湿り気を帯びた土の匂いと、終わりなく続く竹の青白い壁。
迷いの竹林は、今日もその名の通り、一歩足を踏み入れれば方向感覚を狂わせる静寂に包まれている。
密集する竹の隙間から、時折カサリと乾いた音が響く。それは風の悪戯か、あるいはこの竹林の主たちの足音か。
視界の端、太い竹の影から、ひょこりと長い耳が揺れた。
桃色の和服に身を包み、首元には大きな勾玉を下げた幼い少女の姿――因幡てゐが、地面に転がる手頃な石を爪先で転がしながら、退屈そうにこちらを伺っている。
その瞳には、迷い込んできた者に対する純粋な好奇心と、それ以上に深い「企み」の光が宿っていた。
てゐは口角をわずかに上げると、音もなく一歩踏み出し、行く手を塞ぐようにして立ち止まる。
「おや、珍しい客がいたもんだ。こんなところまで入り込んで、一体何を探してるんだい?」
彼女は小首を傾げ、人懐っこい笑みを浮かべた。しかし、その足元に広がる不自然なほど整えられた落ち葉の山が、何らかの仕掛けを隠していることを物語っている。
「こんにちは、因幡てゐさん……やっとお会い出来ました。自分は最近になって幻想入りした外来人の物書きです。とりあえず、お賽銭をどうぞ……外の貨幣ですが」
外来人の物書きという男が、結構な額をてゐに貢ぐ。
差し出された重みのある袋を、てゐは一瞬だけ目を丸くして見つめた。
外の世界の貨幣。それは幻想郷において、時として魔法の材料や珍奇なコレクション、あるいは博麗神社の巫女を動かすための強力な触媒となる代物だ。
彼女は迷うことなくそれを受け取ると、手の中でジャラリと鳴らし、その重さを確かめる。
先ほどまで浮かべていたいたずらっ子のような笑みが、どこか「商売人」のそれに変わった。
「へぇ……。外来人の物書き、ねぇ。挨拶代わりにしては、随分と景気のいい話じゃないか」
てゐは懐に袋を仕舞い込むと、足元の落ち葉の山から、ひょいと数歩下がって道を開ける。
現金なものだ。それだけで、周囲に漂っていた「落とし穴」への誘いのような、ぴりついた空気が霧散する。
「いいよ、あんた。話の分かる奴は嫌いじゃない。わざわざ私を探してたってことは、ただ道に迷ったわけでもなさそうだ」
彼女は近くの竹に背を預け、腕を組んでこちらをじろりと眺める。
長い耳がピクピクと動き、竹林のどこかで控えているであろう他の兎たちに「手出し無用」の合図を送った。
「それで? 幸運の白兎に大枚はたいてまで、何を書こうってんだい。私の武勇伝か? それとも、永遠亭の連中に言えないような内緒話でも聞きに来たのかね」
てゐの視線が、物書きが持っているであろう筆記用具や、その身なりを品定めするように動く。
「てゐさんの武勇伝……になるんですかね? 実は……どうしてもお聞きしたいことが……」
男はそう答えると沈黙し、うつむいて体を震わせはじめた。
「ああ……もう駄目だ……会えた感動で……胸がいっぱいで……!
てゐちゃん!てゐちゃん!可愛いよてゐちゃん!!少女のような愛らしい姿なのに、どこか憂いを含んだ知性のある眼差し、からかうような皮肉げに微笑む口!風にそよぐ白いお耳!尻尾の先まで可愛すぎる!ピンクのおべべもとってもキュート!!」
いっきにまくしたててきた。
男の口から堰を切ったように溢れ出したのは、質問でも取材でもなく、度を超した賞賛の嵐だった。
てゐは、突きつけられた熱烈な言葉の数々に、一瞬だけ呆気にとられたように瞬きを繰り返す。竹林の静寂を切り裂くような熱量に、周囲の竹藪に潜んでいた野兎たちが、驚いて一斉に奥へと逃げ去っていく気配がした。
「……は?」
口角を上げたまま、てゐの表情が固まる。
今まで数多の人間や妖怪を担いできた彼女だったが、初対面で、それもこれほど真正面から外見と内面を「全肯定」される事態には慣れていなかった。
彼女は預けていた背を竹から離し、一歩、二歩と後ずさる。
頬にわずかな赤みが差したのは、照れか、あるいはあまりの剣幕に対する困惑か。
「ちょっと、あんた……。物書きってのは、もっとこう、冷静で気難しい連中だと思ってたんだけどね」
てゐは自分の長い耳を無意識に片手で弄り、視線を泳がせた。
しかし、懐にある「外の貨幣」の重みが、彼女の打算を辛うじて繋ぎ止める。これだけの額を積んでおいて、目的がただの賞賛だというのか。
「可愛い、ねぇ……。そんなこと言われても、何も出ないよ? ……いや、もうあんたから貰いすぎてるくらいだけどさ」
彼女は苦笑いを浮かべ、調子を狂わされたようにふいと顔を背けた。
だが、その唇は隠しきれない優越感で、心なしか緩んでいる。
「……まあ、見る目があるってことは認めてやるよ。で、その『可愛い私』を拝んで、鼻の下を伸ばしに来ただけなのかい? それとも、その……。何だい、まだ何か言いたげな顔してるけど」
てゐは警戒を解ききらぬまま、しかしどこか面白がるような、複雑な眼差しでこちらを再評価するように見つめた。
「……失礼、つい感極まってしまいまして」
男の様子が一変し、狂信的な熱っぽさが引いていく。代わりに宿ったのは、探究者としての鋭い光。てゐは、その急激な温度差に、思わず身構えた。
「あなたのことは昔から個人的に調べていまして、是非お聞きしたいことがあったのです。
因幡の白兎……因幡てゐさん。」
てゐの瞳から、先ほどまでの「揶揄うような色」が消える。
「因幡の白兎」という言葉は、幻想郷においてもあまりに古く、そして重い。目の前の男が、ただの愛好家ではなく、その名前の裏側にある「時間」の重みを知っていることを察したのだ。
てゐは、弄っていた耳から手を離すと、すっと背筋を伸ばした。
幼い少女の姿に、一瞬だけ、数千年の時を生き抜いてきた者特有の、底知れない影が差す。
「……随分と古い名前を持ち出してきたじゃないか。外来人の癖に、どこまで首を突っ込むつもりだい?」
彼女の声は、低く、落ち着いた響きに変わった。
風が竹葉を揺らし、ザワザワという不穏な音を立てる。てゐは足元に転がっていた石を、無造作に蹴り飛ばした。
「いいだろう。大枚を積んで、命がけでここまで来たんだ。その根性だけは買ってやる。……で、何を聞きたいんだい? サメを騙した時の感触か、それとも皮を剥がれた時の痛みか。あるいは……今の私が、何を考えてこんな竹林で隠居してるのかね」
てゐは、冷やかしを許さないような静かな眼差しを向け、次の言葉を待つ。その佇まいは、もはや「幸運を運ぶ兎」などという可愛らしいものではなく、神話の時代から続く狡知の体現者そのものだった。
「オオクニヌシ様……当時はオオナムチ様でしたか? その方との出会いを」
竹林を抜ける風が、一瞬だけ止まった。
その名が放たれた瞬間、てゐの瞳の奥で、爆ぜるような光が明滅する。
「……オオナムチ、ね」
彼女はその名を舌の上で転がすように呟いた。
記憶の澱に沈んでいた、あまりにも遠く、眩い時代の響き。
てゐの表情から、今度こそ完全に「子供」の仮面が剥がれ落ちる。そこにあるのは、神話の断片をその身に刻んだ古き獣の貌だ。
彼女は視線を上げ、竹林の天を突く青い影を仰ぎ見た。
かつての淤岐ノ島、そして気多の岬。潮騒の音と、爛れた肌を焼く陽光。
「物好きな男だったよ。兄貴分たちの荷物を全部背負わされて、最後尾をトボトボ歩いてきてさ。……あんなにボロボロになって泣いてる私を見て、笑いもせずに、ただ静かに治療法を教えてくれたんだ」
てゐの言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるように淡々としている。
「ガマの穂にくるまれながら、私は思ったよ。ああ、こいつは馬鹿だ。自分だって辛い立場なのに、見ず知らずの兎一匹に、本気で心を痛めてるんだから」
彼女はフッと、自嘲気味な笑みを漏らした。
その笑みには、先ほどまでの皮肉とは違う、言いようのない寂寥感が混じっている。
「……ま、あのお節介のおかげで、こうしてあんたみたいな奇特な男と喋ってられるわけだけどさ。でも、あの方が『国』なんて大きなものを背負うことになった時、私は悟ったんだ。神様ってのは、優しすぎるのも考えものだってね」
てゐは再び視線をこちらに戻した。その眼差しは、歴史の目撃者としての鋭さを帯びている。
「あんた、それを聞いてどうするつもりだい? 綺麗な御伽話として書き留めるのか。それとも、まだ誰も知らない『その先』の泥臭い話まで、暴くつもりかい?」
物書きの男は問いかけに対して答える。
「私は物書きです……物語を知りそれを記すのが役割。幻想郷に来れたのは幸いでした……こうしてあなたに出会う機会を得たのですから。」
男はしみじみと深く感じ入るように目を閉じると、再び見開いて話を続ける。
「お話の続きを。兄弟神様たちは意地悪だったようですね?そして、オオナムチ様は……優しかった」
てゐは鼻先で小さく笑い、地面の落ち葉を草履の先で無造作に払った。その動作一つに、かつての隠岐の島で感じたであろう、苛立ちと諦念が混じり合っている。
「意地悪なんて、そんな可愛い言葉で片付くもんじゃないよ。あいつらは、ただの残酷な力そのものだった。ボロボロになった私の身体を見て、塩水で洗えと言った時のあいつらの顔……。あれはね、苦痛を愉しむ神の貌だよ。……それを見ていた私にしてみれば、オオナムチの言葉は、ただの優しさ以上に、ひどく歪で、眩しすぎたんだ」
彼女はゆっくりと歩き出し、一本の太い竹の幹に手を触れた。
「あの方は、私を救った後、結局その兄弟たちの尻拭いをしながら国を作ることになった。優しすぎる男は、常に誰かの重荷を背負わされる。……私はね、それが我慢ならなかったのさ。だから、私は決めたんだ。誰にも騙されない、誰にも傷つけられない、ずる賢い兎になってやるって。あの方が背負いきれない分まで、私が泥を被ってでも生き延びてやるってね」
てゐは振り返り、その鋭い眼差しを物書きへと向けた。
「あんたは『物語』を知りたいと言ったね。なら、記すがいい。因幡の白兎は、救われた報恩のために、その生涯を『欺瞞』と『処世』に捧げたと。あの方が作った国が、最後にはどうなったか……。あんたなら、外の世界の知識で知ってるんだろ?」
彼女の問いかけは、静かだが重い。神話が歴史に飲み込まれ、かつての「国」がどのような結末を迎えたか。それを知る物書きに対して、彼女は試すような視線を送っている。
「……さて、あの方が譲った後の話。私がどうやってこの竹林まで流れ着き、今こうして能天気に詐欺師を気取ってるか。そこにも興味があるのかい?」
物書きの男は、てゐの手が触れた太い竹の先端を見ようと振り仰ぐ。
「因幡の白兎の口から事実が、あるいは真実が語られた。そして物書きの私が聞いた。
それがとても重要なことなんですよ。」
見上げていた顔を下ろし、てゐに向き直り告げる。
「私は物書き……観測はなされた。しかし確定はまだされておらず、存在するのは解釈だけ」
てゐは数秒の間、言葉を失ったように口を噤んだ。
「観測」と「解釈」。外来人の物書きが口にしたその言葉の響きを、彼女は頭の中で何度も咀嚼しているようだった。
やがて、彼女は低く、喉の奥で鳴らすような笑い声を漏らす。
「……くくっ、あはははは! なるほどねぇ、あんた、ただの熱狂的なファンかと思ったら、相当に性質の悪い『観測者』じゃないか」
てゐは竹に預けていた手を離し、軽やかな足取りであなたの周囲を円を描くように歩き始める。
草を踏む音すら立てず、その動きは捕食者か、あるいは獲物を追い詰める罠師のそれだ。
「事実なんてものは、時間が経てば砂みたいに指の間からこぼれ落ちていく。残るのは、誰かが都合よく書き換えた『物語』だけさ。……でも、あんたはそれを『解釈』と呼び、私の口から出た言葉を、未確定のまま保存しようって言うんだね」
彼女はあなたの背後で足を止め、耳元で囁くように声を落とした。
「いいよ、気に入った。確定させないってのは、自由だってことだ。あの方が敗北者だったのか、聖人だったのか、それともただの馬鹿だったのか……。それを決める権利を、あんたはまだ手放さないつもりなんだろ?」
てゐは再び正面に回り込むと、いたずらっぽく片目を瞑ってみせた。
そこには先ほどの神話的な重圧はなく、いつもの食えない「詐欺師の兎」の顔が戻っていた。
「なら、お望み通り続きを話してやるよ。国を譲った後、主を失った私が、これまでどうやって生きて来たのかを。……この話は、あんたのその高い『お賽銭』でも、まだお釣りが来るくらいに長く、薄汚い話になるけど、いいのかい?」
彼女は地面の落ち葉を一蹴りして、そこに隠されていた落とし穴の蓋をわざとらしく見せつけた。
それは、彼女の懐に入る許可を得た者だけが見ることを許される、彼女の歩んできた「裏側」への入り口のようでもあった。
「いいえ、お話はもう充分に」
てゐは、男が首を振り、話を断る素振りを見せたことを不思議に思った。
次の瞬間、来た。
「つまり……可愛いてゐちゃんは助けてくれた優しい神様にドッキリ☆ なんと淡い恋心を抱いてしまった!! しかし相手はヤガミヒメに求婚したいと願う神様だ! 自分の恋心を奥底に押し込めて、オオナムチ様に助言する! 意地悪な兄弟神に問い詰められても、それを頑張ってはねつけた! そして今日まで……それは、もはや愛!!いい女だねぇ……!!」
静寂が、迷いの竹林を支配した。
風に揺れる竹の葉の音さえ、今のてゐの沈黙の前では騒々しく感じられる。
てゐの顔から、すべての表情が抜け落ちた。
先ほどまでの、数千年の時を背負った隠者のような重厚さも、人を食ったような詐欺師の余裕も、一瞬で霧散した。
「……は?」
彼女の口から漏れたのは、呆れを通り越した、虚を突かれた者の呟きだった。
目を見開き、固まったまま、差し出された言葉の群れを処理しきれずにいる。
「……あんた、何を……何を、言ってるんだい……?」
てゐは、震える指先で自分の長い耳をぎゅっと掴んだ。
その頬が、今度はごまかしようのないほど、耳の先まで真っ赤に染まっていく。それは憤慨というよりは、あまりに突飛で、かつ核心の横を猛スピードで通り過ぎていった「解釈」に対する、猛烈な困惑と羞恥だった。
「だっ、誰が、ドッキリ☆……!? 恋心!? 違う! 全然違う! 私はただ、あの方がお人好しすぎて見てられなかっただけで……! それに、ヤガミヒメなんて……あんな、あんな女……!」
必死に言い返そうとするものの、言葉が支離滅裂になっていく。
彼女は地を踏みしめ、あなたを指差して声を荒らげた。
「おい、物書き! 何が『観測』だ、何が『解釈』だよ! それはただの妄想……そう、あんたの勝手な捏造じゃないか! 誰がそんな、ロマンスみたいな顔で生きてきたってんだい!」
てゐは地面を強く蹴り上げた。
舞い上がった落ち葉が、彼女の顔を隠すように宙に舞う。
しかし、その隙間から見える彼女の瞳は、激しく揺れ、泳いでいた。
「大体、あんた! 私を誰だと思ってるんだ! 八百万の兎を束ねる、嘘と欺瞞の化身だよ!? そんな、乙女チックな動機で……動くわけ、ないだろ……!」
語尾がわずかに弱まる。
彼女は自分の口を両手で覆うと、今度こそ逃げるように数歩、後ずさった。
その足元、先ほど見せつけた落とし穴の蓋に、彼女自身が足を取られそうになって、不格好に踏み止まる。
「……もういい! 今日の話は終わり! お賽銭は返さないからね! とっとと竹林から出ていきな!」
そう言い捨てると、てゐは背を向け、茂みの奥へと飛び込もうとする。
その背中は、図星を突かれた少女のように小さく、ひどく狼狽しているように見えた。
てゐを見つめながらブツブツとつぶやいて、何かを考えていた物書きが声をかける。
「あっ、てゐさん竹林を出るにはどうしたら……」
茂みの奥へ消えようとしていたてゐの足が、その情けない呼び声にぴたりと止まった。
彼女は肩をびくつかせ、背を向けたまま、しばらくの間じっとしていた。その耳だけが、苛立たしげに、あるいは気まずそうに左右へ小刻みに震えている。
やがて、彼女は忌々しげに舌打ちをすると、振り返ることなく、背中越しにひょいと右手を無造作に振った。
その瞬間、竹林を吹き抜ける風の質が変わった。
淀んでいた空気が一気に澄み渡り、行く先を阻んでいた鬱蒼とした霧が、まるで道を開けるように左右へと割れていく。足元の枯れ葉さえも、出口へと導く道標のように整列した。
「……さっさと行きな! 二度とその面見せるんじゃないよ!」
てゐは、ようやく顔半分だけをこちらに向けた。
その頬はまだ林檎のように赤く、鋭かったはずの眼差しは涙目になって泳いでいる。彼女はまるで、自分の中に芽生えた説明のつかない感情を追い払うかのように、しっしっと手を振って追い払う仕草を見せた。
「……幸運を分けてやったんだ。外に出るまで、転ぶことも、迷うこともないだろうよ。……それで貸し借りなしだ! その……『解釈』だか何だか知らないけど、変なこと書きやがったら、今度こそ落とし穴の底で一晩中兎に囲まれる刑だからね!」
最後にそう叫ぶと、彼女は今度こそ脱兎のごとく、竹藪の奥へと姿を消した。
後に残されたのは、不思議なほど足取りを軽くさせる、清々しいまでの「幸運」の気配。
そして、出口まで真っ直ぐに続く、陽の光が差し込む美しい竹の道だけだった。
人里の片隅で発表されたその短編は、物書きの筆致も相まって、密かな、しかし確かな熱を持って読まれた。
古の神に救われた一匹の兎が、報われぬ想いを胸に秘め、数千年の時を「嘘」で塗り固めて生き抜く物語。
その噂が迷いの竹林に届くのに、そう時間はかからなかった。
「聞いたわよてゐ、外来人が書いたっていうあの話。あんたが実は、あの大国主様に恋い焦がれてたんだって?」
永遠亭の廊下で、あるいは竹林の集会で、仲間の兎や住人たちがニヤニヤとしながら彼女を囲む。
だが、あの日の狼狽はどこへやら。てゐはいつも通りの飄々とした態度で、キセルを燻らすような余裕さえ見せていた。
「ふふん、外来人の妄想力には恐れ入るねぇ。あんな風に書けば、おめでたい人間どもが喜んで賽銭を落とすんだから、安いもんじゃないか。私も少しは取り分を主張しなきゃね」
彼女は皮肉げに口角を上げ、からかう声を煙に巻く。
ある時は「そんな殊勝な殊勝な心がけ、私にあるわけないだろ?」と笑い飛ばし、またある時は「もし本当だったら、今頃私は神社の神様にでもなってるよ」と冗談めかして返してみせた。
時折、あまりにしつこく追求されると、彼女は一瞬だけ顔を赤らめて「……うるさいねぇ」と子供のように拗ねて見せることもあった。だが、それが彼女の演技なのか、それとも本音の漏洩なのか、見極められる者は誰もいない。
竹林の奥深く、月の光が青白く照らす静寂の中で、てゐは一人、懐から出した古い貨幣を弄ぶ。それは、あの物書きから受け取った、外の世界の対価だ。
彼女の瞳に宿る光は、ただの詐欺師のそれか、あるいは遠い神話の残照か。
揺れる竹の葉がざわめく中で、彼女はふと、誰もいない闇に向かって小さく独りごちた。
「……観測に解釈、ね。……馬鹿馬鹿しい」
その言葉の真意を知るのは、もはや彼女自身と、あの物語を書き上げた物書きの想像力の中だけに留められている。
「……ふん」
てゐは竹に背を預けることなく、すっくと立ち、夜空の月を仰ぎ見る。
その瞳には、先ほどまでの皮肉も、人里で振りまいている愛嬌も、あるいは物書きに見せた激しい困惑すらもなかった。
喜びも、悲しみも、数千年の風雪に晒され、とうの昔に削ぎ落とされた後の静謐。
彼女が眺めているのは、空に浮かぶ月でも、過去の栄光でもない。
ただ、あまりに長く、あまりに遠い、自分が歩んできた時間そのものを。
そして、これからも続いていくであろう、終わりのない漂泊の道のりを、彼女はただ静かに、その深い眼差しで受け止めていた。
うめうめうめ。