響いていた。

 

 

「あらあら。少し目を離した隙に、里の守護者が随分と『風変わりな歴史』を編纂していたようね」

 

 

理知的で不純な熱を帯びていた周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。

 

背後に開いた「空間の裂け目」から、無数の瞳がこちらを覗き込んでいる。

そこから現れたのは、境界を操る妖怪の賢者 ――八雲紫であった。

 

彼女は口元を扇子で隠して微笑むと、スキマから慧音を呼び寄せる。

そして華麗な身のこなしで扇子を横に振るうと、慧音の瞳から外来本の不浄な光が消えた。

みるみるうちに正気の色が戻っていく。

 

慧音は呆然と自分の手元を見つめ、自分が抱えていた本のタイトルを再認識した瞬間、顔面が蒼白になった。

 

「あ……私は、一体何を……!? この本は、これは……!」

 

「いいのよ、慧音。これは歴史のシミのようなもの。私が綺麗に掃除しておいてあげるわ」

 

紫の指先が空間をなぞると、慧音の手の中にあった禁断の蔵書、そして「ニンジャ」である男の懐に隠されていたソリッドブックの数々が、吸い込まれるように境界の向こう側へと没収されていく。

 

紫の冷徹な視線が、物陰に潜む男へと向けられた。

 

「さて……外来の毒を持ち込み、里の秩序を、そして私の友人の正気をかき乱した不届き者さん? あなたのニンポ、ここで幕引きにしましょうか」

 

逃げようとした男の足元に、巨大な境界の口が広がる。

ニンジャめいた跳躍も、不思議パワーも、幻想郷の本物の「理」の前では無力だった。

 

「サヨナラ!」

 

叫び声と共に、男の体は内側から溢れ出す因果の歪みに耐えきれず、激しく光り輝く。

 

「アイエエエエ! サヨナラ!!」

 

 

  ✳  サヨナラ!!

 

 

人里に、一際大きな爆発音が響き渡った。

 

あとに残されたのは、白い煙と、一枚だけ焼け残った「ケモケモな耳」の表紙の破片のみ。

 

慧音は崩れ落ちるように膝をつき、二度と戻らない昨夜までの「不純な情熱」を想ってか、あるいはあまりの羞恥に耐えかねてか、顔を覆って震えていた。

 

「……もう、外来本は見たくない……」

 

こうして、ニンジャの企みは潰えた。

幻想郷の夜は、再び静寂を取り戻したのである。

 

 

 

 

しかし、幻想郷の境界が揺らぎ続ける限り、外来の「毒」が途絶えることはない。

 

紫の手によって一人のニンジャが爆発四散し、不純な歴史は闇に葬られた……はずだった。

 

 

 

 

静かな山奥、マヨヒガの庭。

 

八雲藍は、主である紫が眠りに就いている間、庭の掃き掃除をしていた。

竹箒を動かす彼女の手が、ふと止まる。

縁側の隅、隠されるように置かれていた一冊の、妙に色彩の鮮やかな本。

 

「……何でしょう、これは。紫様のお忘れ物でしょうか」

 

藍は疑いもせず、その本を手に取った。

表紙には、美しく描かれた主の姿。しかし、そこに躍る文字は、八雲の式神である彼女の背筋を凍らせるに十分な破壊力を秘めていた。

 

 

『やくもゆかりさんじゅうろくさい ーBBA結婚してくれ!ー』

 

 

藍の思考が停止する。

 

「…………さんじゅう、ろく?」

 

幻想郷の創設に関わり、悠久の時を生きる境界の妖怪。その年齢を、あろうことか「三十六」という、生々しくも絶妙な、そして絶対の禁忌である数字で定義する不届きな書物。

さらに副題には、命知らずにもほどがある求愛の文句。

 

「……っ!!」

 

藍は周囲を血走った眼で見渡した。

もし、もしもこれを目覚めたばかりの紫が見てしまったら。

幻想郷の境界は激しく歪み、人里はおろか、この世界そのものが物理的に「消去」されかねない。

 

「誰です……一体、誰がこのような……!」

 

藍の手が、恐怖と、そして抗いがたい好奇心で小刻みに震える。

彼女は知っていた。昨夜、人里で一人のニンジャが散ったことを。だが、この本がここにあるということは、あのニンジャは単なる先遣隊に過ぎなかったのか。

 

まさか……第二、第三のニンジャが?

 

藍は、恐る恐るページをめくった。

そこには、独身をこじらせ、人里の青年との恋に悶々とする「三十六歳の八雲紫」という、あまりにも完成された、しかしあってはならない虚構の日常が描かれていた。

 

「……いけない。これは、見てはいけないものです。紫様に知られたら、私は、私は……!」

 

そう言いながらも、藍の九本の尻尾は、物語のあまりの生々しさにピンと直立していた。

彼女の脳裏に、いつもは泰然自若としている主が、もし本当にこんな風に「年齢相応の悩み」を抱えていたら……という、禁断の妄想が過ぎる。

 

その時。

 

「……あら、藍。そんなところで何を読んでいるの?」

 

背後から、眠たげながらも絶対的な威圧感を放つ声が響いた。

藍の顔から、一気に血の気が引いていく。

 

藍の全身から嫌な汗が吹き出した。

九本の尻尾は今や、恐怖のあまりにブワッと膨らんでいる。

 

「あ、あら、紫様! お目覚めでしたか。これは……その、庭に落ちていた不燃ゴミでして、ええ、全くのゴミなのです!」

 

紫は怪訝そうに扇を閉じると、藍の手元にある本へと、逃れられぬ境界の視線を向けた。

 

「……へえ。ゴミにしては、随分と私の顔に似た絵が描いてあるじゃない?」

 

紫の瞳が、表紙の残酷な文字列をなぞる。

 

 

『やくもゆかりさんじゅうろくさい ーBBA結婚してくれ!ー』

 

 

マヨヒガの気温が、一瞬で氷点下まで叩き落とされた。

紫の背後に、言葉では言い表せないほど「不吉な空間の歪み」が幾層にも重なって現れる。

 

「藍。そこに書いてあるのは……私の『年齢』についての記述かしら?」

 

絶体絶命。

 

しかし、ニンジャの意志を継ぐかのような藍の思考が、極限状態で光を放った。

 

「ち、違います紫様! 読み方が違うのです! これは……『八雲紫さん、じゅうろくさい(16歳)』と読むのです!」

 

「……十六歳?」

 

紫の眉がぴくりと動く。

ジゴクめいた重いアトモスフィアが、わずかに、ほんのわずかに揺らいだ。

 

「はい! 外の世界では、感嘆の意を込めて『さん』を付け、その後に若々しさを称える数字を置くのが流行りだそうで……! そして、その下の『BBA』というのも、決して不名誉な言葉ではありません!」

 

藍は必死に、ありもしない「いい感じの頭文字」を脳から捻り出した。

 

「これは……『Beautiful(美しく) Brilliant(輝かしい) Ancestor(始祖様)』の略です! つまりこれは、『美しく輝ける始祖様、結婚してくれ!』という、外の世界からの熱烈な求婚詩集なのです!!」

 

紫は無言のまま、本を見つめ、それから藍を見つめた。

マヨヒガを支配する沈黙。

 

数秒の後、紫はふっと扇を開き、口元を隠して艶やかに微笑んだ。

 

「あら。美しく輝ける始祖……。ふふ、外の者も、たまには気の利いたことを言うじゃない」

 

紫の手が、すっと本を奪い取る。

 

「『じゅうろくさい』の私への、熱烈な求婚。……面白いわ。没収したあの本たちと一緒に、ゆっくり『検分』してあげましょう」

 

紫は満足げに、スキマの中へと消えていった。

後に残された藍は、その場に力なくへたり込み、激しく波打つ胸を押さえた。

 

「……助かった。……いや、助かったのか……?」

 

紫が本を読み進めれば、そこに書かれた「三十六歳(独身)の悲哀」が露呈するのは時間の問題だ。

八雲藍にとっての「本当の恐怖」は、紫がその本の『Ancestor』ではない真の意味に気づいた瞬間に始まるのである。

 

 

幻想郷の夜明けは近い。

 

 




スキマ・エクス・マキナ
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